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始まりの唄

始まりの唄

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◇◇◇

 無音の街を走ること10分。ゆのかの目の前には、大きなコンクリートの壁が立ちはだかった。
 大きな壁は、島を囲うように立てられていて、全長は150km以上にも及ぶ。
 壁の高さは約10m。脱獄を防止するための刑務所の壁より、遥かに高い。
 この壁の向こう側に行く方法が2つある。
 1つは、橋を渡ること。もう1つは──

 大きな壁だが、ゆのかの目の前には古びた木のドアが、ポツンと1つ取り付けられている。
 ドアには、色褪せた赤で“立入禁止”と、大きく書かれている。

 壁の向こう側に行くもう1つの方法は、このドアを開けること。
 “立入禁止”なんて文字を完全に無視して、ゆのかはドアノブを回した。

(立入禁止なら…壊れた鍵ぐらい、直せばいいのに。)

 ホペ州に住む人々は、気味悪がって、壁には近寄らない。鍵は壊れて、そのままになってしまった。
 ドアを開けると…湿った風が、潮の香りを運ぶ。

 目の前には、見渡す限りの………“海”。

 禁海法きんかいほうが施行されているホペ州では、決して入ってはいけない場所。そして、ホペ州の人から、忌み嫌われている場所だ。
 壁を越えたその瞬間、老若男女問わず捕まる。ホペ州では最悪、死刑が言い渡される。

(“家出”……成功、した…)

 だが、ゆのかは、安堵でいっぱいだった。
 事の重さに臆することなく、柔らかい砂浜に足を踏み入れる。

(靴…邪魔だなぁ。)

 疲れきって覚束ない足で、靴を履いたまま砂浜を歩くのは、少し難しい。
 人差し指を踵の後ろに差し込んだ。

(靴も、靴下も…もう、必要ないから……ここに、置いとこう…あっ。)

 ビュゥッ!
 突如、強い風が巻き起こった。その拍子に、ゆのかが被っていた帽子が、吹き飛ばされてしまった。
 長く、透き通るような髪が…月に照らされながら、風になびく。

「帽…子………」

 追いかけようとして、砂浜に素足を潜り込ませた。きめ細かい砂を、足の裏いっぱいに感じる。

(…くすぐったい。)

 ようやく少しだけ、ゆのかの顔がほころんだ。
 ギュッ、ギュッ、とその場で跳ねてみる。ひんやりとした砂が、くすぐったくて気持ちいい。ゆのかは、靴と同様、飛ばされた帽子もどうでもよくなってしまった。

(最近、海に来れなかったから…楽しいなぁ……)

 たとえ世界が、海の存在を憎み、忌み嫌っても……ゆのかは、海を嫌いになることはなかった。

(こんな私を受け入れてくれる…唯一の優しい場所。
 潮の香りも、波の音も、海の色も…全部、好き。)

 波の音に包まれて、ゆのかは久しぶりに、呼吸することができたような気がした。

(なのに……どうして、禁海法きんかいほうは…なくならないのかな……)

 その途端、楽しい気持ちは、膨らんだ風船の口を離したかのようにしぼんでしまった。ゆのかは思わず、唇を噛みしめる。

(こんな法律のせいで…たくさんの人が、命を落としたなんて…)

 ゆのかは、ハッと我に返った。

(……違う。
 私が、もっと……もっと、もっと…頑張っていれば……)

 小さな手に爪が食い込む。その痛みで、自分が泣いていることに気づいた。
 涙がポロポロ零れる。目を擦っても、全く止まりそうにない。
 ゆのかは、黒い海を見つめた。

(“許して”なんて…言いません。
 その代わり…何もかも、終わらせます。
 だから最期に、この場所に……大好きで、思い出がいっぱい詰まったこの場所に…いさせてください……)

 天に向かって、ゆのかは願った。
 ゆのかの2つ目の家出計画は、誰かに見つかるまで、この砂浜にいること。
 見つからなければ、やがて弱りきって死んでしまうだろうし……もし、誰かに見つかっても、禁海法きんかいほうによって、死刑を宣告される。
 そう──ゆのかは、自ら命を絶とうとしていたのだった。

 それでも、ゆのかの心は、軽くなった。ようやく、過酷な人生から解放されるのだ。

(最後だから…何をしても、いいんだ……
 私…何をしよう…?)

