群青の緋

竜田彦十郎

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或いは夢のようなはじまり

51 香月の秘密

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(だったわね…って、見ていたのか?)

「――って、見ていたんなら助けなさいよ! 直樹なんて死ぬところだったのよ!?」

 直樹と同じ事に思い至った香月が吠えた。
 二人とも大きな怪我こそ負ってはいない。
 しかしそれは結果論であり、生きた心地のしなかった香月からしてみれば、吠えずにはいられないというものだ。
 直樹自身は愉しんでいたという自覚もあるので抗議するような真似はしないが、香月の反応は至って普通のものであろう。

(しかし、それよりも……)

 直樹には気掛かりな事があった。
 直樹からしてみれば、鵺がどうこうよりも重要性は遥かに高い。

「……?」

 直樹の心中など気付かずに直情的に喚き立てる香月を前に、黒髪の少女は本当に意味がわからないとばかりに首を傾げた。

「だって、完璧なアドバイザーが居たんですもの。指示が飛ばせている間は横槍なんか入れないわよ。ねぇ?」

 黒髪を優雅に揺らし、少女の瞳が意味ありげに香月を射抜く。

「な…ななっ、なんの事っ、かしらっ!?」

 香月の言動はあまりに分かりやすいものだった。びくりと肩を震わせ、露骨に少女から視線を逸らす。
 そんな受け答えで誤魔化される者などいないだろう。
 ましてや少女には目星がついている事のようであり、香月を見逃す気など欠片もないと瞳が語っている。

「な…直樹ぃ……」

 少女の鉄の意志を感じ取ったのだろう。香月は縋るように直樹に視線を向けた。
 しかし、香月を真っ直ぐに見返す瞳は彼女が望むようなものではなかった。

「………」

 無言で香月を見る直樹の心中では、葛藤が大きく渦巻いていた。
 本来であれば、直樹は無条件で香月を護る位置に立つ。

 例え香月に非があろうとも、先ずは香月の側に立つ。
 香月は特筆できるほどに賢くはないが、分別のつかない愚者ではない。
 一時の気の迷いで悪い事をしてしまったのだとしても、それを認める勇気を持っている。
 それを知る直樹は、香月がまっすぐ生きてゆくためにも彼女の味方で在り続けると自身に誓いを立てているのだ。

 そんな直樹が距離を置くようにして立ち尽くしているという事実は、香月にとって衝撃的であった。

「香月――」

 直樹自身、不可解で仕方がないのだ。
 香月のアドバイスが直樹の命を救った事は、他ならぬ直樹自身が理解している。
 だからこそ、どうして香月がそんな行動を成し得たのか、知らねばならない。
 これを有耶無耶にしてしまう事は、香月の未来に間違いなく影を落とす。そんな確信にも似た思いが直樹の裡に生じていた。

(…………)

 直樹の杞憂を察した香月は、自身が孤立した状態であると認めざるを得なかった。
 それはそれで仕方ないのだろうとも思う。
 香月の取った行動は自身で考えてみても常軌を逸したものであり、己が身に起きている事を理解できていない状態で誰かに庇って貰おうなど、虫がいいにも程がある。

「あ…あれ――?」

 香月の身体がふらついた。
 自覚はなかったが、極度の緊張がもたらした疲労に身体が悲鳴を上げてしまったのだ。
 自身の手足が思うように動かず、直立した姿勢のまま視界が傾く――

「――すまない」

 重力に身を任せるしかなかった香月を抱き止めたのは直樹だった。
 手を伸ばせば届く位置ではなかった筈だが、動いた気配を感じさせなかったのは香月の身に生じた微細な変化に気付いたからだろう。

「直樹……」

「落ち着いていい。色々と聞きたい事はあるが、誰も香月を傷付けたりはしない。そんな事はさせない」

 焦るあまりに香月の精神状態を慮る事を失念していた直樹は、落ち着かせるようにゆったりと抱きしめた。
 直樹の通常運転を感じ取った香月は、目を閉じるとゆっくりと深呼吸を重ねた。
 改めて香月の全身を震えが襲うが、直樹の抱擁がそれらを静かに取り除いてゆく。

 ほんの数分だったろうか、それとも十数分は経っていたろうか。香月は自身の足で立てるまでに回復すると、ゆっくりと直樹から背を離した。

(…ありがと)

 口の中で呟いただけだったが、その意はきちんと伝わったようで直樹は静かな笑顔で返した。

「…さて、いいかな」

 組んでいた腕を解き、玲怏が香月に歩み寄った。
 少女は玲怏の後ろで静かに黒髪を揺らしている。玲怏に先陣を切らした上で追撃をかけるつもりなのかどうか、その顔色からは窺い知れない。
 しかし、香月が落ち着くまで口を差し挟まずに待っていた姿勢を直樹は評価していた。

 その思惑が何処にあるのかは聞いてみたところで答えるとも思っていないが、手荒な真似がしたい訳ではないのだという事は理解できた。
 唯々諾々と従うつもりもないが、香月の意思に反するような暴挙に及ばない限りは静観しようと直樹は肚を決めた。

「うん……。でも、その……」

 問い掛けられた香月は、僅かに俯いた。
 知っている事は何でも答えようと決めたものの、何から話したものかと言い淀んでしまう。

 勿体ぶっているつもりはないものの、相手が望んでいるだろう言葉が何も出てこない事に対して焦りがじわじわと滲み出てくる。

「…待て」

 そんな挙動をどう感じたのか、玲怏は掌を翳すようにして香月の言葉を遮った。

「そうだな……」

 質問の切り口を変える事にしたのか、玲怏は翳していた掌をくるりと回すと香月に向けて差し出した。

「まず、校門で渡した物を返してもらおうか」

「え――?」

 何を言われたのか理解できなかった訳ではない。
 校門で渡された物といえば、例の巾着だ。
 あの場では御守りだとも言っていたし、鵺の驚異が去った今、返却を求められるのもおかしな話ではない。

(でも、どうして今なのかな…?)

 それなりに大事な物を借り受けたという認識はあるものの、こうもすぐに要求されるとは思わなかった。
 スカートのポケットに右手を差し込み、中に収めていた小さな巾着袋を握りしめた。

 受け取った時よりも草臥れた感触が返ってきたが、校舎内をあれだけ動き回ったのだと考えれば致し方ないところだろう。

「はい―――って、え!?」

 差し出し、開いた自身の手を見た香月は驚愕に固まった。

 己の掌に確かに巾着は収まっていたが、美しかった錦はすっかり色褪せてしまっていた。
 ポケットの布地と擦れて金糸や銀糸の輝きが薄れた……などというものではない。
 何十年と放置したならば、こうなるかもしれない―――
 色素がすっかり抜け落ち灰色の濃淡のみになってしまった巾着は、風化という言葉が似合いの代物へと成り果てていた。

「……ふむ」

 呆然とする香月の掌中に視線を落としながら、玲怏は小さく鼻息を漏らす。

「当たり――だな」
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