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午前いっぱいまでPCと向き合っていた僕が目覚めたのは、夜の七時過ぎだった。
そろそろアルバイトから春乃が戻ってくる時間だなと、寝ぼけまなこをこすりながら廊下に出る。僕は普段から一日一食しかとらないので、夕方の食事は春乃と話ができる貴重な時間となっていた。ここに来たばかりの彼女は、不摂生な僕に顔をしかめたが、それも慣れたらしい。近ごろでは、夕食のついでに軽い夜食を用意してくれたりする。なのに「夜食をつくりました」とも言わないし、忙しくて食べなくてもなにも言わない。どんな仕事に追われているのかも、訊いてこない。
同居人としては絶妙な距離のとり方。
このまま春乃がずっと傍にいてくれたら。――そんな独占欲を抱く狭量な自分に呆れながら、これではいつか彼女に捨てられるかもしれないという暗澹たる想いが胸をよぎる。
なにをばかなことをと頭を振りながら、気を晴らすためにも久々にキッチンに入った。献立は、ローストラムに煮野菜サラダ、ほうじ茶を混ぜて炊いた茶飯。ダイニングテーブルに運び、マットを敷いて準備をする。カトラリーを置きながら時計を見たが、九時も近いというのに、玄関のドアが開く気配はまったくなかった。
様子を見にいったほうがいいのだろうか、よからぬ方向にばかり思考が振れて最後には居ても立ってもいられずに廊下に飛び出す。と、そのタイミングで玄関の鍵穴からがちゃりと音がした。僕は平静を装って椅子に腰をおろす。ちょうどそこへ、紙袋をさげた春乃が現れた。
「……おかえり」
万端整った食卓を眺めて春乃は、「待たせてしまいましたか?」と不安げな声を洩らした。「いいや」と僕が首を振ると、待っていなかったのかとでも言いたげにわずかに肩を落としたようだが気のせいだろうか。
「バイト先の人が、ケータイの安いショップに連れていってくれたので――」
高校時代から同じ機種を使っていた春乃は、バイト代が入ったこともありケータイを買い換えたいと相談したらしい。そんなこと僕に言えば案内してやったのにと思ったが、大人気ないかと口にはしなかった。
「そう」
自分でもよくわからない曖昧な返事に春乃は、困惑したような目を向けてくる。冷たい言い方をしてしまったのかもしれないが、誰と出かけたのか? 男か? などと焦心に駆られて場を和ます機を逸してしまったのだった。
彼女もなにか妙な空気を感じとったのだろう。
出かけた証拠を差しだすかのようにリビングで包みを開き、買ったばかりのケータイを僕に見せてくれた。
「説明書って、こんなに厚いものでしたっけ?」
と、はらはらとページをめくりながら椅子に座る。機械類にうといこともあり、今度は返事をしなかった僕を見て、春乃はなにやら歯がゆげな顔をした。
気づかぬ素ぶりで黙々とグラスに水を注ぐ。カランと崩れる氷の音が、心に染みた。
そうして静かにはじまる食事。
脇に置かれたままの説明書とケータイに目をやって、僕は以前にエッセイで書いたことを思い出していた。
――食事中にケータイをテーブルに置かれると、僕ではない誰かからの連絡を待っているのかと胸が締めつけられる。でも、もし、それが出逢ったばかりだったなら。「どこの機種?」、「素敵なストラップだね」と、話しかける口実ができ、うまくすればケータイ番号とメールアドレスを聞きだす絶好のチャンスとなる。
あれを春乃は読んだことがあるだろうか?
いいや。読んだとして、どうなるものでもない。あれは恋愛がらみのエッセイだ。
恋愛の……。
僕はほとんど味のわからない料理を機械仕かけの人形のように口へと運んでいた。
それから数日後のある雨の宵の口。
資料を買いに外出することにした。近場なので歩いていこうと、傘を取ろうとして伸ばした腕が固まる。傘立てに、濡れた知らない男物が一本差してあったのだ。
春乃が大学で借りたのか? それともバイト先の誰かと待ち合わせをして? とめどない不安は溢れるばかり。そのうちに出かける気力は削がれてしまい、僕は部屋へと踵を返した。
次の日。
その傘はなくなっていた。
どうしようか迷いに迷って、訊いた。
「誰かに、傘を借りた?」
なんとも無粋な質問だ。
洗い物をしていた春乃は水音でうまく聞きとれなかったのか、カフェエプロンで手を拭いながらリビングまで出てきた。
「はい?」
「……ああ、いや。傘の数が多かったから」
我ながら間抜けな尋ね方だと感じたが、どう言ったらいいのかわからなくなってしまっていたのだ。いい歳をした男が嫉妬だなんて……そこで僕の頭は真っ白になる。あまりに懐かしく僕の中では地味なほうにカテゴライズされる感覚で忘れかけていたが――嫉妬って、なんだ?
嫉妬?
「この間、急に降られたときに雨宿りしていたら、サークルの先輩が貸してくれたんです」
ふうん、と唸りながらも僕の心はここにあらずだった。
「……サークルに入ったのか?」
「図書館司書と簿記の勉強をしようと思って。サークルというより勉強会に近いものですけどね」
そんなもの、ゼミでやればいいのに。
思わず無責任な発言をしそうになって、掌で口をふさぐ。学生の本分は勉学であり、春乃の選択は間違っていない。正しい。
僕が学生だったころ、サークルというものはお遊び仲間でしかなかった。夏はテニス、冬はスキーと称して、合宿する。そこで女の子をナンパする。果てのないリビドーに駆り立てたのものはなんだったのか。月毎に、ひどいときには、週毎に付き合う人を替えて楽しんでいた。女色に溺れ飲酒に耽り、当たり前のような朝帰り。思えば荒んだキャンパスライフだったが、乱れているという感覚は麻痺していた。
時折甦る、名も忘れてしまった女の泣き顔。
それを踏み台にして、僕は今、ここにあるようなものだ。
書き下ろしのプロットを練りなおそうと、原稿用紙を片手に万年筆を握ったままで止まっている僕を見据えたまま、春乃は眉をひそめたが、一瞬後には気づかうように言った。
「お茶、淹れますか?」
「……うん? ああ」
刹那によぎった感情。動きが止まるほど肩に重くのしかかる――これは罪の意識だ。
なにに対して? 誰に対しての罪の意識なのか?
僕は、春乃の顔をまともに見ることができなかった。
うっとうしい空模様が続く、このごろ。
春乃の帰宅時間が、まちまちになっていった。大学は曜日によって受講する時間帯が違うから大して気にすることもないのだが。いつもどおりに帰ってくることもあれば、夜中に帰ってくることもある。サークルに入ったのなら当然飲み会はあるだろうし、友人との付き合いもあるだろう。それはそれでいい。けれど……。
尽きないネガティブ思考に堪えられず、独りで滅入って仕事を放りだした。
微かに聞こえる物音で、彼女が帰ってきたことを知る。時刻は、深夜一二時半。ぎりぎり終電に間に合った、というところだろうか。
今夜、七時を過ぎてキッチンを覗いたとき。彼女の姿がないことに落胆した。自嘲的な笑いを浮かべて、シンクで煙草を何本も吹かした。ちょっと前までは独りの食事が普通だったのに、あまりに変化してしまった僕の日常。独りでつくって独りで食べる、そして、片づける。独身者なら誰もがやっていることだが、それが僕の食欲を萎えさせる。なんに対してか募る不満に、わけがわからず苛々する。ともすれば、虚しいとさえ感じてしまう。
僕は、僕をこんなふうにした元凶を扱いあぐねているのだと、両の掌で顔を覆った。
「最近、食事はどうしてるんだ?」
そう直球で訊いたのは、明けて翌朝のこと。
仕事もできず、眠ることもできずに、夜明けを迎えてしまっていた。
「友達と食べてますけど」
肩越しに覗きこむようにする僕に、春乃は近所のベーカリーで買ってきたばかりのクロワッサンを籠につめながら答えて、首をかしげた。
「すみません。食事をつくると言っておきながら」
それはいいんだ、と返事をしようとして口角がひきつった。
春乃が、僕をじっと見ている。彼女は勘がいい。女性は勘のいい厄介な生き物だが、春乃は段違いに優れていると思う。
彼女は心情をあえて隠すこともせずに怪訝そうな声をだした。
「暮本さん、怒ってるんですか?」
「……なんで?」
「手抜きだ、って思ってるんじゃないですか? 約束違反だって」
今時、男女がひとつ屋根の下に暮らしていて、どちらかだけが家事を負担するなんてナンセンス。そんなことは考えたこともない。
誤解を生じるようなくだらない問いかけをしてしまったと、いたたまれずに、つい僕が視線を逸らせたとき。
「暮本さんはなにも言わないんですね」
低い呟きに瞠目する。
「……母にも、そうだったんですか」
意表を衝かれて、しどろもどろになった。
「カノとのことは――」
言いかけて僕は慌てて口を噤む。おそらくは、彼女の前ではじめて声にしたであろうカノの名前。たとえ娘であったとしても、僕とカノの間には入ってきてほしくなかった。僕らの大切な想いのつまった場所にまで踏みこんでほしくなかった。
そんな僕をどうとったのか。
春乃はすねたように胡乱な眼差しを向けてくる。まるで、とがめるようにして。
「言いたいことがあるのなら、はっきり言ってください」
それきり黙りこむ男をさげすむようにして春乃はバッグを手にとった。
「そろそろ時間なので出かけます」
僕はなにも言えなかった。
春乃の背を目で追うこともできず、あらぬ方向を見すえたまま、もたつく指で煙草を探す。
どうしてこんな言い合いになってしまったのか。――本当は、なにが訊きたかったのだろう。なんと答えてほしかったのか。
今さらながらに臍をかんだが春乃はもういない。
彼女が帰ってきたときに、どうとりつくろうか、そればかりに気をとられ心は千々に乱れるばかり。
彼女の気持ちがわからない。それを訊けない僕がいる。一緒にいるのに、一分が、一秒が、微妙にすれ違っていく。……いつかのように。
忸怩たる想いと憮然たる想いが入り混じり、自身をいさめるようにして腰をあげたのは昼過ぎのこと。
きしむ身体。いや、きしむのはそれだけではない。
僕と春乃、二人の間に無音のきしみが生じている。
こんなふうに感じたら最後、二人の関係は終わってしまう。経験上、わかる。
修復できなくなる前に……。僕はダイニングテーブルに書きおきを残した。
――仕事の都合でしばらくウイークリーマンション暮らしになる。
午前いっぱいまでPCと向き合っていた僕が目覚めたのは、夜の七時過ぎだった。
そろそろアルバイトから春乃が戻ってくる時間だなと、寝ぼけまなこをこすりながら廊下に出る。僕は普段から一日一食しかとらないので、夕方の食事は春乃と話ができる貴重な時間となっていた。ここに来たばかりの彼女は、不摂生な僕に顔をしかめたが、それも慣れたらしい。近ごろでは、夕食のついでに軽い夜食を用意してくれたりする。なのに「夜食をつくりました」とも言わないし、忙しくて食べなくてもなにも言わない。どんな仕事に追われているのかも、訊いてこない。
同居人としては絶妙な距離のとり方。
このまま春乃がずっと傍にいてくれたら。――そんな独占欲を抱く狭量な自分に呆れながら、これではいつか彼女に捨てられるかもしれないという暗澹たる想いが胸をよぎる。
なにをばかなことをと頭を振りながら、気を晴らすためにも久々にキッチンに入った。献立は、ローストラムに煮野菜サラダ、ほうじ茶を混ぜて炊いた茶飯。ダイニングテーブルに運び、マットを敷いて準備をする。カトラリーを置きながら時計を見たが、九時も近いというのに、玄関のドアが開く気配はまったくなかった。
様子を見にいったほうがいいのだろうか、よからぬ方向にばかり思考が振れて最後には居ても立ってもいられずに廊下に飛び出す。と、そのタイミングで玄関の鍵穴からがちゃりと音がした。僕は平静を装って椅子に腰をおろす。ちょうどそこへ、紙袋をさげた春乃が現れた。
「……おかえり」
万端整った食卓を眺めて春乃は、「待たせてしまいましたか?」と不安げな声を洩らした。「いいや」と僕が首を振ると、待っていなかったのかとでも言いたげにわずかに肩を落としたようだが気のせいだろうか。
「バイト先の人が、ケータイの安いショップに連れていってくれたので――」
高校時代から同じ機種を使っていた春乃は、バイト代が入ったこともありケータイを買い換えたいと相談したらしい。そんなこと僕に言えば案内してやったのにと思ったが、大人気ないかと口にはしなかった。
「そう」
自分でもよくわからない曖昧な返事に春乃は、困惑したような目を向けてくる。冷たい言い方をしてしまったのかもしれないが、誰と出かけたのか? 男か? などと焦心に駆られて場を和ます機を逸してしまったのだった。
彼女もなにか妙な空気を感じとったのだろう。
出かけた証拠を差しだすかのようにリビングで包みを開き、買ったばかりのケータイを僕に見せてくれた。
「説明書って、こんなに厚いものでしたっけ?」
と、はらはらとページをめくりながら椅子に座る。機械類にうといこともあり、今度は返事をしなかった僕を見て、春乃はなにやら歯がゆげな顔をした。
気づかぬ素ぶりで黙々とグラスに水を注ぐ。カランと崩れる氷の音が、心に染みた。
そうして静かにはじまる食事。
脇に置かれたままの説明書とケータイに目をやって、僕は以前にエッセイで書いたことを思い出していた。
――食事中にケータイをテーブルに置かれると、僕ではない誰かからの連絡を待っているのかと胸が締めつけられる。でも、もし、それが出逢ったばかりだったなら。「どこの機種?」、「素敵なストラップだね」と、話しかける口実ができ、うまくすればケータイ番号とメールアドレスを聞きだす絶好のチャンスとなる。
あれを春乃は読んだことがあるだろうか?
いいや。読んだとして、どうなるものでもない。あれは恋愛がらみのエッセイだ。
恋愛の……。
僕はほとんど味のわからない料理を機械仕かけの人形のように口へと運んでいた。
それから数日後のある雨の宵の口。
資料を買いに外出することにした。近場なので歩いていこうと、傘を取ろうとして伸ばした腕が固まる。傘立てに、濡れた知らない男物が一本差してあったのだ。
春乃が大学で借りたのか? それともバイト先の誰かと待ち合わせをして? とめどない不安は溢れるばかり。そのうちに出かける気力は削がれてしまい、僕は部屋へと踵を返した。
次の日。
その傘はなくなっていた。
どうしようか迷いに迷って、訊いた。
「誰かに、傘を借りた?」
なんとも無粋な質問だ。
洗い物をしていた春乃は水音でうまく聞きとれなかったのか、カフェエプロンで手を拭いながらリビングまで出てきた。
「はい?」
「……ああ、いや。傘の数が多かったから」
我ながら間抜けな尋ね方だと感じたが、どう言ったらいいのかわからなくなってしまっていたのだ。いい歳をした男が嫉妬だなんて……そこで僕の頭は真っ白になる。あまりに懐かしく僕の中では地味なほうにカテゴライズされる感覚で忘れかけていたが――嫉妬って、なんだ?
嫉妬?
「この間、急に降られたときに雨宿りしていたら、サークルの先輩が貸してくれたんです」
ふうん、と唸りながらも僕の心はここにあらずだった。
「……サークルに入ったのか?」
「図書館司書と簿記の勉強をしようと思って。サークルというより勉強会に近いものですけどね」
そんなもの、ゼミでやればいいのに。
思わず無責任な発言をしそうになって、掌で口をふさぐ。学生の本分は勉学であり、春乃の選択は間違っていない。正しい。
僕が学生だったころ、サークルというものはお遊び仲間でしかなかった。夏はテニス、冬はスキーと称して、合宿する。そこで女の子をナンパする。果てのないリビドーに駆り立てたのものはなんだったのか。月毎に、ひどいときには、週毎に付き合う人を替えて楽しんでいた。女色に溺れ飲酒に耽り、当たり前のような朝帰り。思えば荒んだキャンパスライフだったが、乱れているという感覚は麻痺していた。
時折甦る、名も忘れてしまった女の泣き顔。
それを踏み台にして、僕は今、ここにあるようなものだ。
書き下ろしのプロットを練りなおそうと、原稿用紙を片手に万年筆を握ったままで止まっている僕を見据えたまま、春乃は眉をひそめたが、一瞬後には気づかうように言った。
「お茶、淹れますか?」
「……うん? ああ」
刹那によぎった感情。動きが止まるほど肩に重くのしかかる――これは罪の意識だ。
なにに対して? 誰に対しての罪の意識なのか?
僕は、春乃の顔をまともに見ることができなかった。
うっとうしい空模様が続く、このごろ。
春乃の帰宅時間が、まちまちになっていった。大学は曜日によって受講する時間帯が違うから大して気にすることもないのだが。いつもどおりに帰ってくることもあれば、夜中に帰ってくることもある。サークルに入ったのなら当然飲み会はあるだろうし、友人との付き合いもあるだろう。それはそれでいい。けれど……。
尽きないネガティブ思考に堪えられず、独りで滅入って仕事を放りだした。
微かに聞こえる物音で、彼女が帰ってきたことを知る。時刻は、深夜一二時半。ぎりぎり終電に間に合った、というところだろうか。
今夜、七時を過ぎてキッチンを覗いたとき。彼女の姿がないことに落胆した。自嘲的な笑いを浮かべて、シンクで煙草を何本も吹かした。ちょっと前までは独りの食事が普通だったのに、あまりに変化してしまった僕の日常。独りでつくって独りで食べる、そして、片づける。独身者なら誰もがやっていることだが、それが僕の食欲を萎えさせる。なんに対してか募る不満に、わけがわからず苛々する。ともすれば、虚しいとさえ感じてしまう。
僕は、僕をこんなふうにした元凶を扱いあぐねているのだと、両の掌で顔を覆った。
「最近、食事はどうしてるんだ?」
そう直球で訊いたのは、明けて翌朝のこと。
仕事もできず、眠ることもできずに、夜明けを迎えてしまっていた。
「友達と食べてますけど」
肩越しに覗きこむようにする僕に、春乃は近所のベーカリーで買ってきたばかりのクロワッサンを籠につめながら答えて、首をかしげた。
「すみません。食事をつくると言っておきながら」
それはいいんだ、と返事をしようとして口角がひきつった。
春乃が、僕をじっと見ている。彼女は勘がいい。女性は勘のいい厄介な生き物だが、春乃は段違いに優れていると思う。
彼女は心情をあえて隠すこともせずに怪訝そうな声をだした。
「暮本さん、怒ってるんですか?」
「……なんで?」
「手抜きだ、って思ってるんじゃないですか? 約束違反だって」
今時、男女がひとつ屋根の下に暮らしていて、どちらかだけが家事を負担するなんてナンセンス。そんなことは考えたこともない。
誤解を生じるようなくだらない問いかけをしてしまったと、いたたまれずに、つい僕が視線を逸らせたとき。
「暮本さんはなにも言わないんですね」
低い呟きに瞠目する。
「……母にも、そうだったんですか」
意表を衝かれて、しどろもどろになった。
「カノとのことは――」
言いかけて僕は慌てて口を噤む。おそらくは、彼女の前ではじめて声にしたであろうカノの名前。たとえ娘であったとしても、僕とカノの間には入ってきてほしくなかった。僕らの大切な想いのつまった場所にまで踏みこんでほしくなかった。
そんな僕をどうとったのか。
春乃はすねたように胡乱な眼差しを向けてくる。まるで、とがめるようにして。
「言いたいことがあるのなら、はっきり言ってください」
それきり黙りこむ男をさげすむようにして春乃はバッグを手にとった。
「そろそろ時間なので出かけます」
僕はなにも言えなかった。
春乃の背を目で追うこともできず、あらぬ方向を見すえたまま、もたつく指で煙草を探す。
どうしてこんな言い合いになってしまったのか。――本当は、なにが訊きたかったのだろう。なんと答えてほしかったのか。
今さらながらに臍をかんだが春乃はもういない。
彼女が帰ってきたときに、どうとりつくろうか、そればかりに気をとられ心は千々に乱れるばかり。
彼女の気持ちがわからない。それを訊けない僕がいる。一緒にいるのに、一分が、一秒が、微妙にすれ違っていく。……いつかのように。
忸怩たる想いと憮然たる想いが入り混じり、自身をいさめるようにして腰をあげたのは昼過ぎのこと。
きしむ身体。いや、きしむのはそれだけではない。
僕と春乃、二人の間に無音のきしみが生じている。
こんなふうに感じたら最後、二人の関係は終わってしまう。経験上、わかる。
修復できなくなる前に……。僕はダイニングテーブルに書きおきを残した。
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