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Night.1-3

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「あの」

 男はこちらを見ない。イヤホンのせいで聞こえていないらしい。

「すみません」

 傘を握り締めたまま、ゆっくりと進む。大きく息を吸った。

「すみません!」

 男の肩が揺れた。ぱっとこちらを見る。不審者という言葉さえも似つかわしくないほどあどけない顔に、東は肩の力が緩む。

 少年じみた顔が、東を凝視し綻んだ。イヤホンを外す。

「おかえりなさい!」

「え、あ、ただい……ま……?」

 無邪気な歓迎に圧されて思わず返事をしてしまう。

「いやいやいや、じゃなくて。ここ、俺の部屋なんですが」

「そうっしょ。だっておれ、あんた探して来たんだもん」

「え、は?」

 完全に降りていた手が、再び体の前で傘をぎゅっと握った。危うく顔に騙される所だったが、犯罪者に顔つきなんて関係ないのだ。唇を結び、男を睨み付ける。

「出て行ってくれませんか」

 男は大きな双眸を丸くして、きょとんとしている。

「何度も言いますけど、ここは俺の家なんです。どなたか存じ上げませんが勝手に上がらないでください」

 握り締めた傘が汗で滑る。

 相手はあからさまに年下で、せいぜいはたちで、体格もさほど変わらないはずだが、不審者が家に上がり込んでいるなんて経験がないせいか、惨めなくらい身体が怯えている。

 警察を呼ぶのが先だった、失敗した────東はすっかり色を失った唇を噛んだ。

 しかし男はけろりとして、愛想のいい笑顔を浮かべる。

「あ、おれ?おれ、平瀬敦って言います。羽鳥さんの……あー、なんて言うの?おっかけ?みたいな?」

(ひぃぃ!)

 悲鳴すら上がらなかった。東は傘を握り締め震え上がった。やっぱり不審者だった。犯罪者だった!
 何故そうなったかはよく分からないがストーカーであることは分かる。平然と宣言しやがった!

「けっ、警察呼びますよ」

「え、待って待って!おれ、怪しくなんかないっす」

「充分怪しいでしょうが!」

 思わずツッコミを入れると、平瀬敦と名乗った男は眉を下げて頬を掻くと、東をまっすぐ見上げベッドの上に正座した。澄んだ目に少し気圧され、東は顎を引いて硬くなる。

「おれ、あんたに純粋に憧れてるだけで。危害を加えようとなんて思ってないんです。ただ今日、あんたの様子がおかしいから」

「ははっ」

 思わず、笑っていた。やけに乾いた響きの声が込み上げ、東の喉を震わせた。片目を覆う。

「笑うなよ」

 敦はあどけなさの残る目が険しくなった。正座した膝の上で、拳が堅く握り締められている。

 東は溜息と共に、フローリングの上にすとんと腰を下ろした。何だか脱力していた。今時のストーカーというのは、こんなに初々しいものなのか。

「笑うだろ。俺は別におかしくなんかない」

「おかしいだろ!あんな────」

 勢い込んで言う言葉が、不意に途切れた。寒そうに自らの肩を抱き、息を吸う。

「あんな、空っぽみたいな笑顔で、やべー量の酒買って」

 敦の目が、玄関に置いたままのふたつのビニール袋に向いた。

「羽鳥さんさ」

 急に気弱な声になって、彼は正座を崩して膝を抱えた。東は拗ねた少年のようなそれを、よく人から何を考えているのか分からないと言われる淡々とした表情で眺めていた。

「羽鳥さんさ、死ぬん?」

「そうだよ」

 なんでもないことのように白けた声が出た。

 そう、なんでもないことなのだ。

 頭の中で何度も繰り返されたことが現実になるだけ。脳裏で羽鳥東はすでに幾度も幾度も死んでいる。あとひとつ増えたところでなんでもない。
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