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はじまり
047 来訪者は鉄塊を叩く
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防犯カメラは基本的に24時間365日稼働している。
室内の液晶モニターに表示させたところで、カメラ動作に変化が現れる事はない。
外の人間が中を窺い知る事のできるモニターなど存在しないし、月菜はインターホンの回線すら開いていない。
月菜の失態で大きな物音を出していたならばともかく、外に立つ緋美佳が室内で息を殺す月菜の在宅を知る手段は何一つ存在しないのだ。
『ダメじゃないの。居留守なんて使っちゃ』
しかし緋美佳は明らかに月菜に語りかけていた。
まるでカメラのレンズに月菜の姿が見えているかのように、その言葉には澱みがない。
(な、なんで…?)
今にも漏れそうな声を必死で押し止める月菜だったが、次の瞬間には声にならない悲鳴が喉の奥から絞り出される事になる。
防犯カメラを見つめる緋美佳の瞳が漆黒から緑色へと変じたのだ。
欧米人にみられるような透明感のある色ではなく、蛍光色のような緑色。
まるで発光しているその色は人間の身体では作り出せないものであり、見る者に嫌悪と恐怖を抱かせるには十分な効果を持っていた。
「だ……誰?」
ここに至り、月菜は目の前のモニターに映る人物が緋美佳ではない何者かだと察したが、そればかりか人間ですらない可能性に驚愕するばかりだった。
しかし、そのような存在が加瀬家に何の用があるのか、どうして緋美佳の姿をしているのか。
『開けてくれないのなら、勝手にお邪魔しちゃうわよ?』
思考が飽和しそうになっている月菜などお構いなしに、最後通告ともとれる言葉を口にした緋美佳は行く手を塞ぐ鉄の扉へと向き直った。
がすん…っ!
部屋全体を揺るがすような、甲高くも重い音が響いた。見れば、モニターの中では緋美佳がその細い腕を高々と振り上げていた。
が…すんっ!
上げた腕を振り下ろすと同時に響く打撃音。
そう、緋美佳は鉄扉を打ち破る手段を、無造作に殴りつけるという行為に求めたのだ。
普通に考えれば、素手で鉄扉を破ろうなど狂気の沙汰でしかないだろう。
ハンマーを用いたならば柄が折れ、重量のある鉄塊を用いたならば体力が負ける。
およそ道具を使ったとしても、肉体を行使する以上は徒労に終わる筈なのだ。
ましてや素手の拳を叩き付けるなど、本気で振るっているのであれば骨折どころの被害では済まないに違いない。
それほどまでに、昨今の住宅設備は防犯性能が充実している。
しかし、そんな月菜の持つ常識など大きく逸脱し、緋美佳が拳を振るう度に鉄製の扉は大きく悲鳴を上げ、強固さを誇るその身を変形させていった。
目に見えて歪んでゆく鉄扉を視界に捉えながら、月菜は床の上で震えていた。
あの様子では扉が破られるまで数分とかからないだろう。
途中で蝶番が完全に壊れれば、分単位の時間も要さないかもしれない。
逃げ出そうにも腰は抜けてしまい、そもそも唯一の出入口を塞がれた状態でどこへ逃げられるというのか。
果たして緋美佳は――緋美佳の姿をした何者かは何を欲しているのだろうか。
月菜の殺害が目的なのか、いっそ殺してくれと懇願せずにはいられないような別の目的があるのか。
どちらにせよ友好的な展開にならないだろう事は疑いようもなく、一秒でも早い圭の到着を祈るしかできなかったが、救いの手は思いがけない形で月菜の耳に届いた。
『あーあー。聞こえているかな、加瀬月菜くん?』
大音量で名を呼ばれ、緋美佳の時とは違った意味で月菜は飛び上がりそうに驚いた。
『できるだけ部屋の端に寄っていたまえ。巻き添えを喰うぞ?』
携行できるようなサイズの拡声器ではないのだろう、呼び掛けてくる声は衝撃波のようにマンションの窓を震わせる。
このマンションのみならず、区画全域にまで届きそうな音量でフルネームを呼ばれる恥ずかしさなど考える暇もなかった。
床を這うように部屋の隅へと移動した矢先、それまで自分が居た場所を光の束が貫いた。
そのあまりの眩しさと熱量に網膜が灼けるかと思ったが、数秒間視界が利かなくなった程度で済んだ。
ルビィが身体を震わせて月菜をバリアのようなもので保護していたのだが、視界が利かない僅かな時間の出来事であり、月菜がそれに気付く事はなかった。
