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第三章(1/3)
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第三章
第一景
ちょうど昼餉を食べ終わり、豈華が食膳をさげて室を出ていったときだった。
「山の紅葉がきれいらしい。これから散策するから、丹緋はこの上着を羽織るといい」
と、皇帝の声がかかった。
前触れなく登場した皇帝は、右手にさげていた質のよい上着を丹緋の肩にかけるや否や、なぜか、そうっと二の腕を引いて殿舎の外へと連れ出してしまったのだ。あっという間に。
殿舎から続く階段の下で待っていたのは、彊大将軍をはじめとする神策軍。
たくさんの武官に囲まれて、いたたまれない丹緋は「う」と呻いた。
頼れる豈華は戻ってきてはいない。この際、性格冷淡な美信でもいいからいてほしいのに、見当たらない。
(女はわたしだけじゃないの? しかも、馬? ってことは、遠出する!?)
乗ったことのない馬を見上げて丹緋が茫然としていれば、
「其方は私と行くのだ」
上から声がかかると同時、伸びてきた片腕に抱かれてしまう。腕は、丹緋の脇から差し込まれ、まるで手荷物のように軽々と馬上に引き上げられてしまった。
男とはいえ、それにしてもすごい力だった。
「あのっ……どこへ?」
はじめての乗馬で、たどたどしく丹緋は問う。横座りの状態で半身が安定せず、目が回って落っこちそうになる。すると皇帝が、丹緋の片方の手首をつかまえて引き寄せた。
「其方がつかまっていいのは私だけだ。頼るのは、私だけ。ほかの男と間違えるなよ」
軽い口調でそう言って、自分の胸元を指し示し、とんとんと叩いた。
「私の袍をつかんでいろ」
衣をつかませたあとで頤をすくわれる。そのまま、皇帝の胸へと顔を押しつけられた。
「大丈夫、腕で囲っているから。其方はなにも心配せずに景色を愉しめ」
言われて、おずおずと広い胸に頬を寄せた。とくんとくんと乱れのない心音が聞こえてくる。その音と男の体温で幾分か落ち着いた丹緋は、体重を預けることにした。
「行くのは皇宮裏の泰山だ。北の方角だな。丹緋は聞いたことあるか、出会えば子を授けてくれる仙人が棲むという噂」
「あ、はい。……聞いたことは」
「や、実はな。浸かれば子を授かるという池があっただけで、仙人が棲むというのは別の話らしいんだが」
え、と丹緋は目を丸くした。
天延の、子を望む夫婦はけっこうな割合で〝会いにいける仙人〟話を信じている。
「時を経て、噂話に尾ひれがついてかわってしまったのかもしれないな。白状すると、私も偉そうに知ったかぶりをしているが、この話を私に教えてくれたのは彪之でな」
「郭彪之様ですか。確か、史館監修国史の?」
史館の長官を監修国史という。
政治の仕組みについて、美信からちょっとした教育を受けていた。朝廷には干渉しすぎないとするも、主だった機関の長官の名は憶えておくよう、そのとき指示されたのだ。
「そう、その彪之な。史館の長官はその職掌上、知識人でなければ困る。あれはおもしろい男で、まだ若いんだが。其方と同じ、庶人の出でな。家は貧しかったらしいんだが、学ぶことは好きだったという。とくに不思議話を聞くのが好きで、奇妙な経験をした人々を訪ね歩き、十代半ばには[怪奇の書]を記しているんだ。この書が売れたことで宰相の目にとまった。偏見なく蓄えた知識が豊富だから、史館の長官に大抜擢したんだ」
「へえ、すごい御方なんですね」
国中のいろいろな人々を訪ね歩いたからこそ、泰山の池の話を聞くことができたのだろう。自分の足で歩いて得た知識――そこにかける情熱は半端なものではなく、貪婪だ。
熱中できるものがあるのだ。
これといった趣味もない丹緋には、なんだか羨ましくもあり、素直に感心したのだが。
肌から伝わってくるのは打って変わった不機嫌な気配。
「あ……あのっ」
「や、いいんだ。彪之は確かに立派な官吏だからな、褒められれば私も嬉しい。いや――じゃなくてだな、今の話は、彪之を大抜擢した私を褒めるところであって」
ぐだぐだと言い募る皇帝を、思わず丹緋は振り仰いでしまった。
皇帝は手綱を握ったまま、どこを見るともなしに視線を彷徨わせている。口調が乱れるのは珍しいので(あれっ?)と驚いたのだが、態度からして普段とは異なっていた。
「すまない、部下にすら嫉妬する心の狭い男で……」
(嫉妬? 前にも嫉妬と言っていたけれど)
意味不明だ。
いつでも堂々と振る舞っている皇帝が、なんだかそわそわしている?
