東遊鬼(とうゆうき)

碧井永

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第五話 今は昔の物語

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 そのとき少年は、川を見下ろしていた。
 少年の身体からだは小さい。この世に生を受けて、せいぜい十年といったところ。
 それほど高くない崖に立つ少年は虚ろな目で、眼下に流れる川をじっと見つめている。
 川は大河ほどではないものの、この辺りではかなりな川幅のあるもので、流れは速い。この川から水を引き込んだ小運河がいくつもつくられて、街や田畑を潤し、人や荷を運ぶ手段のひとつとして使われていた。それほどの水量のある川であるから、泳いで対岸に渡るなど到底不可能で、ここに落ちれば屈強な男であっても溺れて死ぬだろう。
 虚ろな目のまま、少年は一歩、踏み出そうとした。
 そこでふと、川の流れがかわったことに気づく。
 それまで真っ直ぐに流れていたものが、大きく曲線を描いたのだ。
 水は円を描きながら、どんどん中央へと集まっていく。
 いつしかそれは巨大な渦となっていた。耳には渦のつくりだす轟音が痛いくらいに響いている。
 不自然な流れのせいか、大量の水飛沫がそこかしこで跳ね上がる。どっぷんどっぷんと、何度も飛沫があがったところで、水の渦が天に吸い上げられるようにして一気に伸び上がった。
 目を疑う、この世のものとは思えぬ異様な光景。
 それはまるで地底と天上をつなぐ水柱のよう。
 天へと伸びていく水の柱の勢いはもの凄い。
 どうどうと激しい音をたてて水が渦巻いているせいか、渦の外側に突風を起こしていた。その強い風から身を護るようにして少年が両腕で顔をかばったとき、自分の腕とは別の影が視界を暗くした。
 少年は我知らず、目をみはる。
 腕の隙間から天を見上げれば、天にも届きそうだった水柱が方向をかえ、渦を保ったままで急速に落下してくるところだったのだ。
「あ」と声をあげる暇もなかった。
 なにが起こったのか、少年にはわからなかった。
 硬いものにぶつかったような叩きつけられる衝撃があって、ハッとなったときにはもう、天から落ちてきた水流に呑み込まれ、小さな身体は流れに自由を奪われていた。
 そんな少年が、洪水が起きたのだと気づくはずもなく。
 急流に雁字搦がんじがらめに囚われながら少年は必死に腕を伸ばす。
 が、もがけばもがくほど足を引っ張られ、身体は水底へ沈んでいってしまう。
 このとき少年は、生きたい、と思った。
 死ぬつもりで崖に立っていたことを後悔しながら。
 それまで住んでいた村が野蛮な遊牧民に襲われて逃げるしかなかった。
 都の貴族はとっくに南に逃げていて、民を護ってくれるはずの軍も次々に南下をはじめていた。だからみな、貴族を追うようにして、取る物も取りあえず逃げだすしかなかったのだ。
 華北きたから逃げる途次、母親は戦に巻き込まれて死んだ。
 母親はまだ少女だった頃に、戦帰りの兵卒に乱暴されて身ごもった。そうして産まれたのが自分であったから、母親にはつらくあたられることが多かった。可愛がられた記憶なんてひとつもなかった。それなのに母親は、最後の最期で一人息子をかばって斬り殺されたのだ。
 頬に残るのは母親の身体から飛び散った血の温もり。
「……母さん」
 思わず母を呼べば、少年の口からゴボッと息が洩れていく。
 たった一人の肉親を失ってしまった。
 江南みなみまで来れば新しい白籍戸籍をくれるというから懸命に逃げてきたのに、この先、子ども一人でどうやって生きていけというのか。
 少年には自分の将来なんてないように思えた。
 目の前には絶望しかなかった。
 死ぬのが一番いい――そう思っていた。
 なのに、どうしてだろう。
 暗い水底に身体が沈んでいくほどに、やり残したことが次から次へと脳裏をかすめていく。
 お腹いっぱい、ご飯を食べてみたかった。一度でいいから貴族のように絹の服を着てみたかったし、温かい衾褥ふとんで寝てみたかった。隣に住んでいた女の子と、もっといっぱい話をしてみたかった。雨漏りの心配をしなくていい家に住んでみたかった。
 なにより。
 母さんと仲よく、穏やかに暮らしてみたかった。
 普通の親子のように。
 やりたいことはたくさんあったのに……。
 どうして死ぬのが一番いいなどと考えてしまったのだろう。
 せっかく母親が命を賭して護ってくれたというのに。
 少年の目から涙が零れる。
 涙はすぐに川の泥水に巻き込まれて、消えていった。
「……母さん、……怖いよ、助けて」
 残る力を振りしぼって、少年は上へと手を伸ばす。
 そして少年は、目を見開いた。
 澱んだ川の深い水底からでは見えるはずのない、空を見たような気がしたからだ。
 空は美しかった。
 とても。
 どこまでも高く、どこまでも真っ青で。
 江南に逃げ延びるまでずっと俯いていたから、空を見るのは久しぶりのこと。
 自分一人に背負わされてしまった未来というものが重すぎて、顔を上げて歩くことができなかった。
 そこに空があることすら、忘れていた。
 少年は思った。