やがて視界が戻った月菜の前に展開していたのは、惨憺たる室内だった。
光が通過した場所は激しく抉られており、剥き出しになった建材の焼け焦げた様子がなんとも痛々しい。
直接に触れられていない場所までもが小火に遭ったかのように黒い化粧を施されている。
マンションを貫くようにして穿たれた軌跡は玄関へと延びており、そこに立っていた緋美佳を巻き込んだ事は明白だ。
否、巻き込んだというよりも最初から緋美佳を狙っていたのではないだろうか。
そう思える程に、これ以上ないタイミングだった。
(ともかく、逃げないと…)
本当に直撃していれば緋美佳がどのような存在だろうと命はないだろうが、火事に見舞われた如き惨状の部屋にいつまでも留まってはいられない。
こうまで大きな穴を作られてしまった以上、部屋そのものがいつ崩れるとも知れないのだ。
かろうじて無事だった靴を下駄箱の奥から引っ張り出し、瓦礫の山と化した玄関口を慎重に乗り越えてゆく。
その途中で足を止めた。
瓦礫に半ば埋まるようにして倒れ込んでいる緋美佳の姿を捉えたからだ。
胸から上をごっそりと食い千切られ、仰向けに斃れた姿。
離れた位置に無造作に転がされた左腕。
一見すれば無残な死体なのだが、周囲に血液が飛び散っていないという状態が、やはり人外の存在なのだと物語っていた。
それでも人の形をした遺骸を目の当たりにするのは心苦しく、すぐにでも離れようとした月菜だったが、その目の前で異変は起きた。
転がっていた腕がうねるように震えたかと思うと、倒れたままの身体に向けて滑るように移動したのだ。
それはさながら引き寄せ合う磁石のようであったが、磁石と違っていたのは、身体に触れた途端にその内部へと取り込まれていった事であろう。
まるで粘土細工を潰すかのように埋まってゆくと同時に、欠けた胸部から新たな肩が、腕が、蠢くように生えてきた。
そして周囲に散らばる細かな瓦礫をも体内に吸い寄せ始め、消失した首までも再生しようとする。
不気味に蠢き変形する血肉なき姿が、背筋にうすら寒い感覚を呼び起こす。
「い……侵蝕者!?」
ここで初めて月菜はその正体を悟った。
しかし、学校やテレビで知らされる侵蝕者の情報とは明らかに異なっているではないか。
見分けがつかないまでに人の姿を取り、ましてその言語を操るなど聞いた事もない。
侵蝕者が何故に緋美佳の姿形を模しているのか。
不可解な部分も多々あったが、その正体が侵蝕者だと分かれば月菜には逃げる以外に何もできない。
今にもその身を起こしかねない緋美佳に背を向けると、一目散に遁走を開始した。
室内の液晶モニターに表示させたところで、カメラ動作に変化が現れる事はない。
外の人間が中を窺い知る事のできるモニターなど存在しないし、月菜はインターホンの回線すら開いていない。
月菜の失態で大きな物音を出していたならばともかく、外に立つ緋美佳が室内で息を殺す月菜の在宅を知る手段は何一つ存在しないのだ。
『ダメじゃないの。居留守なんて使っちゃ』
しかし緋美佳は明らかに月菜に語りかけていた。
まるでカメラのレンズに月菜の姿が見えているかのように、その言葉には澱みがない。
(な、なんで…?)
今にも漏れそうな声を必死で押し止める月菜だったが、次の瞬間には声にならない悲鳴が喉の奥から絞り出される事になる。
防犯カメラを見つめる緋美佳の瞳が漆黒から緑色へと変じたのだ。
欧米人にみられるような透明感のある色ではなく、蛍光色のような緑色。
まるで発光しているその色は人間の身体では作り出せないものであり、見る者に嫌悪と恐怖を抱かせるには十分な効果を持っていた。
「だ……誰?」
ここに至り、月菜は目の前のモニターに映る人物が緋美佳ではない何者かだと察したが、そればかりか人間ですらない可能性に驚愕するばかりだった。
しかし、そのような存在が加瀬家に何の用があるのか、どうして緋美佳の姿をしているのか。
『開けてくれないのなら、勝手にお邪魔しちゃうわよ?』
思考が飽和しそうになっている月菜などお構いなしに、最後通告ともとれる言葉を口にした緋美佳は行く手を塞ぐ鉄の扉へと向き直った。
がすん…っ!
部屋全体を揺るがすような、甲高くも重い音が響いた。見れば、モニターの中では緋美佳がその細い腕を高々と振り上げていた。
が…すんっ!