異変を感じれば感じるほど自分がなにかやらかしたのではないかと、丹緋は不安でたまらなくなった。
「陛下、わたしはっ」
「あのな、丹緋」
と、視線とともに声がそそがれる。
皇帝の声は少しかすれていて、丹緋の耳には心地よい。すいと頬を寄せられて、声は耳に直接吹き込まれた。あまりに近いせいか、頭の奥を震わせる。そこから伝った声は、すとんと胸まで落ちていく。
「なぜ私が車を使わなかったと思う?」
「は……い?」
「車だと、狭い室内で身体が密着するだろう。其方が嫌がるかと思って」
(え?)
とはいえ馬上のほうが身体は密着するだろう。
丹緋の身体は小さいから、皇帝が手綱を握れば胸の中にしっかりと囲われてしまう。身体は紙をはさんでも落ちないほどに張りついているのだ。皇帝の吐息も、うるさいほど首筋にかかる。いったいどういう理屈なのか、丹緋が真剣に考え込んでいると、
「ハハ。馬のほうが自然と其方の傍に寄れると思ってな。つまりはそういうことだ」
「???」
なんだかよくわからないが、皇帝なりの軽口らしい。
笑みを浮かべて片目を瞑ってみせる皇帝は、いつもの調子に戻っていた。よかった、と丹緋は心底安堵する。
それにしても、と丹緋は周囲へと視線を戻した。
泰山はうっすら紅く色づいて、とてもきれいだ。皇帝に抱きついているから多少の緊張はあるものの、目の保養にもなるし、不慣れな生活の息抜きにもなる。それは嬉しい。
(けれどなぜ、仙人に会いにいくのだろう? もしかして用事があるのは、池?)
浸かれば子を授かるという池があると言ったのは皇帝だ。
世継ぎを望むなら連れていくのは妻のはず。
この皇帝には正式な妻がいる。鄭貴妃だ。
丹緋が沈黙したまま、あれやこれやと頭を整理しているうちに。宮城を出た一行はどんどん山奥へと分け入っていた。緩やかな坂道を登っていけば、森は鬱蒼としはじめる。木々の枝が陽射しを遮って辺りはどんよりとしてきていた。湿気がこもっているのか、土と木の放つ自然の濃い匂いが冷気と混ざり、身体を包んでは微風に流されていく。
おお、と声をあげたのは大将軍だった。
「さすがは彪之というべきか、池はありましたがね。はてさて、仙人はいますかな」
池というよりは、小さな湖と表現したほうが相応しい。傾きはじめた陽をあびて、鏡のように景色を映す水面はきらきらと輝いていた。静かな畔で武官達は次々と馬を降り、護衛のために四方へと散っていく。
颯爽と馬を降りた皇帝が、丹緋へと手を差し延べた。
「ほら、おいで。怖くない。私が受けとめるから」
馬の背は高いので、鞍上からは自力で腰を動かさねば皇帝の腕には届かない。ほんのわずかな距離だったが、降りるのには勇気がいった。でも、降りないと……。
皇帝に従って丹緋は半身を乗り出した。受けとめてくれた腕はしっかりしていて、宝物のようにそっと、ぎゅっと包んでくれる。
ふわりと身体が浮いて、足が地につくまで。
丹緋は、子供のように庇護されて甘やかされているような気持ちになった。そんなふうに胸がきゅんとなったのははじめてだ。
子供が子供らしくいられるのは、なんと幸福なことなのだろう。親から与えられるものを、人生のどこかで〝当然のように〟受けとっていると気づける人はごく一部なのだ。
お礼をと、大袖に包まれたままで丹緋は皇帝を仰ぎ見た。その瞬間だった――
「孺子、お前の名は黎緋逸といったか。なにしに来た?」
どこからともなく声がした。ひどくぶっきらぼうな声音。
みなが、はっと息を呑んだ。
その男は、なにもなかった場所に忽然と現れたのだ。
びっくりしたのは丹緋も同じ。だが、驚きの理由は少々異なる。
男の長い髪は、銀。
忘れもしない――妓楼で上の階から落下した男が立っている。玲瓏たる端整な顔立ちの男は、人の中に丹緋をみとめると立てた人差し指を口唇にあてた。
いつぞやの夜の、再現のように。
(今、確かに私の名を呼んだ?)
