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はじまり
011 親友を
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三時限目の授業は体術だった。ランニングを終えた圭は一樹と組んで柔軟運動を黙々とこなしていた。
退魔師養成科との連動授業のひとつとして、体育以外に体術という課目が生徒の日常に組み込まれている。科を移籍希望する際に、体力的な遅れの幅を最低限に抑えるためだ。
そしてこの授業では主に武術、格闘技全般の基礎練習に費やされる事となる。
退魔師養成科ではまた違うらしいが、あくまで基礎訓練を主題にしているため、男女別の授業内容となっており、現在、校庭に姿を見せているのは男子生徒のみだ。
圭のように一貫して普通科のみで過ごすと決めている者も少なくはないが、格闘技というものが一過性の流行を通り越して日常的なイベントとなった昨今だ。実戦的とも言える要素を含んだ授業内容は体力の有り余る男子生徒には概ね好評だった。
そして、ここ暫くは二人一組での組手が続いている。中国拳法などを取り入れたアクション映画では目にする機会も多く、誰にも漠然としたイメージくらいは浮かぶ。
準備運動を終えた組から向かい合って整列し、次の指示を待つ。既に一年間という授業をこなしているだけあり、特に号令は無くとも全員がほぼ同じくして整列を終える。
「…よし、始め!!」
この授業のために非常勤講師として招聘されている継島の、老齢に似合わぬ厚みのある声が響いた。
ここより、全ての雑念を取り払って集中するべき瞬間が続くのだ。向かい合っている者同士で礼を交わし、半身を引くようにして構える。
決められた型通りに動けば問題ないとはいえ、中途半端な気持ちのままでは手痛い結果となる事を全員が実体験をもって理解している。無駄口を叩く者など一人も存在しない。
「いくぜ、圭!」
いつも軽口ばかりの一樹も、この時ばかりは緩んだ表情は姿を消す。圭を正面に見据えて右足を滑らせるように踏み出してきた。
突き上げるように迫る右拳の軌道を左甲で逸らし、間髪を容れずに繰り出される左掌底を右肘で受け止める。その体勢から肘を軸にして腕を内側へと回転させ、再び迫っていた右拳をいなす。
互いに繰り出す両腕が交差し、並び、時に繋がる。
傍から見れば息の合った流麗な動きだが、僅かにでも注意が逸れれば大怪我に繋がりかねない内容は既に授業という範疇から逸脱している。
よくこんなもので保護者からクレームがつかないものだと圭はかつて考えもしたが、侵蝕者なるものに生命を脅かされる現在である、授業中の怪我がどうだとか言っている場合ではないのだろう。
そもそも言ってしまえば、退魔師養成科などという科が存在する時点で、ぬるま湯に浸かった学生生活を期待する方がどうかしているのだ。
圭は流し読む程度で重く受け止めてはいなかったが、入学案内にもその旨の注意事項は記載されており、入学式の校長挨拶でも触れられていた事だ。
「――ふっ!」
気勢と共に繰り出される一樹の最後の肘を受け止め、攻守交代となった。
先の一樹と同様、圭は左右上下と散らすように拳と肘を打ち込み、一樹もまた決められた順番通りにそれらを捌いてゆく。
そうだと分かっていても、拳の軌道が逸らされる度に圭は重心を崩されかけ、楽そうにも見える攻め手側であっても受け手とは違った緊張を強いられる。
しかしそれでも圭は、身体が滑らかに動くのを実感していた。その身に圧し掛かってくる緊張感さえも心地良いと感じながら。
いつもと同じ授業内容である筈なのに、こうまで明らかに感じ方が異なるというのはどうしたものなのか。
(同じ動作の繰り返しに身体が馴れてきた…?)
