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はじまり
002 病院にて
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重い目蓋を押し開いた。
目覚めたばかりでぼんやりと滲む世界を瞳に映しながらも、気分は悪くなかった。
夢を知覚した時の目覚めは睡眠不足を感じるばかりだった経験からすれば、不思議な程に頭の中は冴えていた。それに、夢の中での出来事を鮮明に覚えているというのも珍しい。
視界の滲みが消えゆくのと入れ替わりに目にしたのは白い天井だった。
仰向けになって寝ていたのだから天井を見上げているのは当然なのだが、まるで見覚えのない天井が圭に違和感を覚えさせた。
そしてひとつの違いを認識すると、身体で感じるものの全てがおかしい事に気付く。
自分の身体を覆っている布団の感触が違う。部屋全体に漂う空気の匂いが違う。そして耳に届くゆるやかな喧噪も耳慣れないものだ。
そう、ここは自室ではないどこか。どうして自分はこんな所で寝ている?
「…はい。わかりました」
聞き覚えのある女性の声が圭の耳朶に触れた。
くぐもって聞こえてくるのは遮蔽物があるからだろうか。枕の上で首を軽く捻ると天井と同じく白いカーテンが視界を遮っており、薄いレース地の向こうに立つ人影が見て取れた。
(…病院、か)
周囲の状況から自ずと答えは導き出された。病院の一室で寝かされているのだ。
頭上の壁を除く三方にカーテンが垂れ下がっており、視界を防ぐという状況から、複数の患者を収容する大部屋であると推察がつく。ベッドが何床ある部屋かは想像するしかなかったが、他に患者が居るような気配は感じられなかった。
そして思い出す。どうして自分がここに運び込まれたのか。
(…そうだ。巻き込まれたんだ)
突如として発生した凄惨な出来事。事故ではなく、あれは事件だ。明日の朝刊を待つまでもなく、昼と夜の報道番組のトップを飾れるだけの内容だ。
通学途中に居合わせてしまった自分は、不運にもそれに巻き込まれてしまったのだ。
「――ありがとうございました」
レース地に透けた人影が深々とお辞儀をした。そして遠ざかってゆくサンダル履きの足音。体重のありそうな足音の主は圭を診た医師のものだろう。
そして残された人物は頭を上げるとカーテンの隙間にその細い指先を差し入れてきた。
「おはよう、緋美姉」
カーテンを開く挙動を見ていた圭は、その相手と視線が重なるよりも早く声を掛けた。
「圭くん。心配したんだから」
医師と話している間に圭が目覚めた事には気付いていたのだろう。カーテンを捲ると同時に投げかけられた声に驚く事もなく、緋美姉と呼ばれた女性――鴫澤緋美佳はベッド脇にあるパイプ椅子に腰を下ろした。微かに錆の浮いた蝶番が小さく軋み、艶やかな黒髪が何かを語りたそうに揺れた。
半身を起こした圭の顔を覗き込むように、緋美佳がベッドに身を乗り出した。髪と同じく濃い墨色の瞳に、圭の顔が大きく映し込まれる。
「顔色は……悪くはないわね」
前髪を優しくさらい、頬を撫でる体温の低い指先に圭の心音が高鳴る。
圭と学年はひとつしか違わない筈なのだが、緋美佳は端的に言えば大人びていた。それはきっと彼女の家の事情に因るところが大きいのだろうが、圭にはそんな事はどうでもよかった。
緋美佳が見舞いに来てくれた、自分を心配してくれているというだけで舞い上がりそうに嬉しかった。
