君は浴せずして愛し

朽葉

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プロローグ

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 まだ、太陽が昇ったばかりだからか。窓の外は、白んでいた。
 早朝が繕う沈黙が、世界でたった独りなのかもしれない、という気分にさせる。
 大きな姿見には練習中、無意識に触れたことでできた手のひらの跡。重たい空気が、埃の舞う空き教室を満たし、天井付近に掛けられた時計は、秒針の音だけを律儀に刻む。

 そんな静寂の中、床にへたり込んだひとりの男――雪花せつかの手が小刻みに震えていた。
 ペンを握る指が冷たいのにも関わらず、ノートのページを必死に埋め続ける。走らせた文字は、酷く歪んだ。
 たった一つだけ大きく書かれた『たすけて』の文字。インクが滲み、ページがぐしゃりと音を立てた。
 ふいに、涙で赤く腫れた目元から、再び雫が零れ落ちてしまう。指先でそれを乱暴に拭うと、反対の手に握られた紙の音が擦れ、やけに耳に残る。

 そのときだった。

 きぃ、と微かな音。誰かが扉を開いたのだと、すぐに分かった。びくりと肩が跳ねた彼は、恐る恐る顔を上げる。

 廊下を背にして、教室の入り口で、ひとりの青年が立ち尽くす。
 りんだ。

 視界に入った瞳が、驚きと戸惑いに揺れていた。目の前に広がる光景が信じられない――そんな顔である。

「……粧くんが、匿名……だったのか?」

 その問いは、静かに、けれども、確かに空気を震わせた。
 名前を呼ばれた瞬間、彼の手が先程よりきつく震える。紙がくしゃりと折れ、指が白くなっていく。
 言葉が見つからない。言い訳も、説明も、何もできなかった。ただ、喉の奥からかろうじて絞り出せた言葉は──『ごめん』という謝罪の羅列だった。

 暫くの間、沈黙が落ちている。

 その隙間に、陽光が深く差し込んできた。白い光がノートのページに影を落とし、ある一文の消し跡を浮かび上がらせる。

 『会ってみたい』

 かつて記されたその願いは、きれいに消しゴムで消されていた。しかしながら、完全には消しきれていない。まだ、光に透けて残っていたのだ。
 その言葉が、二人の間に沈黙となって横たわる。
 逃げ道も、仮面も意味を失う。もう、匿名のままではいられない。

 凛が、ゆっくりと一歩前へ出た。
 迷いながらも、彼のそばに膝をつき、そっと背中に手を添える。
 その指先は、一重に温かかった。
 ふいに漏れた嗚咽。涙が次々と頬を伝い、ゆっくりと落ちていく。声にならない感情があふれ出し、やっと本当の「自分」をさらけ出せたような気がしたのだから。

 ノートが繋いだ二人は、互いの傷を知りながら、今、初めて現実の中で向き合った。
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