上げた腕を振り下ろすと同時に響く打撃音。
そう、緋美佳は鉄扉を打ち破る手段を、無造作に殴りつけるという行為に求めたのだ。
普通に考えれば、素手で鉄扉を破ろうなど狂気の沙汰でしかないだろう。
ハンマーを用いたならば柄が折れ、重量のある鉄塊を用いたならば体力が負ける。
およそ道具を使ったとしても、肉体を行使する以上は徒労に終わる筈なのだ。
ましてや素手の拳を叩き付けるなど、本気で振るっているのであれば骨折どころの被害では済まないに違いない。
それほどまでに、昨今の住宅設備は防犯性能が充実している。
しかし、そんな月菜の持つ常識など大きく逸脱し、緋美佳が拳を振るう度に鉄製の扉は大きく悲鳴を上げ、強固さを誇るその身を変形させていった。
目に見えて歪んでゆく鉄扉を視界に捉えながら、月菜は床の上で震えていた。
あの様子では扉が破られるまで数分とかからないだろう。
途中で蝶番が完全に壊れれば、分単位の時間も要さないかもしれない。
逃げ出そうにも腰は抜けてしまい、そもそも唯一の出入口を塞がれた状態でどこへ逃げられるというのか。
果たして緋美佳は――緋美佳の姿をした何者かは何を欲しているのだろうか。
月菜の殺害が目的なのか、いっそ殺してくれと懇願せずにはいられないような別の目的があるのか。
どちらにせよ友好的な展開にならないだろう事は疑いようもなく、一秒でも早い圭の到着を祈るしかできなかったが、救いの手は思いがけない形で月菜の耳に届いた。
『あーあー。聞こえているかな、加瀬月菜くん?』
大音量で名を呼ばれ、緋美佳の時とは違った意味で月菜は飛び上がりそうに驚いた。
『できるだけ部屋の端に寄っていたまえ。巻き添えを喰うぞ?』
携行できるようなサイズの拡声器ではないのだろう、呼び掛けてくる声は衝撃波のようにマンションの窓を震わせる。
このマンションのみならず、区画全域にまで届きそうな音量でフルネームを呼ばれる恥ずかしさなど考える暇もなかった。
床を這うように部屋の隅へと移動した矢先、それまで自分が居た場所を光の束が貫いた。
そのあまりの眩しさと熱量に網膜が灼けるかと思ったが、数秒間視界が利かなくなった程度で済んだ。
ルビィが身体を震わせて月菜をバリアのようなもので保護していたのだが、視界が利かない僅かな時間の出来事であり、月菜がそれに気付く事はなかった。
やがて視界が戻った月菜の前に展開していたのは、惨憺たる室内だった。
光が通過した場所は激しく抉られており、剥き出しになった建材の焼け焦げた様子がなんとも痛々しい。
直接に触れられていない場所までもが小火に遭ったかのように黒い化粧を施されている。
マンションを貫くようにして穿たれた軌跡は玄関へと延びており、そこに立っていた緋美佳を巻き込んだ事は明白だ。
否、巻き込んだというよりも最初から緋美佳を狙っていたのではないだろうか。
そう思える程に、これ以上ないタイミングだった。
(ともかく、逃げないと…)
本当に直撃していれば緋美佳がどのような存在だろうと命はないだろうが、火事に見舞われた如き惨状の部屋にいつまでも留まってはいられない。
こうまで大きな穴を作られてしまった以上、部屋そのものがいつ崩れるとも知れないのだ。
かろうじて無事だった靴を下駄箱の奥から引っ張り出し、瓦礫の山と化した玄関口を慎重に乗り越えてゆく。
その途中で足を止めた。
瓦礫に半ば埋まるようにして倒れ込んでいる緋美佳の姿を捉えたからだ。
胸から上をごっそりと食い千切られ、仰向けに斃れた姿。
離れた位置に無造作に転がされた左腕。
一見すれば無残な死体なのだが、周囲に血液が飛び散っていないという状態が、やはり人外の存在なのだと物語っていた。
それでも人の形をした遺骸を目の当たりにするのは心苦しく、すぐにでも離れようとした月菜だったが、その目の前で異変は起きた。
転がっていた腕がうねるように震えたかと思うと、倒れたままの身体に向けて滑るように移動したのだ。
それはさながら引き寄せ合う磁石のようであったが、磁石と違っていたのは、身体に触れた途端にその内部へと取り込まれていった事であろう。
まるで粘土細工を潰すかのように埋まってゆくと同時に、欠けた胸部から新たな肩が、腕が、蠢くように生えてきた。
そして周囲に散らばる細かな瓦礫をも体内に吸い寄せ始め、消失した首までも再生しようとする。
不気味に蠢き変形する血肉なき姿が、背筋にうすら寒い感覚を呼び起こす。
「い……侵蝕者!?」
ここで初めて月菜はその正体を悟った。
しかし、学校やテレビで知らされる侵蝕者の情報とは明らかに異なっているではないか。
見分けがつかないまでに人の姿を取り、ましてその言語を操るなど聞いた事もない。
侵蝕者が何故に緋美佳の姿形を模しているのか。
不可解な部分も多々あったが、その正体が侵蝕者だと分かれば月菜には逃げる以外に何もできない。
今にもその身を起こしかねない緋美佳に背を向けると、一目散に遁走を開始した。
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