家が隣同士だった事から、なにかにつけて面倒を見てくれた姉のような存在。セーラー服に袖を通す頃から日を追うごとに美しくなる彼女を想う気持ちが恋だという事に気付くのに、さほど多くの時間は要さなかった。
(でも……フられちゃったんだよなぁ)
自分が告白を決心する以前より、緋美佳は幾度となく告白を受けていたというのは周知の事実だった。
同級生であったり上級生であったり。本人は否定していたが、年若い教師からも想いを打ち明けられたというのは校内では有名な話だ。
それほどまでに彼女の美しさは誰もが知るところとなっていたのだが、その誰に対しても緋美佳が色好い返答をしなかったという事も同じように知られていた。
緋美佳が特定の異性と親しくしているという姿は、圭にしてみても見た事はなかった。強いて言えば一番近しかったのは圭自身であったくらいだ。
もしかして緋美佳が好意を寄せている相手は自分なのでは。自惚れる程に自信家ではなかったが、状況はそう思わせるに十分な条件を満たしていた。
結局のところ、緋美佳は誰に対しても分け隔てなく優しく、幼馴染みであった圭を弟のように見ていたというだけの事だったのだ。本人に他意はなくとも男の方が勝手に勘違いをしてしまう、そんな見本のような話。
それでもこうして見舞いに時間を割いてくれる事に、どうしようもない嬉しさを感じずにはいられない。
「ごめん。心配かけちゃったかな」
苦笑いを浮かべてみせる。緋美佳と二人きりのこの瞬間が長く続けばいいと思いつつも、どうにも気の利いた言葉が出てこない。
告白の末に玉砕を喫した相手に、気まずさのような苦味が喉の奥に残っているのは気のせいではないだろう。
「…ううん。あんな事件に巻き込まれちゃったんだもの。大きな怪我がなくて何よりだわ」
柔らかく微笑み、緋美佳は身体を離す。
「お医者様はこのまま帰っても問題ないって仰っていたけれど、念のために検査入院してもいいのよ?」
「…いや、帰るよ。検査だなんて面倒臭いだけだし」
身体を捻るようにして自身の身体に触れてみる。気を失う直前に感じた衝撃は凄まじかったが、今こうして手を這わせてみても異常はどこにも感じられない。
強いて言えば脇腹に疼くような痛みがあるくらいか。数日は痣が残るだろうが、意識のない間に検査済みであるならば、これ以上病院に留まる意味もない。
ベッドから降りると壁に掛けてあった学生服に袖を通し、軽く身体を動かしてどこにも異常がない事を緋美佳に示す。
「緋美姉も帰るなら、途中まで一緒に――」
圭にしては自然に誘い文句が出ようとした時、二人だけの静かな空間に慌ただしい足音が駆け込んできた。
「けーーーっ! ちゃあああああんっ!!」
痛い程に鼓膜を叩く声量と共に、腹部に勢い良くぶつかってくる確かな質量。肺の中の空気が叩き出されるのを感じながら、圭は勢いよく隣のベッドへと跳ね飛ばされた。
耐久性の弱いアルミ製のカーテンレールをへし折り、大きく舞った薄手のカーテンが圭と飛び込んできた人物とを簀巻き状態にする。
飛び込んだベッドに入院患者がいなかったのは不幸中の幸いというべきか。そこに誰かが横たわっていたならば、その寿命を大幅に削り取っていたに違いない。
巻きつく布地と腹部の鈍痛の中でもがきながら、圭は自分の腰にしがみついて離れない人物について考えていた。
飛び込んでくる姿を目視する事こそ出来なかったが、その正体については考えるまでもなく分かっている。
むしろ考えねばならないのは、どうやったらこの過度極まる愛情表現を節度あるものに変えさせられるかという事だ。
「………」
痛みが治まってきたところで落ち着いてカーテンを解く。
