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はじまり
034 特訓しよう
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普通科とはいうが、体術と通常の体育授業とを併せれば体操着に着替えない日がない事も、叉葉山高の特色のひとつに挙げられる。
基礎体力作りは、この学校の理念のひとつともいうべきものなのだ。
そして、他のクラスメイトが通常通りの体育の授業を受ける中、圭は人目につかない校舎裏で緊張に身を強張らせていた。
「おお! 君が特訓を受けたいという加瀬君だな!」
無駄に逞しい体格を持つ体育教師の沢木は、声もまた無駄に活力に満ちていた。
有り余る力を誇示するかのように太い両腕をぐるぐると回転させ、筋肉ダルマという言葉を連想させる厚みのある肉体は、暑苦しい圧力を与えてくる。
圭の目の前には三人の男がいた。
昨年、教育実習を終えたばかりの新任体育教師、沢木。
白と濃紺の道着に身を包んだ剣道部主将の八津坂。
そして、体術の授業で師範として何度も顔を会わせている非常勤講師、継島。
特に継島とは一樹を病院送りにした一件以来であり、圭はどことなく居住いの悪さを感じてしまう。
「よ、よろしくお願いします!」
既に準備運動は済ませてある。
沢木の言葉通り、これから始める特訓の手順も理解してはいる。
しかしそれでも、自然と身を包む緊張感は拭えそうにはなかった。
「うむ! 千沙都さ…桂木先生から話は聞いているぞ。どうしても短期間で力をつけたいそうだな。この自分に話を持ってきたのは非常に賢明だと言えるぞ!」
体格通りと言うべきか、地声からして一般人の声量を遙かに上回る沢木は、校舎の壁際で様子を見守る千沙都に誇示するかのように厚い胸を反らせた。
どうも沢木は千沙都に気があるらしく、圭の特訓にかこつけてポイントを稼ごうという目算があるようだ。
そういった個人の思惑はさておくにせよ、沢木の言葉から察するにザナルスィバの件は聞かされてはいないようだった。
ザナルスィバの存在自体が公にされていない話なので、それを伏せたまま、どのような説明をつけて助力を仰いだのか。
所詮は一介の生徒でしかない圭では、授業時間を使っておおっぴらな訓練など出来よう筈もなく、千沙都の手回しの良さに感謝するばかりだ。
「しかし、聞いたぞ。君は千沙都さ……桂木先生に交際を迫っているそうじゃないか。
彼女が魅力的だというのは同じ男として賛同するが、親身になって骨を折ってくれる彼女の優しさにつけ込むとは、そこは感心できないな!」
「えええええっ!?」
圭は目を丸くした。
千沙都は一体どのように話を通したのか、先程までの感謝の念が瞬く間に立ち消える。
「ふぅむ。それは聞き捨てならないねえ」
八津坂の爪先が芝生の上を滑った。
片目を隠す程に伸びた前髪を流れるような仕草で後ろへと払い、そのまま顎先を軽く撫でる。
全国大会の上位に食い込むという実力の程は聞かされていたが、女性に目がなく、己の色男振りを言外にアピールしようとする悪い癖があるという事も余談的に耳にしている。
他の男子生徒による、ただのやっかみだろうと思っていた圭だったが、その絵に描いたような姿を前にどこか納得したような気持ちになってしまった。
第一印象としては、その前髪の長さは運動部員としてはどうなのかという事だったが、圭の特訓に付き合わせてしまっている以上は黙っておいた方が良さそうだが。
「あんなに魅力的な私設応援団を擁しておきながら桂木先生に恋慕の情を抱くとは、不遜にも程があるとは思わないかね?」
「私設、応援団……?」
この先輩は何を言っているのだろうか。
