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はじまり
006 事件の記憶
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「なんだ、寝不足か?」
胸を大きく反らせながら欠伸を噛み殺す圭を見て、一樹が器用に片眉を上げながら口を開いた。
「いや、そんな事はないんだけどさ……」
むしろ体調はすこぶる好調だ。滅多に感じない程に身体は軽い。ただ、妙な夢見のせいで眠ったという充足感が乏しいのだ。
「圭ちゃん、夜更かしとかはダメだよぅ?
そりゃあ、私の事を考えて寝るのが遅くなっちゃったっていうのは嬉しいけどさぁ」
こちらも朝から元気に圭の右腕にしがみついてくる眞尋である。発言の内容が願望を織り交ぜたものになっているのは調子の良い証拠だ。
昨日の事を引き摺ってはいない様子なので圭としては一安心だったが、これまでよりも積極的に身体を寄せてきているように感じるのは気のせいだと思いたかった。
「やれやれ。朝からお熱い事で羨ましいよ」
すべて分かっていますよとばかりに、一樹が愉快そうに笑う。こうして弄り弄られながら通学するのが毎朝の恒例行事であった。
駅まで徒歩20分、線路の上を隣町へと15分、バスに揺られて20分。三人の通う叉葉山(さはやま)高まで、およそ1時間近くの日々変わらぬ風景である。
「…………」
駅まであと5分といったところで圭の足が鈍くなった。身体を密着させている眞尋も釣られるように速度を落とし、何かを言いたそうに眉根を寄せながらも一樹もまた歩を緩めた。
警察によって大きく張られた立入禁止のテープ。
黒と黄色、毒々しくも感じる色彩のテープに囲われた中には、夥しい流血と思われる痕跡が足の踏み場が無い程にこびりついている。
否、流血と思われる……ではなく、間違いなくそれは血痕なのだ。警察の手により洗浄がなされていても、それでもなお肉眼で捉えられる残滓がここで起きた惨事を雄弁なまでに語っている。
そしてそれを睥睨するかのように建つビルこそが、この町に置かれた『宙の声』の支部。
知る者は関係者のみ。知らない者の方が大多数であったろう単なる雑居ビルも、今や知らない者の方が圧倒的少数となった、この町における最たる有名地である。もちろん、良くない意味でだ。
そう、今より遡る事24時間前。通学途中であった圭と一樹は、この場でその惨事を目の当たりにしてしまったのだ。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
他愛のない会話を交わしながら歩く圭と一樹の背に、突如として女性の悲鳴が投げかけられた。
もちろん、二人に向けられた悲鳴ではなかったが、それは歩みを止めさせるには十分なものだった。
それが悲鳴だという事は瞬時に理解できたが、恐怖に彩られた魂が絞り出す声はホラー映画などとは比べ物にならず、それが事の重大さを否応無しに伝えてきた。
見るべきではない、そう心のどこかから声が聞こえてきてはいた。
それでも二人は振り返ってしまう。事勿れ主義を掲げるよりも、若者特有の好奇心が勝っていたからに他ならない。
そして二人は振り返った事を後悔した。否、後悔するという感情さえも頭の中から吹き飛んでしまったのだ。
眼前に広がっていたのは、まさに血の海。そしてその中に沈む、元は人間であったろう肉塊。
毒々しいまでの赤黒い色に染められ、かろうじて固形状を留めているそれが人間のどの部分だったのかなど、見当もつかなければ観察する余裕もない。
先の女性の声とは違う悲鳴が連鎖的に爆発する。
大通りという程に人で溢れる道でこそなかったが、朝の通勤通学の時間帯である。それなりに歩行者の姿はあり、そんな衆人の眼前に現れた突然の惨劇にパニックを起こす者が続出した。
圭もまた息を喉に詰まらせ固まっていた。
何も考えられずに立ち尽くすしかない目の前で、また一人、もう一人と空から降り落ちてくる。
自分は何をしているのか、何を見ているのか、これからどうなるのか。あまりに現実離れした光景を前に、圭の意識は消し飛ぶ寸前だった。
「圭っ!!」
先に正気を取り戻したのは一樹だった。圭を一喝するとその場を離れるべく回れ右をした。
それに倣い、圭もまた吹き出そうになる恐怖を抑えつけながら反転――する瞬間、視界の隅で嫌な動きをするものを捉えてしまっていた。
重力に引かれるままアスファルトに叩きつけられた何人目かの肉体の一部が大きく弾け跳んだのだ。
ほんの僅かな時間の出来事で、既に視界には欠片も映ってはいない。しかし圭は感じてしまっていた。その肉片が自分を狙う弾丸と化した事を。
必死の逃亡を試みたが、結局は病院に担ぎ込まれる事となってしまったのがつい昨日の話なのだ。
胸を大きく反らせながら欠伸を噛み殺す圭を見て、一樹が器用に片眉を上げながら口を開いた。
「いや、そんな事はないんだけどさ……」
むしろ体調はすこぶる好調だ。滅多に感じない程に身体は軽い。ただ、妙な夢見のせいで眠ったという充足感が乏しいのだ。
「圭ちゃん、夜更かしとかはダメだよぅ?