真っ先に浮かんだ可能性を即座に否定する。
圭自身、己の運動能力は平均以上だと自負してこそいるが、その程度の認識で納得できるようなレベルではなかった。
それこそ、昨日まで全身に重りを巻き付けていたのではないかという程に身体が軽く感じられるのだ。
脳内麻薬の分泌量が通常よりも多くなっているのではないか。
一夜にして運動能力が飛躍的に向上するなど、およそ常識的ではない。無理矢理にでも科学的な根拠を求めるとすればその辺りだろうか。
身体が興奮状態にあり、感覚が鋭敏になっているのだ。そう考えれば思い当たる事が無いでもない。
そう、例の事件である。
具体的にどういったものかは分からないが、肉体的、そして精神的にも相当の負荷があった事は事実だ。
平静を保っていると自己認識してはいるが、身体のどこかに変調をきたしていたとしても不思議な話ではない。
漠然とした思索に耽りそうになった圭は心の中で頭を振った。今は目の前に集中しないと、自分だけではなくペアを組んでいる一樹にまで被害が及びかねない。
己の不注意で自分一人が怪我をする分には自業自得で済むのだが、巻き込むような形で他人に怪我を負わせる訳にはいかない。そんな格好悪くて恥ずかしい真似、緋美佳に知られたらどんな目で見られる事か。
ややもすれば不純な思惑ではあったが、圭は残りの数秒に意識を集中する。
幾度も練習した通りに左掌底を突き出し、右腕を薙ぎ、その勢いのまま身体を反転させて右肘を振り上げる。一樹との呼吸も寸分違わず、お互いの四肢が幾つもの曲線を描く。
そして最後の一手。受け手にガードされないように身体ごと相手の懐に踏み込み、腹部への掌底でこの組手は終了となる。
もちろん、最後の掌底は寸止めだ。
身体だけは一人前の男子高校生の体力で、有効打を放ってしまっては大変だ。
かつてふざけ半分で掌底を寸止めせずに突き入れた生徒がいたが、その男は継島に同じ事を体験されられて悶絶する羽目となった。
大変な事になるという点においては最後まで組手相手と一蓮托生であり、一度でもその光景を見た者は体術の授業では悪ふざけしようなどという気は起こさない。
圭もまた大胆に踏み込みつつも、細心の注意を払いながら距離を測る。
大きく開いた両掌を伸ばし、完全に踏み止まるまで肘を曲げながら一樹に触れないように調整する。そして拳ひとつ程の空間を残し、圭の身体が制止した――かに見えた。
「んぐぁ――っ!?」
重い呻き声を喉の奥から絞り出し、一樹が後方へと吹き飛んだ。
体重70キロを超える身体が芝生の上を滑るように一気に後退し、地に触れた踵が上体を強く引き倒した。
背を強く叩き付けるも、その勢いは完全に殺される事なく、跳ねるような大回転を見せた後にやっと停止した。
「……え?」
千切れた芝生が舞う中に倒れ伏す親友の姿を前に、圭は自分が何を見ているのか理解できなかった。掌底を繰り出した体勢のまま、圭の全てが凍り付いた。
「おいっ、津森っ!!」
一樹に駆け寄った継島の声に、圭の思考が再び回り始める。
(俺は何を……そうだ、体術の授業で、一樹とペアで、組手で、俺が攻め手で、ラスト、掌底、寸止め、一樹、飛んで、向こうに、俺の、両手……)
圭は広げられたままの自分の指先と、倒れて動かずにいる一樹の姿とを茫然と見ていた。
一樹の周囲に膨れあがるように群がるクラスメイトがその名を口々にしていたが、圭は耳に入ってくる言葉を理解出来ずに佇むばかりだった。
問いかけるように視線を落とした自身の掌がぐるぐると回転し始め、圭の思考を更に混乱させる。
(俺…俺は、どうしたんだ……?)
退魔師養成科との連動授業のひとつとして、体育以外に体術という課目が生徒の日常に組み込まれている。科を移籍希望する際に、体力的な遅れの幅を最低限に抑えるためだ。
そしてこの授業では主に武術、格闘技全般の基礎練習に費やされる事となる。
退魔師養成科ではまた違うらしいが、あくまで基礎訓練を主題にしているため、男女別の授業内容となっており、現在、校庭に姿を見せているのは男子生徒のみだ。
圭のように一貫して普通科のみで過ごすと決めている者も少なくはないが、格闘技というものが一過性の流行を通り越して日常的なイベントとなった昨今だ。実戦的とも言える要素を含んだ授業内容は体力の有り余る男子生徒には概ね好評だった。
そして、ここ暫くは二人一組での組手が続いている。中国拳法などを取り入れたアクション映画では目にする機会も多く、誰にも漠然としたイメージくらいは浮かぶ。
準備運動を終えた組から向かい合って整列し、次の指示を待つ。既に一年間という授業をこなしているだけあり、特に号令は無くとも全員がほぼ同じくして整列を終える。
「…よし、始め!!」
この授業のために非常勤講師として招聘されている継島の、老齢に似合わぬ厚みのある声が響いた。
ここより、全ての雑念を取り払って集中するべき瞬間が続くのだ。向かい合っている者同士で礼を交わし、半身を引くようにして構える。
決められた型通りに動けば問題ないとはいえ、中途半端な気持ちのままでは手痛い結果となる事を全員が実体験をもって理解している。無駄口を叩く者など一人も存在しない。
「いくぜ、圭!」
いつも軽口ばかりの一樹も、この時ばかりは緩んだ表情は姿を消す。圭を正面に見据えて右足を滑らせるように踏み出してきた。
突き上げるように迫る右拳の軌道を左甲で逸らし、間髪を容れずに繰り出される左掌底を右肘で受け止める。その体勢から肘を軸にして腕を内側へと回転させ、再び迫っていた右拳をいなす。
互いに繰り出す両腕が交差し、並び、時に繋がる。
傍から見れば息の合った流麗な動きだが、僅かにでも注意が逸れれば大怪我に繋がりかねない内容は既に授業という範疇から逸脱している。
よくこんなもので保護者からクレームがつかないものだと圭はかつて考えもしたが、侵蝕者なるものに生命を脅かされる現在である、授業中の怪我がどうだとか言っている場合ではないのだろう。
そもそも言ってしまえば、退魔師養成科などという科が存在する時点で、ぬるま湯に浸かった学生生活を期待する方がどうかしているのだ。
圭は流し読む程度で重く受け止めてはいなかったが、入学案内にもその旨の注意事項は記載されており、入学式の校長挨拶でも触れられていた事だ。
「――ふっ!」
気勢と共に繰り出される一樹の最後の肘を受け止め、攻守交代となった。
先の一樹と同様、圭は左右上下と散らすように拳と肘を打ち込み、一樹もまた決められた順番通りにそれらを捌いてゆく。
そうだと分かっていても、拳の軌道が逸らされる度に圭は重心を崩されかけ、楽そうにも見える攻め手側であっても受け手とは違った緊張を強いられる。
しかしそれでも圭は、身体が滑らかに動くのを実感していた。その身に圧し掛かってくる緊張感さえも心地良いと感じながら。
いつもと同じ授業内容である筈なのに、こうまで明らかに感じ方が異なるというのはどうしたものなのか。
(同じ動作の繰り返しに身体が馴れてきた…?)
