1 / 1
あなたは何度裏切れば気が済むんですか?
しおりを挟む
彼女は、今日も俺に背を向けたまま髪を梳いていた。
銀のブラシが金糸のような髪を静かにすべり落ちていく。
陽の光が絹のカーテンを透かして差し込み、部屋は美しかった。完璧だった。
ただ、そこに愛だけがなかった。
「おはよう」と声をかけると、少し間を置いて、
「……おはようございます」
と、儀礼のような返事が返ってくる。
その声に、もう何も期待してはいけないのだと、今日もまた思い知らされる。
昔は彼女が選んでくれた紅茶だったのに、今では名前すら知らないものばかり。
彼女は静かに紅茶を口に運んだ。
その手元は美しく、所作も完璧だ。まるで“理想の貴婦人”そのものだった。
「今夜の夜会に行くつもりだが――君は?」
俺が尋ねると、しばらくの間、沈黙が流れる。
書斎の暖炉が小さく音を立てている。俺たちの会話より、その音の方がよほど温かみがある。
数秒後、ようやく彼女が答える。
「お一人でどうぞ。体調が優れませんので」
その言葉に、何も感じないふりをするのはもう慣れた。
本当は、体調などではなく、俺と一緒にいたくないだけなのだと知っている。
彼女の視線が俺を通り過ぎていくときの、あの無表情が何よりの証拠だった。
手を伸ばせば、彼女はそれとなく距離を取る。
何度目かもわからないその拒絶に、もう驚きすらしない。
香水の匂いが変わった。
かつて俺が贈った優しいラベンダーの香りではない。
形だけで何も残っていない。
それでも――俺は、彼女を愛していた。
今も。変わらずに。愚かに。
それだけが、もう何も残っていないこの関係の中で、
俺にとって唯一、本物だった。
ーー
夜会の会場は、いつも通り光に満ちていた。
大理石の床、金糸のタペストリー、揺れるシャンデリア。
笑い声とワルツの旋律が交錯し、貴族たちの社交はいつも通りのものだった。
退屈だった。
これなら彼女のことを眺めていた方がよっぽど楽しい。彼女が俺を拒絶する瞬間でさえ、この薄っぺらな会話よりは心を動かされる。
ふと、部屋の隅の方を向いた。
すると、カーテンの影に、誰かがうずくまっていた。
彼は男ということしかわからなかった。
ドレスか、燕尾服か、それすらも見分けがつかない。
その人影は、頭を抱えて小さく震えていた。
誰も気づいていない。
あるいは、気づいても見て見ぬふりをしているのかもしれない。
俺は足音を抑えながら、静かにその影へ近づいた。
「……大丈夫か?」
声をかけると、わずかに肩が揺れた。
そして、ゆっくりと顔が上がる。
顔色が異様だった。
血の気がなく、青白く、目は焦点が合っていない。
口元が、震えていた。
「……具合が、悪いのか?」
もう一歩、近づいた。
その瞬間、鼻を突く異臭に気づく。腐敗臭。まるで肉が腐ったような、吐き気を催す匂い。
次の瞬間、その男は、跳ねるように立ち上がった。
まるで獣だった。
濁った目、剥き出しの歯。
そしてそのまま、俺の肩口に、喰らいついた。
「……あ゛、ぐッ……!」
痛みというより、衝撃だった。
肉が引き裂かれ、熱いものが首筋を伝う。
背筋が一気に凍り、体が動かなくなる。
「は、なせ……っ、やめろ……!」
俺は腕で押しのけ、奴は呻きながら床に倒れ込んだ。
周囲がようやく気づき始める。
誰かの悲鳴が上がり、音楽が止まる。
血が、止まらない。
手で押さえても、隙間から滲み出してくる。
熱く、粘り気のある血が、指の間を伝ってポタポタと床に滴る。
それが自分のものだと気づくまで、少し時間がかかった。
「な、なんなんだ……」
あの男の方を見ると、今度は別の貴婦人に襲いかかっている。彼女の悲鳴が会場に響き渡った。男に噛まれた者は皆、数分後には顔が青白くなり、同じように人を襲うようになった。
これは、物語に出てくる、あの──ゾンビだ。
煌びやかだった夜会は、一瞬で悲鳴と血が飛び交う、地獄に変わった。
こんなこと、現実じゃない。
それでも、肩の痛みは現実だった。
喉が焼けつくように乾く。
吐き気と眩暈が襲い、視界がかすむ。
次の瞬間、視界が暗転した。
ーー
気がつくと、俺は外を歩いていた。
意識が途切れ途切れで、全身の関節が焼けるように痛い。
だが、歩みは止めなかった。
なんだ、俺は、どこに向かっているのだ。
自分でもわからない。