自分的に不可抗力だったとはいえ、備品破損の事実を病院関係者に見咎められる前にここを出ていきたいと思いながら、鳩尾付近に頬を寄せる少女――要眞尋に視線を向けた。
「おい、眞尋」
緋美佳を前に見苦しい場面を披露したくはなかったが、眞尋が何かをやらかす都度その場で言って聞かせないと躾にはならない。
声のトーンを落とすと、筋肉など付いていないかのように柔らかい首筋を鷲掴みにして引き剥がした。
「圭ちゃ~ん、心配したんだから~~」
怒りを滲ませたつもりの声も、涙ぐむ眞尋の耳には届いていなかった。潤む瞳と視線が絡んでしまい、圭は口にしようとした言葉を呑み込んだ。
感情をストレートにぶつけてくる眞尋相手では、毎度の事ながら圭に分がなかった。
「こぉの、女泣かせが~」
圭と同じ制服に身を包んだ男が意地の悪い笑いを浮かべながら入室してきた。眞尋と同じく圭のクラスメイトである津森一樹だ。
一樹は緋美佳の存在に少し驚いた様子だったが、軽く会釈をすると先程まで圭が横たわっていたベッドにスポーツバッグを放り投げた。
律儀にも部活動の道具を毎日持ち運んでいるバッグはそれなりに重いらしく、ベッドのスプリングが一度だけ深く軋む。荷物から解放された一樹は気怠そうに肩を大きく回した。
「あれ、一樹?」
馴染みの顔を見て圭は思い当たる事があった。今朝も一樹とは一緒に登校していた筈である。しかし目の前に立つ普段通りの飄々とした姿を見る限り、圭のように病院に担ぎ込まれたという様子はない。
「今朝の事で実害を受けたのは圭だけだったからな。俺も動転しちまったけど、遅刻程度で出席さ」
圭の疑問を察したのか、一樹はどこか残念そうに肩を竦めてみせた。
「いっちゃんったら非道いんだよ。圭ちゃんが居ない事を聞いたら、下痢で遅刻だとかウソ言うんだもん」
圭は壁に掛かった時計を見、なんとなく理解した。
既に今日の授業は終わっている時刻。下痢による遅刻が本当だとしても、さすがに昼過ぎまで登校しないなどという事はないだろう。
それを不審に思った眞尋が一樹に問い詰め、初めて圭が病院に居ると知った具合か。
「そりゃあ、仕方ないだろ。最初から本当の事を言ったりしたら、眞尋は授業放り出して飛び出すだろ?」
「当ったり前の事言わないでよ。圭ちゃんより大事な事なんて無いに決まってるもん!」
涼しげな顔の一樹に対し、眞尋は食ってかかるように即答した。
その物凄い告白に、圭は発するべき言葉を失い心臓の鼓動が一層強まるのを感じずにはいられなくなる。
「おいおい。もう少し思慮深さって言葉を知って欲しいな、このお姫サマは。
圭は病院送りになった時点で意識が無かったんだぞ。ベッドに寝ている圭を前にしたら、お前、絶対に起こそうとするだろ?」
「そ、そんな事……しないもん!」
……ああ、するだろうな。圭は一気に全身から力が抜けるのを感じた。
一樹はお気楽人生を地でいくような性格だと見られがちだが、その実、しっかりとした考えを持っているのだという事を圭は知っている。なんにしてもギリギリまで眞尋に伏せておいてくれた事は正解だったろうと思う。
「でもでもっ。鴫澤センパイには話したって事でしょ」
事の成り行きを見守るように沈黙したままの緋美佳を眞尋は指差した。
他人を指差すのは失礼な事だと教わらなかったのかと、圭は困り顔でその指を掴んで下ろさせる。
「いや、俺は……」
「私は、桂木さんから聞いたから」
一樹が口を開くのを制するように緋美佳が答えた。