 そうか、空を追って生きていけばよかったんだ――。



第五話 今は昔の物語

     1

 早春の淡い風に額髪をあおられながら、狭い山道をえっちらおっちらと歩いている青年がいる。
 大きな籠を背負った青年はおっとりとした風貌で、きものの上に裾の長い鶴氅かくしょうまとっているからか、学士がくしゃのような生真面目な印象を受ける。が、息を切らすことなく山道を登っていく足どりは、戦慣れした豪胆な武人のようでもあり、不思議な雰囲気をかもしだしていた。
 歳の頃は二十代半ばにいくかいかないかといった青年の顔は端整で、切れ込んだまなじりが特徴的。瞳は青みがかった灰色であり、この国の人間にしては珍しい色をしていた。
 鮮やかな春色に染まりつつある山道を登り、道が平坦になったところで青年は籠を下ろした。長い髪を後ろでひとつに緩く束ねただけの後れ毛を払い、艶々とした草木の生い茂る周囲を見渡して、ひとつ頷く。
「今日はこの辺りにしようか」
 誰に言うともなしに呟いて、青年は休息をとることもなく、草の茫々と生えている中に踏み入って頓着なく屈み込む。そうして目当ての草をいくつかぷちぷちとむしったとき、青年の眦が微かに動いた。
 しかし、それだけのこと。
 青年は黙々と草をむしり続けていた。
「こんにちは。よいお天気ですね」
 前触れもなく背後から響いたのは、男の声。
 後ろに男が寄ってきたことに気づいていたのだが、青年は素知らぬ顔で振り向いた。
 青年と距離をとったまま、道に立っていたのは存外若い偉丈夫いじょうぶで、歳は三十くらいだろうか。髪を結い上げている男は精悍せいかんな顔つきで、佩刀はいとうしていることからして武人である。立派な戦袍せんぽうを纏っているので、位のある武官か、貴族に雇われている傭人私兵であることがわかった。
 男の姿を素早く確認した青年は、ゆっくりと立ち上がる。
「本当に。ここ数日は、花見に出かけるのによい晴れの日が続いていますね」
 青年が草をむしっていた辺りは背の高い木がないために、春の柔らかな陽射しが燦々さんさんと降り注いでいた。その陽射しを遮るようにして、左手を目許にかざした男が、にこにこと笑って話しかけてくる。
「ここでなにをしているのですか?」
「薬草を摘んでいるんですよ」
「こんな小さな山なのに? よい薬草など生えているのですか?」
「ええ。この地方は水が豊かなこともあって、豊饒ゆたかな平野なんです。おかげで山とはいえないような小さな山にも手に入り難い薬草がわんさと生えていますよ」
「ほう」と、男は呟くように言ってから目を細め、言葉を継いでくる。
「貴方が建康けんこうではなく、こちらに住んでいるのは、そのためですか?」
 建康は、ここから西北に位置する王都である。
 歳下相手にもかかわらず口調の柔らかい男の意味深な言葉をさらっと聞き流して、青年は笑った。
「ここは昔のような辺境地ではなくなりましたからね。小運河によって王都とは結ばれていますし、不便はない。人も多く、その分、物も多い。なにより食べ物がおいしいですよ」
「なるほど」と男も笑った。
 青年は気づいていた。
 先程から男が顔に手をかざしているのは、自分の目の動きを悟られたくないからだと。男は時折、青年が背負ってきた籠を見ているのだ。その籠には、布に包まれた細長くて厚みのある板のようなものが差してあった。
 男の目が動いたのを見逃さず、青年はやや強引に話を戻した。
「草木の芽吹く季節ですからね、暇に飽かして新しい薬をつくってみるんです。なにかお困りのことがありましたら、おひとつ、どうですか?」
 籠を見ていたことがバレたのだと勘づいたらしい男が、苦笑しながら顔から手をどけた。それは、この男が武人として優秀であるということ。
「いえ、生憎と身体は丈夫でして」
「それはそれは」
「貴方が蓄えている本草ほんぞうの知識は素晴らしいとうかがっています。ですが本日、私がこちらへ出向いてきましたのは、本草の学問の知識を分け与えてほしいからではないのですよ」
 そこで男は、片方のてのひらにもう片方の拳をつけて、軽く腰を折った。
「お忙しいところ恐縮ではありますが、私の話を聞いていただけないでしょうか。巫祝ふしゅく殿」