 少し考えて、ゆのかは思い出した。

(ずっと…やりたいこと……あったんだった。)

 目を閉じる。ゆのかの頭の中に、懐かしいギターの音が流れた。
 ゆのかは、息を柔らかく吸いこんだ。


“ 夜より深い 暗闇で
  いつも見ていた 小さな夢
  光が消えた あの日々に
  さよならをして 立ち上がる ”


 儚くて、繊細で、切なくて
 まるで薄く透き通る硝子のような、音色が海辺に響き渡る。
 ゆのかの歌声は、甘美な余韻を残して、夜空に吸い込まれていく。

『“始まりの唄”っていうの。』

 頭の中で響いたのは、優しい声だった。

(お母さん…っ、会いたいよ……)

 亡き母の、あったかい笑顔や、まるで琥珀のように淡く透き通った髪を、思い出す。

(お母さんだけじゃないっ……
 お父さん…ののか…!!)

 会いたい。
 叶うはずもない願いに、ゆのかは、ギュッ…と、目をつぶった。

 7年前。ゆのかが9歳の時に、両親は交通事故で亡くなった。
 それから、ゆのかと双子の妹のは祖父母に引き取られた。
 祖父母と言っても、ゆのかは母方の、ののかは父方の祖父母に引き取られた。
 つまりゆのかは、この世に残された、たった1人の愛する家族と、離れて暮らしているのだった。

(ののか…元気かな……?
 やんちゃで…でも、誰よりも私のことを分かってくれる…優しい妹だった……)

 よく、周りの人達から“正反対の2人”と言われていた。大人しいゆのかとは違って、明るくて活発な妹だった。
 喧嘩することもあった。だが、とても仲が良い姉妹だった。

(こうなる前に…会いたかったなぁ……)

 胸がキリッ…と痛くなる。ゆのかはその痛みを紛らわすように、また口を開いた。


“ あなたに
  伝えたい想いが あるの
  届けたい歌が あるの
  ぎこちない言葉を
  聴いて欲しいから
  広い海を越えて
  あなたに 会えるかな…? ”


 ゆのかは、途中で口を閉じた。

(今…私……)

 もう一度、ワンフレーズだけ歌ってみる。


“ 広い海を越えて
  あなたに 会えるかな…? ”


 ゆのかは…目の前の、真っ黒な海を見つめた。

(もし、この海を泳ぎきれたら……ののかに、会えるかもしれない…?)

 ゆのかは、唾をゴクリと飲んだ。だが、すぐに首を横に振る。
 ゆのかは、ののかが、この広いトワのどこにいるかを知らない。当てもなく捜して会えるなんて、ほぼ不可能だ。

(それ以前に…海を泳ぎきるなんて……私に、できるわけ……)

 運良く海を泳ぎきって、違う州に辿り着いたとしても…海から来たことを知られたら、殺される可能性だってある。
 危険すぎる賭に、ゆのかの体は固まった。

(でも……どうせ、死ぬなら)

 足が動く。

(もう少しだけ…足掻きたい。)

 ザブン、ザブン、と黒い液体がゆのかの細い足にまとわりつく。

(もう少しだけ…頑張りたい。)

 ドプン
 小さな体が、海の中に埋まっていく。

(“こんな私”が、そう思うことを…まだ許されるのであれば…
 ののかに…会いたい………)

 ゆのかの体の半分が、海に沈んでも
 波に自由が奪われても
 ゆのかの足が、止まることはなかった。

 しばらくして、ゆのかは、夜の海を泳ぐという行動が、いかに浅はかで考えなしなものだったのか…痛いほど、思い知ることになる。

(……あれ?
 痛っ…)

 海底に足がつかない場所で、足をつってしまった。

「きゃっ!?
 は……げほっ!」

 慌てて、顔を海から出そうとするが…足が痛くて、思うように動かせない。

(苦し…い…口の中…しょっぱい……苦しい……
 ……あ。)

 ゆのかは気づいた。その瞬間、もがくことを諦めた。

(私…死ぬの………?)

 ゴボッ………
 泡を1つ吐く。ゆのかの意識が、段々おぼろけになっていった。

(死ぬって…案外、呆気ないんだ……
 もっと…もっと……怖い、かな…って……思ってた…………)

 ゆのかの体が、暗い海の底に吸い込まれていく。

(でも…このまま、生き続けるより…死刑で殺されるより………こっちの方が、良いかもしれない……)

 さっきまで苦しかった呼吸が、楽になってきたような気がした。

(だって、私…海、が…大…好き…だから………)

 体の力が、抜けていく。

(ごめん……なさい…………)

 ゆのかの涙は海に溶けて…目の前が暗くなった。





───だが、ゆのかはまだ、何も知らなかった。

これは、絶望の日々の終焉ではなく

すべての始まりだったということを───



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