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第三章
10:春の人
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わたしたちは唖然とならざるを得なかった。
あの、ゆかりちゃんがである。
東北娘ならでは白い肌とすぐ赤くなる可愛いほっぺをしたゆかりちゃんが。
小股でちょこちょこ動き、何をするにも小動物みたいだったゆかりちゃんが。
「おうコラ、満を持しての私の登場だろうがよぉ。なにボサッとしとんじゃ貴様ら」
ペッ、と足下に唾を吐く。
「拍手は」
どこぞのヤクザみたいな出で立ちをなさっている。
いつも綺麗に編んでいるお下げをストレートに流し、堂々と胸を張って金属バットを担いでいる。なんならタバコでも持ってそうな雰囲気だった。わたしたちは彼女の凄みに呑まれるまま、それぞれぱちぱちと拍手した。彼女は軽く手を上げて制す。慣れている。
「で、大地。なんだその血は」
鋭い眼光が、さっきからなぜか緊張している大地くんを捉える。大地くんの肩があからさま跳ね上がった。ゆかりちゃんは肩から金属バットを下ろすと、カン! と地面に打ちつける。そのまま引きずりながら歩き出した。
「貴様ァ~、私との『約束』を破るとはいい度胸してんじゃねぇかよぉ。そんなに私に会いたかったのか? あ? その血は私以外に見せるなとあれほど言ってきたよなァ?」
「あ、や、これは、その」
自然と、わたしとハルトくんは大地くんから距離を取っていた。仕方ない。これは仕方ない。本能が退避せよと言っている。あのヤクザみたいに見えるヤクザさんは、残念ながらわたしが知っているゆかりちゃんではなかった。何をやらかしたのか知らないが、大地くんには武運を祈るしかない。海に沈められたら合掌しよう。
「きんじょ……じゃない、えにし。これには訳がある。頼むから引っ込んでくれ。頼む、あとでうまい棒やるから。コーンポタージュ味、好きだろ」
「私が好きなのはめんたいこだ。コーンポタージュはゆかりだ」
「やべ」
「仕置き確定」
短く告げたゆかりちゃんは大地くんの頬を包む。
そのまま――なんの躊躇いなく口づけをする。
「きゃっ」
声を上げたのは傍らのハルトくんだった。わたしはまたも唖然とならざるを得なかった。
二人が何やってんのか頭に入ってこなかった。二人がどうしてそんなことしてんのか分からなかった。ていうか二人の名前も飛んでいた。ここがどこかも自分が何なのかも分からなかった。宇宙に放り出されたミジンコみたいな心地だった。
ずいぶんとまぁ、長く感じられる時間だった。
ようやっと大地くんから唇を離したゆかりちゃんは、大地くんの頬に滲んだ血を舐める。女子のわたしが思っていいのか分からないけど、それなりに艶めかしい動きだった。大地くんの体から力が抜け、ゆらりと膝から崩れ落ちる。彼女はそれをなんなく受け止めた。抱き留めた格好のまま、道の隅っこで息を潜めて固まっていたわたしたちにじろりと視線を流す。
「コイツは私のだから取るなよ」
こくりと頷くしかない。
「コイツは祓い屋ではあるが、戦いには向いていない。怨霊が暴走したときは私を喚べ。一発で沈めてやる」
こくりこくり。
「そこの怨霊だか地縛霊だか分からん中途半端な貴様、頭出せ」
指名されたハルトくんが怖々しながら前に出る。
ゆかりちゃんは、持っていた金属バットを彼の頭にトンと乗せる。
それだけで、ハルトくんの頭の消し滓は、風に吹かれる砂みたいに消え去った。
「まったく、こんな低劣なもののために大地を駆り出すとは……あの呪い憑きめ。だから嫌なんだ」
大きく溜め息を吐いた彼女に、わたしは固まっていた喉から声を押し出す。
「……あ、あの、大地くんは」
「気にするな。生気を吸えるだけ吸って昏倒させた。『約束』を破ったコイツが悪い」
「……あなたは、どちら様なんでしょうか」
「見れば分かるだろう。ゆかりのもう一つの人格者だ。私はえにし。詳しいことはゆかりに聞け」
「……訛ってないんですね」
「この高貴で高潔で高名な私があんな田舎くさい喋り方するわけないだろ。バカか貴様」
高貴で高潔で高名なえにしさんは遠慮なくわたしを罵った。
「だいたいなんだその鼻から出している血は。大地以外の血は汚い。拭け。私に見せるな。――おいそこの。私のジャケットのポケットにティッシュが入っている。取れ」
「ははあ」
指図されたハルトくんが慌ててえにしさんのグリーンジャケットからポケットティッシュを取り出す。わたしはえにしさんにお礼を言って鼻の血を拭う。幸いにも、もう血は止まっている。鼻の穴に詰め込むのは恥ずかしいので助かった。
「じゃあ私は大地を回収しにきただけだからもう帰る。あとは貴様らでどうにかしろ」
「えっ、でも消し滓の本体がまだ……っ。あれをどうにかしないことには、ここから出られないって大地くんが」
「消し滓の本体? それならもう片してある。まぁ私がやったんじゃないが――。あとはここから出るだけだ。そっから先のことは知らん。どうでもいい」
淡々と答えたえにしさんは大地くんの肩に腕を回して態勢を整えると、金属バットを持ち直した。傍のブロック塀に軽くバットを添える。
「というか、もう思い出しているはずだろう? 高校生。これ以上ごちゃごちゃされるのは迷惑だ。頭の消し滓は祓ってやったんだから、あとは成仏なり除霊されるなりしろ」
ハルトくんが息を呑む。
「な、なんで……」
「私に知らないものはない。私には全てが視えている。ゆえに高貴で高潔で高名なんだよ。貴様より遙かに長生きしてきた先輩は、偉大であることを覚えておけ」
えにしさんは金属バットを大きく振りかぶり、スイングさせる。ブロック塀に凄まじい一振りを打ち込んだ。
びしっ、とブロック塀に白い亀裂が走った。瞬く間に蜘蛛の巣状に広がっていく。――わたしの耳に、鈴に似た涼やかな音が聞こえたのはその時だった。
真夜中の空間が割れ、夕暮れ時の交差点が目の前に広がる。ライトを点けた車が往来し、黄色だった信号が赤に変わる。ひんやりした風が頬をかすめた。
「も、戻ってこれた……」
声に出すと、途端に体から力が抜けた。思わずフラつきそうになったところを、傍らにいたハルトくんが気づいて手を伸ばす。
「黄泉野、」
でも、彼の手はもうわたしの腕を掴むことはなかった。代わりにわたしの体を支えたのは別の腕だった。
「七瀬ちゃん」
聞き馴染みの声が耳元に振ってくる。驚いて顔を上げた。
黒ジャージ姿の橘さんが、錫杖を片手にわたしを掴んでいた。
「た、橘さん、なんでここに」
「仕事。ここが最後の場所だったんだよねー。まさかここのこととは思わなかったよ。いやホント、大した偶然だ」
彼はニコリと笑うと、大地くんを背負ったえにしさんに顔を向ける。小柄な少女が図体のある男子を背負っている光景はなんともシュールだった。えにしさんじゃないにしても、ゆかりちゃんのどこにそんな力があるんだと思う。
「えにしちゃんもお疲れ。バイト中に駆けつけてくれてありがとね」
「ほざけ。貴様、大地が除霊向きじゃないのによくも駆り出してくれたな。なぜ最初から私を喚ばなかった」
「だってゆかりちゃん、今日朝からバイトの日だったもん。大地だって見習いのうちは経験積ませなきゃだし。こっちだって色々考えなきゃならんのですぅ~」
「殺すぞ」
「ヤダこわーい。ゆかりちゃんに言いつけちゃおっかなぁ~」
えにしさんの顔があからさま剣呑になる。けれども反論が出てくることはなかった。チッと鋭く舌打ちだけして、わたしたちから背を向ける。ここから徒歩で帰るらしかった。あれだけ逞しいえにしさんなら体力に心配ないと思うけど、大地くんの方は、世間様にそれなりの目で見られながら帰ることになるはずだ。まぁ寝ているから大丈夫か。
「おい、黄泉野」
つと、横からハルトくんが硬い声で呼びかけてくる。
「ソイツから、離れろ。今すぐ」
「え。急にどうしたんです、ハルトくん」
「分からないのか? ソイツの姿が」
ハルトくんはなぜか切羽詰まった表情をしていた。
「お前に巻き付いているヤバイやつよりヤバイ。今まで見たことないぞ、なんであんなもんが体に絡んでいるのに平然としてんだよ、この男。黄泉野に巻き付いているやつも、こいつの影響なんじゃないか? とにかくヤバイ。危険だ。離れろ、黄泉野。ソイツに近づくな」
「おーおー、なにちょっかい出そうとしてんのかね、クソガキが」
橘さんがわたしの肩に腕を回す。
「お前が七瀬ちゃんの生気を吸った地縛怨霊か。悪いが俺はお前を除霊しにきた。待ったナシで執行する。じゃあさようなら」
「ちょ、待ってください、橘さんっ」
わたしは急いで橘さんを押しのける。ハルトくんに向き直って説明した。
「ハルトくん、この人は生まれつきどえらい厄介な怨霊と呪いを持っている呪い持ちなんです。だから妙なものが視えるんだと思います。でもこの人自身は人畜無害な性格しているので怖がらないでください。鹿せんべい出したら喜んで食べます。何も恐れることはありません」
「鹿なの? 俺って鹿なの? 七瀬ちゃん」
「馬みたいな鹿です」
「馬鹿ってこと?」
「の、呪い持ちって……。しかも、生まれたときから……?」
ハルトくんが信じられないといった様子で橘さんを見る。
「そんな……、こんな馬鹿みたいな姿を生まれたときから強いられているのかよ……。俺より不運じゃないか。不運すぎる。井の中の蛙大海を知らずとはこのことか」
「おうコラ消していい? 消すぞコラ」
「ステイ、ステイです橘さん。どうどうどう」
わたしは橘さんの背中を撫でて落ち着かせる。
「橘さん、ハルトくんがわたしから生気を吸ったのは消し滓のせいです。ハルトくんじゃありません。そもそもここの交差点自体がおかしかったんです」
「あー、知ってるよ。ここは以前から問題になっていたから」
橘さんは一つ吐息を漏らして、交差点に目を向ける。
「負の連鎖にして、不運の連鎖だろ」
話を整理すると次の通りとなる。
最初こそは偶然の事故だった。未練を残した死霊が地縛霊か怨霊となって祓い屋に除霊されたまではどこにでもある話。けど、〝消し滓〟が残ったせいで、連鎖が始まった。
消し滓――怨念の塵ゴミ。それは空気を淀ませてフンイキを作る。陰気になる。陰の気は不運を呼んで再び事故を招き、死者を出す。そうしてその死者が祓われたら消し滓が残り、空気が淀む。また新しい事故が起きる。
ハルトくんはその連鎖に運悪く巻き込まれたわけだ。
「消し滓ってのは、言い換えれば怨霊たちの無念だ。無念は、とどのつまり生者への羨望。生への執着。でも自分らはもう生者に戻ることはできないから、道連れにするしかない。まぁそれほど死んだ奴には、生きている奴が眩しく見えるんだろうよ」
橘さんはそう言ってハルトくんに視線を戻す。おもむろに錫杖の先を、彼に向けた。
「でもな、消し滓はあくまで死霊の未練を煽るものでしかないんだよ。未練のない死霊には憑かないともいえる。だからお前は確実に誰かを、怨んでいる。ここから離れられない過去を持っている。死神さんがお前を怨霊認定している以上はそういうことだ。つーわけで、俺はお前を除霊する。これが俺の仕事なんだから恨むなよ」
「ま、待ってください、橘さん。まだ明日まで時間があります。もう少しだけ待ってくれても……」
「いや、いい。黄泉野。もう大丈夫。俺全部思い出してるから」
ハルトくんが、わたしを止める。彼は少し寂しげに微笑んだ。
「ごめんな。もっと早く言えばよかった。俺……前に黄泉野を襲おうとした時に、全部思い出した。お前と別れたあと、本のページをめくるみたいにパラパラーってな。俺は確かに怨霊だったよ。怨んでた。そんでここから離れるのが怖かった地縛霊……いや、違うか、」
わたしは、その先の言葉を察する。
「自縛霊、ですか」
言われると思っていなかったのか、ハルトくんの目が丸くなる。
「……気づいてたのか?」
「まぁ、はい。よくよく考えたら、そうじゃないかなって。ハルトくんは優しいですから」
地縛霊――思いに囚われた霊。囚われることを望んだ霊。
彼は、ずっと自分を怨んでいた霊だった。
自分で自分をここに縛りつける霊だった。
ハルトくんは微笑みながら頷いた。
「俺さ。あの日――母さんとケンカしたんだ」
一人暮らしのことで揉めたらしい。
良心で言ってくれた母に対して、ひどいことを言ったらしい。
自分の不運さ、卑屈さ、出来すぎる家族への不満。今思い返せばなんてことはない、幼さと勢いで出ただけの心ない暴言を。言うつもりなんて毛頭なかった酷言を。
最期の言葉にしてしまったらしい。
「頭を冷やそうと思って、行き先も決めずに歩いてたんだ。そしたら持ち前の方向音痴が発揮してさ、気づいたら、交差点に飛び出してた」
家に帰りたいと思うたびに、微かに胸が苦しかったという。
「消し滓が憑くはずだよ。時を戻して、謝りたかった。でも謝れるはずがないんだ。ひどいことを散々言った挙げ句に自殺まがいなことをした俺が、どうやって親の顔を見たらいいんだ。母さんは絶対自分を責めている。責めさせたのはこんな死に方をした俺だ。俺のせいなんだよ、全部。誰も、何も悪くないんだ」
だから――忘れた。
辛い現実を受け止めきれなくて、忘れた。
自分の愚かしさをこれ以上見たくなくて、忘れた。
彼はとても、怖がりだから。
「でも、もう思い出しちゃったから逃げられないよな」
ハルトくんはいつものようにワシワシと頭を掻いた。
「全部思い出せてよかった。俺はやっぱりこんな死に方をした自分を許せない。放っておいたらそのうち本当に怨霊になると思う。だから、これでいい。成仏はしたくない。祓ってくれていいんだ。ごめんな、黄泉野。ここまで付き合ってくれたのに」
わたしは、どう言えばいいのか分からなかった。頭の中で言葉の箱をひっくり返してかき集める。こういうときって、引き留めるべきなんだろうか。それとも笑って送り出すべきなんだろうか。どっちも合っているようで、どっちもわたしの心は望んでいない気がする。分からない。だって、
「ごめんなさい、ハルトくん。わたし、あなたの成仏手伝いするとか言って一緒にいましたけど……本当は違うんです。あなたと過ごす時間がただとても、楽しかっただけなの」
愚かなのはわたしの方だ。
わたしが、ハルトくんを引き留めていたのかもしれないのに。
「同年代で話せる人、今までいなかったんです。ハルトくんの状況とわたしが育ってきた環境も似ている感じがして、勝手に親近感とか持ってました。大学も春から一緒だったかもしれないって分かったときは、とても――嬉しかった。あなたと巡り会えていたらきっと楽しい大学生活になっていただろうなって、夢も膨らんで。だから、わたしに謝らないでください、ハルトくん。わたしは、自分勝手な感情にハルトくんを巻き込んでいただけです」
「それは俺も同じだよ、黄泉野。俺も同じこと思ってた」
ハルトくんは屈託なく笑う。
「黄泉野。お前と一緒にいた時間だけ、俺は罪を忘れられていた――救われていたんだよ。だからもう大丈夫なんだ。もう自分と向き合えるんだ」
そっと、わたしに透けた右手を差し出す。
「ありがとう、黄泉野。――お前に出会えて良かった」
わたしは。
息が震えそうになったのを、堪えた。
差し出された右手に、手を重ねる。
シャン、と橘さんの錫杖が涼やかに鳴った。
「オン ハンドマ ダラ アボキャ シャテイ ソロソロ ソワカ」
風が吹く。
ハルトくんは仄かに光ると、泡となって攫われる。
それはまるで、これから来る季節を思わせるような。誰もが綺麗だと思うような。
春の花に似ていた。
あの、ゆかりちゃんがである。
東北娘ならでは白い肌とすぐ赤くなる可愛いほっぺをしたゆかりちゃんが。
小股でちょこちょこ動き、何をするにも小動物みたいだったゆかりちゃんが。
「おうコラ、満を持しての私の登場だろうがよぉ。なにボサッとしとんじゃ貴様ら」
ペッ、と足下に唾を吐く。
「拍手は」
どこぞのヤクザみたいな出で立ちをなさっている。
いつも綺麗に編んでいるお下げをストレートに流し、堂々と胸を張って金属バットを担いでいる。なんならタバコでも持ってそうな雰囲気だった。わたしたちは彼女の凄みに呑まれるまま、それぞれぱちぱちと拍手した。彼女は軽く手を上げて制す。慣れている。
「で、大地。なんだその血は」
鋭い眼光が、さっきからなぜか緊張している大地くんを捉える。大地くんの肩があからさま跳ね上がった。ゆかりちゃんは肩から金属バットを下ろすと、カン! と地面に打ちつける。そのまま引きずりながら歩き出した。
「貴様ァ~、私との『約束』を破るとはいい度胸してんじゃねぇかよぉ。そんなに私に会いたかったのか? あ? その血は私以外に見せるなとあれほど言ってきたよなァ?」
「あ、や、これは、その」
自然と、わたしとハルトくんは大地くんから距離を取っていた。仕方ない。これは仕方ない。本能が退避せよと言っている。あのヤクザみたいに見えるヤクザさんは、残念ながらわたしが知っているゆかりちゃんではなかった。何をやらかしたのか知らないが、大地くんには武運を祈るしかない。海に沈められたら合掌しよう。
「きんじょ……じゃない、えにし。これには訳がある。頼むから引っ込んでくれ。頼む、あとでうまい棒やるから。コーンポタージュ味、好きだろ」
「私が好きなのはめんたいこだ。コーンポタージュはゆかりだ」
「やべ」
「仕置き確定」
短く告げたゆかりちゃんは大地くんの頬を包む。
そのまま――なんの躊躇いなく口づけをする。
「きゃっ」
声を上げたのは傍らのハルトくんだった。わたしはまたも唖然とならざるを得なかった。
二人が何やってんのか頭に入ってこなかった。二人がどうしてそんなことしてんのか分からなかった。ていうか二人の名前も飛んでいた。ここがどこかも自分が何なのかも分からなかった。宇宙に放り出されたミジンコみたいな心地だった。
ずいぶんとまぁ、長く感じられる時間だった。
ようやっと大地くんから唇を離したゆかりちゃんは、大地くんの頬に滲んだ血を舐める。女子のわたしが思っていいのか分からないけど、それなりに艶めかしい動きだった。大地くんの体から力が抜け、ゆらりと膝から崩れ落ちる。彼女はそれをなんなく受け止めた。抱き留めた格好のまま、道の隅っこで息を潜めて固まっていたわたしたちにじろりと視線を流す。
「コイツは私のだから取るなよ」
こくりと頷くしかない。
「コイツは祓い屋ではあるが、戦いには向いていない。怨霊が暴走したときは私を喚べ。一発で沈めてやる」
こくりこくり。
「そこの怨霊だか地縛霊だか分からん中途半端な貴様、頭出せ」
指名されたハルトくんが怖々しながら前に出る。
ゆかりちゃんは、持っていた金属バットを彼の頭にトンと乗せる。
それだけで、ハルトくんの頭の消し滓は、風に吹かれる砂みたいに消え去った。
「まったく、こんな低劣なもののために大地を駆り出すとは……あの呪い憑きめ。だから嫌なんだ」
大きく溜め息を吐いた彼女に、わたしは固まっていた喉から声を押し出す。
「……あ、あの、大地くんは」
「気にするな。生気を吸えるだけ吸って昏倒させた。『約束』を破ったコイツが悪い」
「……あなたは、どちら様なんでしょうか」
「見れば分かるだろう。ゆかりのもう一つの人格者だ。私はえにし。詳しいことはゆかりに聞け」
「……訛ってないんですね」
「この高貴で高潔で高名な私があんな田舎くさい喋り方するわけないだろ。バカか貴様」
高貴で高潔で高名なえにしさんは遠慮なくわたしを罵った。
「だいたいなんだその鼻から出している血は。大地以外の血は汚い。拭け。私に見せるな。――おいそこの。私のジャケットのポケットにティッシュが入っている。取れ」
「ははあ」
指図されたハルトくんが慌ててえにしさんのグリーンジャケットからポケットティッシュを取り出す。わたしはえにしさんにお礼を言って鼻の血を拭う。幸いにも、もう血は止まっている。鼻の穴に詰め込むのは恥ずかしいので助かった。
「じゃあ私は大地を回収しにきただけだからもう帰る。あとは貴様らでどうにかしろ」
「えっ、でも消し滓の本体がまだ……っ。あれをどうにかしないことには、ここから出られないって大地くんが」
「消し滓の本体? それならもう片してある。まぁ私がやったんじゃないが――。あとはここから出るだけだ。そっから先のことは知らん。どうでもいい」
淡々と答えたえにしさんは大地くんの肩に腕を回して態勢を整えると、金属バットを持ち直した。傍のブロック塀に軽くバットを添える。
「というか、もう思い出しているはずだろう? 高校生。これ以上ごちゃごちゃされるのは迷惑だ。頭の消し滓は祓ってやったんだから、あとは成仏なり除霊されるなりしろ」
ハルトくんが息を呑む。
「な、なんで……」
「私に知らないものはない。私には全てが視えている。ゆえに高貴で高潔で高名なんだよ。貴様より遙かに長生きしてきた先輩は、偉大であることを覚えておけ」
えにしさんは金属バットを大きく振りかぶり、スイングさせる。ブロック塀に凄まじい一振りを打ち込んだ。
びしっ、とブロック塀に白い亀裂が走った。瞬く間に蜘蛛の巣状に広がっていく。――わたしの耳に、鈴に似た涼やかな音が聞こえたのはその時だった。
真夜中の空間が割れ、夕暮れ時の交差点が目の前に広がる。ライトを点けた車が往来し、黄色だった信号が赤に変わる。ひんやりした風が頬をかすめた。
「も、戻ってこれた……」
声に出すと、途端に体から力が抜けた。思わずフラつきそうになったところを、傍らにいたハルトくんが気づいて手を伸ばす。
「黄泉野、」
でも、彼の手はもうわたしの腕を掴むことはなかった。代わりにわたしの体を支えたのは別の腕だった。
「七瀬ちゃん」
聞き馴染みの声が耳元に振ってくる。驚いて顔を上げた。
黒ジャージ姿の橘さんが、錫杖を片手にわたしを掴んでいた。
「た、橘さん、なんでここに」
「仕事。ここが最後の場所だったんだよねー。まさかここのこととは思わなかったよ。いやホント、大した偶然だ」
彼はニコリと笑うと、大地くんを背負ったえにしさんに顔を向ける。小柄な少女が図体のある男子を背負っている光景はなんともシュールだった。えにしさんじゃないにしても、ゆかりちゃんのどこにそんな力があるんだと思う。
「えにしちゃんもお疲れ。バイト中に駆けつけてくれてありがとね」
「ほざけ。貴様、大地が除霊向きじゃないのによくも駆り出してくれたな。なぜ最初から私を喚ばなかった」
「だってゆかりちゃん、今日朝からバイトの日だったもん。大地だって見習いのうちは経験積ませなきゃだし。こっちだって色々考えなきゃならんのですぅ~」
「殺すぞ」
「ヤダこわーい。ゆかりちゃんに言いつけちゃおっかなぁ~」
えにしさんの顔があからさま剣呑になる。けれども反論が出てくることはなかった。チッと鋭く舌打ちだけして、わたしたちから背を向ける。ここから徒歩で帰るらしかった。あれだけ逞しいえにしさんなら体力に心配ないと思うけど、大地くんの方は、世間様にそれなりの目で見られながら帰ることになるはずだ。まぁ寝ているから大丈夫か。
「おい、黄泉野」
つと、横からハルトくんが硬い声で呼びかけてくる。
「ソイツから、離れろ。今すぐ」
「え。急にどうしたんです、ハルトくん」
「分からないのか? ソイツの姿が」
ハルトくんはなぜか切羽詰まった表情をしていた。
「お前に巻き付いているヤバイやつよりヤバイ。今まで見たことないぞ、なんであんなもんが体に絡んでいるのに平然としてんだよ、この男。黄泉野に巻き付いているやつも、こいつの影響なんじゃないか? とにかくヤバイ。危険だ。離れろ、黄泉野。ソイツに近づくな」
「おーおー、なにちょっかい出そうとしてんのかね、クソガキが」
橘さんがわたしの肩に腕を回す。
「お前が七瀬ちゃんの生気を吸った地縛怨霊か。悪いが俺はお前を除霊しにきた。待ったナシで執行する。じゃあさようなら」
「ちょ、待ってください、橘さんっ」
わたしは急いで橘さんを押しのける。ハルトくんに向き直って説明した。
「ハルトくん、この人は生まれつきどえらい厄介な怨霊と呪いを持っている呪い持ちなんです。だから妙なものが視えるんだと思います。でもこの人自身は人畜無害な性格しているので怖がらないでください。鹿せんべい出したら喜んで食べます。何も恐れることはありません」
「鹿なの? 俺って鹿なの? 七瀬ちゃん」
「馬みたいな鹿です」
「馬鹿ってこと?」
「の、呪い持ちって……。しかも、生まれたときから……?」
ハルトくんが信じられないといった様子で橘さんを見る。
「そんな……、こんな馬鹿みたいな姿を生まれたときから強いられているのかよ……。俺より不運じゃないか。不運すぎる。井の中の蛙大海を知らずとはこのことか」
「おうコラ消していい? 消すぞコラ」
「ステイ、ステイです橘さん。どうどうどう」
わたしは橘さんの背中を撫でて落ち着かせる。
「橘さん、ハルトくんがわたしから生気を吸ったのは消し滓のせいです。ハルトくんじゃありません。そもそもここの交差点自体がおかしかったんです」
「あー、知ってるよ。ここは以前から問題になっていたから」
橘さんは一つ吐息を漏らして、交差点に目を向ける。
「負の連鎖にして、不運の連鎖だろ」
話を整理すると次の通りとなる。
最初こそは偶然の事故だった。未練を残した死霊が地縛霊か怨霊となって祓い屋に除霊されたまではどこにでもある話。けど、〝消し滓〟が残ったせいで、連鎖が始まった。
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「いや、いい。黄泉野。もう大丈夫。俺全部思い出してるから」
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「ごめんな。もっと早く言えばよかった。俺……前に黄泉野を襲おうとした時に、全部思い出した。お前と別れたあと、本のページをめくるみたいにパラパラーってな。俺は確かに怨霊だったよ。怨んでた。そんでここから離れるのが怖かった地縛霊……いや、違うか、」
わたしは、その先の言葉を察する。
「自縛霊、ですか」
言われると思っていなかったのか、ハルトくんの目が丸くなる。
「……気づいてたのか?」
「まぁ、はい。よくよく考えたら、そうじゃないかなって。ハルトくんは優しいですから」
地縛霊――思いに囚われた霊。囚われることを望んだ霊。
彼は、ずっと自分を怨んでいた霊だった。
自分で自分をここに縛りつける霊だった。
ハルトくんは微笑みながら頷いた。
「俺さ。あの日――母さんとケンカしたんだ」
一人暮らしのことで揉めたらしい。
良心で言ってくれた母に対して、ひどいことを言ったらしい。
自分の不運さ、卑屈さ、出来すぎる家族への不満。今思い返せばなんてことはない、幼さと勢いで出ただけの心ない暴言を。言うつもりなんて毛頭なかった酷言を。
最期の言葉にしてしまったらしい。
「頭を冷やそうと思って、行き先も決めずに歩いてたんだ。そしたら持ち前の方向音痴が発揮してさ、気づいたら、交差点に飛び出してた」
家に帰りたいと思うたびに、微かに胸が苦しかったという。
「消し滓が憑くはずだよ。時を戻して、謝りたかった。でも謝れるはずがないんだ。ひどいことを散々言った挙げ句に自殺まがいなことをした俺が、どうやって親の顔を見たらいいんだ。母さんは絶対自分を責めている。責めさせたのはこんな死に方をした俺だ。俺のせいなんだよ、全部。誰も、何も悪くないんだ」
だから――忘れた。
辛い現実を受け止めきれなくて、忘れた。
自分の愚かしさをこれ以上見たくなくて、忘れた。
彼はとても、怖がりだから。
「でも、もう思い出しちゃったから逃げられないよな」
ハルトくんはいつものようにワシワシと頭を掻いた。
「全部思い出せてよかった。俺はやっぱりこんな死に方をした自分を許せない。放っておいたらそのうち本当に怨霊になると思う。だから、これでいい。成仏はしたくない。祓ってくれていいんだ。ごめんな、黄泉野。ここまで付き合ってくれたのに」
わたしは、どう言えばいいのか分からなかった。頭の中で言葉の箱をひっくり返してかき集める。こういうときって、引き留めるべきなんだろうか。それとも笑って送り出すべきなんだろうか。どっちも合っているようで、どっちもわたしの心は望んでいない気がする。分からない。だって、
「ごめんなさい、ハルトくん。わたし、あなたの成仏手伝いするとか言って一緒にいましたけど……本当は違うんです。あなたと過ごす時間がただとても、楽しかっただけなの」
愚かなのはわたしの方だ。
わたしが、ハルトくんを引き留めていたのかもしれないのに。
「同年代で話せる人、今までいなかったんです。ハルトくんの状況とわたしが育ってきた環境も似ている感じがして、勝手に親近感とか持ってました。大学も春から一緒だったかもしれないって分かったときは、とても――嬉しかった。あなたと巡り会えていたらきっと楽しい大学生活になっていただろうなって、夢も膨らんで。だから、わたしに謝らないでください、ハルトくん。わたしは、自分勝手な感情にハルトくんを巻き込んでいただけです」
「それは俺も同じだよ、黄泉野。俺も同じこと思ってた」
ハルトくんは屈託なく笑う。
「黄泉野。お前と一緒にいた時間だけ、俺は罪を忘れられていた――救われていたんだよ。だからもう大丈夫なんだ。もう自分と向き合えるんだ」
そっと、わたしに透けた右手を差し出す。
「ありがとう、黄泉野。――お前に出会えて良かった」
わたしは。
息が震えそうになったのを、堪えた。
差し出された右手に、手を重ねる。
シャン、と橘さんの錫杖が涼やかに鳴った。
「オン ハンドマ ダラ アボキャ シャテイ ソロソロ ソワカ」
風が吹く。
ハルトくんは仄かに光ると、泡となって攫われる。
それはまるで、これから来る季節を思わせるような。誰もが綺麗だと思うような。
春の花に似ていた。
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