桂木というのは圭達の通う高校の非常勤講師の名だ。圭のクラスで教鞭を執った事はないために顔と名前くらいしか知らなかったが、緋美佳と個人的に面識があるのだとしても、彼女らの学外での活動を考えれば不思議な事ではない。
一樹が真相を報告したのはクラス担任の教師だけだったのだが、そこから桂木経由で緋美佳へと情報が伝わったのだという事は想像に難くない。
「それじゃあ、私は仕事があるから」
緋美佳が腰を上げた。背を向ける瞬間に見せた微笑みがどこか寂しげに見えたのは圭の思い上がりだったろうか。
「…うん。ありがとう」
本当は呼び止めたかったが、自分にしがみついたままの眞尋の存在がそれを押し止まらせた。
会釈をもって緋美佳を病室から送り出した一樹が軽く鼻を鳴らした。
「さぁ、帰ろうか。眞尋もいい加減に圭を開放してやれよな」
一樹に促され渋々と圭から離れた眞尋だったが、口をへの字にすると圭の両頬を思い切り抓りあげた。
「いっ、いへへへへっ!!」
その細い指先はすぐに圭を解放したが、疼くような痛みが頬に残された。徐々に赤みを孕む頬は直ぐには元に戻りそうにはない。
「ふんだっ。失恋した相手にデレデレしちゃってさ!」
胸を抉られたような衝撃を受けた。
眞尋の言葉は確かに事実を語っているが、圭はその事を誰にも話した事はない。あの場には知人どころか通りすがりさえいなかった筈だし、緋美佳の口から洩れる事はそれ以上に考えられない。
戦慄くように固まった圭を前に、一樹が溜息を吐いた。
「お前、自分で思っている以上に顔や態度に出すぎるんだよ。クラスの連中はともかく、俺や眞尋にゃ丸分かりだったぞ」
やれやれとばかりに一樹は頭を掻いた。
「そっか……悪かったな」
それでもその事を口に出さずに付き合ってくれていた事に、今更ながら少しばかりの感謝の念を抱いた。
「しかし、眞尋もここでそれを言うかね。今まで黙ってきてたってのに」
一樹の言葉に、圭の視線が自分よりも頭ひとつ以上も低い少女へと向けられる。
「だって、いい加減に私の事を見て欲しいんだもん」
怒りか悲しみか、瞳を潤ませながら圭の視線をしっかりと受け止める眞尋。
これまでにも同じように眞尋の気持ちを聞かされた事は何度もあったが、これはそれまでとは明らかに違う意味を含んだ告白だった。
感嘆の意をもって一樹の口笛が鳴り、圭はといえば、困惑の混じった微妙な表情を浮かべる事しかできていない。
(まったく、女ってのは強いんだな)
自分も少しは見習わないとな。そう心に刻む圭。
「だから…ね?」
ここぞとばかりに無防備になった圭へとしがみついてくる眞尋。潤む瞳が様々な事を訴えかけてくる。
「……いや、それとこれとは話は別だから」
眞尋の気持ちは嬉しかったが、圭はかろうじてそれだけを口にして顎を差し出してくる眞尋の頭を抑えつけた。
目覚めたばかりでぼんやりと滲む世界を瞳に映しながらも、気分は悪くなかった。
夢を知覚した時の目覚めは睡眠不足を感じるばかりだった経験からすれば、不思議な程に頭の中は冴えていた。それに、夢の中での出来事を鮮明に覚えているというのも珍しい。
視界の滲みが消えゆくのと入れ替わりに目にしたのは白い天井だった。
仰向けになって寝ていたのだから天井を見上げているのは当然なのだが、まるで見覚えのない天井が圭に違和感を覚えさせた。
そしてひとつの違いを認識すると、身体で感じるものの全てがおかしい事に気付く。
自分の身体を覆っている布団の感触が違う。部屋全体に漂う空気の匂いが違う。そして耳に届くゆるやかな喧噪も耳慣れないものだ。
そう、ここは自室ではないどこか。どうして自分はこんな所で寝ている?