夜会の喧騒が、遠ざかっていく。
火の手が上がっていた。
悲鳴が、爆発音にかき消された。
俺の意識は、すでに霞の中だった。
体は熱を持ちすぎていて、なのに指先だけが異様に冷たい。
視界の端が黒く染まり、音も遠くなる。
喉が、渇く。
心臓が、重い。
皮膚の内側で何かが蠢いている感覚がする。
「っ……は……」
どこに向かっているのかわからない。でも、足は確実にどこかを目指している。
足音が石畳に響く。
自分の足音なのに、まるで他人のもののように聞こえる。
道を覚えていた。心が忘れても、骨が覚えていた。
何度も歩いた道。
並木道を抜け、街の外れへと向かう。
門番の姿はなかった。
そこでやっと気がついた。
俺の──俺たちの家だ。
俺はこんなことになっても彼女の安否の確認が第一優先だった。
彼女への心配が、俺の意識を保たせてくれた。
黒鉄の門が、音もなく開いた。
俺の帰りを待っていたように。
屋敷の灯りは、まだ消えていなかった。
俺は扉に手をかけた。
冷たい金の取っ手。昔、彼女がここにリボンを巻いたことを思い出した。
些細な記憶が、なぜか胸を締めつける。
扉が、ゆっくりと開いた。
誰もいない玄関。
脱ぎ捨てられた靴。
香水の匂い。
彼女のものではない、香りが、した。
暗い廊下を、ふらふらと進む。
脳の奥で何かが疼く。
骨が軋む音がする。
それでも、俺は“その部屋”の前まで来てしまった。
あの寝室の扉。
何度も一緒に朝を迎えた部屋。
今では彼女が鍵をかけて、俺を入れない部屋。
けれど今日は、鍵が開いていた。
扉の隙間から、声が漏れていた。
中から声が聞こえる。
「もう大丈夫です、あの人は夜会ですので」
彼女の声だった。でも、誰かと話している。
「本当にいいのか?」
男の声。聞き覚えがある。隣国の第二王子だ。
俺は居間の扉の隙間から中を覗いた。
ベッドの上に二人がいた。彼女は第二王子の胸に寄りかかり、彼は彼女の髪を撫でている。
「あの方への想いは、とうに冷めておりました。政略結婚でしたから」
彼女の声は、今まで聞いたことがないほど甘かった。
「これで私たちは自由になれる」
彼女は第二王子の頬にキスをした。
俺の中で何かが燃え上がった。胸の奥から湧き上がる、黒い感情。
扉を蹴破って、俺は居間に入った。
「きゃっ!」
彼女が悲鳴を上げた。
「だ、誰だ!」
第二王子が剣に手をかけたが、もう遅い。
俺は彼に飛びかかった。
ーー
血の匂いが部屋に充満している。
第二王子はもう動かない。俺は彼を見下ろしながら、口の端についた血を拭った。
彼女は壁に背を向けて震えている。
俺は彼女に向かって歩いた。その美しい首筋が、すぐそこにある。
彼女は必死に物を投げて俺を止めようとした。
花瓶、本、燭台。でも、どれも僕を止めることはできない。
そして、彼女が投げたものの中に、小さく光るものがあった。
それは指輪だった。
俺たちの婚約の証。彼女はそれを、まるでゴミのように俺に投げつけた。
その瞬間、何かが崩れ落ちる音がした。
俺は彼女を押し倒した。白い首筋が目の前にある。
「た……助けて……」
彼女の声は震えていた。
彼女はじたばたと暴れて抵抗をした。
だが、俺の力には到底及ばなかった。
彼女の首に歯を突き立てようとしたその時だった。
ポロポロと雫が彼女の頬をつたった。
誰でもない、俺の涙だった。
一噛みだ、一噛みで全てを終わらせられる。
なのに、口は動かない。
俺は、愚かだった。
とんでもない、愚か者だった。
俺は彼女を愛している、今も、変わらずに。
その時、屋敷の外から新しい足音が聞こえてきた。
ゾンビの群れが、この屋敷にも押し寄せてきたのだ。
俺は立ち上がった。
玄関から次々とゾンビが入ってくる。
農民、商人、騎士、貴族。生前の身分など関係ない。みな等しく醜く襲いかかってくる。
俺は、彼女の前に立ちはだかった。
そして、襲いかかってくるゾンビどもを次々と噛み殺して行った。
俺は振り返らない。ただ、彼女を守ることだけを考えた。
居間が血と肉片で汚れていく。美しい調度品が次々と壊れていく。
俺は彼女を愛し続けることを選んだ。
ーー
迫り来る全てのゾンビを倒した時、僕は膝をついた。不死の体でも、さすがに疲れる。
俺は安堵の息をついた。彼女を守り抜いた。
やった……やったんだ……!
喜びのあまり、笑顔が漏れた。
俺は彼女に抱きつこうと、振り返ろうとした。
また、愛してくれますか、と。
その瞬間、鋭い痛みが背中を貫いた。
「え…?」
振り返ると、彼女が立っていた。その手には、血のついた短剣。
彼女はもう一度、短剣を俺の胸に突き刺した。
俺は床に倒れた。血が流れ出していく。
そして、そしてまた、俺の体に刃を立てた。
ぶしゅっ、ぶしゅっ、と何度も鈍い音があたりに響いた。
何度も何度も、俺を短剣で刺した。
しばらく、刺し続けた後、彼女は短剣から手を離した。
ふと、我に帰ったような表情になった。
手で口元を抑えて、自分でも驚いているようだった。
首を激しく動かして辺りを見回していた。
「私は悪くない悪くない悪くない……」と何度も呟いて、そのまま走って逃げて行ってしまった。
何度でも言おう、俺は愚かだった。
だが、不思議と後悔はなかった。
何度裏切られようと、俺はあなたを愛するだろう。
暖炉の火がパチパチと音を立てている。
俺たちが一緒に過ごした、この部屋で。
最後に見えたのは、彼女が第二王子にかけていた毛布だった。
それは、俺が彼女に贈った、初めての贈り物だった。
銀のブラシが金糸のような髪を静かにすべり落ちていく。
陽の光が絹のカーテンを透かして差し込み、部屋は美しかった。完璧だった。
ただ、そこに愛だけがなかった。
「おはよう」と声をかけると、少し間を置いて、
「……おはようございます」
と、儀礼のような返事が返ってくる。
その声に、もう何も期待してはいけないのだと、今日もまた思い知らされる。
昔は彼女が選んでくれた紅茶だったのに、今では名前すら知らないものばかり。
彼女は静かに紅茶を口に運んだ。
その手元は美しく、所作も完璧だ。まるで“理想の貴婦人”そのものだった。
「今夜の夜会に行くつもりだが――君は?」
俺が尋ねると、しばらくの間、沈黙が流れる。
書斎の暖炉が小さく音を立てている。俺たちの会話より、その音の方がよほど温かみがある。
数秒後、ようやく彼女が答える。
「お一人でどうぞ。体調が優れませんので」
その言葉に、何も感じないふりをするのはもう慣れた。
本当は、体調などではなく、俺と一緒にいたくないだけなのだと知っている。
彼女の視線が俺を通り過ぎていくときの、あの無表情が何よりの証拠だった。
手を伸ばせば、彼女はそれとなく距離を取る。
何度目かもわからないその拒絶に、もう驚きすらしない。
香水の匂いが変わった。
かつて俺が贈った優しいラベンダーの香りではない。
形だけで何も残っていない。
それでも――俺は、彼女を愛していた。
今も。変わらずに。愚かに。
それだけが、もう何も残っていないこの関係の中で、
俺にとって唯一、本物だった。
ーー
夜会の会場は、いつも通り光に満ちていた。
大理石の床、金糸のタペストリー、揺れるシャンデリア。
笑い声とワルツの旋律が交錯し、貴族たちの社交はいつも通りのものだった。
退屈だった。
これなら彼女のことを眺めていた方がよっぽど楽しい。彼女が俺を拒絶する瞬間でさえ、この薄っぺらな会話よりは心を動かされる。
ふと、部屋の隅の方を向いた。
すると、カーテンの影に、誰かがうずくまっていた。
彼は男ということしかわからなかった。
ドレスか、燕尾服か、それすらも見分けがつかない。
その人影は、頭を抱えて小さく震えていた。
誰も気づいていない。
あるいは、気づいても見て見ぬふりをしているのかもしれない。
俺は足音を抑えながら、静かにその影へ近づいた。
「……大丈夫か?」
声をかけると、わずかに肩が揺れた。
そして、ゆっくりと顔が上がる。
顔色が異様だった。
血の気がなく、青白く、目は焦点が合っていない。
口元が、震えていた。
「……具合が、悪いのか?」
もう一歩、近づいた。
その瞬間、鼻を突く異臭に気づく。腐敗臭。まるで肉が腐ったような、吐き気を催す匂い。
次の瞬間、その男は、跳ねるように立ち上がった。
まるで獣だった。
濁った目、剥き出しの歯。
そしてそのまま、俺の肩口に、喰らいついた。
「……あ゛、ぐッ……!」
痛みというより、衝撃だった。
肉が引き裂かれ、熱いものが首筋を伝う。
背筋が一気に凍り、体が動かなくなる。
「は、なせ……っ、やめろ……!」
俺は腕で押しのけ、奴は呻きながら床に倒れ込んだ。
周囲がようやく気づき始める。
誰かの悲鳴が上がり、音楽が止まる。
血が、止まらない。
手で押さえても、隙間から滲み出してくる。
熱く、粘り気のある血が、指の間を伝ってポタポタと床に滴る。
それが自分のものだと気づくまで、少し時間がかかった。
「な、なんなんだ……」
あの男の方を見ると、今度は別の貴婦人に襲いかかっている。彼女の悲鳴が会場に響き渡った。男に噛まれた者は皆、数分後には顔が青白くなり、同じように人を襲うようになった。
これは、物語に出てくる、あの──ゾンビだ。
煌びやかだった夜会は、一瞬で悲鳴と血が飛び交う、地獄に変わった。
こんなこと、現実じゃない。
それでも、肩の痛みは現実だった。
喉が焼けつくように乾く。
吐き気と眩暈が襲い、視界がかすむ。
次の瞬間、視界が暗転した。
ーー
気がつくと、俺は外を歩いていた。
意識が途切れ途切れで、全身の関節が焼けるように痛い。
だが、歩みは止めなかった。
なんだ、俺は、どこに向かっているのだ。
自分でもわからない。
夜会の喧騒が、遠ざかっていく。
火の手が上がっていた。
悲鳴が、爆発音にかき消された。
俺の意識は、すでに霞の中だった。
体は熱を持ちすぎていて、なのに指先だけが異様に冷たい。
視界の端が黒く染まり、音も遠くなる。
喉が、渇く。
心臓が、重い。
皮膚の内側で何かが蠢いている感覚がする。
「っ……は……」
どこに向かっているのかわからない。でも、足は確実にどこかを目指している。
足音が石畳に響く。
自分の足音なのに、まるで他人のもののように聞こえる。
道を覚えていた。心が忘れても、骨が覚えていた。
何度も歩いた道。
並木道を抜け、街の外れへと向かう。
門番の姿はなかった。
そこでやっと気がついた。
俺の──俺たちの家だ。
俺はこんなことになっても彼女の安否の確認が第一優先だった。
彼女への心配が、俺の意識を保たせてくれた。
黒鉄の門が、音もなく開いた。
俺の帰りを待っていたように。
屋敷の灯りは、まだ消えていなかった。
俺は扉に手をかけた。
冷たい金の取っ手。昔、彼女がここにリボンを巻いたことを思い出した。
些細な記憶が、なぜか胸を締めつける。
扉が、ゆっくりと開いた。
誰もいない玄関。
脱ぎ捨てられた靴。
香水の匂い。
彼女のものではない、香りが、した。
暗い廊下を、ふらふらと進む。
脳の奥で何かが疼く。
骨が軋む音がする。
それでも、俺は“その部屋”の前まで来てしまった。
あの寝室の扉。
何度も一緒に朝を迎えた部屋。
今では彼女が鍵をかけて、俺を入れない部屋。
けれど今日は、鍵が開いていた。
扉の隙間から、声が漏れていた。
中から声が聞こえる。
「もう大丈夫です、あの人は夜会ですので」
彼女の声だった。でも、誰かと話している。
「本当にいいのか?」
男の声。聞き覚えがある。隣国の第二王子だ。
俺は居間の扉の隙間から中を覗いた。
ベッドの上に二人がいた。彼女は第二王子の胸に寄りかかり、彼は彼女の髪を撫でている。
「あの方への想いは、とうに冷めておりました。政略結婚でしたから」
彼女の声は、今まで聞いたことがないほど甘かった。
「これで私たちは自由になれる」
彼女は第二王子の頬にキスをした。
俺の中で何かが燃え上がった。胸の奥から湧き上がる、黒い感情。
扉を蹴破って、俺は居間に入った。
「きゃっ!」
彼女が悲鳴を上げた。
「だ、誰だ!」
第二王子が剣に手をかけたが、もう遅い。
俺は彼に飛びかかった。
ーー
血の匂いが部屋に充満している。
第二王子はもう動かない。俺は彼を見下ろしながら、口の端についた血を拭った。
彼女は壁に背を向けて震えている。
俺は彼女に向かって歩いた。その美しい首筋が、すぐそこにある。
彼女は必死に物を投げて俺を止めようとした。
花瓶、本、燭台。でも、どれも僕を止めることはできない。
そして、彼女が投げたものの中に、小さく光るものがあった。
それは指輪だった。
俺たちの婚約の証。彼女はそれを、まるでゴミのように俺に投げつけた。
その瞬間、何かが崩れ落ちる音がした。
俺は彼女を押し倒した。白い首筋が目の前にある。
「た……助けて……」
彼女の声は震えていた。
彼女はじたばたと暴れて抵抗をした。
だが、俺の力には到底及ばなかった。
彼女の首に歯を突き立てようとしたその時だった。
ポロポロと雫が彼女の頬をつたった。
誰でもない、俺の涙だった。
一噛みだ、一噛みで全てを終わらせられる。
なのに、口は動かない。
俺は、愚かだった。
とんでもない、愚か者だった。
俺は彼女を愛している、今も、変わらずに。
その時、屋敷の外から新しい足音が聞こえてきた。
ゾンビの群れが、この屋敷にも押し寄せてきたのだ。
俺は立ち上がった。
玄関から次々とゾンビが入ってくる。
農民、商人、騎士、貴族。生前の身分など関係ない。みな等しく醜く襲いかかってくる。
俺は、彼女の前に立ちはだかった。
そして、襲いかかってくるゾンビどもを次々と噛み殺して行った。
俺は振り返らない。ただ、彼女を守ることだけを考えた。
居間が血と肉片で汚れていく。美しい調度品が次々と壊れていく。
俺は彼女を愛し続けることを選んだ。
ーー
迫り来る全てのゾンビを倒した時、僕は膝をついた。不死の体でも、さすがに疲れる。
俺は安堵の息をついた。彼女を守り抜いた。
やった……やったんだ……!
喜びのあまり、笑顔が漏れた。
俺は彼女に抱きつこうと、振り返ろうとした。
また、愛してくれますか、と。
その瞬間、鋭い痛みが背中を貫いた。
「え…?」
振り返ると、彼女が立っていた。その手には、血のついた短剣。
彼女はもう一度、短剣を俺の胸に突き刺した。
俺は床に倒れた。血が流れ出していく。
そして、そしてまた、俺の体に刃を立てた。
ぶしゅっ、ぶしゅっ、と何度も鈍い音があたりに響いた。
何度も何度も、俺を短剣で刺した。
しばらく、刺し続けた後、彼女は短剣から手を離した。
ふと、我に帰ったような表情になった。
手で口元を抑えて、自分でも驚いているようだった。
首を激しく動かして辺りを見回していた。
「私は悪くない悪くない悪くない……」と何度も呟いて、そのまま走って逃げて行ってしまった。
何度でも言おう、俺は愚かだった。
だが、不思議と後悔はなかった。
何度裏切られようと、俺はあなたを愛するだろう。
暖炉の火がパチパチと音を立てている。
俺たちが一緒に過ごした、この部屋で。
最後に見えたのは、彼女が第二王子にかけていた毛布だった。
それは、俺が彼女に贈った、初めての贈り物だった。
2
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
行き場を失った恋の終わらせ方
当麻月菜
恋愛
「君との婚約を白紙に戻してほしい」
自分の全てだったアイザックから別れを切り出されたエステルは、どうしてもこの恋を終わらすことができなかった。
避け続ける彼を求めて、復縁を願って、あの日聞けなかった答えを得るために、エステルは王城の夜会に出席する。
しかしやっと再会できた、そこには見たくない現実が待っていて……