そりゃあ、私の事を考えて寝るのが遅くなっちゃったっていうのは嬉しいけどさぁ」
こちらも朝から元気に圭の右腕にしがみついてくる眞尋である。発言の内容が願望を織り交ぜたものになっているのは調子の良い証拠だ。
昨日の事を引き摺ってはいない様子なので圭としては一安心だったが、これまでよりも積極的に身体を寄せてきているように感じるのは気のせいだと思いたかった。
「やれやれ。朝からお熱い事で羨ましいよ」
すべて分かっていますよとばかりに、一樹が愉快そうに笑う。こうして弄り弄られながら通学するのが毎朝の恒例行事であった。
駅まで徒歩20分、線路の上を隣町へと15分、バスに揺られて20分。三人の通う叉葉山(さはやま)高まで、およそ1時間近くの日々変わらぬ風景である。
「…………」
駅まであと5分といったところで圭の足が鈍くなった。身体を密着させている眞尋も釣られるように速度を落とし、何かを言いたそうに眉根を寄せながらも一樹もまた歩を緩めた。
警察によって大きく張られた立入禁止のテープ。
黒と黄色、毒々しくも感じる色彩のテープに囲われた中には、夥しい流血と思われる痕跡が足の踏み場が無い程にこびりついている。
否、流血と思われる……ではなく、間違いなくそれは血痕なのだ。警察の手により洗浄がなされていても、それでもなお肉眼で捉えられる残滓がここで起きた惨事を雄弁なまでに語っている。
そしてそれを睥睨するかのように建つビルこそが、この町に置かれた『宙の声』の支部。
知る者は関係者のみ。知らない者の方が大多数であったろう単なる雑居ビルも、今や知らない者の方が圧倒的少数となった、この町における最たる有名地である。もちろん、良くない意味でだ。
そう、今より遡る事24時間前。通学途中であった圭と一樹は、この場でその惨事を目の当たりにしてしまったのだ。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
他愛のない会話を交わしながら歩く圭と一樹の背に、突如として女性の悲鳴が投げかけられた。
もちろん、二人に向けられた悲鳴ではなかったが、それは歩みを止めさせるには十分なものだった。
それが悲鳴だという事は瞬時に理解できたが、恐怖に彩られた魂が絞り出す声はホラー映画などとは比べ物にならず、それが事の重大さを否応無しに伝えてきた。
見るべきではない、そう心のどこかから声が聞こえてきてはいた。
それでも二人は振り返ってしまう。事勿れ主義を掲げるよりも、若者特有の好奇心が勝っていたからに他ならない。
そして二人は振り返った事を後悔した。否、後悔するという感情さえも頭の中から吹き飛んでしまったのだ。
眼前に広がっていたのは、まさに血の海。そしてその中に沈む、元は人間であったろう肉塊。
毒々しいまでの赤黒い色に染められ、かろうじて固形状を留めているそれが人間のどの部分だったのかなど、見当もつかなければ観察する余裕もない。
先の女性の声とは違う悲鳴が連鎖的に爆発する。
大通りという程に人で溢れる道でこそなかったが、朝の通勤通学の時間帯である。それなりに歩行者の姿はあり、そんな衆人の眼前に現れた突然の惨劇にパニックを起こす者が続出した。
圭もまた息を喉に詰まらせ固まっていた。
何も考えられずに立ち尽くすしかない目の前で、また一人、もう一人と空から降り落ちてくる。
自分は何をしているのか、何を見ているのか、これからどうなるのか。あまりに現実離れした光景を前に、圭の意識は消し飛ぶ寸前だった。
「圭っ!!」
先に正気を取り戻したのは一樹だった。圭を一喝するとその場を離れるべく回れ右をした。
それに倣い、圭もまた吹き出そうになる恐怖を抑えつけながら反転――する瞬間、視界の隅で嫌な動きをするものを捉えてしまっていた。
重力に引かれるままアスファルトに叩きつけられた何人目かの肉体の一部が大きく弾け跳んだのだ。
ほんの僅かな時間の出来事で、既に視界には欠片も映ってはいない。しかし圭は感じてしまっていた。その肉片が自分を狙う弾丸と化した事を。
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