君は浴せずして愛し

朽葉

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さくら さくら

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「──ということがあって」

 大会を終え、夏休みが始まってすぐの頃。加藤家の稽古場で、大会について話していた。
 自分から辛い気持ちを吐き出そうと相談した訳でも、凛が問い詰めたわけでもなく。出会いがしらに大会の結果を聞こうと話を振ったことから、必然的に会話の流れができたわけだ。
 黙って話を聞いていたものの、神妙な顔つきをしている彼の目元には隈が目立っていて、これまでかなり悩んでいたのだろう。と、複雑な気持ちを思い、胸が苦しくなる。

「試合に負けたときに、自分が不調だったら自分のせいだと思うよな……」

 寄り添うように、畳に体育座りで丸まる姿を伺う。
 今回のことを経験した当人でない以上、かけることのできる言葉は、心からの共感しかない。
 ただ、どうしても彼のためになりたかった。必死に頭のエンジンを稼働させることで、言葉をひねり出す。

「先輩は気にするなって言ってくれているけど、その優しさが逆に、っていうか。ただでさえ、不調の原因が色恋沙汰だから顔向けできないし」

 断じて先輩の優しさが苦痛なのではないということ、誰かに責任のある出来事ではないということ。
 言葉足らずな彼が本心で抱いている考えが、手に取るように伝わる。
 彼は不器用で繊細ではあるが、他人の気持ちを汲み取れる優しい人だ。
 ならばまた、彼の周りに居る人もきっとあたたかい人柄を持ち合わせているに違いない。
 やがて、一つの考えが浮かび、穏やかな声で話し始める。

「気持ちはわかる。粧くんも片思いしている相手にずっと声かけられなくて、最近ようやく話せるようになったんだっけ? それは浮き足立つのも当然だよ」

 片思いをしている相手と少しだけ話ができるようになったことを以前、会話の中で知った。
 でも、凛にとっては彼の片思いの相手は知らない誰かで。想い人が自分ではない人を想っていると錯覚していても、気遣う言葉を嘘偽りなく言えるくらいには幸せを願っていた。
 傷ついている姿を見ていられず、傷を塞ぐことに一生懸命になる。ただし、痛みを伴う治癒にならないように。震える声色を鎮めながら、息を吐く。

「……ただ、先輩たちが大丈夫だって言ってるのなら、必要以上に咎めないでほしい。粧くんの傷ついている姿をみたら、先輩たちも最後の大会が嫌な思い出として残ってしまうかもしれないから」

 "大丈夫"。たとえ、その言葉が上辺だけのものだとしても、実際に口にしているのならば。先輩たちがそう思いたいだけではなく、彼にそう思っていてほしいということだと思う。
 真剣に目を合わせて、慰めだけの意味を持つ意見ではないことを示すと、納得したのか。静かに頷いた。

「言われてみれば、そうなのかも……」

 それでも、心の窓のガラスは曇ったままで。浮かない表情は晴れない。
 今日は気を紛らわさない限り、恐らく練習にならないことは容易に想像できる。
 何か気分転換になるものがあればいいのだけれど、と思ったとき。頼りになったのは日記の存在だ。

「あのさ、よければ自主練習は少しだけサボって、散歩をしないか? 前に日記にも書いたけれど、家の近くに綺麗な花がたくさん咲いている小道があるんだ」

 学校の帰路に花が咲いている小道があることを、記していたのを思い出したのである。
 あのあとの返信は、匿名と合うか否か色々と悩んでいた時期なこともあり、鮮明には覚えていない。ただ、好意的な反応であったことは間違いなかった。

「あぁ、日記の。ちょっと気になるかも……」

 俯いていた顔があがる。何だか瞳に一筋の柔らかい光がさした気がした。
 微量ながら明るくなった顔色に安堵し、ふわりと口角をあげてしまう。

「決まり。僕に着いてきて」

 彼の手首を引き、軽やかに駆け出す。まるで、オープニングの始まりのような爽快感だ。
 思っていた以上に外は明るくて鮮やかで、自ずと目を細めたくなる。
 でも、そうすることはできない。華奢な背中を追いながらも、姿を目に焼き付けることに必死だったのだから。
 モノクロだと感じた世界は、遥か昔から色を取り戻していて、彼に更なる光彩を与えていた。

 二人で細い道や見慣れた歩道。手を取った瞬間から、およそ五分にも満たない場所で立ち竦む。なぜならその景色が視界に入ったのだから。
 己との乖離に希死念慮を抱くくらい幻想的な世界だ。思わず、言葉を失う。花の甘い香りによって癒やされ、気付けば酔いしれる。
 赤や青、黄色などの原色だけでは見ているものを表現しきることが至難の業で、目いっぱいに全てのいろが広がっていた。
 小鳥の囀りが、人気のない静かな空間により、やけに鮮明に聴こえる。足下において、時を経てすり減った煉瓦が、自然の摂理を物語った。
 その光景を廃れた寂しさだと凛が思った反面、雪花は長年の歴史を重ねた愛だと思考する。

「シーズン毎に地域のボランティアの人が違う花に植え替えてて、いつ来ても花が咲いているんだ」

 マトリカリアの前にしゃがみ、花に語りかけるように話す姿は、天使に思えた。
 一見、自生しているように見えるが、植物の種類が豊富で、デザイン性が重視されていることから、管理が行き届いていることが伺える。
 限りなく、万人が想像するおとぎ話の世界に近い。

「まだ公になっていないこんなに自然豊かなところ、東京でも存在したのか……」

 驚きから目を見開いたことで、大きな目がいっそうきらきらとしている。
 彼はそっと瞳を閉じ、花の香りを嗅ぐ。
 水やりか、朝露か。雫がのった花々はエフェクトを纏ったように輝いていた。
 カスミソウやデイジー、ラベンダーまで。花に詳しくなくてもある程度は名前と見た目が一致するレパートリーに、気持ちは浮かれる。
 今季は薔薇やガーベラなどが旬だが、ここ自体は知る人ぞ知る名所。特にアッシュブルーのスイートピーは名物なことから、この時期に遠くから撮りに来る人もいるらしい。
 気分が落ち込んでいる最中、人がいなかったことは幸いだっただろう。

「小道を、通るときにさ。粧くんは薔薇みたいだよなってよく思うんだ。原色ではなくて、柔らかくて淡い色合いの」

 薔薇の隣に並ぶ彼を脳内で切り取って、自ずと思うことを口にする。
 太陽に照らされて、明るい髪が眩く靡き、木洩れ陽が白い肌に落ちる姿は華やかなものがよく似合う。それは一つの花に限定しない。
 "とりわけ"薔薇は、彼がいつの日か美術館で虜になった西洋の彫刻のようであることを思い出させるのだ。

「……そう? 俺は花みたいに無垢じゃないよ。薔薇なんて、烏滸がましい」

 照れ隠しとも、本当に嫌がっているとも、見当がつかないものの、確かに以前とは違う。
 凛の思うことを否定はしても拒絶はしないことに、胸を撫で下ろす。

「俺にはそう見えるけどな」

 花をじっと眺める瞳が、淋しそうに見えた。
 けれど、自分の価値観を押し殺すことはできずに、追って言葉を告げる。
 その返答に彼は口角一つ動かさないまま、ただ、しばらく目を合わせ真意を問いかけている。

「そんなこと言ったら、加藤くんの方が花っぽいよなって思うけど」

 首をこてん、と。
 小さく傾げて、彼は言った。
 同時に、二人の間に穏やかな風が吹き込み、花びらが宙に舞う。一片ずつ異なる色を持つ、たおやかなシャワーが、彼らへと降り注いだ。
 絵になる美しさに息を呑みながら、口を開く。

「へえ。例えば、どんな?」
「これとか」

 来た道の途中に並んだ、一、二メートルほど離れた植木に駆け寄ると、指を差している。
 回答に迷う様子がない。きっと、この花を最初に見たとき、既に凛のようだ、と思っていたのだろう。

「……んぅ? これは……あ、空木ウツギだ」
「ウツギ?」

 ウツギとは、アジサイ科の落葉低木だ。旧暦の卯月に多くが開花することから『卯の花』と呼ばれることもある。
 純白の小さな花がたくさん集まって木になる姿は、花弁がツツジの形をした背の高いカスミソウのようだと例えるべきか。
 涼しげで清らかなのに、どこか可愛らしさも併せ持つ、可憐な花。褒め慣れていないのもあり、ちょっとばかり耳を赤くさせた。

「そう、ウツギ。花言葉の一つは"秘密"だったかな」

 気持ちを取り繕うように、求めてもいない豆知識を得意気に披露してしまう。
 他にも"古風"や"風情"という言葉があり、意味を知ると、余計に当人の成り立ちに相応しい。
 ところが、彼は思うところがあったらしく「ぅ」と声にならない代わりに喉を鳴らす。

「秘密……加藤くんは、俺に……隠しごと、あるよね」

 空気が時折、髪の毛先を揺らせば、木漏れ日までもが二人のアスファルトに落ちた影を震わせていた。
 足元の落ち葉をつま先でいじるその姿は、どこか彼の不器用さを醸し出していて、それでいて真剣だ。

「え?」

 思わず聞き返すと、彼は視線を上げて、揺れる目で顔の雀斑をなぞらえる。

「ほら。……好きな人のこととか。いつも俺が話してばかりで、そこまで教えてもらっていないし。まあ、昔書いてた日記読んでいれば、少しは分かるけど」

 彼にとって、凛の好きな人が自分ではないことは当然のこと。
 自分は人に好意を抱いてもらえるような優れた人間ではない、という先入観があるからである。
 瞳の奥には揺れる期待と不安が浮かぶ。

「つまり、僕の好きな人のこと知りたいってこと?」

 肩をすくめるようにして軽く笑ったが、声にはどこか探るような響きがある。
 決して、両思いではないとしても。
 表面で触れられない部分に、お互いが抱く本当の想いを慎重に探り合う時間は何だか楽しくて。
 胸の鼓動が、段々と早まっているのを感じた。

「……うん」

 短く答えた声は、花風にさらわれそうなほど弱い。

「耳、貸して」

 視線がそっと逸れる。
 そんな中、目にした彼の横顔。まつげの長さと彫りの深さが鮮明で、思いがけなく見惚れてしまう。
 凛はわずかに顔を近づけると、薄い唇を耳に寄せて囁いた。

「僕が慕っている人は──」

 『やっぱり聞きたくないかも』と。彼は言葉の続きを飲み込むように、一瞬だけ沈黙した。
 答えを聞くとしたら、長い間見てみぬふりをしてきた真実に向き合わなければならないのだから。

 けれど、その緊張感と反して、次の刹那、ふっと笑って小さく言う。

「ふはっ、秘密」

 実際は小悪魔なのかもしれないが、彼の目には愛らしい悪戯っ子のように写っている。
 これほどに心中で悩ませておいて、なんて小賢しい人なのだろう、とは思わずにはいられない。
 それでも、一連の行動は好きな人の愛すべき一部分なのだと答えを導き出せるのだ。

「はあ?」

 遅れて戸惑う声が漏れたとき、不意にポケットの中でスマートフォンが震えた。微力な振動が静寂しじまにくっきりとした輪郭を与える。

「親御さんから?」

 問いかけると、彼は首を横に振った。

「違う……。部長から、電話……」

 一体、何の私用でわざわざこんな時間に電話をかけてきたというのか。
 二人の間に先程とは違う緊張感が走る。

「えっ……そうか。僕のことは気にしないでいいから出て」

 凛がやわらかく背を押すように言うと、躊躇いがちにも頷き、スマートフォンを耳に当てた。

『──もしもし?』

 部活のある日はずっと耳にしていた深みのある低い声。電話だと実際より幾分か落ち着いているようでも、紛れもなく、引退した部長のもので。
 現実を認識し、唇が麻痺してうまく動かない。スマホを持つ手が汗で滑り落ちそうだ。

「大丈夫、僕がいるから」

 今にでも呻き声を漏らしそうなとき、その声は聴こえた。あたたかさに鼻先がツンと痛む。
 ふと、横を見ると、凛が鼓舞するように、こちらの様子を優しく見守っている。

「っもし、もし。あの部長、ですか?」

 胸元を手のひらで握りながら、意を決して問いかけた。声がかすかに震え、呼吸を整えようとしても、喉が強く締まる。
 次に何を告げられるか予測できない怖さにより、どうしようもなく逃げ出したい気分でいっぱいだった。

『ん、そーだよ。もう部長じゃねーけどなあ』

 とはいえ、憧れていた先輩は絶えずかっこいい先輩のまま──何も変わっていない。
 少し気の抜けたような明るい口調に、口元がわずかに緩んだ。

「……あの……俺、すみません。都大会、たくさんミスしちゃって、足も、引っ張って」

 何気なく足元に目を落とす。
 心が落ち着かないことから、つま先とつま先を合わせ、靴を撫でてしまう。
 凛に会うために、背伸びをして買った休日用のオシャレなスニーカーにある些細な土汚れ。それが何故か学校の履き古した運動靴と重なった。

『ぅえっ、謝るなよ。あのとき"大丈夫"って言っただろ』

 声色は底抜けに明るい。でも、その裏には、何か柔らかな気遣いが滲んでいるように感じられる。
 先輩が口癖のように言う"大丈夫"という言葉は、魔法のようだった。試合のときの感情が蘇り、喉の奥がじんわりと熱くなる。

「それは、そうですけど……」

 言い淀む声が、彼自身が情けないと思うほどかすれていた。心に溜まった重さを吐き出すためには『はい、そうですね』と簡単に意見を受け入れることが難しいのだと思う。

『というか電話かけたのさ、オレ心配してたんだよ。 試合が原因で思い詰めてないか、って』

 電話口の向こうでは、バッシュが床を擦る音がかすかに響いていた。
 部長は、引退してもまだ体育館に通っているのだろう。
 知らない誰かも青春を重ねた体育館、汗と木の匂いが染みついた場所。そこでまた、誰もいないゴールにボールを弾ませているのかもしれない。
 日常の音が、今だけ遠く感じる。

「えっと……?」

 何か言おうとしたが、いつものようにうまく言葉にならなかった。頭の中がぐるぐると巡っている。
 言葉にしたいはずの全ての感情が組み合わさらず、再び、喉元で止まったまま、動かない。

『負けたのは粧のせいじゃないよ。相手が強かったのもあるけど、敗北はオレたちの実力不足ってだけ。部員一人が不調なくらいで勝てなくなったのなら、ただオレたちが弱いだけだから』

 まっすぐな言葉に、胸の奥が揺れる。
 他人を想い優しすぎる言動は、いつだって不器用な人を救うのだ。
 どれだけ自分を責めても、結果は変わらない。だがその中で、過去を否定するのではなく、しっかりと受け止めてくれた。

「……先輩たちは、よわくないです」

 たった一言に込めた思いが、拙くても素直であることを電話越しに先輩はきちんと感じ取っている。

『うん。分かってるよ。…………粧……。もしかして、泣いてる? ははっ……泣くなよなあ。退部式のときもいつもみたいな無愛想な顔、してたのに』

 からかうような声に、顔を伏せた。目頭が熱くて、息を整えるのが難しい。
 突如、ウツギのさらりとした花びらが、頬を撫でる。まるで涙を拭うように、やさしく。

「ないて……っないです」

 力強いセリフも懸命な強がりでしかないことを、彼が一番よく理解していた。
 酷く震えながらも嗚咽はまじり、聞き取るのが難しいのである。

『はは、いつもの粧だ。粧はありのままそのままがいいと思うよ』

 同年代の子どもたちと比べて、どこか達観して見えるのも、未来を諦めたような目をしているのも――本当は誰かに助けてほしいのに、『助けなんていらない』『自分で何とかできる』『自分は不幸じゃない』と、思い込もうとしている強がりだ。
 先輩はきっと、それに気づいていた。だからこそ、必死に弱さを隠そうとする姿を見て、『ああ、これは彼だ』と感じたのだろう。
 否定も押しつけもない、ただの肯定。その優しさが、こんなにもあたたかくて、胸にしみて、涙が出そうになるなんて、思ってもいなかった。

『オレな、勝つよりも負けるよりも、今まで一緒にバスケやってきた仲間が、バスケに対して思い出したくないような思い出が残る方が嫌でさ』

 そして、彼の心に直接語りかけるように、更に言葉を続けていく。

『だから今回のこと、辛い思い出として粧の心に残ってほしくないな』

 あの頃、ロードワークで部員たちと遠回りして帰った日を思い出す。疲れで赤らみ汗の滲む額、笑い声、部長の背中。
 今でも鮮明なのに、もう経験することができない青春の儚さだという事実を噛みしめた。

『……お願いだ、謝らないでいいから。あのとき無責任に"大丈夫"って言ったのも、勝ったらかっこいいし、負けたら笑い話になるよなっていう不純な動機だったし』

 先輩は無理に慰めようとしていない。ただ正直に、少しばかり照れくさそうに吐き出された本音。
 苦しみを受け止めてくれる声が、耳の奥でこだまする。

「俺っ、先輩たちに……いやな、思い出、つくってませんか。……悔いを、のこして……しまったんじゃないかと思って」

 今まで吐き出さないまま沈殿していた後悔が、少しずつ言葉になり始めていた。
 歯を噛み締めても、滲み出てくる感情は止まらないようで、呼吸が荒くなっていく。

『あのなあ、生きてて全く悔いの残らないことなんてないだろう。悔しさがあるから、未来で思い返せるんだよ。大人になったときに、あぁ、こんなこともあったな、じゃあ、次はこんなふうにもっと頑張ってみようって』

 言葉の奥に、経験から滲み出る目に見えない温もりがある。ぽつりぽつりと降る雨のように、部長の声を受け止めた。
 悔いがあることを認めるのは怖い。でも、それを責めるどころか未来の糧に変えてくれるような言葉に、心がほぐれていくのだ。

「夜、眠れないんです。みんなは本気で頑張ったのに俺はもっとやれたんだって考えたら、実力出しきれなかったことが申しわけなくて」

 これ以上先輩を困らせるわけにはいかない。そう思っていても、止めどなく溢れてしまう。
 眠れない夜が何度もあった。枕に顔をうずめて、目を閉じても、コートでのあの瞬間、見逃したパス、止められなかったドリブル、全てがフラッシュバックする。やり直したいと願っても、時計の針は戻らなかった。

『──んん……。それはいいことじゃないか? つまり、オレたちに罪悪感抱くくらいには、日頃からバスケで頭いっぱいってことだろ。面倒くさいとか向いてないとか言いながら、いつもしんどいメニューこなして頑張ってたところ見てるからさ。誰も責めちゃいないよ』

 もう限界で、目頭がより熱くなる。
 部長であった先輩は、いつも部員たちのことを見ていてくれていたのか。
 苦しくても弱音を飲み込んで走った日々。なんで自分がこんなことをやっているのだろう、と投げ出したくなるときもあった。最終的に、それがきちんと届いていたのだと思うと、やりがいを感じる。

『少なくともオレはスタメンが、粧でよかったって思ってる。みんな粧のことをただ心配してるから、いっぱい食べていっぱい寝て、調子、ゆっくり取り戻していこうな』

 ここにいる自分が、チームに必要とされていたという事実に。心に温かい灯りをともす。

『もし、来年にさ、試合でミスしたり、実力を出しきれなくなったりした仲間がいたとして。今度は粧が"大丈夫"って言ってあげてよ。痛みも悔しさも一番よくわかってるから、きっと誰かの救けになれる』

 その言葉は、未来への小さな希望の種だった。
 一度失敗した彼だからこそ、何かを返せるかもしれない。誰かの支えになれる日が、きっとくる──そんな風に思わせてくれる。

「……部長、あ、ありがとうございます。俺、部長と同じチームでバスケできて、ほんとうによかったです」

 先輩に最後に伝える想いは、絶対に感謝だということ。一緒のチームになってからすぐに決めていた。
 涙が滲んで、視界がぼやけてしまう。が、口元には自然と微笑みが浮かぶ。
 あのコートの中央で、全力でボールを追っていた日々。そのどれもが、確かに意味を持っていたのだ。

『わっ、最後に嬉しいこと言ってくれるじゃないか。ちょっとでも辛い気持ちがマシになったのならよかった。新部長にもよろしく頼むよ。じゃあそろそろ切るな』
「はい。それでは」

 通話を終えて、そっとスマートフォンを伏せた。ケースに、指先の汗がうっすらと残る。
 指先が少しだけ震えていたが、その顔はどこか晴れやかだ。
 風向きが変わり、新しい色は二人の身体を包み込むように吹き込んでいく。初夏の訪れを知らせるかのような、やわらかく、まっすぐな風だった。

「頑張ったな。自分の気持ち包み隠さず明かせて。すごいな、本当に」

 横にいた凛が、やさしく声をかける。その声に、ようやく顔を上げてくれた。
 ほっとして、先程までの緊張感が嘘のように楽になっている。

「……そうだね。加藤くんが隣にいるって思ったら案外平気だったよ」

 こんなにも欲しい言葉を平然とくれると、勘違いしそうになってしまう。
 目と目があい、凛の瞳が潤んでいることを知っても、彼は何も言わなかった。
 靭やかな指で涙を拭い、態度で気持ちを表す。

「ありがとう、加藤くん」
「ああ。どういたしまして」

 まだ、冷たかった指先を凛は無意識に手のひらで包み込んだ。同時に、二人の間に薄っすらとした熱気が込み上げる。
 手汗がやけに乾いているのに、額はしっとりとしていた。年甲斐もなく唇を噛みしめてしまう。
 なぜなら目の前にある彼の顔が、下心を胸の内に秘めている自分以上に、真っ赤に染まっていたからだ。

 ──僕って、わがままだな。粧くんといるときは、夕日が綺麗な時間がいいなと思っていたのに。今は、彼の顔がよく見える真っ昼間でよかったって思ってる。

 眉間には力が込められ、ぎゅっと皺になっていた。詰まった息が唇の隙間から漏れている。
 君は、どうして、顔を赤くしているんだろう、と。その意味を教えて欲しい、と。
 不甲斐にも疑問は声にはならず、心の中で何度も何度も繰り返し問いかけてしまう。
 一方で、彼は、凛が指に触れてきた訳がわからず、また脳内で戸惑っていた。
 二人は普通の友達だ。挙句には、お互いの恋を応援しなければいけない立場である。
 それなのに。そんなウブな態度を取られると期待してしまうではないか。

 ──血管が白い肌にすけると、きれいだってこと、空が赤いと気付けないと知ってしまったから。

 本当に彼のことを抱きしめてしまう前に。気持ちを抑え、そっと手のひらを解く。
 帰り道はここへ来る前よりも、空気が青く、澄んで感じられた。

 この夏、二人は親友のまま。本当の想いを飲み込みながら、変わりない練習を続けることになる。
 夢にも思わなかった、二人きりの時間。こんなにも気持ちが揺れるものだなんて、知らなかった。
 顔を合わせるたび、ほんの少しずつ、心の距離が縮まっていき、気づけば、ただの親友とは違う、恋人として隣にいたいと思うのだ。

 どうしようもなく、気持ちは募っていく。
 以前は、見ていられるだけで充分だったはずなのに――いつの間にか、「それだけじゃ足りない」と贅沢を望みたくなってしまう。

 ──君といると、どうしても"これ以上"を望んでしまう。

 そんな願いさえ、今では大切な感情のひとつだと考えられる。
 たとえ、叶わなくても。それでも、この想いを伝えたい。
 もう、黙っていられるほど二人の抱いたものは小さな気持ちではない。

 静かに、でも確かに。文化祭の日が近づいていた。
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