「…はい。わかりました」
聞き覚えのある女性の声が圭の耳朶に触れた。
くぐもって聞こえてくるのは遮蔽物があるからだろうか。枕の上で首を軽く捻ると天井と同じく白いカーテンが視界を遮っており、薄いレース地の向こうに立つ人影が見て取れた。
(…病院、か)
周囲の状況から自ずと答えは導き出された。病院の一室で寝かされているのだ。
頭上の壁を除く三方にカーテンが垂れ下がっており、視界を防ぐという状況から、複数の患者を収容する大部屋であると推察がつく。ベッドが何床ある部屋かは想像するしかなかったが、他に患者が居るような気配は感じられなかった。
そして思い出す。どうして自分がここに運び込まれたのか。
(…そうだ。巻き込まれたんだ)
突如として発生した凄惨な出来事。事故ではなく、あれは事件だ。明日の朝刊を待つまでもなく、昼と夜の報道番組のトップを飾れるだけの内容だ。
通学途中に居合わせてしまった自分は、不運にもそれに巻き込まれてしまったのだ。
「――ありがとうございました」
レース地に透けた人影が深々とお辞儀をした。そして遠ざかってゆくサンダル履きの足音。体重のありそうな足音の主は圭を診た医師のものだろう。
そして残された人物は頭を上げるとカーテンの隙間にその細い指先を差し入れてきた。
「おはよう、緋美姉」
カーテンを開く挙動を見ていた圭は、その相手と視線が重なるよりも早く声を掛けた。
「圭くん。心配したんだから」
医師と話している間に圭が目覚めた事には気付いていたのだろう。カーテンを捲ると同時に投げかけられた声に驚く事もなく、緋美姉と呼ばれた女性――鴫澤緋美佳はベッド脇にあるパイプ椅子に腰を下ろした。微かに錆の浮いた蝶番が小さく軋み、艶やかな黒髪が何かを語りたそうに揺れた。
半身を起こした圭の顔を覗き込むように、緋美佳がベッドに身を乗り出した。髪と同じく濃い墨色の瞳に、圭の顔が大きく映し込まれる。
「顔色は……悪くはないわね」
前髪を優しくさらい、頬を撫でる体温の低い指先に圭の心音が高鳴る。
圭と学年はひとつしか違わない筈なのだが、緋美佳は端的に言えば大人びていた。それはきっと彼女の家の事情に因るところが大きいのだろうが、圭にはそんな事はどうでもよかった。
緋美佳が見舞いに来てくれた、自分を心配してくれているというだけで舞い上がりそうに嬉しかった。
家が隣同士だった事から、なにかにつけて面倒を見てくれた姉のような存在。セーラー服に袖を通す頃から日を追うごとに美しくなる彼女を想う気持ちが恋だという事に気付くのに、さほど多くの時間は要さなかった。
(でも……フられちゃったんだよなぁ)
自分が告白を決心する以前より、緋美佳は幾度となく告白を受けていたというのは周知の事実だった。
同級生であったり上級生であったり。本人は否定していたが、年若い教師からも想いを打ち明けられたというのは校内では有名な話だ。
それほどまでに彼女の美しさは誰もが知るところとなっていたのだが、その誰に対しても緋美佳が色好い返答をしなかったという事も同じように知られていた。
緋美佳が特定の異性と親しくしているという姿は、圭にしてみても見た事はなかった。強いて言えば一番近しかったのは圭自身であったくらいだ。
もしかして緋美佳が好意を寄せている相手は自分なのでは。自惚れる程に自信家ではなかったが、状況はそう思わせるに十分な条件を満たしていた。
結局のところ、緋美佳は誰に対しても分け隔てなく優しく、幼馴染みであった圭を弟のように見ていたというだけの事だったのだ。本人に他意はなくとも男の方が勝手に勘違いをしてしまう、そんな見本のような話。
それでもこうして見舞いに時間を割いてくれる事に、どうしようもない嬉しさを感じずにはいられない。
「ごめん。心配かけちゃったかな」
苦笑いを浮かべてみせる。緋美佳と二人きりのこの瞬間が長く続けばいいと思いつつも、どうにも気の利いた言葉が出てこない。
告白の末に玉砕を喫した相手に、気まずさのような苦味が喉の奥に残っているのは気のせいではないだろう。
「…ううん。あんな事件に巻き込まれちゃったんだもの。大きな怪我がなくて何よりだわ」
柔らかく微笑み、緋美佳は身体を離す。
「お医者様はこのまま帰っても問題ないって仰っていたけれど、念のために検査入院してもいいのよ?」
「…いや、帰るよ。検査だなんて面倒臭いだけだし」
身体を捻るようにして自身の身体に触れてみる。気を失う直前に感じた衝撃は凄まじかったが、今こうして手を這わせてみても異常はどこにも感じられない。
強いて言えば脇腹に疼くような痛みがあるくらいか。数日は痣が残るだろうが、意識のない間に検査済みであるならば、これ以上病院に留まる意味もない。
ベッドから降りると壁に掛けてあった学生服に袖を通し、軽く身体を動かしてどこにも異常がない事を緋美佳に示す。
「緋美姉も帰るなら、途中まで一緒に――」
圭にしては自然に誘い文句が出ようとした時、二人だけの静かな空間に慌ただしい足音が駆け込んできた。
「けーーーっ! ちゃあああああんっ!!」
痛い程に鼓膜を叩く声量と共に、腹部に勢い良くぶつかってくる確かな質量。肺の中の空気が叩き出されるのを感じながら、圭は勢いよく隣のベッドへと跳ね飛ばされた。
耐久性の弱いアルミ製のカーテンレールをへし折り、大きく舞った薄手のカーテンが圭と飛び込んできた人物とを簀巻き状態にする。
飛び込んだベッドに入院患者がいなかったのは不幸中の幸いというべきか。そこに誰かが横たわっていたならば、その寿命を大幅に削り取っていたに違いない。
巻きつく布地と腹部の鈍痛の中でもがきながら、圭は自分の腰にしがみついて離れない人物について考えていた。
飛び込んでくる姿を目視する事こそ出来なかったが、その正体については考えるまでもなく分かっている。
むしろ考えねばならないのは、どうやったらこの過度極まる愛情表現を節度あるものに変えさせられるかという事だ。
「………」
痛みが治まってきたところで落ち着いてカーテンを解く。
自分的に不可抗力だったとはいえ、備品破損の事実を病院関係者に見咎められる前にここを出ていきたいと思いながら、鳩尾付近に頬を寄せる少女――要眞尋に視線を向けた。
「おい、眞尋」
緋美佳を前に見苦しい場面を披露したくはなかったが、眞尋が何かをやらかす都度その場で言って聞かせないと躾にはならない。
声のトーンを落とすと、筋肉など付いていないかのように柔らかい首筋を鷲掴みにして引き剥がした。
「圭ちゃ~ん、心配したんだから~~」
怒りを滲ませたつもりの声も、涙ぐむ眞尋の耳には届いていなかった。潤む瞳と視線が絡んでしまい、圭は口にしようとした言葉を呑み込んだ。
感情をストレートにぶつけてくる眞尋相手では、毎度の事ながら圭に分がなかった。
「こぉの、女泣かせが~」
圭と同じ制服に身を包んだ男が意地の悪い笑いを浮かべながら入室してきた。眞尋と同じく圭のクラスメイトである津森一樹だ。
一樹は緋美佳の存在に少し驚いた様子だったが、軽く会釈をすると先程まで圭が横たわっていたベッドにスポーツバッグを放り投げた。
律儀にも部活動の道具を毎日持ち運んでいるバッグはそれなりに重いらしく、ベッドのスプリングが一度だけ深く軋む。荷物から解放された一樹は気怠そうに肩を大きく回した。
「あれ、一樹?」
馴染みの顔を見て圭は思い当たる事があった。今朝も一樹とは一緒に登校していた筈である。しかし目の前に立つ普段通りの飄々とした姿を見る限り、圭のように病院に担ぎ込まれたという様子はない。
「今朝の事で実害を受けたのは圭だけだったからな。俺も動転しちまったけど、遅刻程度で出席さ」
圭の疑問を察したのか、一樹はどこか残念そうに肩を竦めてみせた。
「いっちゃんったら非道いんだよ。圭ちゃんが居ない事を聞いたら、下痢で遅刻だとかウソ言うんだもん」
圭は壁に掛かった時計を見、なんとなく理解した。
既に今日の授業は終わっている時刻。下痢による遅刻が本当だとしても、さすがに昼過ぎまで登校しないなどという事はないだろう。
それを不審に思った眞尋が一樹に問い詰め、初めて圭が病院に居ると知った具合か。
「そりゃあ、仕方ないだろ。最初から本当の事を言ったりしたら、眞尋は授業放り出して飛び出すだろ?」
「当ったり前の事言わないでよ。圭ちゃんより大事な事なんて無いに決まってるもん!」
涼しげな顔の一樹に対し、眞尋は食ってかかるように即答した。
その物凄い告白に、圭は発するべき言葉を失い心臓の鼓動が一層強まるのを感じずにはいられなくなる。
「おいおい。もう少し思慮深さって言葉を知って欲しいな、このお姫サマは。
圭は病院送りになった時点で意識が無かったんだぞ。ベッドに寝ている圭を前にしたら、お前、絶対に起こそうとするだろ?」
「そ、そんな事……しないもん!」
……ああ、するだろうな。圭は一気に全身から力が抜けるのを感じた。
一樹はお気楽人生を地でいくような性格だと見られがちだが、その実、しっかりとした考えを持っているのだという事を圭は知っている。なんにしてもギリギリまで眞尋に伏せておいてくれた事は正解だったろうと思う。
「でもでもっ。鴫澤センパイには話したって事でしょ」
事の成り行きを見守るように沈黙したままの緋美佳を眞尋は指差した。
他人を指差すのは失礼な事だと教わらなかったのかと、圭は困り顔でその指を掴んで下ろさせる。
「いや、俺は……」
「私は、桂木さんから聞いたから」
一樹が口を開くのを制するように緋美佳が答えた。
桂木というのは圭達の通う高校の非常勤講師の名だ。圭のクラスで教鞭を執った事はないために顔と名前くらいしか知らなかったが、緋美佳と個人的に面識があるのだとしても、彼女らの学外での活動を考えれば不思議な事ではない。
一樹が真相を報告したのはクラス担任の教師だけだったのだが、そこから桂木経由で緋美佳へと情報が伝わったのだという事は想像に難くない。
「それじゃあ、私は仕事があるから」
緋美佳が腰を上げた。背を向ける瞬間に見せた微笑みがどこか寂しげに見えたのは圭の思い上がりだったろうか。
「…うん。ありがとう」
本当は呼び止めたかったが、自分にしがみついたままの眞尋の存在がそれを押し止まらせた。
会釈をもって緋美佳を病室から送り出した一樹が軽く鼻を鳴らした。
「さぁ、帰ろうか。眞尋もいい加減に圭を開放してやれよな」
一樹に促され渋々と圭から離れた眞尋だったが、口をへの字にすると圭の両頬を思い切り抓りあげた。
「いっ、いへへへへっ!!」
その細い指先はすぐに圭を解放したが、疼くような痛みが頬に残された。徐々に赤みを孕む頬は直ぐには元に戻りそうにはない。
「ふんだっ。失恋した相手にデレデレしちゃってさ!」
胸を抉られたような衝撃を受けた。
眞尋の言葉は確かに事実を語っているが、圭はその事を誰にも話した事はない。あの場には知人どころか通りすがりさえいなかった筈だし、緋美佳の口から洩れる事はそれ以上に考えられない。
戦慄くように固まった圭を前に、一樹が溜息を吐いた。
「お前、自分で思っている以上に顔や態度に出すぎるんだよ。クラスの連中はともかく、俺や眞尋にゃ丸分かりだったぞ」
やれやれとばかりに一樹は頭を掻いた。
「そっか……悪かったな」
それでもその事を口に出さずに付き合ってくれていた事に、今更ながら少しばかりの感謝の念を抱いた。
「しかし、眞尋もここでそれを言うかね。今まで黙ってきてたってのに」
一樹の言葉に、圭の視線が自分よりも頭ひとつ以上も低い少女へと向けられる。
「だって、いい加減に私の事を見て欲しいんだもん」
怒りか悲しみか、瞳を潤ませながら圭の視線をしっかりと受け止める眞尋。
これまでにも同じように眞尋の気持ちを聞かされた事は何度もあったが、これはそれまでとは明らかに違う意味を含んだ告白だった。
感嘆の意をもって一樹の口笛が鳴り、圭はといえば、困惑の混じった微妙な表情を浮かべる事しかできていない。
(まったく、女ってのは強いんだな)
自分も少しは見習わないとな。そう心に刻む圭。
「だから…ね?」
ここぞとばかりに無防備になった圭へとしがみついてくる眞尋。潤む瞳が様々な事を訴えかけてくる。
「……いや、それとこれとは話は別だから」
眞尋の気持ちは嬉しかったが、圭はかろうじてそれだけを口にして顎を差し出してくる眞尋の頭を抑えつけた。
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