 遥か昔――
 大地に住む民は、天地から受ける計り知れぬ災害ちからをどうにか制御したいと考えていた。
 その結果、天文を識り暦法をつくり、祭祀や祈禱きとうを行うことによって、天地の〝気〟を制御するようになっていく。そういった知識と技能の保持者が「巫祝」と呼ばれるようになっていった。
 そうして自然と向き合い、独学で修練を積んだ巫祝は、やがて仙人と同じ方術〈呪術ともいう〉を扱えるまでに発展し、完成された。そのような歴史の経緯から見ても、巫祝とは、多くの学問を修めた、摩訶不思議の方術を扱える特別な存在である。
「おーい、巫祝」
 椅子の背にもたれて瞑目めいもくしていた青年はゆるゆると目蓋まぶたを上げた。
 巫祝と呼ばれた青年は、あざな羽張うちょうという。
 声のしたほうへ顔を向けた羽張は、ぎょっとなり、椅子から滑り落ちそうになった。
「ンなっ!? おいコラ、タレ目、ハゲ! お前はいったいなにをやっている!!」
「いや、オレ、ハゲてないけど、ハゲたこと一度もないけど。なに、って言われても」
 怒鳴られても全然めげない男は風流人あそびにんふうで、歳は二十代後半といったところ。緩く波打つ茶色の髪はだらしなく垂らしたままで、艶やかな甘さがムダに漂う目も垂れている。その双眸は髪と同じに茶褐色だった。
「だってコレ、夕餉夕ご飯の食材だろう?」
 風流人ふうの男――袁洪えんこうが、ニッカと笑いながら訊いてくる。
 洪が「コレ」と指差しながら片手でつかんでいるのは兎の耳で、そこからぶら~んとぶら下がっている兎の四肢は、怯えるようにしてぷるぷると震えていた。
「お前のその目、役に立たないようだからこの場で今すぐ引っこ抜いて焼いて潰してドブに捨ててやろうかっ」
「巫祝こそ、ハゲてないのにオレのことハゲだって言っただろう。目が悪いのはどっちだよ?」
「ああン?」
 洪としゃべると引きずられて、つい口が悪くなる羽張である。
「食うんじゃないなら、はいで毛皮にするのかい?」
 洪の言葉は理解できなくても雰囲気で察したのか。小さな兎の体がビクッとなった。柔らかそうな薄茶色の毛が、警戒してびんびんと逆立っている。
 その兎は救いを求めるように、つぶらな瞳を羽張に向けてきた。視線と視線がモロにぶつかり、思わず羽張は「う」と呻く。
「……違う。よく見てみろ、後肢を怪我しているだろ? たぶん、大型の獣に噛まれたんだろうな。山で偶然見つけて、……ま、仕方なく連れ帰ったんだが」
「ふうん。つーことは、これからまるまると肥えさせて食うわけだ」
「違う、と言ってるだろうがこのバカッ! いい加減、食料の話から離れろ。なんのために傷口に薬を塗ってあると思ってるんだ? いいからとにかく兎を長椅子に下ろせっ」
「へいへい、わっかりましたよ」と口では言いながらも、しゃがみこんだ洪は、榻で丸まる兎をまじまじと見つめている。兎は神経質そうに鼻をひくひくさせながら、さらに小さく丸まった。
「なんだよ巫祝、兎と暮らすことにしたのかい?」
「……う」
 またも羽張は呻いた。
 怪我をしている、まだ子どもの兎を見つけたときは、短い命を憐れみはしたものの、助けてやろうなどとは思わなかった。なのに、どういうわけか。目と目が合ってすぐに身体が動いてしまったらしく、気づけば兎を抱えて下山していたのだ。
 まるで呪にかかったみたいだった。
 ……方術を駆使する、この自分が。
「私のことはどうでもいいだろう」
「ええぇぇぇ」
「ええぇぇぇ、ってかわい子ぶるな、気持ちワルイ」
 羽張と洪は数ヵ月前からの付き合い・・・・になるが、羽張はこの男が苦手だった。苦手とする理由はイロイロありすぎて頭痛の種になるから力尽くで忘れることにしている。
 しかし今回、彼を呼び出したのは、その頭痛の種のひとつを披露してもらわねばならないからだった。
「お前にやってもらいたいことがある」
「イヤだっつっても、オレは巫祝に逆らえないからなあ。それ、大きな仕事かい?」
「……ああ」
 そう答えた羽張の顔には、憂いのようなものがかげをつくっていた。

