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或いは夢のようなはじまり
19 夜のひととき
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夕食を終え、コーヒーをすする直樹と香月。
マンホール事件のショックは、空腹を満たすことによって回復してきている……と思いたい直樹だった。
そう考えてしまう事自体、直樹が引き摺っている事の顕れではあるのだが、香月の様子を見る限りでは大丈夫そうにも見える。
『遊園地のアトラクションだと思えば、どうって事はなかったかな。結果的に怪我なんかもしてないんだし』
そう笑い飛ばした香月の言葉を信じてみようと直樹は思った。
どこかから、犬の遠吠えが聞こえてきていた。
(なんとも間の悪い……)
直樹は、自分の表情が憮然としてゆくのを自覚していた。
香月の住むマンションが見舞われた爆発事故。どうしてもその出来事を想起してしまうからだ。
香月自身は平気な顔をしているが、それは表面を取り繕っているだけかもしれないし、直樹自身もあんな寿命が縮む経験は何度もしたいものではない。
「どしたのー?」
明らかな嫌悪感を滲ませている表情を見られまいと顔の向きを変えた直樹だったが、その行為そのものが香月には不自然に見えたらしい。
少しだけ心配そうに顔を覗き込まれ、答えに窮する。
「ん……あー、いや、宿題はあったかなーと思ってな」
顎を指先で軽く掻いた。
「……うん、なかったなかった。次の授業で当てられそうだってのを勘違いしてた」
苦しい言い訳だとは思ったが、香月はそれ以上は突っ込んでこなかった。
納得したか、それとも掘り返す事の無意味さを悟ったか。
「…っと。コーヒー淹れ直すよ?」
香月は冷めてしまった残りのコーヒーをひと息に呷ると、二人分のカップを手にしてキッチンへと立った。
(……ふむ)
鼻歌でも歌っているのか、リズムを刻むように小さく腰を振る後ろ姿を見ながら、直樹はひと呼吸置く。
会話の主導は常に香月が握っている。直樹としては一緒に居られれば満足なので、会話の際には聞き手に回る事が圧倒的に多い。
こうして香月からの発信が途切れた時にでも、直樹から話題を振れれば良いのだが。
直樹が香月を想っている事は周囲の者だけでなく本人も知っている筈なのだが、それでも言動に表さねばいけないだろうかと考えてしまう。
「はい、お待たせー」
思索が深くなる前に、香月が戻ってくる。
インスタントコーヒーの手早さは便利ではあるが、たまには物思いにふける時間も必要なのだろうかと思わなくもない。
「よいしょっと」
今し方まで対面するソファに座っていた香月だったが、カップをテーブルに置くと直樹の脚の間に腰を沈めてきた。
当然のように香月のスペースは狭く、もっと深く腰掛けろと背をぐいぐいと押してくる。
「おいおい……」
どうしたものかと逡巡している間に、香月はすっかり居場所を確保してしまった。
「遠吠え、聞こえるね」
しくり、と胸が痛んだ。
口を動かしている間は気に留めなかったかもしれないが、遠吠えは断続的に聞こえ続けている。
学校でも、多くの生徒や教師が薄気味悪いものとして捉えていた遠吠えの連鎖だ。直樹同様、香月も当然のように心に波立つものを感じていたのだ。
「…大丈夫だ」
いったい何が大丈夫なのか。口数の足りない自身を叱責しながらも、直樹は香月を抱きしめた。
「私ね……」
自分を包む腕に触れながら、香月は言葉を繋ぐ。
「直兄ぃの事、大好きよ。だから、守ってね」
香月は時折、直樹を「直兄ぃ」と呼ぶ癖がある。余計な事を考えていない時などに、呼び名に幼さが混じってしまう。マンション爆発の折も、そう呼んだりもしたなと思い出す。
ああ、と喉の奥で呟き、両腕に力を込める。
「結婚するまで、大切にしてよね」
どこか面白がるように香月が笑う。真面目なノリは苦手な香月らしく、軽口が叩けるレベルにまで持っていきたいのだ。
「なんだ、結婚したら大切にしなくていいのか?」
香月の意図を察し、直樹も応える。言葉尻をつまんでは、茶化すように声のトーンを軽くする。
「結婚したら、私が直樹を尻に敷くもの」
ひょいと直樹の中から抜け出し、香月が振り返った。丈の短いスカートがふわりと舞い、健康的な脚が眩しく映る。
(今も大差ない気がするけどなぁ)
さすがにその言葉は呑み込んだ。
「それじゃ、今日は寝るね。おやすみっ!」
そのままひらりと、リビングを後にする香月。
急速に密着度が高まったかと思えば、結局は香月の気分屋ぶりに掻き回されている感ばかりが残る。
「……いけないいけない」
自分も早々に寝るべきかと考え始めると、不意に香月が戻ってきた。
そういえば、コーヒーカップをテーブルの上に放置したままであったと思い至る。
自分で片付けねば、翌朝になってもこのままの状態だ。後片付けは自分自身で。新條家における基本的なルールである。
「直兄ぃ!」
だが香月は、コーヒーカップには目もくれずに直樹へと詰め寄った。
ソファに腰を沈めたままの直樹の両肩に体重を掛けたかと思うと、その鼻先に軽く唇を触れさせた。
「ま、また明日ねっ!」
直樹と視線を合わせようともせず、香月はまたしても背を向ける。
「………」
まだまだ香月には振り回されそうだと、直樹は改めて嘆息した。
マンホール事件のショックは、空腹を満たすことによって回復してきている……と思いたい直樹だった。
そう考えてしまう事自体、直樹が引き摺っている事の顕れではあるのだが、香月の様子を見る限りでは大丈夫そうにも見える。
『遊園地のアトラクションだと思えば、どうって事はなかったかな。結果的に怪我なんかもしてないんだし』
そう笑い飛ばした香月の言葉を信じてみようと直樹は思った。
どこかから、犬の遠吠えが聞こえてきていた。
(なんとも間の悪い……)
直樹は、自分の表情が憮然としてゆくのを自覚していた。
香月の住むマンションが見舞われた爆発事故。どうしてもその出来事を想起してしまうからだ。
香月自身は平気な顔をしているが、それは表面を取り繕っているだけかもしれないし、直樹自身もあんな寿命が縮む経験は何度もしたいものではない。
「どしたのー?」
明らかな嫌悪感を滲ませている表情を見られまいと顔の向きを変えた直樹だったが、その行為そのものが香月には不自然に見えたらしい。
少しだけ心配そうに顔を覗き込まれ、答えに窮する。
「ん……あー、いや、宿題はあったかなーと思ってな」
顎を指先で軽く掻いた。
「……うん、なかったなかった。次の授業で当てられそうだってのを勘違いしてた」
苦しい言い訳だとは思ったが、香月はそれ以上は突っ込んでこなかった。
納得したか、それとも掘り返す事の無意味さを悟ったか。
「…っと。コーヒー淹れ直すよ?」
香月は冷めてしまった残りのコーヒーをひと息に呷ると、二人分のカップを手にしてキッチンへと立った。
(……ふむ)
鼻歌でも歌っているのか、リズムを刻むように小さく腰を振る後ろ姿を見ながら、直樹はひと呼吸置く。
会話の主導は常に香月が握っている。直樹としては一緒に居られれば満足なので、会話の際には聞き手に回る事が圧倒的に多い。
こうして香月からの発信が途切れた時にでも、直樹から話題を振れれば良いのだが。
直樹が香月を想っている事は周囲の者だけでなく本人も知っている筈なのだが、それでも言動に表さねばいけないだろうかと考えてしまう。
「はい、お待たせー」
思索が深くなる前に、香月が戻ってくる。
インスタントコーヒーの手早さは便利ではあるが、たまには物思いにふける時間も必要なのだろうかと思わなくもない。
「よいしょっと」
今し方まで対面するソファに座っていた香月だったが、カップをテーブルに置くと直樹の脚の間に腰を沈めてきた。
当然のように香月のスペースは狭く、もっと深く腰掛けろと背をぐいぐいと押してくる。
「おいおい……」
どうしたものかと逡巡している間に、香月はすっかり居場所を確保してしまった。
「遠吠え、聞こえるね」
しくり、と胸が痛んだ。
口を動かしている間は気に留めなかったかもしれないが、遠吠えは断続的に聞こえ続けている。
学校でも、多くの生徒や教師が薄気味悪いものとして捉えていた遠吠えの連鎖だ。直樹同様、香月も当然のように心に波立つものを感じていたのだ。
「…大丈夫だ」
いったい何が大丈夫なのか。口数の足りない自身を叱責しながらも、直樹は香月を抱きしめた。
「私ね……」
自分を包む腕に触れながら、香月は言葉を繋ぐ。
「直兄ぃの事、大好きよ。だから、守ってね」
香月は時折、直樹を「直兄ぃ」と呼ぶ癖がある。余計な事を考えていない時などに、呼び名に幼さが混じってしまう。マンション爆発の折も、そう呼んだりもしたなと思い出す。
ああ、と喉の奥で呟き、両腕に力を込める。
「結婚するまで、大切にしてよね」
どこか面白がるように香月が笑う。真面目なノリは苦手な香月らしく、軽口が叩けるレベルにまで持っていきたいのだ。
「なんだ、結婚したら大切にしなくていいのか?」
香月の意図を察し、直樹も応える。言葉尻をつまんでは、茶化すように声のトーンを軽くする。
「結婚したら、私が直樹を尻に敷くもの」
ひょいと直樹の中から抜け出し、香月が振り返った。丈の短いスカートがふわりと舞い、健康的な脚が眩しく映る。
(今も大差ない気がするけどなぁ)
さすがにその言葉は呑み込んだ。
「それじゃ、今日は寝るね。おやすみっ!」
そのままひらりと、リビングを後にする香月。
急速に密着度が高まったかと思えば、結局は香月の気分屋ぶりに掻き回されている感ばかりが残る。
「……いけないいけない」
自分も早々に寝るべきかと考え始めると、不意に香月が戻ってきた。
そういえば、コーヒーカップをテーブルの上に放置したままであったと思い至る。
自分で片付けねば、翌朝になってもこのままの状態だ。後片付けは自分自身で。新條家における基本的なルールである。
「直兄ぃ!」
だが香月は、コーヒーカップには目もくれずに直樹へと詰め寄った。
ソファに腰を沈めたままの直樹の両肩に体重を掛けたかと思うと、その鼻先に軽く唇を触れさせた。
「ま、また明日ねっ!」
直樹と視線を合わせようともせず、香月はまたしても背を向ける。
「………」
まだまだ香月には振り回されそうだと、直樹は改めて嘆息した。
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