妙に芝居がかった身振りの八津坂が示す方向へと目を向ける圭。
「圭ちゃ~ん!」
何時の間に現われたのだろう、千沙都の両脇にはジャージ姿でスポーツタオルを抱える眞尋と、松葉杖を抱えるようにして座る制服姿の穂がいた。
眞尋は満面の笑みで手を振って寄越し、穂は静かな微笑みを湛えている。
「どうして二人が…」
単純骨折という奇跡的に軽度の診断を受け、右足首をギプスで固めた穂はともかくとして、眞尋は体育授業を抜け出してきたというのか。
いや、体育を免除された穂にしても教室での安静を言い渡されている筈ではないのか。
「ちょっと、千沙都さん……!」
非常勤とはいえ、教職の立場にある千沙都が何も注意しないのか。
抗議の声を上げかける圭だったが、その瞬間に背後から殺意にも似た圧力を感じた。
「…ほほぅ。『千沙都さん』とは、随分と親しげな口を利くのだな。君は?」
沢木だった。
口元は笑顔に保たれてはいたが、その口角は小刻みに震えており、何より目が笑ってなどいなかった。
「え、いや、そのっ」
そう呼ぶようにと言われたからだと答えたところで、理解を示して貰えるだろうか。
それどころか下手をすれば更なる誤解を招くだけに違いない。そう本能的に察知した圭は言葉に窮した。
「ちょ~っと、君には教育的指導が必要なようだな? ん! んんんっ!?」
鎧のような厚い筋肉を細波のように器用に震わせながら、圭ににじり寄る沢木。
「そうですね。清らかなる乙女たちが暴慢な毒牙にかかる前に、目を覚まさせてあげる必要があるでしょう」
沢木とは違った方向から、圭の逃げ場を狭めてくる八津坂。
どう考えても嫉妬による言い掛かりでしかなかったが、裏事情を知らない第三者的視点からすれば、また違った解釈が生まれるものだろう。
圭の特訓など念頭から抜け落ちた二人に迫られながら、じりじりと後退を続ける圭の踵が障害物に触れた。焦るばかりに早くも壁に追い込まれてしまったのか。
「三人とも、何を遊んでいる?」
振り返るよりも先に、重い声が投げかけられた。
圭の踵が触れたのは継島の足だった。
継島の立つ場所へと追い込まれていたのか、圭の後退する先へと継島が移動していたのかは分からない。
この場で判別できる事といえば、三人を見据える眼光の奥に少なからず怒気が含まれている事だろうか。
その視線とぶつかった三人は、息を呑むように動きが止まった。
「加瀬、時間が惜しいのだろう。まずは一周行ってこい」
有無を言わせぬ声に、圭は返事も発せないままに駆け出した。
体よく逃げられてしまったと残念がる沢木と八津坂に背を向け、継島は己の持ち場へと足を向ける。
「千沙都さ…桂木先生をあの生徒の魔手から救い出す、せっかくのチャンスでしたのに」
自分よりも小柄な背に、沢木が不満の声をぶつける。
継島が割って入らなければ、教育的指導と銘打った行為を本当に敢行するつもりだったらしい。
沢木はなおも抗議の意を表明しようとしたが、振り返った継島の眼光に気圧され声を失った。
「貴様も男ならば、最初に受けた責務を全うせんか。それが終わった後で好きにすれば良かろう」
何も言い返せず、沢木も自分の持ち場へと戻る。
この釈然としない気持ちは両の拳に乗せ、すぐに戻ってくる圭にぶつけてやろう。
特訓期間が終わるのを待つまでもない。そう心に誓いながら。
そんな二人を見ながら、八津坂は無言で肩をすくめた。
まったくもって継島の言う通りなのだが、沢木の気持ちも分からないでもない。
血気逸る沢木のように千沙都に対して個人的感情を抱いている訳ではないが、三人もの器量好しが一人の男に肩入れする様子を見てしまっては、正直、面白くはない。
(まぁ、こっちはこっちで好きにやらせて貰うさ)