銀髪の男を見つめたまま、緋逸は思う。
この髪の色だ、一度会えば忘れたくても忘れはしない。しかし、どれほど記憶を掘り起こしても会ったことはない。
初対面のはずだった。
(や、けれど……どこかで)
誰かに似ているのか?
そう思いつつ、緋逸は尋ねる。
「貴殿が、仙人の――福禄寿師か?」
彪之が教えてくれた仙人の名を口にしてみる。【福禄寿】とは、幸福・富貴・長寿を表す。それが名なんてふざけているが、彪之が言ったのだから間違いはない。
(はず……)
応えない男に、緋逸は不安になった。
相手は空手。殺気はなく、邪気もない。反対に清い空気が辺り一面に漂っているので護衛は誰も抜剣しない。纏う雰囲気からしても仙人らしいが、応えてくれねば話は進まない。
「私はお前が嫌いでね」
「は!? なにをいきなりっ、というか私達、お会いしたのははじめてでは?」
時々、男は視線をはずす。
確かになにかを見ているのだが、それを確認する前に視線はすっと戻される。緋逸を見る眼差しは、拒絶と怒気を孕んでいた。
(なんでだ?)
「とっとと帰ってもらいたいのでね。さっさと用件を言え、孺子。目障りだ」
適当にあしらわれる。あまりにぞんざいな扱いであった。一応、一国の統治者なのに。
「……え、あ、はい。お伺いしたいことが。実は過日、冥王に謎かけをされまして」
男は無関心に「ふん」と鼻を鳴らした。
「答えを導きださねば、私の妻である丹緋が――」
そこで男は急に態度をかえた。「ちょっと来い」と怒鳴りつけ、緋逸だけをぐいぐい引っ張っていく。
周りに声が届かないであろう木々の間まで移動すると、男は緋逸の顔を覗き込む。近くで見ると、非の打ちどころのない美貌であった。傍に寄れば発する体温も伝わってくるし、呼吸している。(仙人も普通の人とかわらないのか)と現実主義の緋逸は思った。
「謎、とはなんだ? なにを要求された?」
「我の歳を当ててみよ、と」
なッ――一言呻いて、男は形の整っている口唇を引き結んだ。
しばしの沈黙。
この間合いも、どこかで触れた覚えがあるのだが。
(この間、微妙な沈黙、どこでだったか……)
緋逸は記憶を手繰れなかった。
「興味ないんでね、あれの歳なんぞかぞえたことがない。私でもわからん。なにしろ鬼だからな」
「あ、やっぱり」
「やっぱりじゃないわっ!」
叫んでから、男は緋逸の頭をひっぱたいた。飛び上がって。大して歳は違わないはずなのに、なんだか父親に説教されている気持ちになった。されたことはないけれども。
「あのな、私はこれでも皇帝なんだが」
「その皇帝が呆れるわ。不甲斐ない。この謎が解けなかったら、あれはどうすると?」
「私の妻・丹緋を譲れ、と」
そこで男はカッカと怒りはじめる。纏う雰囲気に似合わず、片足でバンバンと地面を蹴った。地獄に棲まう閻羅王を狙ってのことかもしれないが、まるで頑是ない子供だ。
ひととおり怒りを露にして気持ちが静まったのか、再び男は緋逸をじっと見つめた。
「お前の顔、それは凶相だな」
弱点を衝かれたも同然で緋逸は、く、と顎を引いた。
「三白眼はよい人相ではないという。悪い運勢を背負って生きる、と伝えられているが」
両の眼の、白い部分が左右と下にあるのを三白眼といった。
緋逸がそうで、眼力はあるものの人間的価値は低いと捉える者も多い。
男は、緋逸の左手の甲へと目線を移す。
「……お前次第ということか。だがな、絶対に認めんからな」
(認めない――って、私を? 皇帝には相応しくないということか)
それとも。
(……あ!?)
