キスから始まる恋心

にのみや朱乃

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4. 二度目のキス

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 放課後、わたしは誰もいなくなった教室に呼び出されていた。まだ日は傾いておらず、もう少ししたら夕日になって教室が美しくなる時間帯。どうせ呼び出すのなら、この時間は屋上や中庭のほうが雰囲気は良いような気がする。誰にも知られないという点では、教室のほうが良いのかもしれないけれど。

 わたしは呼び出された理由を察していた。この時間帯に、ここへ、男子から呼び出されたのであれば、内容はひとつしか思い浮かばない。告白だ。

 わたしは呼び出されてからとても憂鬱だった。はっきりと断るのが苦手な人間にとって、どうしても断らなければならない事態というのは避けたい。けれど、向こうからやってくるのだから、避けようがない。どうやって断ろうか。そればかり考えていて、わたしは午後の授業にもほとんど集中できなかった。悠夏が隣にいてくれれば、さらっと断ってくれるだろうに。わたしには悠夏のように相手を切り捨てる勇気がない。怖いと思ってしまう。

 どうか、違う用事でありますように。わたしは祈るような気持ちで教室のドアを開ける。

 教室の中には既に男子生徒がいた。去年同じクラスだった羽鳥くん。それほど親しいわけでもなく、特に話した記憶もないのだが、向こうはわたしのことを覚えていたようだ。わたしは呼び出されるまで顔すら不鮮明にしか覚えていなかった。今相手の顔を見て、ようやく多少思い出したくらいだ。そんな相手から告白されても、こちらは困るだけなのに。
 羽鳥くんは緊張した面持ちで教室の中央に立っていた。それだけで、わたしの望みが断たれたことを察する。もしかしたら悠夏と繋いでほしいとか、そういう話かもしれないけれど、それならこんな時間にこんな場所へ呼び出さないでほしい。
 わたしは教室の扉を閉めて、努めて笑顔を浮かべながら言った。

「ごめん。待たせちゃったかな」
「い、いや、いいんだ。僕が早く来ちゃっただけだから」

 わたしが扉付近から近づかなかったからか、羽鳥くんが近づいてくる。お互いが腕を伸ばせば届きそうな距離になり、わたしは気づかれないように一歩後ろに下がった。

 早く終わらせよう。わたしの答えは決まっている。わたしは話の先を促した。

「話って、なに?」

 自分でも白々しいと思う。わかっているくせに、相手が言うのを待つ。心の強い人ならばここで先制攻撃を浴びせるのだろうが、わたしにはそんな勇気はない。
 羽鳥くんはわたしのほうを見ないまま、わたしに愛を告げる。

「そ、その、僕、二場さんのことが、好きです」

 わたしはできるだけ表情を変えないように気をつける。予想していた通りの内容なのだから驚きもない。用意していた言葉を放って、帰る。それだけだ。

「ぼ、僕と、付き合ってくれませんか」
「ごめんね。わたし、誰かと付き合うつもりはないんだ」

 わたしが用意していた言葉だ。あなたが悪いわけではなく、わたしが誰とも付き合わないようにしている。あなたが嫌いなわけではないのだ、ということまで伝わってくれたら嬉しいが、別に伝わらなくても良い。羽鳥くんと今後話すようなこともないだろうし、関係が険悪になっても構わない。それならもっと攻撃力のある言葉で振ってしまうほうが良いのだろうけれど、相手の傷ついた顔を見るのが嫌で、わたしはこの程度に留めてしまっている。
 羽鳥くんはショックを受けたような顔を見せる。わたしはそれを見ていられなくて、すぐにでもこの教室から出ていきたくなってしまう。

「どうして? 他に、好きな人でもいるの?」

 それを聞いてどうするというのだろう。その答えがどちらでも、羽鳥くんに可能性が生まれることはないのに。わたしは再び、用意していた答えを投げる。

「うん。片想いだけどね」
「そ、そう、なんだ」

 羽鳥くんはわたしの嘘を信じて、ますます表情を暗くした。これで打ちのめされてくれれば最良だ。わたしは話を切って、早々にここから立ち去ることができる。
 空気が重い、無言の時間が流れる。気まずい。だから嫌なのだ、告白されるのは。羽鳥くんも、わたしが受け入れる可能性があると思って告白したのだろうか。だとしたら、とんでもない希望的観測がそこにある。どうしてよく知らない人と付き合うというのだ。

