キスから始まる恋心

にのみや朱乃

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7. もう一度

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 ある日の放課後、わたしは初めて女の子に呼び出された。帰ろうとして教室を出たら、彼女はわたしを呼び止めて、人気のない屋上に繋がる階段に連れてきた。断ることなどできない雰囲気だった。

 黒い髪のショートカットで、わたしを睨みつける鋭い目が印象的だった。明らかに好意的に思われていないのはわかる。何だろう、わたしは何かしただろうか。知らない子に怒られるようなことをした覚えはない。わたしは彼女を見たことすらない。どうして彼女はわたしを知っているのだろうか。

 彼女は階段の踊り場で足を止めて、わたしに向き直る。怒気を孕んだ瞳がわたしを射抜く。今にも逃げ出したくなる気持ちを堪えて、わたしは彼女と相対する。
 彼女はわたしをじっと見つめて、静かに告げた。

「一葉くんのことなんだけど」
「一葉くん? ああ、瀧本くん?」

 予想していなかった名前が出てきて、わたしは一瞬誰のことかわからなかった。わたしが聞き返すと、彼女はゆっくりと頷いた。

「あなた、一葉くんの何なの」
「え?」
「一葉くんの何なのかって聞いてるの。彼女じゃないんでしょ」
「う、うん。彼女じゃないよ」

 わたしはそこで用件を察した。これは、面倒なものに捕まってしまった。

「彼女でもないのに、一葉くんに近づかないでくれる? 最近、いっつも二人でいるでしょ」
「そんなことない、と思うんだけど」
「帰りも一緒に帰ってるくせに。教室の前で待ち合わせとか、どういうつもり?」

 彼女はわたしを睨みつけながら詰問する。

 いつのことを言っているのだろうか。わたしが瀧本くんの教室の前で待っていたら、瀧本くんが友達にからかわれた日だろうか。それとも、瀧本くんが約束もなくわたしの教室の前で待っていた時だろうか。思い当たる節が多すぎて、わたしは答えに窮する。どういうつもりと言われても、どういうつもりでもない。ただの友人関係だ。ただの友人が二人で一緒に帰るのかと問われたら、わたしもきっと首を傾げるだろうけれど。

「毎日じゃないよ。瀧本くんの都合が良ければ、なんじゃないかな」
「どうして一緒に帰るの? 彼女面しないでくれる?」
「ええと、それは、瀧本くんに言ってほしいんだけど。わたしから一緒に帰ろうって誘ってるわけじゃないし」

 わたしは悪くないと言いたかったのだけれど、火に油を注いだようだった。彼女の目が吊り上がり、唇の端が震えている。

「あんたさ、ちょっと可愛いからって調子に乗らないでよ。あんたが一葉くんを誘惑してるってみんな言ってんの。一葉くんのこと誑かさないでくれる?」
「誘惑って、そんなこと」
「してないわけないでしょ。見てんのよ、一葉くんと話してる時のあんたの顔。へらへら笑っちゃってさ、可愛く振る舞ってんじゃないわよ。ムカつく」

 剥き出しになった怒りが言葉の刃となってわたしに降り注ぐ。周囲からそんな風に見えていたとは知らず、わたしは衝撃を受けた。周りから見たら、わたしから瀧本くんに近づいているように見えていたのか。

「でも、瀧本くんから話しかけてくるんだから」
「何それ。自分は可愛いから話しかけてもらえるんです、って? 自慢?」
「違うよ。一緒に帰ろうって言うのも瀧本くんだし、わたしは、ただ」

「何なの? あんたさあ、私たちが一葉くんに相手にしてもらえないと思って馬鹿にしてるんでしょ? 一葉くんを弄んでるんでしょ」
「違う。そんなことない」

 何を言っても彼女には伝わりそうになかった。埋められない深い溝がわたしたちの間に横たわっていた。わたしの声が届かないような壁でも立っているのかもしれない。彼女が事実を捻じ曲げて見ているということをどうにか知ってほしいのに、わたしの言葉は届かない。

「一葉くんも、なんでこんな女がいいんだか。いったいどんな手で誘惑したわけ?」
「何もしてないよ。誘惑もしてない。瀧本くんから話しかけてくるんだってば」
「自分は可愛いから待っていても男が寄ってくるって言いたいの? このクソ女」

 彼女はわたしとの距離を詰めて、胸倉を掴むような勢いでわたしを突き飛ばした。よろめいたわたしに、彼女は侮蔑するような視線を送る。

「二度と一葉くんに近づかないで。あんたなんか死ねばいいわ」

 彼女はそう吐き捨てて、階段を下りていった。その場に残されたわたしはすぐに動けず、荒い足音で立ち去っていく彼女の後ろ姿を見送った。

 彼女の姿が見えなくなってから、わたしは階段に座り込んでしまう。自分の膝に顔を埋めると、先程彼女に言われたことが鮮明に蘇ってくる。

 瀧本くんを誘惑するな。近づくな。彼女でもないくせに。可愛いからって調子に乗るな。

 どれもわたしが知っている事実とは異なる。わたしは瀧本くんを誘惑した覚えはないし、瀧本くんだってそう簡単に誘惑に乗るような人間ではないだろう。近づくなと言われたって、わたしから近づいていることのほうが少ない。廊下や食堂で会ったら挨拶する程度のはずだ。それで怒られてしまうのなら、瀧本くんは女子の友人を作ることができない。

 そもそも、彼女はいったい何者だったのだろうか。瀧本くんのことを好きな女子が、わたしに我慢できなくなって文句を言いに来たのだろうか。わたしは、誰かを突き動かしてしまうほどに瀧本くんと一緒にいたのだろうか。彼女をあそこまで怒らせるほどに、瀧本くんの近くにいたのだろうか。

 こんなことになるとは思っていなかった。女子の嫉妬は怖い。後で何をされるかわかったものではない。わたしに何かあったら悠夏も黙っていないだろうけれど、何もないことを願うばかりだ。もう瀧本くんには近づかないほうが良いのかもしれない。

 瀧本くんの顔が浮かんでくる。優しい笑顔。わたしをからかって楽しんでいる時の顔。そして、キスする寸前の真剣な眼差し。ふと気づけば、わたしは自分の唇を指でなぞっていた。あの時の感触を思い出してしまって、わたしは懐かしささえ感じた。

 涙が浮かびそうになるのを堪えて、わたしは階段に座ったまま階下を眺めていた。すぐに動く気分にはなれなかった。切り裂かれた心が塞がるまで、もうしばらくここにいよう。放課後にわざわざ屋上に来るような生徒はいないだろうし。

 しかし、わたしの読みは甘かった。下のほうから数人の男子生徒の声が聞こえてきた。声が近づいてくる。彼らは屋上を目指しているのかもしれない。ここにいたら鉢合わせしてしまう。
 わたしは重い腰を上げて、ふらふらと立ち上がった。いったん教室に戻ろう。教室ならきっと誰もいないし、誰も来ない。荷物も置いてきたままだから、どうせ教室には戻らなければならない。あそこでもう少しゆっくりして、それから帰ろう。

 わたしが思ったよりも男子生徒たちの足は速かった。廊下に出たところで、見たことのある男子の顔が見えた。彼は瀧本くんとよく一緒にいる人だ。食堂でつるんでいるのを見たことがある。背が高くて、ピアスをしていて、きっと不良仲間なんだろうなという認識だった。

 彼もわたしを知っていたのか、わたしを見て驚いたような表情を浮かべた。彼が気さくに手を挙げて挨拶してきたものだから、わたしも無視することができずに足を止めてしまう。

「一葉の女じゃん。どしたの、一人?」
「別に、瀧本くんの女じゃない」

 自分でも思っていないような嫌な声が出た。奥歯を噛み締めて涙を押し殺し、わたしはその場を去った。彼にどう思われたとしても構わない。もう、瀧本くんと関わることもない。

「あ、待てよ。一葉と喧嘩でもしたのか?」

 わたしは今度こそ無視して駆け出した。今誰かと話したら泣いてしまいそうだった。瀧本くんの友達の前で泣いたら、瀧本くんを呼ばれるに決まっている。そうしたらきっと、瀧本くんは来てしまう。近づくなと言われたばかりなのに、わたしは早々に禁を破ってしまう。

 自分の教室に逃げ込むと、当然のように誰の姿もなかった。わたしの机の上に荷物がぽつんと置かれている。わたしは自分の席に座り、鞄を枕にして机に伏した。早く帰れば良いのに、まだわたしの心は動くことを拒否していた。