ふうっと。
風をつくるような、大きな溜め息をひとつ零すと同時に。
男は消えた。
大地に残った靴跡だけが、男がそこに立っていた証となって――。
第一景
ちょうど昼餉を食べ終わり、豈華が食膳をさげて室を出ていったときだった。
「山の紅葉がきれいらしい。これから散策するから、丹緋はこの上着を羽織るといい」
と、皇帝の声がかかった。
前触れなく登場した皇帝は、右手にさげていた質のよい上着を丹緋の肩にかけるや否や、なぜか、そうっと二の腕を引いて殿舎の外へと連れ出してしまったのだ。あっという間に。
殿舎から続く階段の下で待っていたのは、彊大将軍をはじめとする神策軍。
たくさんの武官に囲まれて、いたたまれない丹緋は「う」と呻いた。
頼れる豈華は戻ってきてはいない。この際、性格冷淡な美信でもいいからいてほしいのに、見当たらない。
(女はわたしだけじゃないの? しかも、馬? ってことは、遠出する!?)
乗ったことのない馬を見上げて丹緋が茫然としていれば、
「其方は私と行くのだ」
上から声がかかると同時、伸びてきた片腕に抱かれてしまう。腕は、丹緋の脇から差し込まれ、まるで手荷物のように軽々と馬上に引き上げられてしまった。
男とはいえ、それにしてもすごい力だった。
「あのっ……どこへ?」
はじめての乗馬で、たどたどしく丹緋は問う。横座りの状態で半身が安定せず、目が回って落っこちそうになる。すると皇帝が、丹緋の片方の手首をつかまえて引き寄せた。
「其方がつかまっていいのは私だけだ。頼るのは、私だけ。ほかの男と間違えるなよ」
軽い口調でそう言って、自分の胸元を指し示し、とんとんと叩いた。
「私の袍をつかんでいろ」
衣をつかませたあとで頤をすくわれる。そのまま、皇帝の胸へと顔を押しつけられた。
「大丈夫、腕で囲っているから。其方はなにも心配せずに景色を愉しめ」
言われて、おずおずと広い胸に頬を寄せた。とくんとくんと乱れのない心音が聞こえてくる。その音と男の体温で幾分か落ち着いた丹緋は、体重を預けることにした。
「行くのは皇宮裏の泰山だ。北の方角だな。丹緋は聞いたことあるか、出会えば子を授けてくれる仙人が棲むという噂」
「あ、はい。……聞いたことは」
「や、実はな。浸かれば子を授かるという池があっただけで、仙人が棲むというのは別の話らしいんだが」
え、と丹緋は目を丸くした。
天延の、子を望む夫婦はけっこうな割合で〝会いにいける仙人〟話を信じている。
「時を経て、噂話に尾ひれがついてかわってしまったのかもしれないな。白状すると、私も偉そうに知ったかぶりをしているが、この話を私に教えてくれたのは彪之でな」
「郭彪之様ですか。確か、史館監修国史の?」
史館の長官を監修国史という。
政治の仕組みについて、美信からちょっとした教育を受けていた。朝廷には干渉しすぎないとするも、主だった機関の長官の名は憶えておくよう、そのとき指示されたのだ。
「そう、その彪之な。史館の長官はその職掌上、知識人でなければ困る。あれはおもしろい男で、まだ若いんだが。其方と同じ、庶人の出でな。家は貧しかったらしいんだが、学ぶことは好きだったという。とくに不思議話を聞くのが好きで、奇妙な経験をした人々を訪ね歩き、十代半ばには[怪奇の書]を記しているんだ。この書が売れたことで宰相の目にとまった。偏見なく蓄えた知識が豊富だから、史館の長官に大抜擢したんだ」
「へえ、すごい御方なんですね」
国中のいろいろな人々を訪ね歩いたからこそ、泰山の池の話を聞くことができたのだろう。自分の足で歩いて得た知識――そこにかける情熱は半端なものではなく、貪婪だ。
熱中できるものがあるのだ。
これといった趣味もない丹緋には、なんだか羨ましくもあり、素直に感心したのだが。
肌から伝わってくるのは打って変わった不機嫌な気配。
「あ……あのっ」
「や、いいんだ。彪之は確かに立派な官吏だからな、褒められれば私も嬉しい。いや――じゃなくてだな、今の話は、彪之を大抜擢した私を褒めるところであって」
ぐだぐだと言い募る皇帝を、思わず丹緋は振り仰いでしまった。
皇帝は手綱を握ったまま、どこを見るともなしに視線を彷徨わせている。口調が乱れるのは珍しいので(あれっ?)と驚いたのだが、態度からして普段とは異なっていた。
「すまない、部下にすら嫉妬する心の狭い男で……」
(嫉妬? 前にも嫉妬と言っていたけれど)
意味不明だ。
いつでも堂々と振る舞っている皇帝が、なんだかそわそわしている?
異変を感じれば感じるほど自分がなにかやらかしたのではないかと、丹緋は不安でたまらなくなった。
「陛下、わたしはっ」
「あのな、丹緋」
と、視線とともに声がそそがれる。
皇帝の声は少しかすれていて、丹緋の耳には心地よい。すいと頬を寄せられて、声は耳に直接吹き込まれた。あまりに近いせいか、頭の奥を震わせる。そこから伝った声は、すとんと胸まで落ちていく。
「なぜ私が車を使わなかったと思う?」
「は……い?」
「車だと、狭い室内で身体が密着するだろう。其方が嫌がるかと思って」
(え?)
とはいえ馬上のほうが身体は密着するだろう。
丹緋の身体は小さいから、皇帝が手綱を握れば胸の中にしっかりと囲われてしまう。身体は紙をはさんでも落ちないほどに張りついているのだ。皇帝の吐息も、うるさいほど首筋にかかる。いったいどういう理屈なのか、丹緋が真剣に考え込んでいると、
「ハハ。馬のほうが自然と其方の傍に寄れると思ってな。つまりはそういうことだ」
「???」
なんだかよくわからないが、皇帝なりの軽口らしい。
笑みを浮かべて片目を瞑ってみせる皇帝は、いつもの調子に戻っていた。よかった、と丹緋は心底安堵する。
それにしても、と丹緋は周囲へと視線を戻した。
泰山はうっすら紅く色づいて、とてもきれいだ。皇帝に抱きついているから多少の緊張はあるものの、目の保養にもなるし、不慣れな生活の息抜きにもなる。それは嬉しい。
(けれどなぜ、仙人に会いにいくのだろう? もしかして用事があるのは、池?)
浸かれば子を授かるという池があると言ったのは皇帝だ。
世継ぎを望むなら連れていくのは妻のはず。
この皇帝には正式な妻がいる。鄭貴妃だ。
丹緋が沈黙したまま、あれやこれやと頭を整理しているうちに。宮城を出た一行はどんどん山奥へと分け入っていた。緩やかな坂道を登っていけば、森は鬱蒼としはじめる。木々の枝が陽射しを遮って辺りはどんよりとしてきていた。湿気がこもっているのか、土と木の放つ自然の濃い匂いが冷気と混ざり、身体を包んでは微風に流されていく。
おお、と声をあげたのは大将軍だった。
「さすがは彪之というべきか、池はありましたがね。はてさて、仙人はいますかな」
池というよりは、小さな湖と表現したほうが相応しい。傾きはじめた陽をあびて、鏡のように景色を映す水面はきらきらと輝いていた。静かな畔で武官達は次々と馬を降り、護衛のために四方へと散っていく。
颯爽と馬を降りた皇帝が、丹緋へと手を差し延べた。
「ほら、おいで。怖くない。私が受けとめるから」
馬の背は高いので、鞍上からは自力で腰を動かさねば皇帝の腕には届かない。ほんのわずかな距離だったが、降りるのには勇気がいった。でも、降りないと……。
皇帝に従って丹緋は半身を乗り出した。受けとめてくれた腕はしっかりしていて、宝物のようにそっと、ぎゅっと包んでくれる。
ふわりと身体が浮いて、足が地につくまで。
丹緋は、子供のように庇護されて甘やかされているような気持ちになった。そんなふうに胸がきゅんとなったのははじめてだ。
子供が子供らしくいられるのは、なんと幸福なことなのだろう。親から与えられるものを、人生のどこかで〝当然のように〟受けとっていると気づける人はごく一部なのだ。
お礼をと、大袖に包まれたままで丹緋は皇帝を仰ぎ見た。その瞬間だった――
「孺子、お前の名は黎緋逸といったか。なにしに来た?」
どこからともなく声がした。ひどくぶっきらぼうな声音。
みなが、はっと息を呑んだ。
その男は、なにもなかった場所に忽然と現れたのだ。
びっくりしたのは丹緋も同じ。だが、驚きの理由は少々異なる。
男の長い髪は、銀。
忘れもしない――妓楼で上の階から落下した男が立っている。玲瓏たる端整な顔立ちの男は、人の中に丹緋をみとめると立てた人差し指を口唇にあてた。
いつぞやの夜の、再現のように。
(今、確かに私の名を呼んだ?)