「お話は、終わり?」

 わたしは止めの一撃を放つ。暗に早く帰らせろと言っている。察しの良い男子なら、ここでわたしを解放してくれる。自分に興味がないことを悟ってくれるからだ。
 しかし、羽鳥くんは違った。縋るような目でわたしを見つめ、食い下がってきた。

「と、友達からでもいいんだ。だから、連絡先を教えてくれるだけでも」
「え、ええ?」

 わたしは困惑してしまう。新しいパターンだ。これまで、振られてもなお食い下がってくる人はいなかった。みんな潔く諦めてくれていた。このパターンへの回答は用意していない。

「お願い。僕、本当に二場さんのことが好きなんだ。諦めたくないんだ」
「でも、わたしには好きな人がいてね」
「構わないよ。友達からでいいんだ。もっと僕のことを知ってもらって、それからもう一度考えてみてほしいんだ」

 わたしは心の中でため息を吐いた。こんなにぐいぐい来られたのは初めてだ。諦めが悪いというか、良く言えばどうしても自分の目的を果たそうとする強い意志があるのだけれど、迫ってこられるわたしのことも考えてほしい。羽鳥くんと友達になる気はない。自分のことを異性として好いている相手とどうやって親しくなれば良いのだ。下心が透けて見えてしまっているようなものだ。

 どうやって断ろう。友達になる気はありません? それは、酷い言葉ではないだろうか。あまり傷つけず、連絡先も交換しないような言葉は、どこかに転がっていないだろうか。

「その、ええと、わたし、好きな人しか見ている余裕がなくて」
「それでも大丈夫だよ。僕は、二場さんと話せれば幸せなんだ。だから、連絡先の交換だけでもお願いできないかな」

 羽鳥くんは一歩前に踏み出してくる。わたしは本能的に一歩下がったが、背中が扉に当たってしまった。俄かに恐怖心さえ湧いてきてしまう。

 悠夏。わたし、どうしたらいいの。こんなことなら悠夏にも教室の外までついてきてもらえば良かった。こんなことになるなんて思いもしなかった。
 わたしは混乱する頭で必死に考えて、断るための言葉を探す。しかし、恐怖すら覚えてしまった頭では、そう簡単に見つけられるものではない。

「ねえ、二場さん。それくらいいいでしょ? 僕のことを知ってもらう時間があってもいいと思うんだよ。そうしたら、僕のことを好きになってくれるかもしれない」
「ええと、あの、ね」
「二場さん。ねえ、連絡先くらい、いいでしょ?」

 羽鳥くんはわたしをじっと見つめてくる。自分の制服のポケットからスマートフォンを取り出し、わたしに迫ってくる。
 いっそ教えてしまうほうが楽なのではないか。教えてしまえば、今ここからは逃げることができる。その後、冷静になってからどうにかする方法を考えるほうが良いのではないだろうか。それなら悠夏にも相談できる。わたし一人で考えたところで、この場を乗り切る方法が今浮かんでくるとも思えない。

 そうだ。断れないなら逃げることを考えよう。後からでもきっとどうにかなる。

 わたしが逃げの一手を取ろうとした瞬間、わたしの真後ろの扉が勢いよく開いた。

「え……っ」

 わたしは絶句する。そこには瀧本くんが立っていたのだ。不機嫌そうに、切れ長の目を細めながら。

「おい。てめえ、何してんだ」
「え、た、瀧本、どうしてここに」
「何してんだって聞いてんだよ。誰に許可取って詩織を呼び出してんだ?」

 瀧本くんはずかずかと教室に入ってきて、そのままの勢いで羽鳥くんの胸倉を掴んだ。羽鳥くんの表情が恐怖に歪んでも、瀧本くんは意にも介さない。

「お前、どこのクラスだ。俺のものに手を出すとはいい度胸じゃねえか、ああ?」
「ひ……っ、お、俺の、もの?」

 怯える羽鳥くんを突き飛ばして、瀧本くんはわたしの肩を抱いた。突然のことにわたしは頭がついていかず、そのまま瀧本くんの胸に身体を預けてしまう。

 え? これは、どういうこと? 何が起こってるの?