 面と向かって死ねと言われたのは初めてだ。彼女の強い怒気が今でも思い出される。少し時間が経っても、恐怖は薄れるどころか濃くなる一方だ。あのまま話を続けていたら、わたしは殴られていたのではないだろうか。そんな不安さえ頭をよぎる。

 少し休んだら帰ろう。帰って、自分のベッドで横になろう。自分の部屋なら好きなだけ泣いたって良い。誰にも見られることはない。

 そう思っても、一度座ってしまった身体は動きたがらなかった。窓の外から聞こえてくる生徒たちの声だけが教室に響いていて、その静寂が快かった。もう少しだけ、このまま静かな場所で心を休めたかった。

 教室の扉が勢いよく開け放たれる。わたしがびっくりして顔を上げると、そこには息を切らした瀧本くんが立っていた。

 どうして。わたしは瀧本くんがそこにいることが信じられなくて、彼を見つめてしまった。彼はほっとしたような表情を見せて、わたしに近づいてくる。

「詩織、どうしたんだよ。聞いたぞ、泣きそうな顔してたって」

 ああ、あの人が瀧本くんに連絡したのか。わたしはそれほどまで酷い顔をしていたのだろう。慰めてやれと言われたのかもしれない。それで瀧本くんはわたしを探していたのか。瀧本くんには今いちばん会いたくないのに。

「また変な男に絡まれたのか? 一人で行くなって言っただろ」

 瀧本くんの声は優しい。先程の女子生徒に傷つけられた心には嫌でも沁みてくる。
 泣いちゃだめだ。瀧本くんを心配させるだけだ。わたしは浮かんできた涙が零れないように祈りながら、瀧本くんから顔を背けた。

「来ないで」
「は?」
「来ないで。もう瀧本くんと話しちゃだめなの」
「いや、意味わかんねえよ。何があった」

 瀧本くんはわたしの前の席に座る。机の上にあったわたしの鞄を下ろして、机に肘をついてわたしを見つめてくる。その黒瞳を一度見てしまえば、涙がわたしの瞳で留まっていることはできなかった。

「詩織。どうしたんだよ」
「やめて。帰る」
「泣いてる奴を放っておけるわけねえだろ。何があったんだよ」

 涙が頬を伝って落ちていく。わたしは俯いたまま、小さな声で言った。瀧本くんに言って良いことなのかどうかとか、もうどうでもよかった。ただ、話して楽になりたかった。

「知らない女の子に、瀧本くんに近づくなって言われた」
「それだけで泣かねえだろうが。もっと酷いこと言われたんだろ?」
「言われたよ。だから、瀧本くんにはもう近づいちゃだめなの。相手の子、本気で怒ってた」
「誰だよそいつ。男ならぶん殴ってるところだぞ」
「わかんないよ。でも、瀧本くんのこと好きなんだよ。わたしのことが邪魔なの。わざわざ呼び出してまで言ってきたんだから、相当だよ」

 瀧本くんは天井を見上げて深くため息を吐いた。それから立ち上がり、わたしの横に来て、わたしの身体を抱き寄せた。瀧本くんの体温が感じられて、またわたしの涙腺が緩む。

「それで、俺とはもう話さねえつもり?」

 答えられなかった。そうだと言ったら、瀧本くんはわたしを諦めるのだろうか。そうだと言ったら、もうこうして瀧本くんと話すことはできないのだろうか。

 わたしは、それが堪らなく嫌なのだろうか。

「俺から話しかけてんだから、詩織が気にすることはねえだろ」
「だめだよ。周りから見たらどっちから話しかけたとかわかんないよ」
「まあ、そうか。そうだよなあ」

 瀧本くんはわたしの頭を撫でるように、わたしの髪を弄る。不思議と嫌な感じはしない。それを拒むよりも傍にいてほしいと思う気持ちのほうが強いのだろう。わたしは自分が思っているよりもダメージを受けているようだった。

「知らねえ奴の文句なんて気にすることねえよ。文句があんなら俺に言えよ」
「瀧本くんに文句言える人なんていないでしょ。それに、わたしのことが気に入らないんだから、わたしに言ってくるでしょ」
「そうか。そんな過激な奴がいたとは、俺も知らなかった」

「ファンクラブあるくせに知らないの?」
「ファンクラブ? そんなもんあるのか?」
「知らないんだ。瀧本くん、ファンクラブあるんだよ」
「へえ。そんなもん要らねえけどな。じゃあファンクラブに聞けば犯人がわかるってわけか」

 わたしが見上げると、瀧本くんは笑っていなかった。窓の外を鋭い目で見つめている。

「詩織、安心しろ。二度目はねえから」
「え? ど、どうするの?」
「ま、俺に任せとけよ。お前は今まで通りにしてりゃいい」
「でも……」
「怖いならずっと一緒にいるか? そしたら変な男も変な女も寄ってこねえぞ」

 瀧本くんの顔に笑みが戻る。わたしがよく見るやわらかい微笑み。

 ほんの少しだけ、それでも良いかもしれないと思ってしまったわたしがいた。

「俺はお前を離したくねえ。詩織は、俺と離れたいか? もう話したくねえか?」
「そんなこと、ない」
「じゃあ、それでいいだろ。その訳わかんねえ女のことは忘れろ。お前は今まで通り、俺の隣で笑ってりゃいいんだよ」

 瀧本くんの優しい声が上から降ってくる。また涙が出てきそうになって、わたしは瀧本くんの瞳を見た。瀧本くんは急に真剣な表情に変わって、わたしをじっと見下ろしてくる。わたしは瀧本くんから目を逸らせなくなる。

 ああ、これは、だめだ。動かなきゃいけない。瀧本くんの目を見ていてはいけない。

 わたしの冷静な部分が警鐘を鳴らず。けれど、わたしの火照った部分がその警鐘を止める。何も聞こえなかった、何も気づかなかったことにする。この先の展開など予想できなかったことにする。そっと、瀧本くんの制服の裾を掴む。

 そして、わたしが予想した通りに、瀧本くんがわたしの唇を奪う。

 三回目はそれまでの二回よりも長かった。じんわりと心を包み込むようなキスだった。ゆっくりと唇が離されても、わたしはまるで追い縋るように瀧本くんを見てしまう。それまでとは決定的に何かが異なっていた。
 瀧本くんは困ったように笑い、わたしの額を弱く突いた。わたしはその衝撃ではっと我に返る。
 しまった。三回目。絶対断るんだって心に決めていたのに。

「そんな顔してるとまたキスされるぞ。いいのか?」
「だ、だめだよ。なんでキスしたの?」
「詩織がそういう目をしてたから」

 わたしは何も言えなかった。傍から見たらそういう目をしていたのかもしれない。確かに、自覚はないけれど、物欲しそうな目をしてしまっていたかもしれない。瀧本くんはそれに応えようとしただけなのかもしれない。

 ああ、何てことをしてしまったのか。もう近づくなと言われた直後に二人きりになって、剰えキスするなんて。あの子に喧嘩を売っているようなものだ。こんなことを知られたら今度こそ殴られるかもしれない。

「でも、泣き止んだだろ? キスってそういう効果あるんだよ」
「泣き止ませたくてキスしたって言いたいの?」
「いや、別に。俺が詩織にキスしたかっただけだし」

 わたしは瀧本くんの胸を叩いて抗議した。まだわたしのためだと言ってくれたほうが良かった。結局、瀧本くんは自分がしたかったからしただけじゃないか。
 わたしは椅子から立ち上がった。瀧本くんが来た時とは比べ物にならないくらい心が軽くなっていた。

「帰れるか? もう少しここにいてもいいけど」
「ありがと。大丈夫」

 これ以上この雰囲気が続いたら四回目が成立してしまいそうな気がした。今のわたしはおかしい。正常な判断力を失っている。こういう日はさっさと帰ったほうが良い。

「わかった。じゃあ、帰るか」
「うん。うん? 一緒に帰るの?」
「泣き顔の女を一人で帰らせるわけにもいかないだろ。ほら、帰るぞ」
「帰るぞって、瀧本くん、荷物は?」
「まあ、詩織を送ってから帰ってきてもいいんだけど。教室寄って拾ってくるか」

 瀧本くんはわたしの荷物を持っていってしまう。わたしは彼の背を追いかける。

 教室を出る頃には、重苦しかった気持ちはもうどこにもなかった。瀧本くんのおかげだ。認めたくはないけれど。
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