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第一章
8:冥土スーパー・サカキ
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見た目がスーパーのそこは、中に入っても変わらずスーパーだった。
橘さんに促されるまま自動ドアを抜けたわたしは店内を見渡す。
広さでいえば小学校の体育館くらいだろうか。壁に沿ってぐるりと陳列棚が配置されており、天井から各々コーナーの看板が下がっている。明るい照明をピカピカの床が反射して、ポップなBGMと一緒に本日のお買い得品の広告が流れていた。場所さえ気にしなければ本当にどこにでもあるスーパーだ。
橘さんはわたしとアンコさんを連れてレジに向かう。冷蔵コーナーとお酒コーナーを前に凡庸なレジが三台。そのうちの一台に長身で黒髪を団子にした女性がいた。お店の制服らしいグリーンジャケットを着て、布巾でカウンターを拭いている。
「春子さーん、おつかれさまース」
橘さんが慣れた様子で女性に声をかける。彼女はハタとこちらに顔を上げた。ぱっと見た感じだと三十代後半か四十代くらいを思わせる綺麗な顔立ち。少し垂れた目が優しそうで、口角を上げた唇もなんだか品がある。なにより、はんなりした雰囲気が女性を全体的に包んでいた。
「あら新太くん。今日はお休みなのにどないしたん? 後ろのお連れさんたちは?」
雰囲気だけでなく、口調までしっかりはんなりした京都弁だった。うわぁなんか雅だ。
女性は片頬に手を当て、うふふと笑う。
「あらあらまぁまぁ。今日早朝いきなりうちに『出勤代わってくれ』って電話がきたさかいなんや思うたら、若い女の子捕まえてお遊びやなんて。せっかくうちの休みをあんたにあげたんにええ度胸してますやないの。チェリーボーイは言うことやることちゃいますわなぁ」
あ、あ~これはっ。これはちょっと、なかなかの舌をお持ちの人だぞっ。
傍らから橘さんが慌てて抗議する。
「ちょ、違いますよ春子さんっ。これは普通に専門屋の仕事で……!」
「とか言うて、ホンマはその子を口説いてたんとちがう? しかもはた迷惑な付きまとい方して、ダッサい口説き方してたんやろ。新太くんは顔がなんぼかよくても中身が壊滅的にアホやさかいねぇ。あんたに口説かれるくらいなら狸に化かされた方が嬉しいもんやわ」
めっさ辛口だなっ。
「俺は狸よりカッコイイ自信ありますぅ! 狸は笹しか食わねーでしょうがっ。俺は好き嫌いないですけどぉーっ!」
「笹を食べるのはパンダです、橘さん。狸は雑食です」
「くそ、互角だったか」
「どこと張り合ってんでしょうか。ていうか童貞なんですね」
「わーっ、ちょ、そこ、触れないでおいたのに触れるなよ! だだだだって、しょうがないじゃん⁉ こっちの事情を話したらみんな逃げてくし難しいんだよ! ああああていうか今はそういう話じゃなくてっ!」
顔を真っ赤にした橘さんは頭をぶるぶる振る。女性に視線を向けた。
「そ、それよか春子さん。大地とゆかりちゃんは」
「大地くんは学校やないの。ゆかりちゃんは裏で在庫確認。店長はいつもの通り」
ほんで? と彼女はわたしについと目を向ける。穏やかな目元を見定めるように細めた。
「この子はどないしたん? 見た目学生さんみたいやけど、うちらと同じ専門屋かいな」
「え、あの、わたし……」
「この子は専門屋じゃないですよ。ちょっと霊感に難アリの一般人です」
傍らから橘さんが進み出て女性とわたしの間に立つ。わたしに女性を紹介した。
「七瀬ちゃん、この人は伊集院春子さん。このスーパーで働く店員で、俺と同じ専門屋。霊についていろいろ詳しいし、祓い屋としても十分強い」
「あ、黄泉野七瀬です……」
わたしは慌てて頭を下げる。橘さんは次に春子さんにわたしのことと今までの経緯をカクカクシカジカ説明した。