「詩織は俺のものだ。てめえ、俺に喧嘩売ってんのか? ぶん殴ってやろうか」
「ち、ちょっと、待って」

 わたしが割り込むと、瀧本くんは目線だけでわたしを制した。その目はとても冷めていた。本気ではないのだ。瀧本くんは冷静で、わざと不良ぶってこんなことをしているのだ。
 まさか、わたしを助けに来てくれたのだろうか。わたしが断れなさそうだったから?

 瀧本くんは聞こえるように舌打ちをして、羽鳥くんを鋭く睨みつけた。

「やめろってよ。よかったなあ、殴られなくて」

 瀧本くんがいちばん近くの机を蹴り飛ばす。がらんがらんと大きな音を立てて机が床に転がり、わたしは身を縮めた。羽鳥くんは一歩、二歩と下がり、その場に尻餅をついてしまう。その顔は恐怖の色に染まっていた。

「詩織に近づいてみろ。次はてめえが蹴られる番だ。俺は詩織と違って優しくねえからな」

 瀧本くんが低い声で脅す。羽鳥くんは震えながら首を横に振った。もう近づかないという意思表示なのだろう。これはきっと、相当怖い思いをしているはずだ。学年一の不良とも言われる瀧本くんに脅されては、ほとんどの男子は震えあがることだろう。

「帰るぞ、詩織。無駄に探させやがって」
「え、あっ、ご、ごめん」

 瀧本くんはわたしの手を優しく握り、教室から連れ出してくれる。羽鳥くんは呆然としたまま動けないようだった。瀧本くんが入ってきた時と同じような勢いで教室の扉を閉める。苛立っているというアピールなのだと思った。
 わたしたちは無言のまま教室を離れ、一階の土間までやってくる。ずっと手を繋がれたままで、わたしは手を離すタイミングを見失っていた。瀧本くんがわたしの手を引いていくからだ。そんなことをしなくてもわたしは歩けるのだけれど、なんとなく、そのままにしていた。

 瀧本くんは足を止め、わたしをじろりと見た。お説教だ。わたしはその先を察した。

「お前さぁ、マジで断れないのな。俺が来なかったらどうしてたんだよ」
「ご、ごめん。今日は、ほんとに助かった」

 わたしがお礼を言うと、瀧本くんはがりがりと頭を掻いた。

「いつもつるんでる女はどうした? あいつ、何してんだよ」
「悠夏には言ってないの。こういう話って一人で行くほうがいいでしょ?」
「それは断れる奴が言うんだよ。お前みたいに自分で断れねえ奴は一人で行くんじゃねえ。おかげで俺が不良になっただろうが」
「ごめん。ありがと」

 瀧本くんはまだ何か言いたそうだったが、ため息を吐いて言葉を飲み込んだ。言っても無駄だと思ったのかもしれない。

「駅まで送ってく。俺とつるんでるって思われるほうがいいだろ」
「え、いいよ、わたし駅方面じゃないし」
「じゃあ家まで送るよ。あの男にも一緒に帰るって言っちまったしな」

 瀧本くんはわたしの返事を待たずに歩き出してしまう。わたしは慌てて彼の後を追う。

「いいって。歩いて十五分くらいかかるよ」
「本気で嫌なのか、遠慮してんのか、どっちだ?」

 瀧本くんの瞳がわたしを映している。わたしはその瞳を直視できなくて、つい目を逸らしてしまう。
 わたしが断れるようにしてくれている。断りづらいことに変わりはないけれど、瀧本くんなりにわたしに配慮したつもりなのだろう。見た目とは違って、そういうこともできる人なんだ。

「嫌、じゃないけど」
「じゃあいいだろ。行くぞ」
「遠いよ? 瀧本くん、回り道になっちゃうよ」
「いいんだよ俺は。どうせ夜までふらふらしてんだ、いい暇潰しになる」
「そっか。じゃあ、いいんだけど」

 わたしが嫌だと言わない限り、瀧本くんは家まで送るつもりだ。乗りかかった船、なのかな。
 わたしも一人で帰る気が起こらず、瀧本くんの言葉に甘えてしまう。瀧本くんでもいないよりはずっと良い。一人でいたら羽鳥くんの目を思い出してしまいそうだ。

 わたしたちは並んで歩き、校門を出て住宅街に向かう。わたしの家は学校から歩いて十五分くらいのところにあるマンションだ。とても静かな地域で、治安も良く、この時間だと子どもたちの遊ぶ声が近くの公園から聞こえてくる。家族連れが多く住んでいるところだ。
 瀧本くんと一緒に帰り道を歩いていることに違和感がある。わたしはその奇妙な感覚をどうにかやり過ごしたくて、瀧本くんに話を振った。

「ねえ、どうして来てくれたの?」
「詩織を探してたんだよ。どこか遊びに行かねえかと思って」
「それで、教室に来たの?」
「そうだな。何か話してるみたいだから待ってたんだが、どうにも話が変な方向に行ってたからな。割り込ませてもらった」

 わたしにとっては英断だ。あのまま瀧本くんが来てくれなかったら、わたしは連絡先を教えてしまっていただろう。その後にどうなるのかは考えたくもない。

「瀧本くんが来てくれてよかった。あんなに食い下がられたの初めてで」
「お前さ、最初から断ればいいじゃん。なんでわざわざ話を聞きに行くんだよ」
「だ、だってさ、話も聞かずに断るのって可哀想じゃない? もしかしたら告白じゃないかもしれないんだよ?」
「そんなこと言ってるから今日みたいなことになるんだろうが。お前は押されたら弱いんだから、そこんとこもっと自覚を持てよ」

 瀧本くんは盛大にため息を吐いた。非難されている気がして、わたしは小さくなってしまう。

「まあ、俺のものだって言っといたから大丈夫だろ。広まるといいな」
「あ、そう、それ。なんで俺のものだって言ったの? 全然違うでしょ」
「いいだろ別に。あの場を乗り切るにはそう言うほうが伝わるだろ」
「よくない。絶対誤解されちゃったじゃん」
「まあ、遅かれ早かれ俺のものになるんだから。気にすんなよ」

 瀧本くんがわたしの肩をぽんぽんと叩く。助けてもらった手前、強く訴えることもできず、わたしは瀧本くんを睨む程度に留めた。

「ならないから。そこは間違えないでよね」
「言ってろ。気づいた時には俺に惚れこんでるんだから」
「惚れないから。助けてくれたのは嬉しいけど、それは友達として」
「ほら、知らねえ奴から友達にはなっただろ? そこから彼氏にランクアップするのはいつかねえ」

 瀧本くんに指摘されて、わたしは頬が熱くなるのを感じた。そうだ、いつの間にか瀧本くんと普通に話すことができている。気づいたら男子の中では話しやすい部類に入ってしまっている。ここから、彼氏にランクアップする? いやいや、わたしだってそんなに単純な女ではない。友達と彼氏の間には大きな谷が存在している。

「ランクアップしないから。友達と彼氏は違うでしょ」
「へえ。じゃあ、詩織が彼氏にしたいタイプの男は?」
「へ? タ、タイプ?」

 予想していなかった質問に声が裏返ってしまった。そんなもの考えたこともなかった。
 わたしはどういう人が好み? 優しい人。格好良い人。引っ張っていってくれる人。わたしのことを好きでいてくれる人。わたしを愛してくれる人。

 わからない。どんな人だったら彼氏にしてもいいのか。わたしは回答に窮して、開き直ったように答えた。

「そんなの聞いてどうするの? わたしを惚れさせるためにタイプに近づこうってこと?」
「別に。今のお前のタイプが俺じゃなくても関係ねえよ」
「どうして? 瀧本くんとは真逆かもしれないよ」
「お前のタイプを俺にすればいいだけだろ?」

 わたしは不覚にもどきりとしてしまった。その胸の高鳴りを悟られないよう、瀧本くんから目を逸らして歩く。頬が赤くなっていないか心配だった。

 どうしてそんなに自分に自信を持てるのだろうか。タイプじゃないと切り捨てられたとしても、諦めないという意志はどこから湧いてくるのだろうか。自分が確固たるものになっている瀧本くんが羨ましく感じた。
 ちらりと盗み見た瀧本くんの顔は整っている。わたしを引っ張っていってくれる。口は悪いけれど、優しいところはある。わたしのことを好きかどうかはさておき、わたしが自分のタイプと言われて浮かび上がった項目に、瀧本くんは合致していることに気づいた。

 違う。違うよ。そんなんじゃない。瀧本くんはわたしのタイプではない。いきなりキスしてくるような奴に惚れるわけない。たまたま合致しただけだ。自分のタイプに合致したからといって、好きになるかといったら別の話だ。タイプじゃない男性と付き合って、結果的に幸せになっている例だってたくさんあるだろう。うん。

「何をぶつぶつ言ってんだよ」

 瀧本くんはいきなりわたしの肩を抱き寄せてきた。固い胸板にとんとぶつかり、わたしは肩に回された手の温かさに意識が向いてしまう。

「わ、ちょっと、やめてよ」
「お前が聞こえない声でぶつぶつ言ってるからだろ。この距離なら聞こえるだろ?」
「聞かなくていいから。独り言」
「俺と一緒にいる時に一人で喋ってんじゃねえよ。俺にも聞こえるように話せ」
「な、なんで? あ、わかった、寂しいんでしょ?」

 わたしは弱点を見つけたかのようにからかう。独り言が寂しいだなんて、意外と可愛いところあるじゃん。
 瀧本くんはほんの少しだけ逡巡して、わたしに不敵な笑みを見せた。

「寂しいって言ったら、ずっと一緒にいてくれんの?」
「は、はぁ? ず、ずっと?」
「そ。朝も昼も夜も俺と一緒にいてくれんの?」

 瀧本くんの低い声がわたしの耳を貫く。脳の奥まで瀧本くんの声が染み渡っていく。

 一緒に登校して、一緒にお昼を食べて、一緒に帰るってこと? それ、もう彼女でしょ。
 馬鹿じゃないの。そう一蹴しようとして、わたしは瀧本くんの寂しげな瞳を見てしまった。冗談で言っているのではなく、本気なのかもしれないと思ってしまった。これを冗談だと笑ってしまえば、瀧本くんが傷ついてしまうような気がした。
 だからだ。だから、わたしは瀧本くんの腕を振り払うこともできないのだ。こうやって肩を抱かれたまま、距離が近くても離れろと言えないのだ。

「かっ、彼女になったら、ね。わたし瀧本くんに惚れてないから無理」

 瀧本くんはわたしの返答を聞いて少し驚いたようだった。珍しくその表情が驚きを物語っていた。

「惚れたら一緒にいてくれんの?」
「そりゃ、そうでしょ。好きな人と四六時中一緒にいたいって思うじゃん、きっと」

「お前、その言葉覚えとけよ。後で忘れましたとは言わせねえぞ」
「大丈夫、惚れないから。一生かかっても瀧本くんには惚れない」
「はいはい、言ってろ。恥ずかしい思いするのは詩織のほうだからな」
「しないよ。瀧本くんに何されたって惚れることないもん」
「そうか。俺はいつお前が負けるか楽しみだ」

 瀧本くんは笑いながら、わたしの肩を抱く手を解いた。そこにあった手の温もりが消える。

 だから何だというのだ。好きでもない男に肩を抱かれて喜ぶわけがない。瀧本くんが可哀想だから振り払わなかったのであって、わたしが求めているわけではない。わたしは自分の中にあった昂りに理由を付けて落ち着かせる。
 これは瀧本くんの作戦なのだ。わたしが断れないことを利用して、こうやってわたしにボディタッチして、嫌でも意識させようというのだ。触って女が惚れると思ったら大間違いだ。そんな簡単に惚れるものか。

 だいぶわたしの家の近くまで歩いてきていた。一軒家とマンションが混在している区域を歩きながら、瀧本くんはきょろきょろと周囲を見回している。

「詩織の家はマンションなのか?」
「そうだよ。もうちょっとで着く」
「へえ。マンションってどんな感じなんだよ。狭くないのか?」
「そんなに。瀧本くんは一軒家なの?」
「ああ。今度遊びに来るか?」
「なんでそんな滑らかに誘ってくるわけ? 行かないよ」
「別にただの友達だと思って来ればいいだろ。それとも、何かされるかと思った?」

 瀧本くんは愉しそうに笑ってわたしの顔を覗き込む。まるでわたしだけが意識しているみたいじゃないか。

「お前が惚れるまでは何もしねえよ。捕まるだろ」
「キスしたでしょ。あれだってわたしが訴えたら捕まるんだからね」
「ああ、確かに。逆に、もう何しても許されるんじゃねえの?」
「許さないよ。馬鹿なの?」
「いいだろ、どうせ近いうちに俺に惚れるんだから。いつか同じことするって」
「ほんと、その自信はどこから生まれてくるの? 羨ましいよ」

 わたしが呆れてそう言うと、瀧本くんは少年のように笑った。

「自分に自信がなきゃ、意中の女を落とせるわけねえだろ」
「い、意中の女、って」

 瀧本くんが足を止める。その真剣な眼差しに吸い込まれそうになる。

「お前だよ、詩織。俺は今お前を惚れさせるために頑張ってんだ」

 まっすぐな言葉に胸が苦しくなった。どくん、と心臓が音を立てた。
 意中の女。それは、瀧本くんが、わたしのことを好きだということ? 遊びや冗談でわたしを惚れさせると言っているのではなく、瀧本くんは本気でわたしのことを考えているということなの?

 わたしが瀧本くんをじっと見つめると、瀧本くんは急にわたしを抱き締めてきた。わたしの身体は瀧本くんの腕の中に収まってしまう。間近で見上げる瀧本くんの顔は綺麗で、わたしは目を奪われてしまう。
 そして、瀧本くんの顔がゆっくりと近づいてきて。

「ん……っ」

 また、瀧本くんの唇がわたしの唇と重なる。前と同じように、慈しむような優しいキス。ほんの短い時間だったけれど、確かにわたしの中に爪痕を残していく。
 瀧本くんはわたしから顔を離すと、切れ長の黒瞳でわたしの心を翻弄する。

「キスしてほしそうな目してた」
「してない。最悪。二回目だよ」
「その割に逃げないのな。俺ちゃんと断るチャンス作ったつもりだったんだけど」

 かあっとわたしの顔が熱くなった。断るチャンスなんてあった? そんなタイミング、どこにも見当たらなかった。気づいたら瀧本くんが近くにいて、気づいたらもうキスされていた。いったいどのタイミングで断ることができたのだろうか。

「に、逃げるタイミングなかったもん。こんな、ぎゅってされてさ、キスされたら逃げられるわけないでしょ」

 わたしは真っ赤な顔で抗議の声を上げる。恥ずかしいのに、瀧本くんの瞳から目を話すことができない。まるでそこで視線を固定されてしまったかのようだ。
 再び瀧本くんが顔を近づけてくる。また、なの? わたしはつい目を瞑ってしまった。

 しかしわたしの唇には何の感触もなくて、代わりに額に口づけが落とされた。

「ばーか。待ってんじゃねえよ」

 瀧本くんはどこか嬉しそうにしながらわたしの額を指でつつく。わたしはますます赤くなってしまい、ううう、と唸り声を上げた。
 なんなの。こいつ、絶対わたしで遊んでるだけだ。

