ユルサレタイスパイラル

碧井永

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 カノとまともに話をしたのは、小学校五年生に進級したときだ。
 それまでにも、クラスは違えど学級委員として委員会で顔を合わせることはあったのだが、議題関係の必要最低限な会話しかせず、すれ違っても挨拶さえしていなかった。
 そのときもクラスは違ったのだが、僕らは児童会役員に選出されてしまって、役員室で机を並べることとなった。嫌々な態度がまるわかりの仏頂面で初会議に臨んでいれば、誰も話しかけてはこなかったが、カノだけが僕を見て笑ったのだ。
 目が合った瞬間に感じたのは、気の強そうな子だな、ということ。女の子にしては凛々しい口許がそう思わせるだけかもしれない。けれど、くりっとした目許の、色素の薄い瞳がゆらゆらと揺れる度に、僕の心もゆらゆらと揺れた。
 心が揺れる。それは味わったことのない、不思議な感覚だった。
 それからは役員会で帰りが遅くなると、一緒に帰るようになった。帰る方向が、僕ら二人だけ違っていたというのもある。
「はじめての役員会議で俺の顔を見て笑ったろ? なんで?」
 彼女は細い首をかしげたが、すぐに思い出したらしい。
「だって、あんなあからさまに拒絶反応を示さなくてもいいじゃない」
「学級委員も成績がいいってだけで何年もやらされてきたんだぜ。それが今度は児童会やれって言われてさ。俺ばっかり押しつけられて、我慢にも限界があるって」
「ふうん、我慢してたんだ」
 刹那に、しくじったと思った。
 僕は、他人と深いかかわりをもつのが苦手だった。だから、本心を口にすることもなく嫌な役割であっても甘んじて受けてきた。誰かに本音を吐いてみたいと思わないこともなかったが、深い関係を築いただけ感情の起伏が激しくなり自分を保てなくなるような気がして、ならば疲れることはしないほうがよく、表情にだすことはあっても、すべてを胸に秘めていた。
 左頬になにかを感じ、そちらに首を振ると、カノがじっと僕を見ている。見透かされたように感じて、僕の身体はすくんでしまう。
 歩みを止めた僕を気にするふうもなく振り返り、夕陽に霞むカノが言った。
「私もね、やりたくなかったの。本当は放送委員をやりたかったんだ。ほら、私の声って特徴的じゃない? 校内アナウンスをやってみたくて、ずっと放送委員に憧れていたのに、先生から推薦されて断れなくなっちゃって」
 ふふっ、と彼女が小さく笑う。その笑みは今までに見たどれとも違って目に映り、僕はなんとなく嬉しくなった。
 この会話がカノとのはじめての秘密になった。
 秘密とはこれまた不思議なものだ。秘密は人を孤独にするのに、カノとの秘密は二人のつながりのように感じられたからだ。
 心が揺れる。ゆらゆらと。
 友達となった、その年のバレンタインのこと。
 ランドセルに入りきらない分のチョコレートを先生に見つからないように抱えながら役員室に行くと、カノしかいなかった。
「ほかの人は?」
「バレンタインに会議なんかしてられないでしょ」
 まあ、そうか。
 チョコを入れるのにちょうどいい袋を探す僕も頬をぽりぽりとかいた。
「それにしても、たくさんもらったのね」
「うん? ああ……それよりさ、紙袋かなんかないかな?」
 勉強もスポーツも適度にできて、役員として全校児童の前に立つことが多ければ、いやがうえにも目立ってしまう。それもあり、義理チョコだろうという思いが大半を占めていて、好かれているという実感は毎年なかった。
「カノはくれないんだな」
 ふと口をついて出ただけで他意はなかったのに。「欲しかった?」と訊かれて僕は、わずかに苛々した。結局、苛立ちの原因はわからないまま、僕らは、また春を迎えた。
 僕は児童会会長に、花乃は副会長に選ばれた。そんなこともあって、二人の時間は急激に増えていった。
 それからすぐのことだったと記憶しているが、校内写生大会が行われた。みなそれぞれに散って好きな場所に陣取っていたが、やはり仲のいい者は集まって描いている。絵は苦手なこともあり、誰かに声をかけられるのも面倒で、さぼりがてら裏庭の花壇でごろりと寝転んでいた。
 空はすっきりと晴れていて、風が心地いい。うつらうつらしはじめたとき、微かな足音が耳に届いた。
「暮本くん、なにをしているんですか?」
 耳になじんでしまった声に安堵の息を洩らす。
「先生のマネしたってダメだぞ、カノ」
 くすりと笑った彼女は、寝そべっている僕の隣にぺたりと座る。そのまま口を開かないのを奇妙に思い、なにかあったのかと起きあがったときだった。
「ねえ、ジンヤ。交換日記しない?」
 きれいな青空を映していたせいか、そのときのカノは眩しかった。艶めく髪には、天使の輪ができている。反射的、僕は視線を逸らして宙をにらむ。沈黙を肯定ととったらしい彼女は「じゃあ、帰りにノートを買いにいきましょう」と言い残し、どこかに行ってしまった。カノが歩いて行った方向から緩く風が吹き抜けて、僕の身体を柔らかく包んでくれた。
 僕が「イエス」とも「ノー」とも返事をしないその日のうちに、文房具屋に立ち寄りノートを選んだ。男女の交換日記が流行っているのは知っていたが、まさか僕がすることになるなんて。人とは距離をとって付き合いたい僕としてはわずらわしいだけのはずが、カノの楽しそうな姿を眺めていたら、なんだかどうでもよくなってしまった。
「やっぱり地味なノートのほうがいいよね?」
 先生に見つかると没収されることを知っていた僕らは、無難なキャンパスノートに決めた。
「ジンヤから、ね」
 ほぼ毎日逢っていて、話もしている。これ以上、なにを書けというのか。
 僕は悩みに悩んで、たったの一行だけ埋めたのを憶えている。
 ――俺は本好きなんだ。本を読むと気持ちがまぎれていいよ。
 書くことがない、それはカノも同じだったらしく。戻ってきたノートは一行しか埋められていなかった。なら、交換日記をやめればいいのに。どちらもそれを言いださないまま。二人の一行交換は途切れることなくずっと続いた。

 カノとの初キスは、中学二年生の夏。
 祭りの帰りに二人で飲んだラムネのビー玉を取りだそうと、瓶を割れる場所を探して裏道に入り、座りこむ。ガラス片からコロコロと転がったビー玉は月明かりにきらきらと輝いて、夜空をぎゅっと固めたように見えた。
 ガラスの欠片でカノが怪我をしないようにビー玉を払いながら手渡すと、意外にも顔の距離が近すぎるのに驚いた。そして、その瞳に吸い寄せられた。
 僕らは触れるだけのキスを何度も何度も交わした。
 初めて身体の関係をもったのは、高校受験が終わってすぐのこと。
 身内に不幸があり、急に両親が家を空けていた。兄はすでに上京して一人暮らしをしていたので、僕は独りでどうにかせねばならない。まだ、近所にコンビニエンスも弁当屋もない時代。料理もできないのにどうしたものかと、空腹をこらえて自転車でスーパーまで行った。そこで運よく、買い物袋をさげたカノと逢ったのだ。
「どうしたの?」
 訊かれておずおずと答える僕に、花乃が笑う。
「あのね、ジンヤ。そのうち男も家事をしなくちゃいけない時代がくるの。いい勉強じゃない、家庭科で習ったことをやってみなさいよ」
 賢いカノに諭されて観念した僕は、渋々と買い物を済ます。その間、彼女は黙って僕の行動を見ていた。だいたい彼女はそうなのだ、学校でも僕のやることに口をはさまない。適度に距離をとって、でも、ちゃんと見ていてくれている。二人はつながっていると、安心できるところにいてくれる。
 買い物が済んでも、カノは僕から離れることはなかった。
「つくってあげましょうか」
「え?」
「ご飯よ。つくってほしいでしょ?」
 上からの物言いにいささかムッとした僕は、挑発的な言葉を投げる。
「つくれるのかよ」
「つくったら、私の分の買い物袋を家まで届けてね」
 命令に近い口調にまたまたムッとした僕だが、ここは百歩譲ってでもカノにすがらなければ餓死してしまうかもしれない。早々に諦めて、彼女を家に案内した。
 できあがった料理は母のものよりもうまかった。
「カノって、すごいんだな」
 食後の茶を淹れてもらいながら僕は、家での食事がこんなに楽しいものだったのだと生まれてはじめて知り、内心ではひどく動揺していた。
 カノがずっと傍にいてくれたら。僕だけのものになってくれたら。――そんな不埒な想いを抱いてしまったというのもある。
「……私ね、母さんと二人暮らしなの」
 湯呑みを細い指で包んだまま、水面を覗きこむようにして彼女が低く呟く。吐息で湯気がふわりと揺れて、その表情を覆った。
「父さんは、私が幼稚園のころに病気で死んじゃって。母さん独りでたいへんだし私ができることをしなくちゃ……だから、家事は得意なのよ」
 最後のほうのセリフは、いつものカノに戻っていた。でも、僕にははっきりとわかったものがある。先ほどまでの動揺も、すべてがそれで納得できた。
 僕らは似た者同士なのだ。境遇は全然違うけれども、心のいびつな形が似ている。
 そう想ったら、僕はもう、衝動を抑えることができなくなった。
 カノの二の腕をつかんで立ち上がらせ、二階の自分の部屋に連れこんだ。ベッドの端に座らせて、髪をなでる。頬をさする。これまでにも幾度となく繰り返してきた行為が、今日はやたらに緊張した。キスだって、いつもどおりなのに舌が異様にしびれている。
 本能の向くままカノをシーツに沈めたが、彼女は逆らうこともなく、なにかを言うこともなかった。
 服の脱がせ方も、身体の触れ合いも、脚の開かせ方も、ひどくぎこちない。途中、カノは何度も苦しそうな息を吐いていた。優しくしたいのに優しくできず、強引で無理な抱き方をしてしまったと思う。それでも僕には微塵の後悔もなかったが、詫びたほうがいいのだろうかと迷いながら汗でしめった彼女の前髪を払ってやると、溜まった涙が眦からほとりとこぼれていった。
「ごめん……カノ、あの」
 女を泣かす男は最低だ。
 心底思っていた僕は、ばかみたいにうろたえる。
「カノ……好きなんだ。だから、ごめん」
 すると、彼女が華奢な身体をすり寄せてくる。額を僕の胸にこつんと当てて囁きを落とした。
「うん……私も好きだから」
 声はくぐもってしまっていたが、胸の奥までちゃんと届いた。
 目頭が熱くなるのを感じて僕は彼女の薄い肩を抱き締める。
 そして、誓った。
 決してあいつらのようにはならない、と。
 その誓いを僕は守った。
 高校二年の一二月まで、ずっと。

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