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はじまり
001 はじまりの、はじまり
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必死だった。
一生懸命。そう形容できる事ならば、これまでにも幾度となくその機会はあった。
体育祭、水泳大会、マラソン大会――どれも学内行事程度のものではあるが。
声高に自慢する程の事でもなかったが、足の速さはそれなりに自信があった。
学年内では常にトップクラス、帰宅部所属を貫いているせいで公の大会に名を連ねるような事こそなかったが、部に所属して練習に取り組めば全国だって夢ではない――既に顔も名前も思い出せない中学校の陸上部顧問は熱心にそう語っていた。
なぜそうしなかったのか。
答えは単純、面倒臭かったからだ。
身体を動かす事は好きだったが、それは常に遊びの延長だった。
飽きっぽい性格だという自覚はなかったが、何かひとつの事に集中して打ち込むという自身の姿は想像できなかった。やっぱり飽きっぽかったのかも。
たしかに、陸上部のマネージャーだった下級生は掛け値なしに可愛かった。既に意中の女性がいなければ、彼女の懇願に負けて部活動に勤しんでいたかもしれない。
しかし、結果的にそうはしなかった自分が、今まさに、必死に足を動かしていた。
必死。そう、必死にだ。
一生懸命などという、頑張れば許されるという甘えは一切存在しない姿勢。
だが、意識だけは先へ進もうとしているのに目の前の風景は遅々として後ろへは流れていかず、むしろ身体は後退しているかのような錯覚が全身を圧し包む。
それほどまでに背後から迫ってくる存在感が強いという事なのだろうか。
一度でもマイナス思考に陥ると、得体の知れない恐怖に身体が凍り付きそうになる。
後ろから飛ぶような速さで追ってくる『それ』は決して自らの意思によって自分を狙っている訳ではない。
そうだと理解しているのに、『それ』から離れようと必死に足を動かしているのだ。
横に移動すればすんなりと避けられるかもしれない。地に伏せれば頭上にやり過ごせるかもしれない。動かずとも『それ』の進路に自分の身体は含まれていないのかもしれない。
いくつもの可能性が脳裏を過るが、そのどれもの実行を身体が拒否していた。
恐怖に駆られた肉体が本能に従って疾走する。生物が持つ本能の前では、思考だとか理性だとか、すべてが机上の空論に過ぎなくなる。
どれだけ駆ければ安全なのか。どこまで駆ければ安息を迎えられるのか。それは結果を迎えるまで分からない。
次第に息苦しくなってくる。準備も何もない突然の無酸素運動に、早くも肉体が酸欠を訴えているのだ。
そして視界が光に覆われるようにぼやけてくる。
それでも耳に届く『それ』の風切音は止む気配すらない。むしろ時間の経過と共にはっきりと聞こえてくる。
いっその事、足をもつれさせて転倒してしまえれば楽になれるのに。だが既に脳は身体の支配権を失している。
なぜ。どうして。オレが。こんなに。くるしい。つかれた。ダメだ。まだ。もっと。ふざけろ。あのヤロー。ひみ。もういちど。だから。バカ。
思いつく限りの悪態を吐いてみたつもりだったが、視界同様に霞がかった思考では意味不明な単語の羅列になるばかりだった。
そしてその瞬間が訪れた。
突然に左の脇腹に刺さった、突き抜けるような感覚。
それは脇腹を中心に瞬時に全身に広がり、五体が弾け飛ぶのではないかという程の衝撃を受けた。
「が――っ!」
自分自身が発した筈の叫びがまるで知らない生き物の声にも聞こえて、圭は意識を暗転させた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
(……よう、気分はどうだ?)
何者かの声が意識を揺り動かした。
――なんか、最悪だ。
頭を振り、圭はともかくそう答えた。答えてから疑問に思う。今の声は、誰だ?
知らない声。姿も見えない。見えないといえば自分自身の手足すらも視界に映らない。
眩しくこそないが、白で埋め尽くされた世界。
視線を彷徨わせてみても何の変化も認められず、己の眼球が正常に働いているのかさえ疑わしくなる。
――なんだ、夢か。
直感的にそう悟ったが……悟ってみたものの、次に何をすれば良いのか。
もちろん、何をする必要もないのかもしれないが、夢の中だからといって漫然とするばかりなのも不毛な気がした。
せめて夢など見ない程に深い眠りに入っていれば、そんな事に頭を悩ませる事もないのに。
まさかとは思うが、ここは夢ではなく、死後の世界だったりしないだろうか。
(死んではいない。厳密に言えば夢とも違うけどな)
はっはっは、と棒読みのような笑い声。
これで笑っているつもりならば、とんだ大根役者だ。
――さっきから、誰なんだ…?
