14 / 71
14 「もう一つの人知れない恋の話」
しおりを挟む澄子の結婚生活は幸せとは程遠かった。
澄子は結婚したからには夫に尽くそうと思っていたが、事あるごとに夫は“おまえはまだあの男の事を思っているんだろう。”と澄子を疑い、冷たい目で見ていた。しばらくして澄子は子供を授かった。その頃から夫の帰りは遅くなった。たまに帰ってこない日もあった。長男を出産した時も夫は駆けつけなかった。正一が初めて息子の顔を見たのは、病院から退院して家に帰って来た時だった。正一は赤ん坊をチラリと見ると、澄子に冷たく言い放った。
「本当に俺の子なんだろうな?」
澄子は頭を鈍器で殴られたような衝撃を受けた。
ショックのあまり倒れそうになった。正一はそんな澄子に謝罪の言葉も無く、澄子を部屋に置き去りにして出かけて行ってしまった。正一は赤ん坊の名づけもしようとしなかった。澄子は赤ん坊に「誠一」と名づけた。誠実な人になって欲しいという意味を込めた。
澄子の出産と同時期に、大黒堂が倒産した。正一が援助をしていたにもかかわらず、経営は悪化の一途を辿っていた。澄子の兄に経営の才覚が無かったのだ。もともと大人しい性格の上、幼い頃から厳格な父親に必要以上に厳しく教育されたせいで内にこもるようになり、人付き合いというものが苦手だった。打たれ弱いので、何か重大なことが起こると、その場を逃げ出してしまう事が多かった。その為大黒堂は信用を無くし、借金は益々増えていった。正一の援助だけでは手に負えなくなったのだ。母はこっそり澄子と赤ん坊に会いに行き、“落ち着いたら連絡するから”と言い残し、次の日一家は夜逃げしてしまった。
正一の冷たい仕打ちと実家の崩壊というダブルの惨事で、澄子は母乳が出なくなってしまった。困り果てていた時、正一が乳母を連れてきた。乳母は一見愛想よい感じがしたが、ふとした瞬間とても冷たい目をしていることがあって、澄子は子供に乳を飲ませてあげることが出来てありがたいとは思いつつも、この乳母の事は好きになれなかった。しかしおかげで誠一はすくすく成長して、離乳食も食べるようになった。乳母の御役目御免となった頃、ある事実が発覚した。澄子と赤ん坊が病院に行くと病院が急に休診日になっていたので、そのまま家に帰ってくると、乳母と正一が抱き合っていた。正一に問い詰めると、彼は開き直ってこう言った。
「俺が本当に愛しているのはこの女性だ。この人との間に子供もいる。誠一より先に産まれた。誠一がまだ小さいからおまえと別れないでいるが、先ではおまえとは別れてこの人と一緒になるつもりだ。心の準備をしとくように。」
澄子は頭が真っ白になった。
澄子は正一と乳母を大声で罵倒した。乳母の髪を掴んで引きずり倒した。長箒を取ってきて、正一の制止を振り切り女を箒で家から叩きだした。女が家を出ると、正一を罵倒しながら箒で打ち回した。正一は普段大人しい澄子がこんなに激しく怒り狂って暴力を奮ったのに驚いて凍りつき、言葉を失った。澄子自身も、自分がこんなに激しくなれるとは思わなかった。澄子は箒を投げ捨てて誠一を抱きかかえ、フラフラと外へ出て行った。
大黒堂はもう無い。頼れる親はどこにいるかもわからない。澄子は泣きながら誠一を抱きしめた。
「澄ちゃん…?」
ふと声をかけられ振り返ると、小夜がいた。
「澄ちゃん…どうしたの?…何か…あったの?」
「小夜ちゃん…。」
澄子は泣きながら小夜に抱きついた。
小夜は澄子と誠一を自分の家に連れて行った。そして夜更けまで澄子の話を聞いてやった。洗いざらい小夜に話してしまうと、澄子の心は落ち着きを取り戻してきた。澄子はしばらくの間放心状態になって、それからポツリと言った。
「和夫さんに会いたい…。」
小夜は困った顔で澄子を見つめた。
「小夜ちゃん、私…和夫さんに会いたいわ。」
澄子はポロポロと涙を流して言った。
「澄ちゃん、和夫さんはもう結婚してるのよ。以前話したでしょ?」
小夜は澄子を諭した。
「わかっているわ。一目、一目見るだけでいいの。和夫さん、今どこに住んでいるのか教えて!」
小夜は弟に頼んで友達のフリをして和夫の家に電話をかけ、現住所を教えてもらった。次の日、小夜は澄子に和夫の住所を渡すと、誠一を預かってくれた。澄子は電車に飛び乗り、誠一の暮らす街へ向かった。会ってどうこうしようという気持ちは無いが、澄子には何か救いのようなものが欲しかった。
電車を降りると駅前はごちゃごちゃした雰囲気の街だった。駅前の川沿いには柳の木が等間隔で植えてあって飲み屋が並んでいた。すぐ前のパチンコ屋からはうるさい音楽が垂れ流しになっている。商店街は昼間でも薄暗く通路が狭い。きっとここは戦後闇市で、それがそのまま商店街になったのだろう。そんな感じの街並みだった。しかし街は活気があり、どこも人が溢れている。
この街で和夫が生活しているのだ。この駅を毎日使っているのだろう。この喫茶店に妻と来ることもあるのだろうか?突然胸が苦しくなった。自分には嫉妬する資格すら無いというのに。
賑やかな駅前を通り過ぎ、小夜からもらった住所を辿っていくと、静かな住宅街に入って行った。どこにでもあるような若い世代がたくさん住んでいそうな住宅街だった。そしてあるこじんまりした一軒屋に辿りついた。表札には岩崎と書いてあった。今日は日曜なので、きっと和夫はいるだろう。一目だけ見たら帰ろう。澄子はそう思っていた。窓は開けっ放しで、縁側に置いてある洗濯籠には洗濯物が山盛りになっていた。誰かいそうな気配はあるが、誰もいないようだった。洗濯物の山の中に和夫のシャツらしきものが見えた。澄子は急に生々しい生活感を感じて、その場にいるのが苦しくなった。やはり和夫の姿を見ずに帰ろう。そう思って立ち去ろうとした時、後ろから声をかけられた。
「あの、うちに御用ですか?」
振り返ると体格のいい女性が大きな鍋を持ってニコニコして立っていた。
「あ…いえ、すみません、お宅を間違えてしまったみたいで…。」
澄子がオロオロしていると、女性は眉を少ししかめて、何かに気付いたように言った。
「間違っていたらごめんなさい。もしかして…澄子さん?」
澄子は驚きで言葉が出なかった。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
一億円の花嫁
藤谷 郁
恋愛
奈々子は家族の中の落ちこぼれ。
父親がすすめる縁談を断り切れず、望まぬ結婚をすることになった。
もうすぐ自由が無くなる。せめて最後に、思いきり贅沢な時間を過ごそう。
「きっと、素晴らしい旅になる」
ずっと憧れていた高級ホテルに到着し、わくわくする奈々子だが……
幸か不幸か!?
思いもよらぬ、運命の出会いが待っていた。
※エブリスタさまにも掲載
罪悪と愛情
暦海
恋愛
地元の家電メーカー・天の香具山に勤務する20代後半の男性・古城真織は幼い頃に両親を亡くし、それ以降は父方の祖父母に預けられ日々を過ごしてきた。
だけど、祖父母は両親の残した遺産を目当てに真織を引き取ったに過ぎず、真織のことは最低限の衣食を与えるだけでそれ以外は基本的に放置。祖父母が自身を疎ましく思っていることを知っていた真織は、高校卒業と共に就職し祖父母の元を離れる。業務上などの必要なやり取り以外では基本的に人と関わらないので友人のような存在もいない真織だったが、どうしてかそんな彼に積極的に接する後輩が一人。その後輩とは、頗る優秀かつ息を呑むほどの美少女である降宮蒔乃で――
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
イケメン副社長のターゲットは私!?~彼と秘密のルームシェア~
美和優希
恋愛
木下紗和は、務めていた会社を解雇されてから、再就職先が見つからずにいる。
貯蓄も底をつく中、兄の社宅に転がり込んでいたものの、頼りにしていた兄が突然転勤になり住む場所も失ってしまう。
そんな時、大手お菓子メーカーの副社長に救いの手を差しのべられた。
紗和は、副社長の秘書として働けることになったのだ。
そして不安一杯の中、提供された新しい住まいはなんと、副社長の自宅で……!?
突然始まった秘密のルームシェア。
日頃は優しくて紳士的なのに、時々意地悪にからかってくる副社長に気づいたときには惹かれていて──。
初回公開・完結*2017.12.21(他サイト)
アルファポリスでの公開日*2020.02.16
*表紙画像は写真AC(かずなり777様)のフリー素材を使わせていただいてます。
Blue Moon 〜小さな夜の奇跡〜
葉月 まい
恋愛
ーー私はあの夜、一生分の恋をしたーー
あなたとの思い出さえあれば、この先も生きていける。
見ると幸せになれるという
珍しい月 ブルームーン。
月の光に照らされた、たったひと晩の
それは奇跡みたいな恋だった。
‧₊˚✧ 登場人物 ✩˚。⋆
藤原 小夜(23歳) …楽器店勤務、夜はバーのピアニスト
来栖 想(26歳) …新進気鋭のシンガーソングライター
想のファンにケガをさせられた小夜は、
責任を感じた想にバーでのピアノ演奏の代役を頼む。
それは数年に一度の、ブルームーンの夜だった。
ひと晩だけの思い出のはずだったが……
【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜
来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、
疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。
無愛想で冷静な上司・東條崇雅。
その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、
仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。
けれど――
そこから、彼の態度は変わり始めた。
苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
幸せの見つけ方〜幼馴染は御曹司〜
葉月 まい
恋愛
近すぎて遠い存在
一緒にいるのに 言えない言葉
すれ違い、通り過ぎる二人の想いは
いつか重なるのだろうか…
心に秘めた想いを
いつか伝えてもいいのだろうか…
遠回りする幼馴染二人の恋の行方は?
幼い頃からいつも一緒にいた
幼馴染の朱里と瑛。
瑛は自分の辛い境遇に巻き込むまいと、
朱里を遠ざけようとする。
そうとは知らず、朱里は寂しさを抱えて…
・*:.。. ♡ 登場人物 ♡.。.:*・
栗田 朱里(21歳)… 大学生
桐生 瑛(21歳)… 大学生
桐生ホールディングス 御曹司
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる