5 / 7
第五章:崩壊の序章
しおりを挟む
■ 健康診断と“想定外”
数週間前のことだった。
会社の年次健康診断で、再検査の案内が届き――精密検査の結果は「初期の胃がん」。
幸いにも早期発見で、内視鏡による切除で済んだ。
命に関わる段階ではなかった。それでも、胸を抉られるような衝撃だった。
もっと大きかったのは――
自分が加入していた住宅ローンの団体信用生命保険に、「がん特約」を付けていなかったという事実だった。
"もし"、あの時に特約を付帯していれば、住宅ローン残高が0になったのだ。
「"もし"、進行がんだったら? "もし"、再発して、働けなくなったら?」
"もし"が止まらなくなった。
この“家”が、一瞬で“足かせ”に変わる可能性に気づいたとき、
住宅ローンはもはや“未来への投資”ではなく、“首輪”のように感じられた。
あの時――契約時に、
「特約を付けると月々の支払いが増える」と言われ、惜しいと思い付帯しなかった。
積立型の生命医療保険も、数ヶ月前に解約していた。
毎月のキャッシュフローが苦しくなり、元本割れしてでも“現金化”せざるを得なかった。
「掛け捨て型の共済に入り直せばいいや」
そう思っていたが、手続きを面倒くさがって先延ばしにしていた。
――何一つ、備えていなかった。
そして、気づいた時にはもう「かもしれない」ではなく「起きてしまったこと」だった。
手術費や入院にかかった費用は、俺の父が立て替えてくれた。
「何も気にするな。いざという時のために蓄えてきたんだ」
そう言って封筒を差し出す父の手は、年齢以上に大きく、どこか温かかった。
俺は反射的に頭を下げたけれど、本当は――言葉が出なかった。
父は、俺の家庭の事情を詳しくは知らない。
けれど、察していたのだと思う。
妻と子どもの姿が見えないこと。
声に張りがないこと。
そして何より、俺の目がどこか虚ろであることに。
「困ってる事があるなら、いつでも言えよ」
ただそれだけ。詮索も、説教もない。
けれど、その一言に、胸の奥の何かが緩んだ。
“守るべき家族”を築いたつもりが、
気付けば――また“守られる側”に戻っていた。
⸻
■ 妻の限界
俺の体調を気遣いながらも、妻の様子は明らかにおかしかった。
寝不足。食欲不振。言葉数が減り、笑顔も消えた。
それでも無理に笑い、子どもの世話をし、買い物をし、家計をやりくりしていた。
そしてある日、静かに言った。
「……私、病院に行ってきたの。うつ病って診断された」
家計のこと、子どものこと、そして俺の病気。
全部が少しずつ彼女を削り取り、いつの間にか立っていられないほどにしていた。
⸻
■ 単独債務という現実
妻は、子どもを連れて実家へ帰ることになった。
妻の実家は郊外の一戸建てで、しばらく両親の世話になるという。
だが、問題はここからだった。
このタワーマンションの住宅ローン――名義は俺ひとり。
そう、妻は銀行のローン審査では「連帯保証人」にはなっていない。
つまりこの部屋は法的には、幸か不幸か「俺の借金」でしかなかった。
⸻
■ 売却という選択肢
手術を終え、職場に復帰した頃には、妻と子どもの姿はもうこの家にはなかった。
最初のうちは、帰宅してもテレビをつけっぱなしにしていた。
寂しさを紛らわせるため――と、自分に言い訳して。
けれど日が経つにつれ、それすらもしなくなった。
家は静まり返っていた。
高級マンション特有の遮音性は、今ではただ孤独を強調する壁でしかなかった。
キッチンに立つこともなく、ソファにも座らず、ただ寝て起きるためだけの箱。
ある夜、カーテン越しに見えた夜景を眺めながら、ふと思った。
「この部屋、俺には広すぎるな」
それは贅沢への後悔ではなく、空虚さへの呟きだった。
ローンの残債が重くのしかかってくる。
この部屋が、家族の“幸せの象徴”だったはずなのに、
今では“誰もいない現実”を突きつける場所になっていた。
「売ろうか…もう、ここにいても仕方ない」
そう決意するまでに、時間はかからなかった。
それは敗北ではなく、ただの現実受容だった。
⸻
■ 売却相談と、現実との乖離
「一度、査定してみましょう」
友人に紹介してもらった不動産業者に売却査定を依頼した。
しかし返ってきた数字は、想像以上に厳しかった。
・同じ棟で複数の売却物件がある(価格競争)
・高層階・角部屋ではあるが“築浅中古”というだけで価格は目減り
・問い合わせすら来ない価格設定では意味がない
査定額:8,600万円
諸費用・仲介手数料を差し引いた手取り額:約8,300万円
ローン残債:約9,800万円
差額、マイナス1,500万円
---
「ちなみに今回の売却動機をお聞きしても?」
「いやー、妻が子供の為に自然の多い所に移ろうって言い出して…」
「なるほど!そしたらお住み替えという事ですね!購入物件はお決まりですか?」
その場を取り繕う為に吐いた嘘だったが、売却損を手持ち資金で補えるはずもなく、俺は売却損を次の物件へと上乗せする形でローン審査を進めることになった。
⸻
■ 審査の壁と、信用情報の現実
次の仮購入物件:1億円
売却損の補填:1,500万円
合計融資希望額:1億1,500万円
結果は、審査を申し込んだ三行全てで“否決”。
「お勤め先やご年収には問題ないようですが……何か、お心当たりは?」
ある。ありすぎる。
・クレジットカード:限度額まで利用
・リボ払い:残高多額
・消費者金融:複数社から借入中
・自動車ローン:残債あり
住宅ローンの審査においては、信用情報機関を通じて“すべて”が金融機関に筒抜けになる。
融資不可は当然の結果だった…
最初はテンションの高かった不動産営業マンも、
「何か良い方法がないか考えてみます…」の言葉を最後に、連絡が来ることは無かった。
数週間前のことだった。
会社の年次健康診断で、再検査の案内が届き――精密検査の結果は「初期の胃がん」。
幸いにも早期発見で、内視鏡による切除で済んだ。
命に関わる段階ではなかった。それでも、胸を抉られるような衝撃だった。
もっと大きかったのは――
自分が加入していた住宅ローンの団体信用生命保険に、「がん特約」を付けていなかったという事実だった。
"もし"、あの時に特約を付帯していれば、住宅ローン残高が0になったのだ。
「"もし"、進行がんだったら? "もし"、再発して、働けなくなったら?」
"もし"が止まらなくなった。
この“家”が、一瞬で“足かせ”に変わる可能性に気づいたとき、
住宅ローンはもはや“未来への投資”ではなく、“首輪”のように感じられた。
あの時――契約時に、
「特約を付けると月々の支払いが増える」と言われ、惜しいと思い付帯しなかった。
積立型の生命医療保険も、数ヶ月前に解約していた。
毎月のキャッシュフローが苦しくなり、元本割れしてでも“現金化”せざるを得なかった。
「掛け捨て型の共済に入り直せばいいや」
そう思っていたが、手続きを面倒くさがって先延ばしにしていた。
――何一つ、備えていなかった。
そして、気づいた時にはもう「かもしれない」ではなく「起きてしまったこと」だった。
手術費や入院にかかった費用は、俺の父が立て替えてくれた。
「何も気にするな。いざという時のために蓄えてきたんだ」
そう言って封筒を差し出す父の手は、年齢以上に大きく、どこか温かかった。
俺は反射的に頭を下げたけれど、本当は――言葉が出なかった。
父は、俺の家庭の事情を詳しくは知らない。
けれど、察していたのだと思う。
妻と子どもの姿が見えないこと。
声に張りがないこと。
そして何より、俺の目がどこか虚ろであることに。
「困ってる事があるなら、いつでも言えよ」
ただそれだけ。詮索も、説教もない。
けれど、その一言に、胸の奥の何かが緩んだ。
“守るべき家族”を築いたつもりが、
気付けば――また“守られる側”に戻っていた。
⸻
■ 妻の限界
俺の体調を気遣いながらも、妻の様子は明らかにおかしかった。
寝不足。食欲不振。言葉数が減り、笑顔も消えた。
それでも無理に笑い、子どもの世話をし、買い物をし、家計をやりくりしていた。
そしてある日、静かに言った。
