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さくら さくら
19
その日の放課後の内に二人は有志の志願書を提出し、無事に受理された。
どうやら有志のプリントを雪花に手渡したのが、文化祭実行委員の担当教師らしい。早朝とは違って清々しい顔をした彼の顔をみて安堵している様子だった。
翌日から凛の自宅に箏を運んで練習をしようという話になったものの、バスケ部の都道府県予選は今週末に控えているみたいだ。
直前に過労で倒れるわけにはいかず。雪花が自主練習をしていた空き教室で、部活終わりに一時間ほど時間を取ってから直ぐ解散することに。
彼は楽譜を読みながら爪をはめて、箏が無い中のエア練習。凛は音楽を流しながら、鏡の前で通しをする。とはいえ、二人にとっては『さくらさくら』は箏でも日本舞踊でもやり慣れた曲だったため、パフォーマンスは殆ど完成していた。
何気なく、雪花は雑談を挟む。
「あのさ。俺たちって似たところも違うところもあるけど、日本舞踊……というより、日本文化に対する価値観もちょっと違うと思ってて」
話を聞くために身体の動きを止めるが、当の彼の目線は未だに楽譜を追っている。
瞬き一つせずに音階を辿る姿は確かに真剣で先程の言葉は全て幻聴かと思ったほどだ。
唐突な意見に戸惑う。ただ、相手のことを顧みずに意見を淡々と述べている様子は、匿名と話している感じがするのか。心が落ち着く。
「え、そうか? 考えたことなかったな……たとえば?」
一度、彼の述べていることに関して頭の中で熟考するけれども、特に答えが思いつかない。さしあたって、そう思う理由を当たり障りないが聞いてみることにする。
「その、俺は昔から古き良き、というか……代々受け継がれてきた文化の本質そのものを大事にしているんだけど……。既に完成されたものを無理にアレンジする必要はないと思ってる。今で言う、日本舞踊のJ-POP舞踊とか、ノイズに感じてそこまで好きじゃない」
箏を習っていると聞いたときから、薄々検討はついていたが、彼は日本の伝統文化に強い熱量を抱いているみたいだ。
先代の知恵や技術が集結した伝統文化。伝統や文化は歴史そのものであり、先代が生きていたという証。それに触れることは確かに実体のあった誰かの人生に間接的に干渉するということ。
つまりは先代の築いたものを尊重したいというのが主張である。
例えると、カレーライスでもチーズカレーやカツカレー、シーフードカレーなど、色々な種類があると思う。そこで彼は一般的で何もアレンジが加えられていない、ただのカレーライスを好むタイプだ。
結局は彼にとって、『普通』が一番なのだろう。
J-POP舞踊は、名の通り現代のJ-POPや流行りの曲の振り付けをオリジナルで創作する。本来の日本舞踊とは趣旨が変わっているため、趣とは程遠い一面も併せ持つ。
もちろん、J-POP舞踊にも良さはあるが、その良さというものが受け入れ難い、と。
日本人は新しいものを好む性質を持つという考えがあるが、そういう観点からみれば、凛は根っからの日本人気質だといえた。
「あぁ……それなら確かに僕の考えとは少し違うかもな。やっぱり日本舞踊とか箏とかってさ、教えられる人も習っている人も年々高齢化が進んでるわけで、このまま行けば、文化は終息していくと思う。僕はそれは嫌だから、若い人が興味を惹かれるのなら、そのものの風情を壊すものでも、多少今時な要素を取り入れることに関しては肯定的というか」
投げかけられた問いにも凛は焦ることはなく、正確に返す。
いくら家庭内が窮屈で、往来まで日本舞踊をきっかけに傷つくことがあっても。依然として日本舞踊が好きだという事実は変わらなかった。
限らずとも、物心ついたときから間近で見てきた凛にとっては、ただそれを卒なくこなすだけでは飽き足らないのかもしれない。
完成された上で、その中にあるまだ見ぬ新しい可能性に賭けているのである。
「ふうん。じゃあ、J-POP舞踊も結構好きなんだ?」
「そうだな。外部とか若者向けのイベントで結構披露することも多いよ」
