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第一章
7:十字路のアンコさん
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鳥居をくぐるとすぐに明るさが一変した。
ただでさえ薄暗かった辺りが一段と暗くなり、密色の日差しが木々の間から差し込んでる。昨日とまったく同じ――夕暮れ時だった。ここが、境界。あの世とこの世の狭間。
ほの暗い森の奥を見つめていると、なんだか言い知れないおぞましさが背中に這い上がってくる気がして、わたしは目を逸らす。……やっぱり不気味だな、この場所。
「ここって、どうして夕暮れ時なんですか? 時間はどうなっているんです」
石階段を上りながら先を行く橘さんに問いかける。橘さんは、ああ、と肩越しにこちらを振り返った。
「ここはね、〝逢魔が時〟なんだよ。あの世とこの世が交差する時間帯で固定されている。だから年から年中この明るさで、季節も巡らない。長袖でちょうどいい温度だから夏とか涼しいよ。あーでも、ずっとここにいたら顕界と時差が開くから注意ね。下手すりゃ浦島太郎になっちゃうから」
浦島太郎……。昨日のわたしも、一歩間違えたらそうなってたのかな。今さらながらブルリと寒気が走る。
「よくこんなところ出入りしていますね」
「時間感覚さえ掴めていたらどうってことないよ。職場の方もちゃんとそこんとこ押さえているから安心していい。というか迷子になっても俺が必ず助けるから何度でも迷ってくれていいし!」
嬉しそうに言わないでほしい。
「……職場ってことは、そこは橘さん以外にも専門屋さんがいるってことですか」
「うん。ていうか専門屋が立ち上げた店だから、全員専門屋。俺らは昔からこの霊場にある境界を拠点にして活動してきたんだ。霊場の数だけ境界があって、そこに専門屋の店がある」
「一体なんの店なんです?」
「ふ、ふ、ふ。それは着いてからのお楽しみってやつですよ」
「楽しみよりも不安が大きいんですけど……」
石階段は緩やかな傾斜をつけて長く続いている。
しばらく黙々と上っていたわたしは、後ろから音もなくついてきているアンコさんを意識した。
「あの……ずっと気になっていたんですけど、橘さんにはアンコさんがどう見えているんですか」
彼曰く、わたしは霊感が中途半端らしいので、アンコさんが得体の知れない影にしか視えない。けれども橘さんは橘さんで、視えている世界があるという。
橘さんはふと足を止めてこちらを振り返る。わたしからしたら見上げるほど大きなアンコさんなのに、彼の視線はわたしの目線よりも若干下――肩当たりに向けられた。
「そうだな……。俺からしたらこの人は、すごく優しそうな人に見える」
「優しそう……悪霊なのに?」
「うん、全っ然怖い人には見えないね。飴ちゃん持ってそう」
飴ちゃんでそこまで警戒心下がるか?
「優しそうになのに怪談になるほど恐ろしい存在って……なんか変ですね」
「逆だよ七瀬ちゃん。怪談なんて後付けさ。誰かが勝手に作って広げただけに過ぎない。もちろん、生粋の悪霊だって世の中五万といるけど、アンコさんは始めから悪霊だったんじゃないよ。悪霊になってしまったのはその怪談のせいだ」
わたしは眉をひそめる。
「どういうことです?」
「霊ってのは、この世に居続けるとじきに魂が薄らいで、自分が誰だか分からなくなるんだ。どうして自分は成仏できないのか、何を探してどうしたいのか――。分からなくなるから、他人が作った自分のウワサを鵜呑みにしてしまう。ウワサ通りの霊になってしまう。つまり『悪霊・アンコ』は、あくまでウワサによって形作られた存在で、本来の彼女はただの彷徨い霊だよ」
ただの、彷徨い霊。
ウワサに自分を縛られたから――ウワサ通りの『悪霊』になってしまった。
「……その怪談ってどんなものですか」
「あれ。知らない? ここらの人なら小学生の頃に一度は聞いたことあると思うけど」
キョトンとした顔で小首をかしげられる。ああ、そうか。言ってなかったか。
「わたし昨日この町に来たばかりなんです。だからアンコさんなんて初めて聞きました」
「はーなるほど。それであのキャリーってわけか。いやまったく越してきて早々ツイてなかったね。憑くだけに?」
言うだろうなとは思ってた。
「アンコさんはね、実際にこの町で起きた話なんだ。不運で悲劇で、どこにでもある話」
橘さんはゆっくりと歩みを再開させる。世間話でもするような感覚で語った。
「なんてことない、ただの不幸な交通事故だ。お婆さんと、その孫である女の子が、ある交差点で車に轢かれちゃってね。どうも道路に飛び出した女の子を追いかける形でお婆さんも飛び出して、落命したらしいんだよ。それ以来交差点のあるところじゃ必ず『アンコ』って呼ぶ声がするんだって。んで、その声に振り返った人は呪われて、散々な末路を辿るわけ。『アンコ』と呼びながら彷徨う人、だからアンコさん」
「それじゃアンコさんは、孫を探す……お婆さんなんですか」
「そう。飛び出した孫を追って、姿を追って、彷徨い続けるお婆さん。きっと事故に遭ってから孫の姿が見えなくて、はぐれたと思っているんだろうね。振り返った人に憑くのは、相手のことを孫だと勘違いしているからだ。けど孫の霊はもうこの世にはいない。お婆さんだけがずっとこの世に取り残されて、ずっと探し続けている」
それは――。
怖いんじゃなくて、哀しい話だ。
「どうしてそれをアンコさんに伝えないんですか。橘さん、アンコさんのことずっと前から知っていたんでしょう」
「まぁね。でも無理な話さ。さっきも言ったけど、霊はこの世に居続けると自我を失っていく。とりわけアンコさんはもう何十年とこの世にいるせいで、ろくにコミュニケーションが取れていないんだ。今の彼女は、いわば執念のみで動いているようなもん。だからウワサに縛られて誰彼かまわずアンコと呼び続けているし、憑いた人の生気を吸ってしまうのも無自覚なわけ。それをずっと繰り返しているんだ」
永い暗闇の中を、悩んで、苦しんで、迷って、もがきながら。
深閑とした森に、橘さんの呟きがこぼれる。
――死霊は、成仏できないから悪さをする。
そこにはこの世に留まる理由があるから。
あの世にいけない理由があるから。
生者に縋ってでも、答えを探している。
……アンコさんは、何を思いながらお孫さんを探していたんだろう。
わたしは足下に視線を落とす。背後の人影は何も喋らない。何も語らない。ただ黙ってわたしの後ろにいる。
わたしに縋っている。
なんでだろう。それがどうにも、羨ましい。
「……迷いを抱えて彷徨うのは生者も死者も同じっていうのは、そうかもしれませんね」
するりと言葉が口を突いて出た。
「わたしにも、祖母がいたんです。小学生の頃からずっと一緒に暮らしてきた祖母が」
頑丈な箱に入れて、鎖をつけて鍵をかけ、心の一番奥底に沈めようとしていたものが浮き上がってくる。
触れるだけで、瞼の裏に祖母の家が浮かんだ。
「すごく、変な人です。心霊ものが大好きで、よく一人で心霊スポットとか行ってました。集めた御札を持って近所に押しかけたり、降霊術を公園のど真ん中で試したり、わたしにも変なおまじないを強要したり、もうハチャメチャで最低な人です。おかげで近所の人からは白い目で見られるし、わたしはクラスメイトに馬鹿にされて。全部、祖母のせいです。だから祖母とはずっと口を利いていませんでした」
鍵をかけておいたはずなのに。思い出さないようにしようとしていたのに。
鎖がほどけ、頑丈な箱が軋みを上げながら開いていく。
「高校二年のとき。祖母が亡くなったんです」
その日は――春の夜にしては、冬に逆戻りしたように寒かった。
「心筋梗塞だったみたいです。高齢だったから、いつ何が起きても仕方がないですよね。わたしも、口を利かない人だったとはいえ、そういうところは覚悟しているつもりでした」
覚悟しているつもりだった。
つもり、だった。
「心筋梗塞って、発症して六時間以内に処置ができれば、九割ほどの人が助かるそうなんです。でも祖母は、六時間以上経っていました。わたしが触れたときにはもう、ダメでした」
寒い夜だったから、温かい飲み物がほしかった。