「……私、病院に行ってきたの。うつ病って診断された」
家計のこと、子どものこと、そして俺の病気。
全部が少しずつ彼女を削り取り、いつの間にか立っていられないほどにしていた。
⸻
■ 単独債務という現実
妻は、子どもを連れて実家へ帰ることになった。
妻の実家は郊外の一戸建てで、しばらく両親の世話になるという。
だが、問題はここからだった。
このタワーマンションの住宅ローン――名義は俺ひとり。
そう、妻は銀行のローン審査では「連帯保証人」にはなっていない。
つまりこの部屋は法的には、幸か不幸か「俺の借金」でしかなかった。
⸻
■ 売却という選択肢
手術を終え、職場に復帰した頃には、妻と子どもの姿はもうこの家にはなかった。
最初のうちは、帰宅してもテレビをつけっぱなしにしていた。
寂しさを紛らわせるため――と、自分に言い訳して。
けれど日が経つにつれ、それすらもしなくなった。
家は静まり返っていた。
高級マンション特有の遮音性は、今ではただ孤独を強調する壁でしかなかった。
キッチンに立つこともなく、ソファにも座らず、ただ寝て起きるためだけの箱。
ある夜、カーテン越しに見えた夜景を眺めながら、ふと思った。
「この部屋、俺には広すぎるな」
それは贅沢への後悔ではなく、空虚さへの呟きだった。
ローンの残債が重くのしかかってくる。
この部屋が、家族の“幸せの象徴”だったはずなのに、
今では“誰もいない現実”を突きつける場所になっていた。
「売ろうか…もう、ここにいても仕方ない」
そう決意するまでに、時間はかからなかった。
それは敗北ではなく、ただの現実受容だった。
⸻
■ 売却相談と、現実との乖離
「一度、査定してみましょう」
友人に紹介してもらった不動産業者に売却査定を依頼した。
しかし返ってきた数字は、想像以上に厳しかった。
・同じ棟で複数の売却物件がある(価格競争)
・高層階・角部屋ではあるが“築浅中古”というだけで価格は目減り
・問い合わせすら来ない価格設定では意味がない
査定額:8,600万円
諸費用・仲介手数料を差し引いた手取り額:約8,300万円
ローン残債:約9,800万円
差額、マイナス1,500万円
---
「ちなみに今回の売却動機をお聞きしても?」
「いやー、妻が子供の為に自然の多い所に移ろうって言い出して…」
「なるほど!そしたらお住み替えという事ですね!購入物件はお決まりですか?」
その場を取り繕う為に吐いた嘘だったが、売却損を手持ち資金で補えるはずもなく、俺は売却損を次の物件へと上乗せする形でローン審査を進めることになった。
⸻
■ 審査の壁と、信用情報の現実
次の仮購入物件:1億円
売却損の補填:1,500万円
合計融資希望額:1億1,500万円
結果は、審査を申し込んだ三行全てで“否決”。
「お勤め先やご年収には問題ないようですが……何か、お心当たりは?」
ある。ありすぎる。
・クレジットカード:限度額まで利用
・リボ払い:残高多額
・消費者金融:複数社から借入中
・自動車ローン:残債あり
住宅ローンの審査においては、信用情報機関を通じて“すべて”が金融機関に筒抜けになる。
融資不可は当然の結果だった…
最初はテンションの高かった不動産営業マンも、
「何か良い方法がないか考えてみます…」の言葉を最後に、連絡が来ることは無かった。
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
還暦の性 若い彼との恋愛模様
MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。
そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。
その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。
全7話
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる