めぐり、つむぎ

竜田彦十郎

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はじまり

021 襲撃の報

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 侵蝕者イローダー!!

 その言葉に誰もが凍り付いた。
 これまでに一度でも直接の被害に遭っている者であれば、このような娯楽施設に来る余裕はないだろう。
 そうでない者にとっても、その名を持った存在が人類にどれだけの被害を与えているのかを知らない筈はない。
 繰り返される放送をバックに一瞬の静寂が訪れ――次の瞬間、放送を聞いていたシティ内すべての人間が一斉に動いた。

 ほんの十数秒前に溢れていた愉しげな喧噪とは正反対の、まるで津波のような轟音が周囲を覆い尽くす。
 誰もが避難エリアを、或いは出口を目指し我先にと疾駆する。
 圭達のいた場所は数か所の避難エリアの中間地点付近にあり、全員が己が思う一番近い避難所へと一斉に動いた事が混迷の度合いを増す結果になった。
 蹴散らされる椅子とテーブル。無残に踏み潰される植込みや食べ残されたフード類。
 人と人とがぶつかり合い、器物が破壊される音と、誰のものともつかない怒号と悲鳴とで溢れ返る。

「――穂っ!」

 人の波に呑まれそうになった穂の腕を咄嗟に掴み、強引に引き寄せた。
 何の抵抗もなくしなだれかかる穂の重みを感じ、少し手荒に扱いすぎたかとも思ったが、事態が事態なだけに謝罪は後回しで許して貰おうと考える。

「眞尋と一樹は――」

 人の流れを避けながら二人が向かった売店へと視線を向けるが、そこに在った行列は今やうねる波の一部と化している。

「…津森くんが一緒だから、要さんは大丈夫な筈よ」

 圭の胸の中で穂が身じろいだ。
 突然の事態に身体が怯えてしまったのか細い肩が微かに震えてはいるものの、その声が思いのほかしっかりとしていた事に安堵する。
 穂の言う通り、一樹はどんな場面に遭遇しても自身を見失わないだけの度胸を持っている男だ。
 独自の判断で眞尋と共に安全な場所まで避難を始めているだろう。

「よし、こっちも移動しよう」

 そうは言ったものの、既に出来上がってしまっている人の渦に身を投じるのはあまりにも無謀だった。
 むしろ危険でさえあるだろう。下手に飛び込んで足を挫きでもしたら、それこそ大事な場面で逃げる事すらままならない。

 圭は合流が容易そうな流れを探して視線を周囲に飛ばす。
 徒に時間を浪費してしまうこの瞬間に侵蝕者が目の前に出現しないとも限らないし、いつまでも立ち止まっていたところで事態の改善も望めないだろう。
 この時世である。対侵蝕者の設備も整っている避難場所へ移った方が身の安全は図れる筈だ。

「…大丈夫、落ち着いて」

 圭自身が感じている以上に焦りが表情に出てしまったのだろう。穂が宥めるように手を握ってきた。
 微かに震える指先から穂も不安と焦りを隠しきれないのを感じ取ったが、それが逆に圭の乱れる心を落ち着かせた。

「大丈夫、落ち着いて……」

 しかし、圭は己の考えが違っている事を知った。
 自分に向けられていると感じた言葉、それは穂が自身に言い聞かせているものであった。
 一向に収まらない震えは、突然の状況に麻痺してしまった思考を表しているのだろう。よく見れば、呼吸も浅く早いものになっている。

 圭は自分を恥じた。
 クラス委員長という普段の姿からか、心のどこかで穂を頼りにしていた自身を悟ったからだ。
 こんな時にこそ誰に頼る事なく、自身の力で乗り切れなければ男として格好がつかないではないか。
 まずは自分が持ち得る材料で事態に臨む。他人を頼るのはそれからでも十分だ。

(思い出せ……)

 こういう事態のために、叉葉山高では普通科の生徒にも様々な教育を施しているのではないか。
 なにも侵蝕者と戦い、これを討ち取れという無茶を言っている訳ではない。
 仮に遭遇してみたところで、上手く逃げおおせればこちらの勝ちだ。

(学校で教えられた事は、戦い方じゃない)

 逃げ方、命の守り方、そして緊急事態における平常心だ。
 今一度、穂を強く抱きしめると、大きく深呼吸を始める。
 幾度となく繰り返すうち、それにつられるようにして穂の呼吸も落ち着きを取り戻し始める。
 空いている手で穂の頭を撫でながら、その指先の震えも次第に小さなものへと変わってゆくのを感じた圭はゆっくりと身体を離した。

「…め、迷惑かけちゃったわね」

 頬を赤らめた穂が視線を逸らすのを見て、圭の口許に笑みが浮かんだ。
 今度こそ本当に大丈夫そうだ。

「そんなに笑う事ないじゃないの。誰だって侵蝕者は怖いわよ!」

 そっぽを向いた筈なのに、圭の笑顔は見えていたらしい。紅潮した顔を更に赤くして圭に食ってかかる。
 俺だって怖いよ、言いかけた言葉を圭は呑み込んだ。
 多少の緊張感はあった方が良いが、不安材料を自ら増やす事に利点などありはしない。
 もしも穂が圭を頼ってくれているのならば、そこに発生する責任感さえも己の力を後押しするものに変えればいい。
 圭は苦笑だけを穂への返事とした。

「そろそろ移動しよう。いつまでもこんな所に居るワケにもいかないしな」

 焦燥感に煽られる気持ちを落ち着かせるのに、存外に時間を要してしまったらしい。
 気付けば周囲には二人以外の誰も存在していなかった。
 根本から折られた観葉植物、散乱するテーブル、砕かれた店頭のショウケース、そして半壊した電動案内機。
 目に映る光景は竜巻が通過したかのようだが、耳に届く騒乱的なざわめきが決してそのようなものではない事を証明している。

「…っと、今はそんな場合じゃなかったな」

 想像さえしなかった光景を前に足を止めてしまったが、とにかく今は避難エリアに向かわなければいけない。
 シティ内の随所に点在している電光掲示板には、近隣の避難エリアの情報とそこまでのルートを示す矢印が点滅している。
 近い中で、収容人数に余裕のありそうな場所に向かう事にした。
 先導役を努めようと穂に先んじて走り出そうとしたが、左手を引かれて足を止めた。
 見れば、穂を引き寄せた時のままに手が繋がれており、意に反して身体は緊張していたのだと思い知らされる。
 両手は空いていた方が走りやすいだろうと指の緊張を解くが、開いた筈の手は繋がれたまま。
 その先を視線で追うと、不安そうに微笑む穂の顔に行き当たった。

「とにかく急ごう」

 微かに体温の低い指先を握り直すと、穂も強く握り返してきた。
 二人は、改めて避難エリアのある区画へと足を向けた。
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