部屋から台所に向かうと、居間のこたつで祖母が横になっていた。
わたしから背を向ける形で、寝ていた。
わたしはそれを一瞥して、飲み物を片手に部屋に戻った。
それが最期のチャンスだった。
「祖母がいなくなった家を見渡したとき、すごく、広く感じました。何か大事なものがなくなったような、空っぽになった気分になりました。それで、そのときに初めてわたしは、祖母のこと――おばあちゃんのこと、全然分かってなかったんだなって気づいたんです」
いつも口うるさい人だった。
一方的に無視し続けても、勝手に話す人だった。
近所の人が腰を痛めたら、病気平癒の御札をもって押しかけていた。
公園で独りぼっちの子どもがいたら、現実より夢の方が世界が広いと教えていた。
気味悪がられても、白い目を向けられても、ものともせず。自分のやりたいことだけやって。満足して。
よく笑い、怒り、沈み、また笑い。
すごく、変な人だった。
「それからはもう胸が痛くて、苦しくて。祖母の家に居続けることができませんでした。自責の念で頭がおかしくなりそうで……。だから必死に勉強して家を出たんです」
家を出たときは、嬉しさよりも安堵が勝った。
ようやくこれで昔の自分と区切りがつけられる――心機一転、新しい自分を作るチャンスがきたわけだ。今までの自分をリセットして、薔薇色とまでは言わないけどそれなりに色づいた生活を送りたい。
――本当に?
「でも、何も変わっていない。おばあちゃんが死んで二年も経つのに、わたしは、未だにあの時から変わってない。おばあちゃんに何を思えばいいのか分からないんです。ごめんなさい? ありがとう? 大好き? 大嫌い? 仏壇の前で何を言えばいいんですか。何を言うものなんですか。わたしは、おばあちゃんに何を言って――どう縋ればいいんですか」
あのとき声をかけていれば。
あのとき触れてさえいれば。
祖母は助かっていたのかもしれない。
祖母は死ななかったのかもしれない。
「迷ってる……ずっと迷ってます。どう生きていけばいいか」
迷い。中途半端。
死霊を直視できない――望んでいても拒んでしまう、どうしようもない思い。
どうすればいいか、もう分からない。
「七瀬ちゃん」
混濁していく思考の中で、その声は真っ直ぐ飛んできた。わたしはハッとして顔を上げる。
もう階段はあと数段で終わりを迎えようとしていた。鬱蒼とした茂みの先が開けているのが分かる。
橘さんは一段上からわたしを振り返っていた。それまでのひょうきんさが嘘みたいに、静かな笑みを浮かべる。
「ごっっっめん、マジちょっとそこまで重い話とは思わなかった。いやホント、慰めてあげたいところだけど、これって下手になんか言わない方がいいよね? 俺どうした方がいい? 抱きしめようか?」
破壊神かコイツ。
「いやいいです結構です。わたしが勝手に話しただけなんで。すみません忘れてください」
「いやいやいやこんなの聞いて忘れられないでしょ。抱きしめようか?」
いらねぇって。
「まぁあれだ。慰めにはなんないけど、その重ーく深ーい気分をいくらかマシにすることはできるかもしれない。元々、今日君を見たときからなんか引きずってそうだなーって思っていたわけだし。どっちみちこうしようとは考えていたんだけどさ」
橘さんはそう言って踵を返す。残りの階段を軽い足取りで上りきった。わたしは眉をひそめてそれに続く。最後の段差を越えると目の前の視界が開けた。
赤い彼岸花が一面に咲き誇る、だだっ広い野原があった。
ひんやりとした風が心地よく渡って、わたしの頬を撫でていく。天を仰げば藍色と紫を混ぜたような空が広がり、ちぎれ雲の間から星が点々と瞬いていた。夜明け前に思えて夕暮れ時みたいな――。ただひたすら不思議な景色があった。
その野原の中心に、あまりに異様で違和感しかない、どこにでもありそうなスーパーが建っていた。全体的に緑に塗装されて、外壁には『酒 食品』『9:00~20:00』と白字が走っている。スーパーの顔とでもいえそうな屋上看板には、白い円の中に『冥』と一文字が乗っていた。冥って……冥土?