     2

 提灯ていとうを片手に羽張が歩いているのは、満開の梅がいくつも咲き誇っている道だった。
 手許てもとの淡い灯りに浮かび上がる紅の花片は、風にあおられ、右に左にはらはらと舞い踊っている。足許は舞い落ちた花片で敷き詰められていて、さながら梅花に染められた毛氈もうせんを歩いているようだった。
 宵闇が満たす周囲には水の流れる音が響いている。
 凝った闇の先にあるのは漸水ぜんすい
 漸水は、この辺りでは最も大きな川で、この川から水を引き込んだ小運河が網の目のごとくつくられている。人と物を王都まで運んでいく運河も、漸水を起点としてつくられた。
 日が暮れたばかりではあるものの、民居みんかのない辺りは真っ暗。
 人気がないのをいいことに道の真ん中で立ち止まり、しばし梅の美しさを愉しんだ羽張は、このあとのことを思って億劫そうにひとつ息をついた。次いで左を向いて、くちぶえを吹く。
 音もなく突如、闇から抜け出るようにぬっと姿を現したのは、袁洪。
 茶色の髪の先が黒い闇を引きずるように揺れていた。
「呼ばれて飛び出てオレ、推参」
 詠うような口調で袁洪が挨拶をする。
「む」
 その挨拶を受けて、羽張の口許がひん曲がった。
 軽い、軽すぎるッ! 
 ――羽張のこめかみに青筋が浮かんだが、ここはグッと耐えるしかない。洪の、この軽々しさは、羽張の苦手とする態度のひとつだった。
 自分で「呼ばれて」と言ったとおり、袁洪は、羽張に使役しえきされている鬼である。
 梅山ばいざんで生まれたとされている洪は、人の形をしてはいるものの人ではなく、正体はさる精怪化け物なのだ。人の歳でいうところの二十代後半に見えたとしても、実際のところ、どれほどの時を生きているのか誰も知らない。
 自由自在に人になりすますのがうまく、人好きのする美丈夫に変化へんげするのを得意とし、女人女性を誘惑するという最大最凶の悪癖がある。
 それは数ヵ月前のこと。
 街の遊里遊郭で妓楼を営む者たちから、「名妓ばかりがさらわれて孕まされている」と羽張は相談を受けた。話を聞くうち、名妓たちに連れ去られた間の記憶が欠落していることを知った羽張が、「それはの仕業だろう」と答えると、「どうにかしてくださいぃぃぃ」と泣きつかれ、方術ほうじゅつを駆使して祓ったのが洪だったというわけだ。
 以来洪は、羽張の役鬼使役中の鬼となったわけだが。
 どうにも洪とは反りが合わない羽張である。
 軽薄な態度もムカっ腹が立つし、戦袍の襟元をダラりと着崩しているのも苛々する。しょうを吹いて自分で呼び出しておきながら、言葉を交わす度にド突きたくなって手がうずうずし、洪をもて余すばかりなのだ。