恋の終わりを見届ける貴族青年と、行き場を失った恋の中をさ迷う令嬢の終わりと始まりの物語。
※他のサイトにも重複投稿しています。
真実の愛の祝福
詩森さよ(さよ吉)
恋愛
皇太子フェルナンドは自らの恋人を苛める婚約者ティアラリーゼに辟易していた。
だが彼と彼女は、女神より『真実の愛の祝福』を賜っていた。
それでも強硬に婚約解消を願った彼は……。
カクヨム、小説家になろうにも掲載。
筆者は体調不良なことも多く、コメントなどを受け取らない設定にしております。
どうぞよろしくお願いいたします。
あなたへの恋心を消し去りました
鍋
恋愛
私には両親に決められた素敵な婚約者がいる。
私は彼のことが大好き。少し顔を見るだけで幸せな気持ちになる。
だけど、彼には私の気持ちが重いみたい。
今、彼には憧れの人がいる。その人は大人びた雰囲気をもつ二つ上の先輩。
彼は心は自由でいたい言っていた。
その女性と話す時、私には見せない楽しそうな笑顔を向ける貴方を見て、胸が張り裂けそうになる。
友人たちは言う。お互いに干渉しない割り切った夫婦のほうが気が楽だって……。
だから私は彼が自由になれるように、魔女にこの激しい気持ちを封印してもらったの。
※このお話はハッピーエンドではありません。
※短いお話でサクサクと進めたいと思います。
過去に戻った筈の王
基本二度寝
恋愛
王太子は後悔した。
婚約者に婚約破棄を突きつけ、子爵令嬢と結ばれた。
しかし、甘い恋人の時間は終わる。
子爵令嬢は妃という重圧に耐えられなかった。
彼女だったなら、こうはならなかった。
婚約者と結婚し、子爵令嬢を側妃にしていれば。
後悔の日々だった。
【完結】愛されないと知った時、私は
yanako
恋愛
私は聞いてしまった。
彼の本心を。
私は小さな、けれど豊かな領地を持つ、男爵家の娘。
父が私の結婚相手を見つけてきた。
隣の領地の次男の彼。
幼馴染というほど親しくは無いけれど、素敵な人だと思っていた。
そう、思っていたのだ。
さよなら 大好きな人
小夏 礼
恋愛
女神の娘かもしれない紫の瞳を持つアーリアは、第2王子の婚約者だった。
政略結婚だが、それでもアーリアは第2王子のことが好きだった。
彼にふさわしい女性になるために努力するほど。
しかし、アーリアのそんな気持ちは、
ある日、第2王子によって踏み躙られることになる……
※本編は悲恋です。
※裏話や番外編を読むと本編のイメージが変わりますので、悲恋のままが良い方はご注意ください。
※本編2(+0.5)、裏話1、番外編2の計5(+0.5)話です。
婚約破棄を伝えられて居るのは帝国の皇女様ですが…国は大丈夫でしょうか【完結】
繭
恋愛
卒業式の最中、王子が隣国皇帝陛下の娘で有る皇女に婚約破棄を突き付けると言う、前代未聞の所業が行われ阿鼻叫喚の事態に陥り、卒業式どころでは無くなる事から物語は始まる。
果たして王子の国は無事に国を維持できるのか?
【完結】好きでもない私とは婚約解消してください
里音
恋愛
騎士団にいる彼はとても一途で誠実な人物だ。初恋で恋人だった幼なじみが家のために他家へ嫁いで行ってもまだ彼女を思い新たな恋人を作ることをしないと有名だ。私も憧れていた1人だった。
そんな彼との婚約が成立した。それは彼の行動で私が傷を負ったからだ。傷は残らないのに責任感からの婚約ではあるが、彼はプロポーズをしてくれた。その瞬間憧れが好きになっていた。
婚約して6ヶ月、接点のほとんどない2人だが少しずつ距離も縮まり幸せな日々を送っていた。と思っていたのに、彼の元恋人が離婚をして帰ってくる話を聞いて彼が私との婚約を「最悪だ」と後悔しているのを聞いてしまった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる