天使からの贈り物

にのみや朱乃

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天使からの贈り物

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 俺は酒に溺れていた。仕事から帰れば、風呂でも夕飯でも酒を手放すことなく飲み続けていた。もともと酒が好きだったが、今はそれだけではない。むしろ、酒の味ではなく酔うことを目的としていた。

 酒に酔ったときだけ天使に逢えるのだ。初めは泥酔による夢か幻覚だと思っていた。しかし会話は成立するし、ある程度酔えば必ず逢えるとわかると、俺は毎晩のように酒を口にするようになった。

 その天使は俺が知っている頃の娘に似ていた。俺は十五歳までの娘しか知らない。娘は、俺が妻と離婚したときに妻に引き取られ、そのまま会うことができていなかった。それが五年前のことだから、今の娘はもう二十歳だ。きっと俺が知っている頃よりもずっと大人に、綺麗になっていることだろう。

 妻と離婚してから俺はずっと独りだった。離婚したのは四十五歳のときだ。妻との生活に嫌気が差していたこともあって、結婚など懲り懲りだと思っている。ただ、娘がいないことだけが、俺の心に寂しさの棘として残っていた。

 娘とは仲が良かった。俺が仕事から帰ってきて一人で夕食を摂るとき、娘は食べ終わっているのに食卓に座って、その日学校であったことを一から十まで話してくれた。楽しいことも、辛いことも、全部共有しようとしてくれた。俺は酒を飲みながら、よく笑う娘を微笑ましく見つめていたものだ。まさかその幸せを失うことになるとは、そのときは夢にも思っていなかった。
 今なら、俺は娘を引き取ろうとしただろう。あの頃の俺は仕事の忙しさに負けた。自分では娘を幸せにすることなどできないと思い込んでいた。娘は俺とともに過ごすことを望んだというのに、その手を離したのは俺だ。自分自身と娘の幸せを踏みにじったのは、他でもない俺だ。この孤独感はその罰なのだ。

 天使を見るようになったのはいつだっただろうか。俺は回顧しながら、その日も変わらず度数の高い日本酒をグラスに注ぎ、胃に流し込む。独特の香りが鼻を抜け、アルコールが胃を焼く。
 彼女はいつも前触れなく現れる。それこそ幻覚を疑うほど自然に、まるで最初からそこにいたかのように。酔いが回れば、一瞬目を離した隙に目の前に現れるのだ。俺の狭いワンルームでは、彼女はテーブルの向かい側に座ることしかできないが、却って娘との日々を思い出すことができた。

 俺は酔いを加速させるために日本酒を呑む。酒が内側から俺を温め、視界を歪ませる。そろそろ来る頃だ。俺は目を閉じ、その瞬間を待つ。

「あれ? また生きてるんですね」

 見計ったかのように彼女の声が聞こえた。俺が目を開けると、いつものように天使が降臨していた。肩口にかかる亜麻色の髪も、まだ幼さが残る丸い黒瞳も、清純な純白のワンピースも、俺が見慣れた彼女の姿だ。
 今日も逢うことができた。俺は自分の頬が緩むのを感じた。

「また死んでると思ったのか」
「はい。今日もあなたの命日だって言われて。嘘だと思って来たらやっぱり嘘でした」

 何も知らない奴からしたら実に奇妙な会話だろう。俺も、初めは全く意味がわからなかった。死んでもいないのに彼女は俺の命日だと言うのだ。次の日も、その次の日も、彼女は俺の命日だと言ってここへ来た。

 訊けば、彼女はその日死んだ奴の魂を回収する天使だと語った。死者が彷徨わないように、死後の行先へ案内する係なのだ、と。何に教えられたかわからないが、彼女は何かで俺が死ぬと知らされ、ここへ来て俺がまだ生きていることに首を傾げる。そんな日々だった。不思議なことに、俺が深酒しなかった日には彼女は来ないし、俺の死を予見する何某も俺の命日とは言わないらしい。俺は急性アルコール中毒で死ぬのだろうかと疑ってしまう。

 彼女は怪訝な表情を浮かべ、俺を睨む。その眼差しは怒ったときの娘に瓜二つで、俺はささやかな幸福感に浸る。

「おかしいなぁって思ってるんです。毎日あなたは死ぬことになってるのに、どうしてあなたは生きてるんです?」
「そんなこと俺に言われてもなあ。あんたの情報管理がなってないんじゃないの」
「言ってますよ毎日。あの人死んでなかったです、って。実は天使にもわからないように死んでるんじゃないですか」

 無茶なことを言う。天使がどうやって死者を見分けているかも知らないのに、そんな器用なことができるものか。ファンタジーの世界ではあるまい。まあ、天使が目の前にいる時点で、俺が五十年保ってきたその価値観は否定されたようなものだが。
 これはきっと神様からの贈り物なのだ。もうすぐ死にゆく哀れな中年男性のために、最期の想い出を作らせてやろうとする粋な計らいなのだ。最期の幸福を心から楽しめるように、いつ死ぬかだけは秘密にして。

「あ、また呑んでる」

 彼女はテーブルの上の日本酒に今頃気付いて俺を咎める。俺は聞こえなかったふりをして、グラスの中身を呷った。

「死にますよほんとに」
「どうせ近々死ぬんだろ」
「そうですけど。お酒控えたら長生きするかもしれません」
「なんだ、心配してくれるのか?」
「自ら寿命を縮めるのはいかがなものかと。天使からの忠告ですよ、有り難く受け取ってください」

 彼女は酒瓶を手に取り、俺の手が届かない位置に置いてしまう。俺はつい先程呷ったばかりのグラスを持ち上げて抗議した。

「せめてグラスに注いでからにしてくれよ。空だぞ?」
「これは明日にしましょう。お酒は程々がいちばんです」

 何を言っても聞かない。その決意が彼女の表情から読み取れた。俺は渋々諦め、代わりに水を飲むことにする。酔いが醒めても彼女がいなくならないと理解できるまでは愚行だと思っていたが、今は彼女が来てしまえば水に切り替えるほうが良い。酔い潰れてしまえば、その日の俺の幸せな時間は終わりだ。
 俺にとっては、彼女と過ごすこの時間は生きる糧だった。娘と笑い合えたあの日々を、もう戻らない過去の幸せを、一時でも手にすることができる大切な時間。だから俺はほんの少しでも長く彼女と話していたかった。

 けれど彼女はそうではない。俺が今日も死なないとわかれば、俺に用は無いのだ。天使も忙しいと言っていた。この部屋に留まるのは僅かな時間しかない。引き止めてはいけないと思いながら無駄話を投げかける俺は、彼女にとっては厄介な人間だろう。本心は来たくないと思っているかもしれない。

「わたしは救急車呼べないんですから、急性アル中で倒れられても何もできないんですよ。死にかけの現場に立ち会ったら寝覚めが悪くなりますからやめてくださいね」

 彼女は懇々と俺に説教する。その姿も、声音も、本当に娘そっくりだ。俺は娘に叱られている気分になり、つい顔が綻んでしまう。
 こんな日々があるはずだったのだ。あのとき、俺が自分の都合だけではなくて、もっと娘のことを考えていれば。

「では、わたしはこれで。そのお酒は明日までそのままに」

 彼女は満ち足りた表情で俺に別れを告げる。今日はこれ以上彼女と話すことはできないと思うと、俄かに寂しさが俺の心に影を落とす。

「見に来るのか、明日」

 名残惜しさから飛び出してしまったその言葉を、彼女はやわらかい微笑で受け止めた。それから、子どもを叱るような口調で返事する。

「言っておきますけど、天使はみだりに人間に会ってはいけないと規定されているんですよ。わたしは毎日があなたの命日だから来ているだけで」
「毎日が命日ってのもおかしな話だけどな」
「同感です。でも、まあ」

 彼女は俺の記憶に鮮明に刻まれた娘の笑顔を浮かべて、どこか嬉しそうに言った。

「誰かの生存確認というのも、新鮮ですね」

 それは、死ばかりを見続けてきた天使だからこその感想なのだろう。




 次の日、俺が覚悟していた事態が起きた。

 彼女は来なかった。いつも以上に酩酊しても彼女の声は聞こえない。やはり昨日までは何かの手違いで俺が死ぬことになっていただけなのだろう。彼女が担当者に文句でも言って、手違いが発覚したのだ。きっと。来るのが嫌になったわけではない。そう思わずにはいられない。

 無人の部屋はひどく静かだった。彼女が来るようになってからあまり日は経っていないはずだが、俺は彼女が来る夜に慣れてしまったようだった。
 そうか。遂にこの日が来たんだな。俺はしみじみと自分の部屋を眺める。妻と離婚し、娘と離れてから、ずっとこの部屋で過ごしてきた。振り返ってみると感慨深いものがある。辛いことばかりだったが、よくここまで耐えてきたものだ。

 俺は紙に彼女へのメッセージを書き殴った。万一後で彼女が来たとしても、この紙を読んでくれれば伝わるだろう。俺がどれほど彼女に助けられたか。どれほど彼女との時間を幸せに感じていたか。それと、彼女が俺の娘によく似ていたということも。
 乱雑な文字が並んだ紙を彼女の席に置き、俺は準備を始める。酔いを醒ますために顔を洗い、再びワイシャツとスラックスに着替え、身なりを整える。今更だが、彼女が来る可能性があるのなら綺麗な格好をしたいと思った。

 支度は済んだ。時計を見ると、夜の十一時五十分だった。あと十分待てば彼女が来るかもしれない。浮かんだ未練がましい気持ちを押し戻し、俺は娘から貰った大切なネクタイを手に取る。
 そして、クローゼットに引っ掛け、輪を作る。ちょうど俺の頭が通るくらいの大きさで。

 すまないな、名も知らない天使さん。少し前から、あんたが来ない日に死のうと決めていた。あんたが来た日は幸せすぎて死ぬ気が起きなかったんだ。この幸せがいずれ無くなるのはわかっている。それは、俺には耐えられないんだ。あんたが迎えに来てくれると信じているよ。

 俺はネクタイの輪に頭を通した。体重をかければネクタイが首を絞めることを確認する。踠き苦しむうちにネクタイが解けたり、うまく死ねずに苦痛を感じるだけになったりしないかと不安になるが、包丁で自分を刺す勇気はないし、他に方法が思いつかない。何人も同じような末路を辿っているのだから、できないはずはないのだ。

 最期に、いるはずのない彼女を捜す。彼女がいつもいた俺の向こう側の席には、やはり人影はない。
 逝こう。娘が待っているかもしれない。俺は首に死の鎌を這わせるように体勢を整える。

「……ああ、そういうことだったんですね」

 俺が首を吊る直前、彼女の声がした。俺は驚き、その場で立ち上がってしまう。
 どうして。いつの間に。

「だから、毎日あなたがリストに挙がっていたんですね。毎日死のうとして、毎日わたしが知らずに邪魔していたから」

 彼女は強い悲しみを湛えた瞳で俺を見つめていた。その視線に堪えきれず俺は時計に目を向ける。夜の十一時五十七分だった。まだ今日は終わっていなかった。俺は最後の一秒まで待つべきだったのだ。
 それはもう、よくある後悔でしかない。彼女は俺が自殺しようとしている現場を見た。今更死ぬつもりなどないと取り繕うことは不可能だ。俺は観念した。

「あんたが来ない日に死のうと思っていた。あんたに逢った日には娘に逢った気分になれた。その気分じゃ死ぬ気にはなれなかったよ」

 彼女は俯くだけで何も言わなかった。親に置いていかれる子どものような悲愴感が漂い、容赦なく俺の心を抉った。ああ、俺はまた娘を捨てることになってしまったのか。

 漸く毎日が俺の命日だった理由がわかった。彼女に出逢える条件を知る前、俺は死を考えるほど辛い日には深酒することが多かった。彼女に出逢える条件を知ってからは、酔っても彼女が来なければ死のうと考えていた。俺が酔った日に彼女がここに来るのもそういう絡繰だ。そして彼女が来れば俺は死なず、結果的に最近は毎日が俺の命日になったのだろう。彼女に情報を伝えていた奴は正しかったのだ。

「わたしは似ているんですか。あなたの娘さんに」

 彼女はぽつりと呟く。これがただの世間話だったなら、俺は彼女がどれほど娘に似ているか語って聞かせたことだろう。今となっては叶わぬ夢だ。

「ああ。最初は本人だと思ったよ。どうして娘がここにいるんだって、会いたい気持ちが見せた幻覚じゃないかって、そう思った」
「そんなに大切に思ってるのに、娘さんを置いていくんですか」

 俺は首を横に振った。どちらかといえば、置いていかれたのは俺だ。

「娘はもう死んでいるんだ。四年以上も行方不明になってるのに、生きているわけがないだろう」

 それは俺がその事実を知ってからずっと自分に言い聞かせてきたことだ。
 俺が離婚して暫くして、娘は行方不明になったそうだ。俺がそれを知ったのは、娘がいなくなってから実に一年以上経った後だ。何をするために何処へ行ったのか、皆目見当が付かないという相手を捜すなど到底無理な話だ。妻からは何の手がかりも教えてもらえず、俺は娘が死んだものと割り切るほかなかった。

「俺にとっては最愛の娘だった。だから、あんたが来たときは嬉しかった。娘に会えた気がした。娘と話せた気がした。来る理由はよくわからないが、酒を呑んでりゃ来るんだと、そう思って毎日酒を呑んだのさ」
「……じゃあどうして、死ぬんですか。わたしが来ているうちは幸せだったんでしょう?」
「あんたはいずれ来なくなるだろう。遊びに来てるんじゃないんだ。もう一度娘を失う気持ちを味わうなんて、俺には耐えられない。前から死のうと思っていたんだ、それがちょっと遅れただけだ」

 俺は罪を犯したことの言い訳を並べる。彼女に重大な裏切りと捉えられてもおかしくない。昨日彼女が嬉しそうに言った生存確認は、ただ俺の自殺を妨げていただけとも言える。そして俺は、それを知りながら何も教えなかったのだ。これが赦されざる罪でなければ、何になるのだろう。

 彼女は応えなかった。裏切り者に語る言葉などないということかもしれない。あのやわらかい笑顔も、明るい声も、もう戻らないのかもしれない。自業自得だと思いながら、俺の心は軋んで悲鳴を上げた。

「まあ、今日はあんたが来たんだ。明日にするよ」

「それはできません」

 彼女は確かな口調で告げる。残酷な真実を。彼女から溢れ出していた悲愴感の理由を。

「天使は人間の死に介入してはならないんです。わたしはあなたの自殺を止めてしまった。あなたがこのまま首を吊らないのなら、わたしはあなたを殺さなければなりません」
「……あんたが、俺を?」
「はい。昨日まではあなたの自殺の意思を知らなかった。だから規則に違反した言い訳ができます。けれど今日は違う。それとも、あなたは自殺以外の意図でそんなことをしたと説明してくれますか?」

 懇願にも聞こえる彼女の問いに、俺は首を横に振ることしかできなかった。それはつい先程自分で無理だと断じたことだ。巧みに切り返せるような口達者でないことくらい、俺自身がいちばん良く理解している。
 俺は自嘲した。自らの都合で娘を捨てた俺が、娘に良く似た天使に殺されるのだ。娘が復讐するために舞い戻ってきたようなものだ。

「どうして……そんなこと、してたんですか」

 彼女が望むのは俺が諦めた言葉だ。それは俺の口から出てこない。出すことができない。俺の口から出るのは彼女の希望を摘む言葉だけ。

「さっき言っただろう。あんたが来ない日に死のうと思ってたって」
「あと数分くらいどうして待てなかったんですか!」

 不意に剥き出しにされた感情の刃が俺の心を削る。俺は彼女を直視できなかった。何も約束していなかったはずなのに、俺は確かに二人の間にあった約束を破ったように感じていた。

「……そうだな。本当にな」

 謝る言葉もない。数分前の俺に教えてやりたい。時計の針が頂点を過ぎるまで待っていれば、明日も彼女に逢えたかもしれないのに。こうやって彼女を悲しませることもなかったかもしれないのに。

「あんたとも今日でお別れだな。あんたのおかげで、最期に毎日が命日とかいう貴重な体験もできたよ」
「こんなの普通起こりませんから。毎日が命日も、天使が自殺の直前に現れるのも……天使が、代わりに手を下すのも」

 彼女は俺が自殺できないことを察してくれたようだった。俺は人生最後の究極の二択について自ら考える必要はなさそうだ。その選択を彼女に押し付けてしまったのは心残りだが。

 俺は首に掛かったままだったネクタイの輪から抜け、ネクタイの結び目を解く。汚さなくて済むのなら汚したくない。俺はネクタイを正しい結び方で襟元に着けた。我ながら死ぬ間際とは思えない格好だ。

「似合いますね、そのネクタイ」

 場違いな雑談。けれど、暗い空気のまま別れないためには必要なものだ。俺は彼女の気遣いに精一杯の笑顔を返した。

「ありがとう。娘に貰ったんだ。使わなくていいなら着けていこうと思ってね」
「逢えるといいですね、娘さんに」
「贅沢は言わないよ。もう、あんたに逢えただけで充分だ」
「望むことは大切ですよ。もしかしたら死後の世界で逢えるかもしれません」

 彼女がゆっくりと右手を前に出す。その右手に不思議な光が集まっていく。その光を見ていると、次第に意識が遠のいていく。それは俺の命を奪う光なのだろう。情けない俺の代わりに。
 俺はその場に立っていられず跪く。神の裁きを待つ罪人のように。

「せめて苦しむことのないようにします」
「最期まで迷惑をかけたな、天使さん」
「ええ、本当に。久々に天使として仕えることが嫌になりました」

 白く霞む視界の先で、彼女が左手で自身の頬を拭ったのが見えた。涙を流しているのだろうか。こんな俺のために。僅かな時間を共に過ごした迷惑な人間のために。

 最期に、俺は彼女に問うた。

「なあ、あんたは俺の娘なんじゃないのか。他人の空似とはどうも思えない」

「残念ですが、他人の空似です。それに、娘さんだったとしても意味のないことでしょう」
「……そうだな。あんたが俺の娘でもそうじゃなくても、俺はあんたと逢えて幸せだったよ」

 薄れゆく意識のどこかで、俺は嗚咽混じりの彼女の声を聞いた気がした。

「さようなら。わたしも、幸せでしたよ」


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