春子さんは橘さんの話に一通り頷いてから、わたしに顔を向ける。
「なるほどなぁ。七瀬ちゃん、そらまた大変やったねぇ。まぁアンコさんもこれでやっと成仏できるかもしれへん思うと、肩の荷が下りる気もするんやけども」
「そんなに厄介だったんですか」
「厄介いうより、うちら見てることしかできひんかったさかい。――いつまでも報われへん人をずっと野放しにさせ続けるんは酷な話なんやけど、この世を諦めきれへんアンコさんを思うと手ぇ出しにくかったいうか……。本人の自我がまだかろうじて残っている以上は、他人が決めたらあかんと思うててね。ほんま、ただのエゴよ」
春子さんは困ったような顔をして笑う。さっきは毒舌ぶりに目を剥いたけど、根はいい人らしい。ああでもそれで、今までアンコさんは放置され続けていたのか。
この人たちは、あくまで死霊を、『人』として見ているんだな。
「で、これからどないすんの? アンコさんは何がしたいて?」
「あ、それが――……」
『ア、ン、コ……ああアああンンコぉ』
不意に背後からアンコさんが声を上げた。わたしはそちらを振り返る。
『ほ、ホシい、……ホシイ、もノ、ナィ?』
顔のない、真っ黒なアンコさんはたどたどしく続けた。
『アン、コ――……ぉナか、すいテ、ナィ? イタ、く、なィ? さ、むク、ナイ?』
きっと事故に遭う前から、当たり前のように口にしてきたんだと思う言葉を言う。
『お、オバあチャ、ナンで、モ、カッタげル』
「アンコさん……」
「アンコさんは君をお孫さんだと思い込んでいる。だから今の七瀬ちゃんは孫として、お婆さんになんか買ってもらわないといけない」
戸惑うわたしに橘さんが言う。
「何でもいいよ。このスーパーにあるものだったら一個でも二個でも。ここ揃えているものは普通のスーパーとそう変わらないから、お菓子もジュースもあるよ」
「でも会計って……アンコさんできるんですか? ていうかお金って持っているんですか」
「普通の死霊さんは持ってるで。六文銭を換金して、うちで買い物できるようにしてるんよ。でもアンコさんは……たぶんもう計算できひんやろうし、お金もあらへんとちがう?」
「金なら俺が払います。ちょうど財布あるし」
橘さんが尻ポケットから財布を出す。中身を開いて少し黙った。真顔でわたしを見る。
「ごめん、一個か二個はやっぱナシで。できれば駄菓子系をご所望していただければ絶対ハッピーエンド間違いなしだと思います」
金欠らしかった。
「でも何を選んだら……」
腕を組んで考えこむ。欲しいものないかといきなり聞かれても、正直「お金」「友達」「家」くらいしか思い浮かばない。恥ずかしことに現金なヤツだった。何でもいいよと言われると余計出てこないんだよなぁ。
悩むわたしを見かねて橘さんが助言してくれる。
「七瀬ちゃん、見方を変えてみなよ。君はお婆さんのために何か欲しがるんじゃなくて、自分のために欲しがるんだ。孫としてね」
「孫として、ですか」
「そ。おばあちゃんに甘えるつもりで」
わたしは、小さい頃の記憶を引っ張り出す。まだ、祖母が元気だったあの頃――。
孫にとって、おばあちゃんってどういう存在だろう。
わたしの中の祖母は――どういう存在だったんだろう。
もう口を利かないと宣言する前……わたし、おばあちゃんのことどう思っていたっけ。
しばしの熟考の後、わたしは橘さんに顔を上げる。
「橘さん――」
橘さんはわたしが所望するものに快く頷いて、店内のお菓子コーナーへと走って行った。少ししてから戻ってくる。レジにいる春子さんに商品を渡して、会計を済ませた。それからアンコさんに買ったばかりのそれを渡す。
「お婆さん、これ、お孫さんに」
わたしから見ればアンコさんの頭は天井近くにあるのだけど、橘さんは少し背をかがめてアンコさんのお腹あたりを見つめている。なんだか変なアングルだ。