銀髪の男を見つめたまま、緋逸は思う。
この髪の色だ、一度会えば忘れたくても忘れはしない。しかし、どれほど記憶を掘り起こしても会ったことはない。
初対面のはずだった。
(や、けれど……どこかで)
誰かに似ているのか?
そう思いつつ、緋逸は尋ねる。
「貴殿が、仙人の――福禄寿師か?」
彪之が教えてくれた仙人の名を口にしてみる。【福禄寿】とは、幸福・富貴・長寿を表す。それが名なんてふざけているが、彪之が言ったのだから間違いはない。
(はず……)
応えない男に、緋逸は不安になった。
相手は空手。殺気はなく、邪気もない。反対に清い空気が辺り一面に漂っているので護衛は誰も抜剣しない。纏う雰囲気からしても仙人らしいが、応えてくれねば話は進まない。
「私はお前が嫌いでね」
「は!? なにをいきなりっ、というか私達、お会いしたのははじめてでは?」
時々、男は視線をはずす。
確かになにかを見ているのだが、それを確認する前に視線はすっと戻される。緋逸を見る眼差しは、拒絶と怒気を孕んでいた。
(なんでだ?)
「とっとと帰ってもらいたいのでね。さっさと用件を言え、孺子。目障りだ」
適当にあしらわれる。あまりにぞんざいな扱いであった。一応、一国の統治者なのに。
「……え、あ、はい。お伺いしたいことが。実は過日、冥王に謎かけをされまして」
男は無関心に「ふん」と鼻を鳴らした。
「答えを導きださねば、私の妻である丹緋が――」
そこで男は急に態度をかえた。「ちょっと来い」と怒鳴りつけ、緋逸だけをぐいぐい引っ張っていく。
周りに声が届かないであろう木々の間まで移動すると、男は緋逸の顔を覗き込む。近くで見ると、非の打ちどころのない美貌であった。傍に寄れば発する体温も伝わってくるし、呼吸している。(仙人も普通の人とかわらないのか)と現実主義の緋逸は思った。
「謎、とはなんだ? なにを要求された?」
「我の歳を当ててみよ、と」
なッ――一言呻いて、男は形の整っている口唇を引き結んだ。
しばしの沈黙。
この間合いも、どこかで触れた覚えがあるのだが。
(この間、微妙な沈黙、どこでだったか……)
緋逸は記憶を手繰れなかった。
「興味ないんでね、あれの歳なんぞかぞえたことがない。私でもわからん。なにしろ鬼だからな」
「あ、やっぱり」
「やっぱりじゃないわっ!」
叫んでから、男は緋逸の頭をひっぱたいた。飛び上がって。大して歳は違わないはずなのに、なんだか父親に説教されている気持ちになった。されたことはないけれども。
「あのな、私はこれでも皇帝なんだが」
「その皇帝が呆れるわ。不甲斐ない。この謎が解けなかったら、あれはどうすると?」
「私の妻・丹緋を譲れ、と」
そこで男はカッカと怒りはじめる。纏う雰囲気に似合わず、片足でバンバンと地面を蹴った。地獄に棲まう閻羅王を狙ってのことかもしれないが、まるで頑是ない子供だ。
ひととおり怒りを露にして気持ちが静まったのか、再び男は緋逸をじっと見つめた。
「お前の顔、それは凶相だな」
弱点を衝かれたも同然で緋逸は、く、と顎を引いた。
「三白眼はよい人相ではないという。悪い運勢を背負って生きる、と伝えられているが」
両の眼の、白い部分が左右と下にあるのを三白眼といった。
緋逸がそうで、眼力はあるものの人間的価値は低いと捉える者も多い。
男は、緋逸の左手の甲へと目線を移す。
「……お前次第ということか。だがな、絶対に認めんからな」
(認めない――って、私を? 皇帝には相応しくないということか)
それとも。
(……あ!?)
ふうっと。
風をつくるような、大きな溜め息をひとつ零すと同時に。
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大地に残った靴跡だけが、男がそこに立っていた証となって――。
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「……何それ、私の人生、まだ波乱あるの?」
はい、あります。盛りだくさんで。
元・男、今・女。
“白い結婚からの離縁”から始まる、人生劇場ここに開幕。
-----『白い結婚の行方』シリーズ -----
『白い結婚の行方』の物語が始まる、前のお話です。
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