圭に向けられていた眞尋と穂の視線が、それ以上の熱をもって自分へと注がれる遠くない未来を思い描き、八津坂は心の中でほくそ笑んだ。
基礎体力作りは、この学校の理念のひとつともいうべきものなのだ。
そして、他のクラスメイトが通常通りの体育の授業を受ける中、圭は人目につかない校舎裏で緊張に身を強張らせていた。
「おお! 君が特訓を受けたいという加瀬君だな!」
無駄に逞しい体格を持つ体育教師の沢木は、声もまた無駄に活力に満ちていた。
有り余る力を誇示するかのように太い両腕をぐるぐると回転させ、筋肉ダルマという言葉を連想させる厚みのある肉体は、暑苦しい圧力を与えてくる。
圭の目の前には三人の男がいた。
昨年、教育実習を終えたばかりの新任体育教師、沢木。
白と濃紺の道着に身を包んだ剣道部主将の八津坂。
そして、体術の授業で師範として何度も顔を会わせている非常勤講師、継島。
特に継島とは一樹を病院送りにした一件以来であり、圭はどことなく居住いの悪さを感じてしまう。
「よ、よろしくお願いします!」
既に準備運動は済ませてある。
沢木の言葉通り、これから始める特訓の手順も理解してはいる。
しかしそれでも、自然と身を包む緊張感は拭えそうにはなかった。
「うむ! 千沙都さ…桂木先生から話は聞いているぞ。どうしても短期間で力をつけたいそうだな。この自分に話を持ってきたのは非常に賢明だと言えるぞ!」
体格通りと言うべきか、地声からして一般人の声量を遙かに上回る沢木は、校舎の壁際で様子を見守る千沙都に誇示するかのように厚い胸を反らせた。
どうも沢木は千沙都に気があるらしく、圭の特訓にかこつけてポイントを稼ごうという目算があるようだ。
そういった個人の思惑はさておくにせよ、沢木の言葉から察するにザナルスィバの件は聞かされてはいないようだった。
ザナルスィバの存在自体が公にされていない話なので、それを伏せたまま、どのような説明をつけて助力を仰いだのか。
所詮は一介の生徒でしかない圭では、授業時間を使っておおっぴらな訓練など出来よう筈もなく、千沙都の手回しの良さに感謝するばかりだ。
「しかし、聞いたぞ。君は千沙都さ……桂木先生に交際を迫っているそうじゃないか。
彼女が魅力的だというのは同じ男として賛同するが、親身になって骨を折ってくれる彼女の優しさにつけ込むとは、そこは感心できないな!」
「えええええっ!?」
圭は目を丸くした。
千沙都は一体どのように話を通したのか、先程までの感謝の念が瞬く間に立ち消える。
「ふぅむ。それは聞き捨てならないねえ」
八津坂の爪先が芝生の上を滑った。
片目を隠す程に伸びた前髪を流れるような仕草で後ろへと払い、そのまま顎先を軽く撫でる。
全国大会の上位に食い込むという実力の程は聞かされていたが、女性に目がなく、己の色男振りを言外にアピールしようとする悪い癖があるという事も余談的に耳にしている。
他の男子生徒による、ただのやっかみだろうと思っていた圭だったが、その絵に描いたような姿を前にどこか納得したような気持ちになってしまった。
第一印象としては、その前髪の長さは運動部員としてはどうなのかという事だったが、圭の特訓に付き合わせてしまっている以上は黙っておいた方が良さそうだが。
「あんなに魅力的な私設応援団を擁しておきながら桂木先生に恋慕の情を抱くとは、不遜にも程があるとは思わないかね?」
「私設、応援団……?」
この先輩は何を言っているのだろうか。
妙に芝居がかった身振りの八津坂が示す方向へと目を向ける圭。
「圭ちゃ~ん!」
何時の間に現われたのだろう、千沙都の両脇にはジャージ姿でスポーツタオルを抱える眞尋と、松葉杖を抱えるようにして座る制服姿の穂がいた。