アンコさんは差し出されたものを前にしばらく固まり、やがて黒い腕をゆっくりと持ち上げる。橘さんからそれを受け取り、今度はわたしに差し出した。
『アン、コぉ……ほ、シイ、もノ……』
差し出されたのはあめ玉が入った菓子袋だった。
「飴ちゃん……たしかにおばあちゃんの代名詞みたいなもんですよね」
わたしは自分で所望したあめ玉の菓子袋を前に苦笑いをこぼす。こんなの自作自演だ。
でも孫にとっておばあちゃんって、そういう存在だよね。
わたしはアンコさんから差し出された菓子袋を受け取る。
「ありがとう……おばあちゃん」
その瞬間だった。
真っ黒な人影だったアンコさんが大きく揺らいだ。
揺らいで、色がどんどん薄くなって。風に吹かれる砂のように、頭の先から形が崩れていく。形がなくなって、人の姿が見えてくる。
わたしより一回り小さくて、白髪で、腰が曲がって、花柄のワンピースにカーディガンを羽織っていて。皺だらけの丸い顔をして。
優しそうに笑う、お婆さんの姿があった。
「――あんこ」
お婆さんはわたしを見上げて、はっきりとそう口にする。
「あんこ。綺麗になって、幸せになんなさい」
――『こそたくまやたく』はおまじない。悪いものからあんたを守ってくれる。
瞼の裏で、わたしの小さな手をさすりながら祖母が言う。
――あんたが笑って、長生きできますように。
ぱん、と何か弾けるような音を聞いた気がした。
自分の頬を伝っていく涙で、それが、ずっと張り詰めていたものが壊れた音だと気づいた。
「……おばあちゃん」
氷の下にあった熱いものがふつふつと沸いてくる。沸いて、溢れて、喉を締めつける。
でも言わなきゃいけない。
今なら言える。
「ずっと、口を利かないでごめんなさい。話を振られても無視してごめんなさい。ご飯を残す日があってごめんなさい。家事も掃除もろくにしないでごめんなさい」
ボロボロ零れる涙もそのままに、必死に溢れる言葉を口にする。
「わたしずっと、おばあちゃんが死んでから後悔してた。おばあちゃんにひどいことを言ったことも、ケンカ別れになったことも。本当は、おばあちゃんがどんな人でもよかったの。もっとたくさん、話したかった」
ああ、本当。蒼ちゃんの言う通りだ。
なんでもっと早く、素直にならなかったんだろう。
祖母に対して何を思えばいいのかなんて、ずっと前から分かっていたのに。
わたしは、涙を拭って大きく笑う。
「大好きだよ、おばあちゃん」
アンコさん――いや、お婆さんはずっとわたしを見つめていた。もう何も言わなかった。
ただ穏やかに微笑みながら――泡のように消えていった。
どこか安心した様子で。
「仏教の言葉でさ、『色即是空・空即是色』って言葉があるんだよ」
アンコさんがいなくなった空間を前に、橘さんが不意に口を開いた。
「空には色があるけれど、実際近づいても色なんてない。心なんて言葉もあるけど、実際身体を開いたってそんな臓器はどこにもない。あるようでない、ないようである。無常のようで無常じゃない。だからきっと、目に見えないものだって実際傍にいるんだよ」
橘さんはわたしに微笑む。
「見方を変えるだけで、救われるものは多いんだ。救えるものも多いんだ」
わたしは橘さんを見つめてもう一度顔を拭う。深く、頭を下げた。
「橘さん、ありがとうございます。本当に――ありがとうございました」
「もう迷いは解決した?」
「はい。もう大丈夫です」
顔を上げて、そっと胸に手を当てる。心臓の鼓動を強く感じた。胸の奥がじんわり熱くて、体に一本の芯が入ったような。不思議だけど確かな感覚がある。
今ようやく、わたしの世界は何色かに色づいたんだと思う。
「そっか。――じゃあここで改めて」
橘さんはコホンと咳払いする。
「さっきも言ったけど、霊障に犯されない一つの方法は俺と結婚することだ。つっても、七瀬ちゃんに今のところその気がないことは分かってる。でもこのまま俺と離れたら、どえらい面倒な霊感ライフが待っていることは間違いない。そうなったら七瀬ちゃんも哀しいし、俺も哀しい。互いにノット・ウィンウィンだ。だから、ここにもう一つの提案をします」
はぁ。
「俺との結婚はまだ保留でいい。だからしばらくここでバイトしてみるってのはどうでしょう。ここなら祓い屋との縁繋がりで死霊も君にちょっかいできないし、この店も深刻な人手不足を補える。そして俺と七瀬ちゃんの関係も途切れなくて済む。これが俺の考えるプランB――『職場恋愛でゆっくりハートをゲッチュー作戦』です。如何でしょうか」
「それを聞いて素直に頷くとでも」
「時給はいいよ。女の子の一人暮らしなら貯金まで回せるくらい」
「やります」
「神速のごとき手の平返しだね」
「奨学金で大学入ったわたしを舐めないでください。こちとら常に金欠なんです。それに」
わたしは、ちょっと口ごもる。
「……恩は返したいですから」
べつに、この人にほんの少しだけ惹かれたとか、ここまで熱烈に告白されて内心まんざらでもないとか、そういうんじゃない。この人の思惑は知っているし、恋愛が義務であることも分かっている。だから間違っても恋はしないし、今後もそういう感情が芽生えることもない。ないったらない。絶対に。
ただなんだ、せっかくの縁なわけだし。霊障に脅かされるのも困るし。何より――ここなら、新しい自分を見つけ出せそうな気もするから。
だから少しだけ、彼に付き合ってみることにするだけだ。
橘さんは、にっこり笑う。
「そんじゃあこれからよろしくね、七瀬ちゃん」
差し出された右手を、わたしはおずおずと握る。
「………………よろしく、お願いします」
レジにいる春子さんはニマニマしながらわたしたちを見ていた。
――こうして、黄泉野七瀬ことわたしは、大学に入るよりも先に、ちょっと変わったスーパーでバイトをすることになった。
あとついでに、住む家も見つかることになる。
橘さんに促されるまま自動ドアを抜けたわたしは店内を見渡す。
広さでいえば小学校の体育館くらいだろうか。壁に沿ってぐるりと陳列棚が配置されており、天井から各々コーナーの看板が下がっている。明るい照明をピカピカの床が反射して、ポップなBGMと一緒に本日のお買い得品の広告が流れていた。場所さえ気にしなければ本当にどこにでもあるスーパーだ。
橘さんはわたしとアンコさんを連れてレジに向かう。冷蔵コーナーとお酒コーナーを前に凡庸なレジが三台。そのうちの一台に長身で黒髪を団子にした女性がいた。お店の制服らしいグリーンジャケットを着て、布巾でカウンターを拭いている。
「春子さーん、おつかれさまース」
橘さんが慣れた様子で女性に声をかける。彼女はハタとこちらに顔を上げた。ぱっと見た感じだと三十代後半か四十代くらいを思わせる綺麗な顔立ち。少し垂れた目が優しそうで、口角を上げた唇もなんだか品がある。なにより、はんなりした雰囲気が女性を全体的に包んでいた。
「あら新太くん。今日はお休みなのにどないしたん? 後ろのお連れさんたちは?」
雰囲気だけでなく、口調までしっかりはんなりした京都弁だった。うわぁなんか雅だ。
女性は片頬に手を当て、うふふと笑う。
「あらあらまぁまぁ。今日早朝いきなりうちに『出勤代わってくれ』って電話がきたさかいなんや思うたら、若い女の子捕まえてお遊びやなんて。せっかくうちの休みをあんたにあげたんにええ度胸してますやないの。チェリーボーイは言うことやることちゃいますわなぁ」
あ、あ~これはっ。これはちょっと、なかなかの舌をお持ちの人だぞっ。
傍らから橘さんが慌てて抗議する。
「ちょ、違いますよ春子さんっ。これは普通に専門屋の仕事で……!」
「とか言うて、ホンマはその子を口説いてたんとちがう? しかもはた迷惑な付きまとい方して、ダッサい口説き方してたんやろ。新太くんは顔がなんぼかよくても中身が壊滅的にアホやさかいねぇ。あんたに口説かれるくらいなら狸に化かされた方が嬉しいもんやわ」
めっさ辛口だなっ。
「俺は狸よりカッコイイ自信ありますぅ! 狸は笹しか食わねーでしょうがっ。俺は好き嫌いないですけどぉーっ!」
「笹を食べるのはパンダです、橘さん。狸は雑食です」
「くそ、互角だったか」
「どこと張り合ってんでしょうか。ていうか童貞なんですね」
「わーっ、ちょ、そこ、触れないでおいたのに触れるなよ! だだだだって、しょうがないじゃん⁉ こっちの事情を話したらみんな逃げてくし難しいんだよ! ああああていうか今はそういう話じゃなくてっ!」
顔を真っ赤にした橘さんは頭をぶるぶる振る。女性に視線を向けた。
「そ、それよか春子さん。大地とゆかりちゃんは」
「大地くんは学校やないの。ゆかりちゃんは裏で在庫確認。店長はいつもの通り」
ほんで? と彼女はわたしについと目を向ける。穏やかな目元を見定めるように細めた。
「この子はどないしたん? 見た目学生さんみたいやけど、うちらと同じ専門屋かいな」
「え、あの、わたし……」
「この子は専門屋じゃないですよ。ちょっと霊感に難アリの一般人です」
傍らから橘さんが進み出て女性とわたしの間に立つ。わたしに女性を紹介した。
「七瀬ちゃん、この人は伊集院春子さん。このスーパーで働く店員で、俺と同じ専門屋。霊についていろいろ詳しいし、祓い屋としても十分強い」
「あ、黄泉野七瀬です……」
わたしは慌てて頭を下げる。橘さんは次に春子さんにわたしのことと今までの経緯をカクカクシカジカ説明した。
春子さんは橘さんの話に一通り頷いてから、わたしに顔を向ける。
「なるほどなぁ。七瀬ちゃん、そらまた大変やったねぇ。まぁアンコさんもこれでやっと成仏できるかもしれへん思うと、肩の荷が下りる気もするんやけども」
「そんなに厄介だったんですか」
「厄介いうより、うちら見てることしかできひんかったさかい。――いつまでも報われへん人をずっと野放しにさせ続けるんは酷な話なんやけど、この世を諦めきれへんアンコさんを思うと手ぇ出しにくかったいうか……。本人の自我がまだかろうじて残っている以上は、他人が決めたらあかんと思うててね。ほんま、ただのエゴよ」
春子さんは困ったような顔をして笑う。さっきは毒舌ぶりに目を剥いたけど、根はいい人らしい。ああでもそれで、今までアンコさんは放置され続けていたのか。
この人たちは、あくまで死霊を、『人』として見ているんだな。
「で、これからどないすんの? アンコさんは何がしたいて?」
「あ、それが――……」
『ア、ン、コ……ああアああンンコぉ』
不意に背後からアンコさんが声を上げた。わたしはそちらを振り返る。
『ほ、ホシい、……ホシイ、もノ、ナィ?』
顔のない、真っ黒なアンコさんはたどたどしく続けた。
『アン、コ――……ぉナか、すいテ、ナィ? イタ、く、なィ? さ、むク、ナイ?』
きっと事故に遭う前から、当たり前のように口にしてきたんだと思う言葉を言う。
『お、オバあチャ、ナンで、モ、カッタげル』
「アンコさん……」
「アンコさんは君をお孫さんだと思い込んでいる。だから今の七瀬ちゃんは孫として、お婆さんになんか買ってもらわないといけない」
戸惑うわたしに橘さんが言う。
「何でもいいよ。このスーパーにあるものだったら一個でも二個でも。ここ揃えているものは普通のスーパーとそう変わらないから、お菓子もジュースもあるよ」
「でも会計って……アンコさんできるんですか? ていうかお金って持っているんですか」
「普通の死霊さんは持ってるで。六文銭を換金して、うちで買い物できるようにしてるんよ。でもアンコさんは……たぶんもう計算できひんやろうし、お金もあらへんとちがう?」
「金なら俺が払います。ちょうど財布あるし」
橘さんが尻ポケットから財布を出す。中身を開いて少し黙った。真顔でわたしを見る。
「ごめん、一個か二個はやっぱナシで。できれば駄菓子系をご所望していただければ絶対ハッピーエンド間違いなしだと思います」
金欠らしかった。
「でも何を選んだら……」
腕を組んで考えこむ。欲しいものないかといきなり聞かれても、正直「お金」「友達」「家」くらいしか思い浮かばない。恥ずかしことに現金なヤツだった。何でもいいよと言われると余計出てこないんだよなぁ。
悩むわたしを見かねて橘さんが助言してくれる。
「七瀬ちゃん、見方を変えてみなよ。君はお婆さんのために何か欲しがるんじゃなくて、自分のために欲しがるんだ。孫としてね」
「孫として、ですか」
「そ。おばあちゃんに甘えるつもりで」
わたしは、小さい頃の記憶を引っ張り出す。まだ、祖母が元気だったあの頃――。
孫にとって、おばあちゃんってどういう存在だろう。
わたしの中の祖母は――どういう存在だったんだろう。
もう口を利かないと宣言する前……わたし、おばあちゃんのことどう思っていたっけ。
しばしの熟考の後、わたしは橘さんに顔を上げる。
「橘さん――」
橘さんはわたしが所望するものに快く頷いて、店内のお菓子コーナーへと走って行った。少ししてから戻ってくる。レジにいる春子さんに商品を渡して、会計を済ませた。それからアンコさんに買ったばかりのそれを渡す。
「お婆さん、これ、お孫さんに」
わたしから見ればアンコさんの頭は天井近くにあるのだけど、橘さんは少し背をかがめてアンコさんのお腹あたりを見つめている。なんだか変なアングルだ。
アンコさんは差し出されたものを前にしばらく固まり、やがて黒い腕をゆっくりと持ち上げる。橘さんからそれを受け取り、今度はわたしに差し出した。
『アン、コぉ……ほ、シイ、もノ……』
差し出されたのはあめ玉が入った菓子袋だった。
「飴ちゃん……たしかにおばあちゃんの代名詞みたいなもんですよね」
わたしは自分で所望したあめ玉の菓子袋を前に苦笑いをこぼす。こんなの自作自演だ。
でも孫にとっておばあちゃんって、そういう存在だよね。
わたしはアンコさんから差し出された菓子袋を受け取る。
「ありがとう……おばあちゃん」
その瞬間だった。
真っ黒な人影だったアンコさんが大きく揺らいだ。
揺らいで、色がどんどん薄くなって。風に吹かれる砂のように、頭の先から形が崩れていく。形がなくなって、人の姿が見えてくる。
わたしより一回り小さくて、白髪で、腰が曲がって、花柄のワンピースにカーディガンを羽織っていて。皺だらけの丸い顔をして。
優しそうに笑う、お婆さんの姿があった。
「――あんこ」
お婆さんはわたしを見上げて、はっきりとそう口にする。
「あんこ。綺麗になって、幸せになんなさい」
――『こそたくまやたく』はおまじない。悪いものからあんたを守ってくれる。
瞼の裏で、わたしの小さな手をさすりながら祖母が言う。
――あんたが笑って、長生きできますように。
ぱん、と何か弾けるような音を聞いた気がした。
自分の頬を伝っていく涙で、それが、ずっと張り詰めていたものが壊れた音だと気づいた。
「……おばあちゃん」
氷の下にあった熱いものがふつふつと沸いてくる。沸いて、溢れて、喉を締めつける。
でも言わなきゃいけない。
今なら言える。
「ずっと、口を利かないでごめんなさい。話を振られても無視してごめんなさい。ご飯を残す日があってごめんなさい。家事も掃除もろくにしないでごめんなさい」
ボロボロ零れる涙もそのままに、必死に溢れる言葉を口にする。
「わたしずっと、おばあちゃんが死んでから後悔してた。おばあちゃんにひどいことを言ったことも、ケンカ別れになったことも。本当は、おばあちゃんがどんな人でもよかったの。もっとたくさん、話したかった」