「こ、ここって……」
「ようこそ七瀬ちゃん、俺の職場へ」
現状についていけず呆けているわたしの傍らに橘さんが歩み寄る。黒キャップのツバを軽く上げて、わたしにニッコリ笑った。
「ここは死霊を相手に商いをするスーパー。冥土スーパー・サカキだ」
ただでさえ薄暗かった辺りが一段と暗くなり、密色の日差しが木々の間から差し込んでる。昨日とまったく同じ――夕暮れ時だった。ここが、境界。あの世とこの世の狭間。
ほの暗い森の奥を見つめていると、なんだか言い知れないおぞましさが背中に這い上がってくる気がして、わたしは目を逸らす。……やっぱり不気味だな、この場所。
「ここって、どうして夕暮れ時なんですか? 時間はどうなっているんです」
石階段を上りながら先を行く橘さんに問いかける。橘さんは、ああ、と肩越しにこちらを振り返った。
「ここはね、〝逢魔が時〟なんだよ。あの世とこの世が交差する時間帯で固定されている。だから年から年中この明るさで、季節も巡らない。長袖でちょうどいい温度だから夏とか涼しいよ。あーでも、ずっとここにいたら顕界と時差が開くから注意ね。下手すりゃ浦島太郎になっちゃうから」
浦島太郎……。昨日のわたしも、一歩間違えたらそうなってたのかな。今さらながらブルリと寒気が走る。
「よくこんなところ出入りしていますね」
「時間感覚さえ掴めていたらどうってことないよ。職場の方もちゃんとそこんとこ押さえているから安心していい。というか迷子になっても俺が必ず助けるから何度でも迷ってくれていいし!」
嬉しそうに言わないでほしい。
「……職場ってことは、そこは橘さん以外にも専門屋さんがいるってことですか」
「うん。ていうか専門屋が立ち上げた店だから、全員専門屋。俺らは昔からこの霊場にある境界を拠点にして活動してきたんだ。霊場の数だけ境界があって、そこに専門屋の店がある」
「一体なんの店なんです?」
「ふ、ふ、ふ。それは着いてからのお楽しみってやつですよ」
「楽しみよりも不安が大きいんですけど……」
石階段は緩やかな傾斜をつけて長く続いている。
しばらく黙々と上っていたわたしは、後ろから音もなくついてきているアンコさんを意識した。
「あの……ずっと気になっていたんですけど、橘さんにはアンコさんがどう見えているんですか」
彼曰く、わたしは霊感が中途半端らしいので、アンコさんが得体の知れない影にしか視えない。けれども橘さんは橘さんで、視えている世界があるという。
橘さんはふと足を止めてこちらを振り返る。わたしからしたら見上げるほど大きなアンコさんなのに、彼の視線はわたしの目線よりも若干下――肩当たりに向けられた。
「そうだな……。俺からしたらこの人は、すごく優しそうな人に見える」
「優しそう……悪霊なのに?」
「うん、全っ然怖い人には見えないね。飴ちゃん持ってそう」
飴ちゃんでそこまで警戒心下がるか?
「優しそうになのに怪談になるほど恐ろしい存在って……なんか変ですね」
「逆だよ七瀬ちゃん。怪談なんて後付けさ。誰かが勝手に作って広げただけに過ぎない。もちろん、生粋の悪霊だって世の中五万といるけど、アンコさんは始めから悪霊だったんじゃないよ。悪霊になってしまったのはその怪談のせいだ」
わたしは眉をひそめる。
「どういうことです?」
「霊ってのは、この世に居続けるとじきに魂が薄らいで、自分が誰だか分からなくなるんだ。どうして自分は成仏できないのか、何を探してどうしたいのか――。分からなくなるから、他人が作った自分のウワサを鵜呑みにしてしまう。ウワサ通りの霊になってしまう。つまり『悪霊・アンコ』は、あくまでウワサによって形作られた存在で、本来の彼女はただの彷徨い霊だよ」
ただの、彷徨い霊。
ウワサに自分を縛られたから――ウワサ通りの『悪霊』になってしまった。
「……その怪談ってどんなものですか」
「あれ。知らない? ここらの人なら小学生の頃に一度は聞いたことあると思うけど」
キョトンとした顔で小首をかしげられる。ああ、そうか。言ってなかったか。
「わたし昨日この町に来たばかりなんです。だからアンコさんなんて初めて聞きました」
「はーなるほど。それであのキャリーってわけか。いやまったく越してきて早々ツイてなかったね。憑くだけに?」
言うだろうなとは思ってた。
「アンコさんはね、実際にこの町で起きた話なんだ。不運で悲劇で、どこにでもある話」
橘さんはゆっくりと歩みを再開させる。世間話でもするような感覚で語った。
「なんてことない、ただの不幸な交通事故だ。お婆さんと、その孫である女の子が、ある交差点で車に轢かれちゃってね。どうも道路に飛び出した女の子を追いかける形でお婆さんも飛び出して、落命したらしいんだよ。それ以来交差点のあるところじゃ必ず『アンコ』って呼ぶ声がするんだって。んで、その声に振り返った人は呪われて、散々な末路を辿るわけ。『アンコ』と呼びながら彷徨う人、だからアンコさん」
「それじゃアンコさんは、孫を探す……お婆さんなんですか」
「そう。飛び出した孫を追って、姿を追って、彷徨い続けるお婆さん。きっと事故に遭ってから孫の姿が見えなくて、はぐれたと思っているんだろうね。振り返った人に憑くのは、相手のことを孫だと勘違いしているからだ。けど孫の霊はもうこの世にはいない。お婆さんだけがずっとこの世に取り残されて、ずっと探し続けている」
それは――。
怖いんじゃなくて、哀しい話だ。
「どうしてそれをアンコさんに伝えないんですか。橘さん、アンコさんのことずっと前から知っていたんでしょう」
「まぁね。でも無理な話さ。さっきも言ったけど、霊はこの世に居続けると自我を失っていく。とりわけアンコさんはもう何十年とこの世にいるせいで、ろくにコミュニケーションが取れていないんだ。今の彼女は、いわば執念のみで動いているようなもん。だからウワサに縛られて誰彼かまわずアンコと呼び続けているし、憑いた人の生気を吸ってしまうのも無自覚なわけ。それをずっと繰り返しているんだ」
永い暗闇の中を、悩んで、苦しんで、迷って、もがきながら。
深閑とした森に、橘さんの呟きがこぼれる。
――死霊は、成仏できないから悪さをする。
そこにはこの世に留まる理由があるから。
あの世にいけない理由があるから。
生者に縋ってでも、答えを探している。
……アンコさんは、何を思いながらお孫さんを探していたんだろう。
わたしは足下に視線を落とす。背後の人影は何も喋らない。何も語らない。ただ黙ってわたしの後ろにいる。
わたしに縋っている。
なんでだろう。それがどうにも、羨ましい。
「……迷いを抱えて彷徨うのは生者も死者も同じっていうのは、そうかもしれませんね」
するりと言葉が口を突いて出た。
「わたしにも、祖母がいたんです。小学生の頃からずっと一緒に暮らしてきた祖母が」
頑丈な箱に入れて、鎖をつけて鍵をかけ、心の一番奥底に沈めようとしていたものが浮き上がってくる。
触れるだけで、瞼の裏に祖母の家が浮かんだ。
「すごく、変な人です。心霊ものが大好きで、よく一人で心霊スポットとか行ってました。集めた御札を持って近所に押しかけたり、降霊術を公園のど真ん中で試したり、わたしにも変なおまじないを強要したり、もうハチャメチャで最低な人です。おかげで近所の人からは白い目で見られるし、わたしはクラスメイトに馬鹿にされて。全部、祖母のせいです。だから祖母とはずっと口を利いていませんでした」
鍵をかけておいたはずなのに。思い出さないようにしようとしていたのに。
鎖がほどけ、頑丈な箱が軋みを上げながら開いていく。
「高校二年のとき。祖母が亡くなったんです」
その日は――春の夜にしては、冬に逆戻りしたように寒かった。
「心筋梗塞だったみたいです。高齢だったから、いつ何が起きても仕方がないですよね。わたしも、口を利かない人だったとはいえ、そういうところは覚悟しているつもりでした」
覚悟しているつもりだった。
つもり、だった。
「心筋梗塞って、発症して六時間以内に処置ができれば、九割ほどの人が助かるそうなんです。でも祖母は、六時間以上経っていました。わたしが触れたときにはもう、ダメでした」
寒い夜だったから、温かい飲み物がほしかった。
部屋から台所に向かうと、居間のこたつで祖母が横になっていた。
わたしから背を向ける形で、寝ていた。
わたしはそれを一瞥して、飲み物を片手に部屋に戻った。
それが最期のチャンスだった。
「祖母がいなくなった家を見渡したとき、すごく、広く感じました。何か大事なものがなくなったような、空っぽになった気分になりました。それで、そのときに初めてわたしは、祖母のこと――おばあちゃんのこと、全然分かってなかったんだなって気づいたんです」
いつも口うるさい人だった。
一方的に無視し続けても、勝手に話す人だった。
近所の人が腰を痛めたら、病気平癒の御札をもって押しかけていた。
公園で独りぼっちの子どもがいたら、現実より夢の方が世界が広いと教えていた。
気味悪がられても、白い目を向けられても、ものともせず。自分のやりたいことだけやって。満足して。
よく笑い、怒り、沈み、また笑い。
すごく、変な人だった。
「それからはもう胸が痛くて、苦しくて。祖母の家に居続けることができませんでした。自責の念で頭がおかしくなりそうで……。だから必死に勉強して家を出たんです」
家を出たときは、嬉しさよりも安堵が勝った。
ようやくこれで昔の自分と区切りがつけられる――心機一転、新しい自分を作るチャンスがきたわけだ。今までの自分をリセットして、薔薇色とまでは言わないけどそれなりに色づいた生活を送りたい。
――本当に?
