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はじまり
004 事件のあらまし
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マンションの鉄扉が無機質な軋みを響かせて閉じると、中は暖かな空気に満ちていた。
ご飯の炊ける仄かに甘い匂いと味噌の落ち着いた香りが圭の胃を刺激し、昼食を抜いていた事を思い出した身体がカロリー摂取の要求を一斉に出し始めた。
「おかえりなさ~い」
そして圭の帰宅を迎える元気な声。
三つ歳の離れた妹の月菜が小柄な身体をエプロンに包み、じきに夕食も用意できると告げてきた。
自室に戻る前に、圭はキッチンでお茶を一杯だけ飲む事にした。
少しでも空腹感を紛らわせたいという事もあったが、朝の事件のせいで随分と家を留守にしていた感覚があったからだ。家族の存在を少しでも近くに感じたいと欲していた。
「ねえねえ……眞尋ちゃんがすごい勢いで帰ってきてたけど、何かあったの?」
圭の思惑など露ほども気付かず、鍋の中身をかき混ぜながら月菜が口を開いた。
要家は加瀬家の隣に入居しており、特に挨拶などしなくとも誰かが帰ってきた事は否応なしに知れてしまう。さして壁の厚くないこのマンションでは、家庭内事件が起きればたちどころに近隣に知れ渡ってしまう事など珍しくもない。
「ん……。ちょっとばかり、怒らせちゃってな」
圭は言葉を濁した。怒らせてしまった事は事実だが、内情についてはあまり触れられたくはないと同時に、自分達よりも歳若い月菜に聞かせて良いような事でもないと判断したからだ。
「…ふぅん。まぁ、仲直りしたいんなら早めに謝っておいた方がいいよ?」
なんとなく察したのか、月菜は目の前の料理の仕上げに注意を戻した。さして興味のなさそうな素振りではあったが、妹なりに気を遣っているのだろう。圭と眞尋の仲が悪くなれば月菜とてなにかしら害を被るに違いないのだ。知らぬ間柄ではない隣人同士、仲良しであるに越した事はない。
(別に、無理して仲直りしなくてもいいけどね)
しかし、月菜は口の中で呟くように付け加えていた。
兄が思う程に、妹はご近所付き合いというものに頓着していない。相手がこちらに対して明らかな害意さえ抱かなければ疎遠であっても問題はない、くらいに構えているのだ。
「ん? 何か言ったか?」
「気のせいじゃない? それよりも早く着替えちゃってね。もう出来上がるよ」
月菜は表情を読まれないよう、背を向けたまま答えた。独り言はもっと気付かれないようにしないとね、と舌を出しながら。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「…ふぅ」
食後の茶を喉奥へと流し込み、圭は改めて気分が落ち着くのを感じた。
今日はその殆どの時間を寝て過ごしたせいで気になっていなかったのだが、昼食抜きは相当に堪えるものなのだと実感した。圭のような若者に、昼食抜きはかなりきつい。
キッチンで鼻唄まじりに食器を洗う月菜に目を向ける。趣味はと尋ねれば料理だという月菜に、仕事の都合で両親と離れて暮らす圭は大いに助けられていた。
こうして日常に戻ってみれば、今朝の出来事は夢だったのではないかとさえ思えてくるから不思議なものだ。
だが、そんな圭の前におよそ日常的ではない、ここ最近の悩みの種が現れる。
テーブルの差し向かいに戻った月菜が目の前の空間に向かってあやすような仕草を見せ始めた。
右手の指をひらひらさせ、用意してきた煮干しを揺り動かす姿は仔猫を相手に遊んでいるようにも見える。
しかし、圭の眼には月菜が何を相手にしているのか映す事ができないでいる。自分の視力に障害が生じた訳でもなく、客観的に言って月菜の行動こそが奇異に見える。
この光景を目にするようになって二週間は経ったろうか。
最初こそ月菜の精神状態を疑ってしまったりしたものだったが、月菜の指先から離れた煮干しが虚空に消えるのを目の当たりにし、そこに何者かが存在する事を信じざるを得なくなったという具合だ。
『それ』――月菜はルビィと呼んでいる――はある日突然に現れたと妹は語った。
お腹を空かせていた様子だったので、手近にあった菓子を与えてみたところすっかり懐かれたようで、加瀬家――というよりも月菜の部屋に居ついてしまったらしい。
餌を与える以外は一般のペットのような世話も必要がないらしく、無理に追い出す理由もないので今日に至っているのだ。
月菜自身、自分以外に見える者がいないようだというのは自覚しているらしく、学校など他人の多い場に行く際には自室でおとなしくさせているのだという。
(しかし、そこに居る筈なのに触れないってのも奇妙な話だよな)
かつて妹に言われるままに撫でてみようとしたものの、圭の手は空を掴むばかりであった。
常識的にありえない存在だとは思ったが、昨今のご時世は一般人の持ち得る知識では証明できないものが多々ある事を圭は知っている。
科学技術は確実に進歩しているが、決して科学ですべてが解決できる世の中ではないのだ。
ルビィの件も、餌を与えている光景を他人に見られさえしなければ問題など起きよう筈がないという事で納得している。
不在中の両親も理解のある方だとは思っているが、言葉だけでの説明は無理だろうという事で伏せたままだ。
不意に、圭の携帯電話がメールの着信を告げる震動を発した。
【ニュース見てるか?】
一樹からだった。
内容は極めて単純。一樹自身も偶然見て、取り急ぎメールを寄越してきたようだ。
文面から急く声まで聞こえるような気がして、テレビのリモコンに手を伸ばす。夕飯どきのこの時間帯にニュースといえば、放映している局は限られてくる。
一樹が見たと思しきニュースにはすぐに行き当たった。
『本日朝、新興宗教教祖の死を受けての集団後追い自殺とみられる事件が発生しました。周囲は一時大パニックになり――』
若いながらも落ち着いた女性キャスターの声に続き、警察官が警備を固める現場のVTRが流れる。見慣れた感もある街並みを見た瞬間、圭の心臓が大きく跳ねた。
出来れば思い出したくもない、今朝巻き込まれたばかりの事件の現場だった。
「うわぁ、これって駅に向かう道だよね……。そんな事件が起きてたんだぁ」
月菜が眉根を寄せた。さして大きくもないこの町では、かつてない程の大事件だと言えるだろう。
自分とはまるで縁のない者達が起こした事件だが、その影響は決して無視できるようなものではない。
月菜にしてみても、通っている中学校とは違う方向での出来事とはいえ、外を歩いている時間帯に起きた事件ともなれば決して無関係な顔をしていられる訳でもない。もしかしたら自身が遭遇していたかもしれないという可能性だって否定できないのだから。
「お兄ちゃん、巻き込まれたりしなかった?」
心配そうに月菜が圭の顔を覗き込む。
ここでもまた圭は一樹の配慮に感謝した。両親が長期不在の自宅にはすぐに連絡しないで様子を見た方が良いと担任教師に言い含めてくれたのだろう。
「あと少し遅く家を出ていたら、大変だったろうな」
テレビ画面を注視したままそう答えた。忘れたい出来事ではあるが、知人の数人までもが知るところとなっている己の身に降りかかった事件である。メディア報道されている内容くらいは知っておくべきなのかもしれない。
『……新興宗教「宙の声」の教主、大宇宙昴――本名、茗荷谷宇宙氏が死去した事に端を発し、カリスマでもあった教主の死に悲嘆した一部の信者が集団後追い自殺を図ったとされるものです。そもそも「宙の声」は十五年前に設立され――』
教主の生前の写真が数点映し出される。教主という割には白装束だとか過度に煌びやかな衣装に身を包んでいる風でもなかった。
多数の取り巻きがなければ、どこか道端ですれ違っても特に気にも留めないだろう三十代半ばの男性にしか見えない。
新興宗教などというから変に仰々しいものを想像してしまったが、そういった類のものでもないのだろうか。或いは、周囲にそれと知られないがために普通の格好をしているのかもしれないが。
『宙の声』は文字通り、宇宙からの大いなる声に耳を傾け、人間同士による諍いを無くそうといった呼び掛けを主旨に、地道な活動を展開していたらしい。
元々は学生サークルのひとつで、集まり過ぎたメンバー達に担がれるように宗教法人に至ったらしい。
同時に放映された数人のインタビューでは、教主の大宇宙昴は幅広い知識と世界観を持っていて、会話をする者は一様に深い感銘を受けたのだという。
(ふむ……)
誇張表現の入った報道である可能性も捨てきれなかったが、後追い自殺までする者が出ている程である。それなりに影響力を持った人物ではあったのだろう。
予備知識としてはその程度に把握したものの、圭にしてみればとんだ迷惑事でしかない。
ご飯の炊ける仄かに甘い匂いと味噌の落ち着いた香りが圭の胃を刺激し、昼食を抜いていた事を思い出した身体がカロリー摂取の要求を一斉に出し始めた。
「おかえりなさ~い」
そして圭の帰宅を迎える元気な声。
三つ歳の離れた妹の月菜が小柄な身体をエプロンに包み、じきに夕食も用意できると告げてきた。
自室に戻る前に、圭はキッチンでお茶を一杯だけ飲む事にした。
少しでも空腹感を紛らわせたいという事もあったが、朝の事件のせいで随分と家を留守にしていた感覚があったからだ。家族の存在を少しでも近くに感じたいと欲していた。
「ねえねえ……眞尋ちゃんがすごい勢いで帰ってきてたけど、何かあったの?」
圭の思惑など露ほども気付かず、鍋の中身をかき混ぜながら月菜が口を開いた。
要家は加瀬家の隣に入居しており、特に挨拶などしなくとも誰かが帰ってきた事は否応なしに知れてしまう。さして壁の厚くないこのマンションでは、家庭内事件が起きればたちどころに近隣に知れ渡ってしまう事など珍しくもない。
「ん……。ちょっとばかり、怒らせちゃってな」
圭は言葉を濁した。怒らせてしまった事は事実だが、内情についてはあまり触れられたくはないと同時に、自分達よりも歳若い月菜に聞かせて良いような事でもないと判断したからだ。
「…ふぅん。まぁ、仲直りしたいんなら早めに謝っておいた方がいいよ?」
なんとなく察したのか、月菜は目の前の料理の仕上げに注意を戻した。さして興味のなさそうな素振りではあったが、妹なりに気を遣っているのだろう。圭と眞尋の仲が悪くなれば月菜とてなにかしら害を被るに違いないのだ。知らぬ間柄ではない隣人同士、仲良しであるに越した事はない。
(別に、無理して仲直りしなくてもいいけどね)
しかし、月菜は口の中で呟くように付け加えていた。
兄が思う程に、妹はご近所付き合いというものに頓着していない。相手がこちらに対して明らかな害意さえ抱かなければ疎遠であっても問題はない、くらいに構えているのだ。
「ん? 何か言ったか?」
「気のせいじゃない? それよりも早く着替えちゃってね。もう出来上がるよ」
月菜は表情を読まれないよう、背を向けたまま答えた。独り言はもっと気付かれないようにしないとね、と舌を出しながら。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「…ふぅ」
食後の茶を喉奥へと流し込み、圭は改めて気分が落ち着くのを感じた。
今日はその殆どの時間を寝て過ごしたせいで気になっていなかったのだが、昼食抜きは相当に堪えるものなのだと実感した。圭のような若者に、昼食抜きはかなりきつい。
キッチンで鼻唄まじりに食器を洗う月菜に目を向ける。趣味はと尋ねれば料理だという月菜に、仕事の都合で両親と離れて暮らす圭は大いに助けられていた。
こうして日常に戻ってみれば、今朝の出来事は夢だったのではないかとさえ思えてくるから不思議なものだ。
だが、そんな圭の前におよそ日常的ではない、ここ最近の悩みの種が現れる。
テーブルの差し向かいに戻った月菜が目の前の空間に向かってあやすような仕草を見せ始めた。
右手の指をひらひらさせ、用意してきた煮干しを揺り動かす姿は仔猫を相手に遊んでいるようにも見える。
しかし、圭の眼には月菜が何を相手にしているのか映す事ができないでいる。自分の視力に障害が生じた訳でもなく、客観的に言って月菜の行動こそが奇異に見える。
この光景を目にするようになって二週間は経ったろうか。
最初こそ月菜の精神状態を疑ってしまったりしたものだったが、月菜の指先から離れた煮干しが虚空に消えるのを目の当たりにし、そこに何者かが存在する事を信じざるを得なくなったという具合だ。
『それ』――月菜はルビィと呼んでいる――はある日突然に現れたと妹は語った。
お腹を空かせていた様子だったので、手近にあった菓子を与えてみたところすっかり懐かれたようで、加瀬家――というよりも月菜の部屋に居ついてしまったらしい。
餌を与える以外は一般のペットのような世話も必要がないらしく、無理に追い出す理由もないので今日に至っているのだ。
月菜自身、自分以外に見える者がいないようだというのは自覚しているらしく、学校など他人の多い場に行く際には自室でおとなしくさせているのだという。
(しかし、そこに居る筈なのに触れないってのも奇妙な話だよな)
かつて妹に言われるままに撫でてみようとしたものの、圭の手は空を掴むばかりであった。
常識的にありえない存在だとは思ったが、昨今のご時世は一般人の持ち得る知識では証明できないものが多々ある事を圭は知っている。
科学技術は確実に進歩しているが、決して科学ですべてが解決できる世の中ではないのだ。
ルビィの件も、餌を与えている光景を他人に見られさえしなければ問題など起きよう筈がないという事で納得している。
不在中の両親も理解のある方だとは思っているが、言葉だけでの説明は無理だろうという事で伏せたままだ。
不意に、圭の携帯電話がメールの着信を告げる震動を発した。
【ニュース見てるか?】
一樹からだった。
内容は極めて単純。一樹自身も偶然見て、取り急ぎメールを寄越してきたようだ。
文面から急く声まで聞こえるような気がして、テレビのリモコンに手を伸ばす。夕飯どきのこの時間帯にニュースといえば、放映している局は限られてくる。
一樹が見たと思しきニュースにはすぐに行き当たった。
『本日朝、新興宗教教祖の死を受けての集団後追い自殺とみられる事件が発生しました。周囲は一時大パニックになり――』
若いながらも落ち着いた女性キャスターの声に続き、警察官が警備を固める現場のVTRが流れる。見慣れた感もある街並みを見た瞬間、圭の心臓が大きく跳ねた。
出来れば思い出したくもない、今朝巻き込まれたばかりの事件の現場だった。
「うわぁ、これって駅に向かう道だよね……。そんな事件が起きてたんだぁ」
月菜が眉根を寄せた。さして大きくもないこの町では、かつてない程の大事件だと言えるだろう。
自分とはまるで縁のない者達が起こした事件だが、その影響は決して無視できるようなものではない。
月菜にしてみても、通っている中学校とは違う方向での出来事とはいえ、外を歩いている時間帯に起きた事件ともなれば決して無関係な顔をしていられる訳でもない。もしかしたら自身が遭遇していたかもしれないという可能性だって否定できないのだから。
「お兄ちゃん、巻き込まれたりしなかった?」
心配そうに月菜が圭の顔を覗き込む。
ここでもまた圭は一樹の配慮に感謝した。両親が長期不在の自宅にはすぐに連絡しないで様子を見た方が良いと担任教師に言い含めてくれたのだろう。
「あと少し遅く家を出ていたら、大変だったろうな」
テレビ画面を注視したままそう答えた。忘れたい出来事ではあるが、知人の数人までもが知るところとなっている己の身に降りかかった事件である。メディア報道されている内容くらいは知っておくべきなのかもしれない。
『……新興宗教「宙の声」の教主、大宇宙昴――本名、茗荷谷宇宙氏が死去した事に端を発し、カリスマでもあった教主の死に悲嘆した一部の信者が集団後追い自殺を図ったとされるものです。そもそも「宙の声」は十五年前に設立され――』
教主の生前の写真が数点映し出される。教主という割には白装束だとか過度に煌びやかな衣装に身を包んでいる風でもなかった。
多数の取り巻きがなければ、どこか道端ですれ違っても特に気にも留めないだろう三十代半ばの男性にしか見えない。
新興宗教などというから変に仰々しいものを想像してしまったが、そういった類のものでもないのだろうか。或いは、周囲にそれと知られないがために普通の格好をしているのかもしれないが。
『宙の声』は文字通り、宇宙からの大いなる声に耳を傾け、人間同士による諍いを無くそうといった呼び掛けを主旨に、地道な活動を展開していたらしい。
元々は学生サークルのひとつで、集まり過ぎたメンバー達に担がれるように宗教法人に至ったらしい。
同時に放映された数人のインタビューでは、教主の大宇宙昴は幅広い知識と世界観を持っていて、会話をする者は一様に深い感銘を受けたのだという。
(ふむ……)
誇張表現の入った報道である可能性も捨てきれなかったが、後追い自殺までする者が出ている程である。それなりに影響力を持った人物ではあったのだろう。
予備知識としてはその程度に把握したものの、圭にしてみればとんだ迷惑事でしかない。
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