真っ先に浮かんだ可能性を即座に否定する。
圭自身、己の運動能力は平均以上だと自負してこそいるが、その程度の認識で納得できるようなレベルではなかった。
それこそ、昨日まで全身に重りを巻き付けていたのではないかという程に身体が軽く感じられるのだ。
脳内麻薬の分泌量が通常よりも多くなっているのではないか。
一夜にして運動能力が飛躍的に向上するなど、およそ常識的ではない。無理矢理にでも科学的な根拠を求めるとすればその辺りだろうか。
身体が興奮状態にあり、感覚が鋭敏になっているのだ。そう考えれば思い当たる事が無いでもない。
そう、例の事件である。
具体的にどういったものかは分からないが、肉体的、そして精神的にも相当の負荷があった事は事実だ。
平静を保っていると自己認識してはいるが、身体のどこかに変調をきたしていたとしても不思議な話ではない。
漠然とした思索に耽りそうになった圭は心の中で頭を振った。今は目の前に集中しないと、自分だけではなくペアを組んでいる一樹にまで被害が及びかねない。
己の不注意で自分一人が怪我をする分には自業自得で済むのだが、巻き込むような形で他人に怪我を負わせる訳にはいかない。そんな格好悪くて恥ずかしい真似、緋美佳に知られたらどんな目で見られる事か。
ややもすれば不純な思惑ではあったが、圭は残りの数秒に意識を集中する。
幾度も練習した通りに左掌底を突き出し、右腕を薙ぎ、その勢いのまま身体を反転させて右肘を振り上げる。一樹との呼吸も寸分違わず、お互いの四肢が幾つもの曲線を描く。
そして最後の一手。受け手にガードされないように身体ごと相手の懐に踏み込み、腹部への掌底でこの組手は終了となる。
もちろん、最後の掌底は寸止めだ。
身体だけは一人前の男子高校生の体力で、有効打を放ってしまっては大変だ。
かつてふざけ半分で掌底を寸止めせずに突き入れた生徒がいたが、その男は継島に同じ事を体験されられて悶絶する羽目となった。
大変な事になるという点においては最後まで組手相手と一蓮托生であり、一度でもその光景を見た者は体術の授業では悪ふざけしようなどという気は起こさない。
圭もまた大胆に踏み込みつつも、細心の注意を払いながら距離を測る。
大きく開いた両掌を伸ばし、完全に踏み止まるまで肘を曲げながら一樹に触れないように調整する。そして拳ひとつ程の空間を残し、圭の身体が制止した――かに見えた。
「んぐぁ――っ!?」
重い呻き声を喉の奥から絞り出し、一樹が後方へと吹き飛んだ。
体重70キロを超える身体が芝生の上を滑るように一気に後退し、地に触れた踵が上体を強く引き倒した。
背を強く叩き付けるも、その勢いは完全に殺される事なく、跳ねるような大回転を見せた後にやっと停止した。
「……え?」
千切れた芝生が舞う中に倒れ伏す親友の姿を前に、圭は自分が何を見ているのか理解できなかった。掌底を繰り出した体勢のまま、圭の全てが凍り付いた。
「おいっ、津森っ!!」
一樹に駆け寄った継島の声に、圭の思考が再び回り始める。
(俺は何を……そうだ、体術の授業で、一樹とペアで、組手で、俺が攻め手で、ラスト、掌底、寸止め、一樹、飛んで、向こうに、俺の、両手……)
圭は広げられたままの自分の指先と、倒れて動かずにいる一樹の姿とを茫然と見ていた。
一樹の周囲に膨れあがるように群がるクラスメイトがその名を口々にしていたが、圭は耳に入ってくる言葉を理解出来ずに佇むばかりだった。
問いかけるように視線を落とした自身の掌がぐるぐると回転し始め、圭の思考を更に混乱させる。
(俺…俺は、どうしたんだ……?)
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