「今だって嫌だって言うタイミングあっただろ。呑気に目閉じてんじゃねえよ」
「だ、だって、近づいてくるから」
「俺じゃなかったら断ってただろ? さっき告白してきた奴だったら、お前たぶん死ぬ気で拒否してたぞ」

 それは、悔しいけれどそうかもしれない。羽鳥くんだったら、近づいてきただけでわたしはその分下がるだろう。こんなに近づかれたら怖くて叫び出すかもしれない。いや、その前に走って逃げることだろう。どう断るかなんて考えている余裕はない。

 じゃあ、瀧本くんだから許した? 瀧本くんだから許すのは、どうして?

 瀧本くんは勝ち誇ったような顔をしながら、わたしを腕の中から解放する。わたしを包んでいた瀧本くんの匂いがなくなり、普段の距離に戻ったことを実感する。

「じゃあな、詩織。俺ここで帰るわ」
「え? まだ、家じゃないけど」
「お前もゆっくり考える時間が欲しいだろ? どうして俺ならキスされてもいいのか」

 瀧本くんに何もかも見透かされているような気がして、わたしは言葉に詰まった。
 最初のキスは不意打ちだった。でも、今のキスはそうではない。最後の額にされたキスは、どう考えても断るタイミングがあったはずだ。
 どうして、わたしは瀧本くんだと許してしまうの?

「キスされてもいいわけじゃないから。もうやめてよね」
「強がり言うなよ。三回目はもしかしたらお前からねだるかもしれねえんだぞ」
「ない。絶対ない。早く帰ったら?」

 わたしは精一杯の虚勢を張って瀧本くんを追い返す。自分でも頬が赤いのは理解している。こんなことを言ったところで瀧本くんを喜ばせるだけだというのはわかっている。それでも、瀧本くんとのキスを認めたくなくて、わたしは自分に言い聞かせるように告げたのだ。

 三回目なんて、ない。瀧本くんに惚れることだって、ない。わたしはただ断れないだけなのだ。瀧本くんが強引すぎるから、断ったら可哀想だから、仕方なく受け入れているのだ。

「帰るよ。また明日な」
「うん。じゃあね」

 瀧本くんはひらひらと手を振って、そのまま来た道を引き返していく。振り返ることもなく、角を曲がってその姿を消した。わたしは瀧本くんの姿が見えなくなるまでその場に立っていた。

 一人になると、途端にキスのことを思い出してしまう。意中の人と言われたことを思い返してしまう。しゃがみ込みたくなる自分を叱咤して、わたしは家に向かって歩き出した。今誰かに会ったら、どうしてこんなに顔が赤いのか問われることだろう。ああもう、早く冷めてくれたらいいのに。

 瀧本くんの顔が、声が、頭から離れない。忘れようと思うと余計に意識してしまっている。わたしは自分を落ち着かせるために深呼吸する。冷たい空気が肺に入ってくると、幾分か気分が安らいでいく。

 瀧本くんはわたしの綺麗な部分しか見えていないのだ。だから、わたしを惚れさせようとか言っているのだ。わたしが本当は綺麗ではないことを知ったら、彼はきっとわたしから離れていく。彼が好きなのは、整っている美しい女性だ。わたしはそんな女じゃない。その存在を知ったら、彼だって気持ち悪いと言うことだろう。
 いっそ、先に伝えてしまえば良いのではないか。そうしたら、後からわたしが辛い思いをしなくてもよくなるのではないか。もっと仲良くなってから離れられるよりも、傷痕は小さいのではないか。そんな考えが頭をよぎったが、わたしは首を振って否定した。

 いけない。これは、誰にも見せられない汚いものだ。誰にも見せたくない。同情も、忌避も、嫌悪も、わたしは見たくない。これのことは悠夏だって知らないのだ。これまでずっと、隠し通してきたのだ。

 帰ろう。帰って、少し眠ろう。そのほうが落ち着くだろうし。
 わたしは家に向かって歩き出す。唇に触れると、まだ瀧本くんの熱が残っている気がした。

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