「でも、何も変わっていない。おばあちゃんが死んで二年も経つのに、わたしは、未だにあの時から変わってない。おばあちゃんに何を思えばいいのか分からないんです。ごめんなさい? ありがとう? 大好き? 大嫌い? 仏壇の前で何を言えばいいんですか。何を言うものなんですか。わたしは、おばあちゃんに何を言って――どう縋ればいいんですか」
あのとき声をかけていれば。
あのとき触れてさえいれば。
祖母は助かっていたのかもしれない。
祖母は死ななかったのかもしれない。
「迷ってる……ずっと迷ってます。どう生きていけばいいか」
迷い。中途半端。
死霊を直視できない――望んでいても拒んでしまう、どうしようもない思い。
どうすればいいか、もう分からない。
「七瀬ちゃん」
混濁していく思考の中で、その声は真っ直ぐ飛んできた。わたしはハッとして顔を上げる。
もう階段はあと数段で終わりを迎えようとしていた。鬱蒼とした茂みの先が開けているのが分かる。
橘さんは一段上からわたしを振り返っていた。それまでのひょうきんさが嘘みたいに、静かな笑みを浮かべる。
「ごっっっめん、マジちょっとそこまで重い話とは思わなかった。いやホント、慰めてあげたいところだけど、これって下手になんか言わない方がいいよね? 俺どうした方がいい? 抱きしめようか?」
破壊神かコイツ。
「いやいいです結構です。わたしが勝手に話しただけなんで。すみません忘れてください」
「いやいやいやこんなの聞いて忘れられないでしょ。抱きしめようか?」
いらねぇって。
「まぁあれだ。慰めにはなんないけど、その重ーく深ーい気分をいくらかマシにすることはできるかもしれない。元々、今日君を見たときからなんか引きずってそうだなーって思っていたわけだし。どっちみちこうしようとは考えていたんだけどさ」
橘さんはそう言って踵を返す。残りの階段を軽い足取りで上りきった。わたしは眉をひそめてそれに続く。最後の段差を越えると目の前の視界が開けた。
赤い彼岸花が一面に咲き誇る、だだっ広い野原があった。
ひんやりとした風が心地よく渡って、わたしの頬を撫でていく。天を仰げば藍色と紫を混ぜたような空が広がり、ちぎれ雲の間から星が点々と瞬いていた。夜明け前に思えて夕暮れ時みたいな――。ただひたすら不思議な景色があった。
その野原の中心に、あまりに異様で違和感しかない、どこにでもありそうなスーパーが建っていた。全体的に緑に塗装されて、外壁には『酒 食品』『9:00~20:00』と白字が走っている。スーパーの顔とでもいえそうな屋上看板には、白い円の中に『冥』と一文字が乗っていた。冥って……冥土?
「こ、ここって……」
「ようこそ七瀬ちゃん、俺の職場へ」
現状についていけず呆けているわたしの傍らに橘さんが歩み寄る。黒キャップのツバを軽く上げて、わたしにニッコリ笑った。
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