眞尋は満面の笑みで手を振って寄越し、穂は静かな微笑みを湛えている。
「どうして二人が…」
単純骨折という奇跡的に軽度の診断を受け、右足首をギプスで固めた穂はともかくとして、眞尋は体育授業を抜け出してきたというのか。
いや、体育を免除された穂にしても教室での安静を言い渡されている筈ではないのか。
「ちょっと、千沙都さん……!」
非常勤とはいえ、教職の立場にある千沙都が何も注意しないのか。
抗議の声を上げかける圭だったが、その瞬間に背後から殺意にも似た圧力を感じた。
「…ほほぅ。『千沙都さん』とは、随分と親しげな口を利くのだな。君は?」
沢木だった。
口元は笑顔に保たれてはいたが、その口角は小刻みに震えており、何より目が笑ってなどいなかった。
「え、いや、そのっ」
そう呼ぶようにと言われたからだと答えたところで、理解を示して貰えるだろうか。
それどころか下手をすれば更なる誤解を招くだけに違いない。そう本能的に察知した圭は言葉に窮した。
「ちょ~っと、君には教育的指導が必要なようだな? ん! んんんっ!?」
鎧のような厚い筋肉を細波のように器用に震わせながら、圭ににじり寄る沢木。
「そうですね。清らかなる乙女たちが暴慢な毒牙にかかる前に、目を覚まさせてあげる必要があるでしょう」
沢木とは違った方向から、圭の逃げ場を狭めてくる八津坂。
どう考えても嫉妬による言い掛かりでしかなかったが、裏事情を知らない第三者的視点からすれば、また違った解釈が生まれるものだろう。
圭の特訓など念頭から抜け落ちた二人に迫られながら、じりじりと後退を続ける圭の踵が障害物に触れた。焦るばかりに早くも壁に追い込まれてしまったのか。
「三人とも、何を遊んでいる?」
振り返るよりも先に、重い声が投げかけられた。
圭の踵が触れたのは継島の足だった。
継島の立つ場所へと追い込まれていたのか、圭の後退する先へと継島が移動していたのかは分からない。
この場で判別できる事といえば、三人を見据える眼光の奥に少なからず怒気が含まれている事だろうか。
その視線とぶつかった三人は、息を呑むように動きが止まった。
「加瀬、時間が惜しいのだろう。まずは一周行ってこい」
有無を言わせぬ声に、圭は返事も発せないままに駆け出した。
体よく逃げられてしまったと残念がる沢木と八津坂に背を向け、継島は己の持ち場へと足を向ける。
「千沙都さ…桂木先生をあの生徒の魔手から救い出す、せっかくのチャンスでしたのに」
自分よりも小柄な背に、沢木が不満の声をぶつける。
継島が割って入らなければ、教育的指導と銘打った行為を本当に敢行するつもりだったらしい。
沢木はなおも抗議の意を表明しようとしたが、振り返った継島の眼光に気圧され声を失った。
「貴様も男ならば、最初に受けた責務を全うせんか。それが終わった後で好きにすれば良かろう」
何も言い返せず、沢木も自分の持ち場へと戻る。
この釈然としない気持ちは両の拳に乗せ、すぐに戻ってくる圭にぶつけてやろう。
特訓期間が終わるのを待つまでもない。そう心に誓いながら。
そんな二人を見ながら、八津坂は無言で肩をすくめた。
まったくもって継島の言う通りなのだが、沢木の気持ちも分からないでもない。
血気逸る沢木のように千沙都に対して個人的感情を抱いている訳ではないが、三人もの器量好しが一人の男に肩入れする様子を見てしまっては、正直、面白くはない。
(まぁ、こっちはこっちで好きにやらせて貰うさ)
圭に向けられていた眞尋と穂の視線が、それ以上の熱をもって自分へと注がれる遠くない未来を思い描き、八津坂は心の中でほくそ笑んだ。
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