カラオケで歌うメジャーな曲から一時爆発的ヒットを巻き起こした曲まで。過去に合わせたJ-POPを思い出しながら言う。
彼からしたら、意見が相違することは不満なのではないか、と不安になるが、そうでもなさそうだ。
気取ったように動かしていた指を静止すると、ようやく顔を上げる。
「つまりは、そういうことなんじゃない。俺たちが自分のことを嫌いで、正反対なお互いに憧れるのって」
見つめ合う瞳が、無垢な色をしていた。
そのきれいさに思い耽るの共に。あどけなさがあるからこそ、すれ違いを引き起こしたのだろう、と考えた。
彼のことをきちんと見ていなかった自分のせいだと自責思考になっているのか。暫くしてから、今度は顔を歪める。
しかし、凛の口から出た言葉は想像とは全く違うものだった。
「へぇ……じゃあ、前言った褒め言葉もやっぱり本心なんだ」
緩む頬を誤魔化すために後ろを向くものの、目の前にある姿見にはばっちりとその顔が写っている。
当然、後ろにいる彼にもその姿が伺えたことであろう。
元から素顔を知る雪花しかいないし、日本舞踊の自主練習をするから。そう気を抜いてマスクをしていなかったことが、痛恨の失敗だ。
「何? ニヤニヤして。気色悪い」
堪えられない笑みを必死に抑える姿が、滑稽に感じたらしい。
顔は引き攣っていて、目にしたものを腫れ物として扱うみたいな濁った目をしている。
「なんか、嬉しいなって」
鏡越しに目を合わせて、自然に微笑む。
一方、彼はというと顔にパッと赤い花火をあげたかと思うと、下へと逸らしてしまった。
自分自身に対して笑いかけられたのは初めてのことだ。三日月型のように細めた目と、艶のある髪を耳にかける淑やかな仕草。
小心者な一面を併せ持つ彼には、少しばかり刺激が強かったのだ。
「まあ……き、気持ちは、わかるかも」
目を逸らし続けながらも、震える小さな声で呟く。
練習をするだけのはずなのに、好きな人と一緒にいることが嬉しくて緊張による熱が引かない。
非日常が日常へと溶け込むことがあれば、日常が特別になることもある。
彼は気持ちを切り替えるために、床から立ち上がろうとした。
「わっ……」
けれども、そのままバランスを崩し、凛の方へと思いっきり倒れ込んだ。
凛は反射的に彼の身体を支えようとしたが、勢い余って尻もちをつき、二人揃って床に寝転んでしまう。
結果、雪花が凛を押し倒すような体制になる。
顔と顔があと数センチのところでぶつかるところまで近付いていた。震えるまぶたや肌の実感も鮮明に見え、相手の吐息が唇に触れる。
世界が音を喪ったように静かになった。
ぽたり、と一滴だけ、彼の滲み出た汗がひとりでに凛の頬へと零す。
真っ白になった頭が落ち着きを取り戻せば、次は心が荒ぶり始めている。二人の頬までもが紅潮し、心音はダイナミックなロックを奏でた。
「ご、ごめん」
かなり長い間、二人は静止していたと思う。
やっと凛の上から退けたが、声があからさまに上擦る。ときめきや喜びよりも今は羞恥心が勝っていた。
自分の照れた顔をあんなにも間近で好きな人に晒してしまったのだから。
「別に。大丈夫」
どう返したらいいのか分からず、素っ気ない態度になる。お互いの吐息の音や肌に触れた汗を思い出しては、再び身体が熱を持つ、そんな状況で。
気まずさに耐え兼ねて「そろそろ解散にしようか」と提案するものの、然程空気を和ますという意味を成していない。
何より、相手の顔もまた赤い、ということが、彼らをどうしようもない感情にさせた。
──近かった、な……。
声に出さないで、凛はそっと囁く。
決して、心の中の声は聴こえなくても、身体に触れたときに心音は彼の耳に届いていたのだろう。
※※※
二人の距離が物理的に縮まったときの余韻に浸っていると、大会の日が訪れるまではあっという間だった。まちに待った都道府県予選。
二回戦、三回戦は順調に勝ち進んだが、四回戦目──すなわち準々決勝では苦戦していた。
相手が前回の大会にて惜しくも代表枠を逃した強豪校ということもあるが、一番の理由としてスタメンである彼の調子があまり良くなかったのだ。
彼は普段から点を決めるよりかは仲間のフォローに回ることの方が多い。それでも、頭が回らずに判断ミスや不本意なファウルをしてしまう。
悪く言えば、仲間の足を引っ張っている。
「セツ、大丈夫? 今日、なんか不調にみえるけど……」
第三クォーターを終え、二分のインターバル中、様子を伺っていた友人が声をかけてきた。
ベンチで身体を休めながら水分補給をしても心は休息を欲するまま。
今の時点で既に十点以上の点差。逆転勝ちの可能性は秘めていても相手の勢いは未だ劣らなかった。
先輩たちにとっては今回が高校最後の試合になるかもしれない。深呼吸をすると共に汗が身体を伝い、木目の床に流れていく。
幾度かのファウルがなければ。
あのとき、部長ではなく、敵のマークがなかった友人にパスをしていれば。
自分のせいでこの瞬間、チームがピンチに陥っているという事実が彼を苦しめる。
「最近色々あったから、精神的な疲労がきてるのかも。考え事してて試合にならなくて……ごめん」
頭の上にタオルを掛けたまま俯きつつも、必死に言葉を絞り出す。
色々というのはもちろん、凛との関係についての話である。単純な色恋だ。
他のチームメイトから見れば、そんなこと、として受け取りたくなるようなこと。中には怒りを抱く人もいると思う。それをよく理解しているからこそ、罪悪感が着々と心に蓄積する。
今まで恋愛を諦めてきた雪花は恋愛への加減を知らない。もし、恋を一から百まで学ぶ教科書があったのなら、どれほどよかっただろう。
「そんなこともあるさ。あとは先輩たちに任せろ」
友人がかける台詞に迷う最中、救いの手を差し伸べたのは部長だった。前に屈みながら、タオルで影になっていた顔を覗き込む。
少しもミスを責めない、暖かな口調。
一度は胸にすとんと落ちてくるが、素直に肯く訳にもいかず、おずおずと部長の目を見る。
「でも、もし負けたら先輩……これが引退試合じゃ」
強豪校より選手層は劣るとはいえ、スタメンにはスタメンとして選ばれるだけの理由があるのだ。
勝つことではなく、せめて点差が開かないように必死になっている状況。
練習試合や地区予選もスタメンが中心に試合を進めてきた。試合慣れをしていないイレギュラーなメンバーに選手権を渡して、試合が好転するとも思えない。
「なあに。先輩の存在が頼りないか?」
「……っ。そういうつもりでは、なくて」
胸に染み入るような酷く優しい声色は、感情を揺さぶる。噛み締めていた唇もひりひりとした。
後輩の背中をそっと押して、常に溌剌さを兼ね備えながらも、時には手を握って引っ張り上げてくれる。
自分たちの先輩が心許ないと言ったら、一体何が頼りになるのか。
勢いのまま弁明してしまうが、三年生の青春に泥を被せるほどの勇気はまだ振り絞ることができなかった。
「お前には来年があるんだし、オレたちが最後だとしても、オレたちが全力で戦った結果なんだからそんなに気に病むなよ。大丈夫、この試合、勝ちに持っていくからさ」
『大丈夫』
という飾り気のない一言。どこか心強いものに思えて、渋々ではあるが、提案を呑む。
インターバルの時間が終了し、仲間たちがコートへと入っていく。気付けば友人がこちらに向かって任せろ、と笑顔でグッドポーズをしていた。
触れていないのに、選手と会場の熱が伝わる。
去年までは自身の先輩との別れを惜しみ、鼻水と涙で顔を濡らしていた部長の背中が。
とても逞しくて。大きくて。そして、どこか遠い存在に感じて。
独りで彼は纔かなエールを贈るばかりだ。
その後の最終クォーター中、試合に出ることはなく、ベンチで仲間の様子を見守っていた。
友人と三年生が中心に点を稼いでいったものの、ひらいた点差を上手く縮めることはできず、トータルスコアは72:63。
瞬間、試合終了のブザー音が鳴り響く。
結果は無惨にも敗北に終わった。
秋の国民大会やウィンターカップなど。
参加資格のある大会は残っているが、受験を控えていることや後輩たちが来年度に向けて力をつけるためにも三年生は引退することに。
次期部長には監督の推薦によって友人が選ばれ、大所帯の部活でスタメンの座を手にしていた彼は副部長になった。
まだまだこれからだというのにも関わらず、彼の心は多大なる喪失感と後悔が占める。
練習試合終了のホイッスルが鳴る度に、喉が締め付けられる感覚をおぼえて、ただ、苦しい。
そんな生活によって、密かに息苦しさを感じ始めていた。
誰かの手でこの痛みに蓋をしてほしい、と。
どうやら有志のプリントを雪花に手渡したのが、文化祭実行委員の担当教師らしい。早朝とは違って清々しい顔をした彼の顔をみて安堵している様子だった。
翌日から凛の自宅に箏を運んで練習をしようという話になったものの、バスケ部の都道府県予選は今週末に控えているみたいだ。
直前に過労で倒れるわけにはいかず。雪花が自主練習をしていた空き教室で、部活終わりに一時間ほど時間を取ってから直ぐ解散することに。
彼は楽譜を読みながら爪をはめて、箏が無い中のエア練習。凛は音楽を流しながら、鏡の前で通しをする。とはいえ、二人にとっては『さくらさくら』は箏でも日本舞踊でもやり慣れた曲だったため、パフォーマンスは殆ど完成していた。
何気なく、雪花は雑談を挟む。
「あのさ。俺たちって似たところも違うところもあるけど、日本舞踊……というより、日本文化に対する価値観もちょっと違うと思ってて」
話を聞くために身体の動きを止めるが、当の彼の目線は未だに楽譜を追っている。
瞬き一つせずに音階を辿る姿は確かに真剣で先程の言葉は全て幻聴かと思ったほどだ。
唐突な意見に戸惑う。ただ、相手のことを顧みずに意見を淡々と述べている様子は、匿名と話している感じがするのか。心が落ち着く。
「え、そうか? 考えたことなかったな……たとえば?」
一度、彼の述べていることに関して頭の中で熟考するけれども、特に答えが思いつかない。さしあたって、そう思う理由を当たり障りないが聞いてみることにする。
「その、俺は昔から古き良き、というか……代々受け継がれてきた文化の本質そのものを大事にしているんだけど……。既に完成されたものを無理にアレンジする必要はないと思ってる。今で言う、日本舞踊のJ-POP舞踊とか、ノイズに感じてそこまで好きじゃない」
箏を習っていると聞いたときから、薄々検討はついていたが、彼は日本の伝統文化に強い熱量を抱いているみたいだ。
先代の知恵や技術が集結した伝統文化。伝統や文化は歴史そのものであり、先代が生きていたという証。それに触れることは確かに実体のあった誰かの人生に間接的に干渉するということ。
つまりは先代の築いたものを尊重したいというのが主張である。
例えると、カレーライスでもチーズカレーやカツカレー、シーフードカレーなど、色々な種類があると思う。そこで彼は一般的で何もアレンジが加えられていない、ただのカレーライスを好むタイプだ。
結局は彼にとって、『普通』が一番なのだろう。
J-POP舞踊は、名の通り現代のJ-POPや流行りの曲の振り付けをオリジナルで創作する。本来の日本舞踊とは趣旨が変わっているため、趣とは程遠い一面も併せ持つ。
もちろん、J-POP舞踊にも良さはあるが、その良さというものが受け入れ難い、と。
日本人は新しいものを好む性質を持つという考えがあるが、そういう観点からみれば、凛は根っからの日本人気質だといえた。
「あぁ……それなら確かに僕の考えとは少し違うかもな。やっぱり日本舞踊とか箏とかってさ、教えられる人も習っている人も年々高齢化が進んでるわけで、このまま行けば、文化は終息していくと思う。僕はそれは嫌だから、若い人が興味を惹かれるのなら、そのものの風情を壊すものでも、多少今時な要素を取り入れることに関しては肯定的というか」
投げかけられた問いにも凛は焦ることはなく、正確に返す。
いくら家庭内が窮屈で、往来まで日本舞踊をきっかけに傷つくことがあっても。依然として日本舞踊が好きだという事実は変わらなかった。
限らずとも、物心ついたときから間近で見てきた凛にとっては、ただそれを卒なくこなすだけでは飽き足らないのかもしれない。
完成された上で、その中にあるまだ見ぬ新しい可能性に賭けているのである。
「ふうん。じゃあ、J-POP舞踊も結構好きなんだ?」
「そうだな。外部とか若者向けのイベントで結構披露することも多いよ」
カラオケで歌うメジャーな曲から一時爆発的ヒットを巻き起こした曲まで。過去に合わせたJ-POPを思い出しながら言う。
彼からしたら、意見が相違することは不満なのではないか、と不安になるが、そうでもなさそうだ。
気取ったように動かしていた指を静止すると、ようやく顔を上げる。
「つまりは、そういうことなんじゃない。俺たちが自分のことを嫌いで、正反対なお互いに憧れるのって」
見つめ合う瞳が、無垢な色をしていた。
そのきれいさに思い耽るの共に。あどけなさがあるからこそ、すれ違いを引き起こしたのだろう、と考えた。
彼のことをきちんと見ていなかった自分のせいだと自責思考になっているのか。暫くしてから、今度は顔を歪める。
しかし、凛の口から出た言葉は想像とは全く違うものだった。
「へぇ……じゃあ、前言った褒め言葉もやっぱり本心なんだ」
緩む頬を誤魔化すために後ろを向くものの、目の前にある姿見にはばっちりとその顔が写っている。
当然、後ろにいる彼にもその姿が伺えたことであろう。
元から素顔を知る雪花しかいないし、日本舞踊の自主練習をするから。そう気を抜いてマスクをしていなかったことが、痛恨の失敗だ。
「何? ニヤニヤして。気色悪い」
堪えられない笑みを必死に抑える姿が、滑稽に感じたらしい。
顔は引き攣っていて、目にしたものを腫れ物として扱うみたいな濁った目をしている。
「なんか、嬉しいなって」
鏡越しに目を合わせて、自然に微笑む。
一方、彼はというと顔にパッと赤い花火をあげたかと思うと、下へと逸らしてしまった。
自分自身に対して笑いかけられたのは初めてのことだ。三日月型のように細めた目と、艶のある髪を耳にかける淑やかな仕草。
小心者な一面を併せ持つ彼には、少しばかり刺激が強かったのだ。
「まあ……き、気持ちは、わかるかも」
目を逸らし続けながらも、震える小さな声で呟く。
練習をするだけのはずなのに、好きな人と一緒にいることが嬉しくて緊張による熱が引かない。
非日常が日常へと溶け込むことがあれば、日常が特別になることもある。
彼は気持ちを切り替えるために、床から立ち上がろうとした。
「わっ……」
けれども、そのままバランスを崩し、凛の方へと思いっきり倒れ込んだ。
凛は反射的に彼の身体を支えようとしたが、勢い余って尻もちをつき、二人揃って床に寝転んでしまう。
結果、雪花が凛を押し倒すような体制になる。
顔と顔があと数センチのところでぶつかるところまで近付いていた。震えるまぶたや肌の実感も鮮明に見え、相手の吐息が唇に触れる。
世界が音を喪ったように静かになった。
ぽたり、と一滴だけ、彼の滲み出た汗がひとりでに凛の頬へと零す。
真っ白になった頭が落ち着きを取り戻せば、次は心が荒ぶり始めている。二人の頬までもが紅潮し、心音はダイナミックなロックを奏でた。
「ご、ごめん」
かなり長い間、二人は静止していたと思う。
やっと凛の上から退けたが、声があからさまに上擦る。ときめきや喜びよりも今は羞恥心が勝っていた。
自分の照れた顔をあんなにも間近で好きな人に晒してしまったのだから。
「別に。大丈夫」
どう返したらいいのか分からず、素っ気ない態度になる。お互いの吐息の音や肌に触れた汗を思い出しては、再び身体が熱を持つ、そんな状況で。
気まずさに耐え兼ねて「そろそろ解散にしようか」と提案するものの、然程空気を和ますという意味を成していない。
何より、相手の顔もまた赤い、ということが、彼らをどうしようもない感情にさせた。
──近かった、な……。
声に出さないで、凛はそっと囁く。
決して、心の中の声は聴こえなくても、身体に触れたときに心音は彼の耳に届いていたのだろう。
※※※
二人の距離が物理的に縮まったときの余韻に浸っていると、大会の日が訪れるまではあっという間だった。まちに待った都道府県予選。
二回戦、三回戦は順調に勝ち進んだが、四回戦目──すなわち準々決勝では苦戦していた。
相手が前回の大会にて惜しくも代表枠を逃した強豪校ということもあるが、一番の理由としてスタメンである彼の調子があまり良くなかったのだ。
彼は普段から点を決めるよりかは仲間のフォローに回ることの方が多い。それでも、頭が回らずに判断ミスや不本意なファウルをしてしまう。
悪く言えば、仲間の足を引っ張っている。
「セツ、大丈夫? 今日、なんか不調にみえるけど……」
第三クォーターを終え、二分のインターバル中、様子を伺っていた友人が声をかけてきた。
ベンチで身体を休めながら水分補給をしても心は休息を欲するまま。
今の時点で既に十点以上の点差。逆転勝ちの可能性は秘めていても相手の勢いは未だ劣らなかった。
先輩たちにとっては今回が高校最後の試合になるかもしれない。深呼吸をすると共に汗が身体を伝い、木目の床に流れていく。
幾度かのファウルがなければ。
あのとき、部長ではなく、敵のマークがなかった友人にパスをしていれば。
自分のせいでこの瞬間、チームがピンチに陥っているという事実が彼を苦しめる。
「最近色々あったから、精神的な疲労がきてるのかも。考え事してて試合にならなくて……ごめん」
頭の上にタオルを掛けたまま俯きつつも、必死に言葉を絞り出す。
色々というのはもちろん、凛との関係についての話である。単純な色恋だ。
他のチームメイトから見れば、そんなこと、として受け取りたくなるようなこと。中には怒りを抱く人もいると思う。それをよく理解しているからこそ、罪悪感が着々と心に蓄積する。
今まで恋愛を諦めてきた雪花は恋愛への加減を知らない。もし、恋を一から百まで学ぶ教科書があったのなら、どれほどよかっただろう。
「そんなこともあるさ。あとは先輩たちに任せろ」
友人がかける台詞に迷う最中、救いの手を差し伸べたのは部長だった。前に屈みながら、タオルで影になっていた顔を覗き込む。
少しもミスを責めない、暖かな口調。
一度は胸にすとんと落ちてくるが、素直に肯く訳にもいかず、おずおずと部長の目を見る。
「でも、もし負けたら先輩……これが引退試合じゃ」
強豪校より選手層は劣るとはいえ、スタメンにはスタメンとして選ばれるだけの理由があるのだ。
勝つことではなく、せめて点差が開かないように必死になっている状況。
練習試合や地区予選もスタメンが中心に試合を進めてきた。試合慣れをしていないイレギュラーなメンバーに選手権を渡して、試合が好転するとも思えない。
「なあに。先輩の存在が頼りないか?」
「……っ。そういうつもりでは、なくて」
胸に染み入るような酷く優しい声色は、感情を揺さぶる。噛み締めていた唇もひりひりとした。
後輩の背中をそっと押して、常に溌剌さを兼ね備えながらも、時には手を握って引っ張り上げてくれる。
自分たちの先輩が心許ないと言ったら、一体何が頼りになるのか。
勢いのまま弁明してしまうが、三年生の青春に泥を被せるほどの勇気はまだ振り絞ることができなかった。
「お前には来年があるんだし、オレたちが最後だとしても、オレたちが全力で戦った結果なんだからそんなに気に病むなよ。大丈夫、この試合、勝ちに持っていくからさ」
『大丈夫』
という飾り気のない一言。どこか心強いものに思えて、渋々ではあるが、提案を呑む。
インターバルの時間が終了し、仲間たちがコートへと入っていく。気付けば友人がこちらに向かって任せろ、と笑顔でグッドポーズをしていた。
触れていないのに、選手と会場の熱が伝わる。
去年までは自身の先輩との別れを惜しみ、鼻水と涙で顔を濡らしていた部長の背中が。
とても逞しくて。大きくて。そして、どこか遠い存在に感じて。
独りで彼は纔かなエールを贈るばかりだ。
その後の最終クォーター中、試合に出ることはなく、ベンチで仲間の様子を見守っていた。
友人と三年生が中心に点を稼いでいったものの、ひらいた点差を上手く縮めることはできず、トータルスコアは72:63。
瞬間、試合終了のブザー音が鳴り響く。
結果は無惨にも敗北に終わった。
秋の国民大会やウィンターカップなど。
参加資格のある大会は残っているが、受験を控えていることや後輩たちが来年度に向けて力をつけるためにも三年生は引退することに。
次期部長には監督の推薦によって友人が選ばれ、大所帯の部活でスタメンの座を手にしていた彼は副部長になった。
まだまだこれからだというのにも関わらず、彼の心は多大なる喪失感と後悔が占める。
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