改めて考えてみるものの、やはり記憶の中に合致する声の主はいない。
その展開は突飛なものばかりである夢の中とはいえ、姿形だけでも見せてくれない事にはどう身構えれば良いものか。
(まぁ、俺の事は追々でいいさ。とりあえず起きたらどうだ)
淡々と声が響く。男性であるのは間違いないようだが、どうにも自己主張の薄い人物設定のようだ。
――ああ、夢だもんな。俺、寝ているんだよな。
『楽しくないとつまらない』くらいに当然の事に思い至る。
そう、特にする事がない以上、夢の中で漂い続けてみたところで無為でしかない。
男の声に従うようにゆっくりと目蓋を閉じるイメージ。
白かった世界は徐々に闇に包まれ、意識がゆるやかに浮上してゆくのを感じた。
一生懸命。そう形容できる事ならば、これまでにも幾度となくその機会はあった。
体育祭、水泳大会、マラソン大会――どれも学内行事程度のものではあるが。
声高に自慢する程の事でもなかったが、足の速さはそれなりに自信があった。
学年内では常にトップクラス、帰宅部所属を貫いているせいで公の大会に名を連ねるような事こそなかったが、部に所属して練習に取り組めば全国だって夢ではない――既に顔も名前も思い出せない中学校の陸上部顧問は熱心にそう語っていた。
なぜそうしなかったのか。
答えは単純、面倒臭かったからだ。
身体を動かす事は好きだったが、それは常に遊びの延長だった。
飽きっぽい性格だという自覚はなかったが、何かひとつの事に集中して打ち込むという自身の姿は想像できなかった。やっぱり飽きっぽかったのかも。
たしかに、陸上部のマネージャーだった下級生は掛け値なしに可愛かった。既に意中の女性がいなければ、彼女の懇願に負けて部活動に勤しんでいたかもしれない。
しかし、結果的にそうはしなかった自分が、今まさに、必死に足を動かしていた。
必死。そう、必死にだ。
一生懸命などという、頑張れば許されるという甘えは一切存在しない姿勢。
だが、意識だけは先へ進もうとしているのに目の前の風景は遅々として後ろへは流れていかず、むしろ身体は後退しているかのような錯覚が全身を圧し包む。
それほどまでに背後から迫ってくる存在感が強いという事なのだろうか。
一度でもマイナス思考に陥ると、得体の知れない恐怖に身体が凍り付きそうになる。
後ろから飛ぶような速さで追ってくる『それ』は決して自らの意思によって自分を狙っている訳ではない。
そうだと理解しているのに、『それ』から離れようと必死に足を動かしているのだ。
横に移動すればすんなりと避けられるかもしれない。地に伏せれば頭上にやり過ごせるかもしれない。動かずとも『それ』の進路に自分の身体は含まれていないのかもしれない。
いくつもの可能性が脳裏を過るが、そのどれもの実行を身体が拒否していた。
恐怖に駆られた肉体が本能に従って疾走する。生物が持つ本能の前では、思考だとか理性だとか、すべてが机上の空論に過ぎなくなる。
どれだけ駆ければ安全なのか。どこまで駆ければ安息を迎えられるのか。それは結果を迎えるまで分からない。
次第に息苦しくなってくる。準備も何もない突然の無酸素運動に、早くも肉体が酸欠を訴えているのだ。
そして視界が光に覆われるようにぼやけてくる。
それでも耳に届く『それ』の風切音は止む気配すらない。むしろ時間の経過と共にはっきりと聞こえてくる。
いっその事、足をもつれさせて転倒してしまえれば楽になれるのに。だが既に脳は身体の支配権を失している。
なぜ。どうして。オレが。こんなに。くるしい。つかれた。ダメだ。まだ。もっと。ふざけろ。あのヤロー。ひみ。もういちど。だから。バカ。
思いつく限りの悪態を吐いてみたつもりだったが、視界同様に霞がかった思考では意味不明な単語の羅列になるばかりだった。
そしてその瞬間が訪れた。
突然に左の脇腹に刺さった、突き抜けるような感覚。
それは脇腹を中心に瞬時に全身に広がり、五体が弾け飛ぶのではないかという程の衝撃を受けた。
「が――っ!」
自分自身が発した筈の叫びがまるで知らない生き物の声にも聞こえて、圭は意識を暗転させた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
(……よう、気分はどうだ?)
何者かの声が意識を揺り動かした。
――なんか、最悪だ。
頭を振り、圭はともかくそう答えた。答えてから疑問に思う。今の声は、誰だ?
知らない声。姿も見えない。見えないといえば自分自身の手足すらも視界に映らない。
眩しくこそないが、白で埋め尽くされた世界。
視線を彷徨わせてみても何の変化も認められず、己の眼球が正常に働いているのかさえ疑わしくなる。
――なんだ、夢か。
直感的にそう悟ったが……悟ってみたものの、次に何をすれば良いのか。
もちろん、何をする必要もないのかもしれないが、夢の中だからといって漫然とするばかりなのも不毛な気がした。
せめて夢など見ない程に深い眠りに入っていれば、そんな事に頭を悩ませる事もないのに。
まさかとは思うが、ここは夢ではなく、死後の世界だったりしないだろうか。
(死んではいない。厳密に言えば夢とも違うけどな)
はっはっは、と棒読みのような笑い声。
これで笑っているつもりならば、とんだ大根役者だ。
――さっきから、誰なんだ…?
改めて考えてみるものの、やはり記憶の中に合致する声の主はいない。
その展開は突飛なものばかりである夢の中とはいえ、姿形だけでも見せてくれない事にはどう身構えれば良いものか。
(まぁ、俺の事は追々でいいさ。とりあえず起きたらどうだ)
淡々と声が響く。男性であるのは間違いないようだが、どうにも自己主張の薄い人物設定のようだ。
――ああ、夢だもんな。俺、寝ているんだよな。
『楽しくないとつまらない』くらいに当然の事に思い至る。
そう、特にする事がない以上、夢の中で漂い続けてみたところで無為でしかない。
男の声に従うようにゆっくりと目蓋を閉じるイメージ。
白かった世界は徐々に闇に包まれ、意識がゆるやかに浮上してゆくのを感じた。
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