ああ、本当。蒼ちゃんの言う通りだ。
なんでもっと早く、素直にならなかったんだろう。
祖母に対して何を思えばいいのかなんて、ずっと前から分かっていたのに。
わたしは、涙を拭って大きく笑う。
「大好きだよ、おばあちゃん」
アンコさん――いや、お婆さんはずっとわたしを見つめていた。もう何も言わなかった。
ただ穏やかに微笑みながら――泡のように消えていった。
どこか安心した様子で。
「仏教の言葉でさ、『色即是空・空即是色』って言葉があるんだよ」
アンコさんがいなくなった空間を前に、橘さんが不意に口を開いた。
「空には色があるけれど、実際近づいても色なんてない。心なんて言葉もあるけど、実際身体を開いたってそんな臓器はどこにもない。あるようでない、ないようである。無常のようで無常じゃない。だからきっと、目に見えないものだって実際傍にいるんだよ」
橘さんはわたしに微笑む。
「見方を変えるだけで、救われるものは多いんだ。救えるものも多いんだ」
わたしは橘さんを見つめてもう一度顔を拭う。深く、頭を下げた。
「橘さん、ありがとうございます。本当に――ありがとうございました」
「もう迷いは解決した?」
「はい。もう大丈夫です」
顔を上げて、そっと胸に手を当てる。心臓の鼓動を強く感じた。胸の奥がじんわり熱くて、体に一本の芯が入ったような。不思議だけど確かな感覚がある。
今ようやく、わたしの世界は何色かに色づいたんだと思う。
「そっか。――じゃあここで改めて」
橘さんはコホンと咳払いする。
「さっきも言ったけど、霊障に犯されない一つの方法は俺と結婚することだ。つっても、七瀬ちゃんに今のところその気がないことは分かってる。でもこのまま俺と離れたら、どえらい面倒な霊感ライフが待っていることは間違いない。そうなったら七瀬ちゃんも哀しいし、俺も哀しい。互いにノット・ウィンウィンだ。だから、ここにもう一つの提案をします」
はぁ。
「俺との結婚はまだ保留でいい。だからしばらくここでバイトしてみるってのはどうでしょう。ここなら祓い屋との縁繋がりで死霊も君にちょっかいできないし、この店も深刻な人手不足を補える。そして俺と七瀬ちゃんの関係も途切れなくて済む。これが俺の考えるプランB――『職場恋愛でゆっくりハートをゲッチュー作戦』です。如何でしょうか」
「それを聞いて素直に頷くとでも」
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「やります」
「神速のごとき手の平返しだね」
「奨学金で大学入ったわたしを舐めないでください。こちとら常に金欠なんです。それに」
わたしは、ちょっと口ごもる。
「……恩は返したいですから」
べつに、この人にほんの少しだけ惹かれたとか、ここまで熱烈に告白されて内心まんざらでもないとか、そういうんじゃない。この人の思惑は知っているし、恋愛が義務であることも分かっている。だから間違っても恋はしないし、今後もそういう感情が芽生えることもない。ないったらない。絶対に。
ただなんだ、せっかくの縁なわけだし。霊障に脅かされるのも困るし。何より――ここなら、新しい自分を見つけ出せそうな気もするから。
だから少しだけ、彼に付き合ってみることにするだけだ。
橘さんは、にっこり笑う。
「そんじゃあこれからよろしくね、七瀬ちゃん」
差し出された右手を、わたしはおずおずと握る。
「………………よろしく、お願いします」
レジにいる春子さんはニマニマしながらわたしたちを見ていた。
――こうして、黄泉野七瀬ことわたしは、大学に入るよりも先に、ちょっと変わったスーパーでバイトをすることになった。
あとついでに、住む家も見つかることになる。
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