 余談ではあるが、役鬼は嘯を合図にして、術の執行者の前に呼び出される。
 嘯は、左を向いて吹くのが決まりだった。
「おお。なんの匂いかと思ったら、梅か」
 鼻をすんと鳴らして、洪が周辺をざっと見渡した。そしてすぐに首をかしげる。
「なあ巫祝。ここって、どこ?」
「漸水の畔だ」
「漸水って、巫祝の邸から散歩で来れるような距離じゃないだろう? ちょっとした旅なら、もっと早くオレを呼び出してくれればよかったじゃないか。旅は道連れだぜ」
「け。お前と道連れになりたくないから、今、呼び出したに決まってるだろうが」
「ちえぇぇぇ、ひでえな」
 すねた仕種で洪が道端の小石を蹴った。
 本気なのか演技なのか判別のつかないその態度にも、羽張はイラっとなるのだ。
「……お前、何日か前に説明したこと、憶えてるだろうな」
「ああ、あの大きな仕事ってやつだろう?」
 洪の言葉に、羽張は頷いた。

 山で声をかけてきた武人と話をするために、羽張は山を下りて、街にある自分の邸まで案内した。
 羽張の邸は貴族邸ほど広大ではないものの、庶人しょみんが住めるような広さでもない。
 房室へやの数が多いわりに必要最低限の簡素な調度品しかなく、案内された武人は「意外だ」というふうな表情を浮かべていた。
 武人がそんな顔をするのは無理からぬこと。
 膨大な知識を蓄え方術を駆使する巫祝は、稼ごうと思えばいくらでも稼げるからだ。巫祝の中には、特別な能力を活かして民から金品を巻き上げるといった悪辣行為を繰り返し、ド派手に暮らす者もいる。
「お茶をどうぞ」
 茶を勧めると、卓子つくえの対面に座る武人は品よく頭を下げた。
「これはまた、よい茶葉のようですね。疲れがとれる気がします」
「それはようございました。この茶は、ほんの少量ですが杏を混ぜて煎じているんですよ。杏には疲労回復の効果がありますから。長旅でお疲れのことと思いまして」
 おいしそうに茶をすすっていた武人の頬が、微かにぴくっとなる。
「……私が、長旅、ですか?」
「おや、違いましたか?」
「……いいえ、そのとおりです。私は王都から来ましたので。どうやら巫祝殿には隠し事はできないらしい」
「誤解しないでください。今のは術で見抜いたわけではなく、ただの勘です。そもそも相手の心を見透かす術などありませんし」
 そこで羽張は、武人が自分の双眸ひとみを見ていることに気づいた。
「なにか?」
「……これはご無礼を。巫祝殿には見鬼けんきの能力があるとうかがっていたものですから、見鬼師けんきしの目は、そういった色なのか、と」
「ああ」と羽張は磊落らいらくに笑った。
 自分で自分の顔は見えないものなので、目の色が違うことを普段は忘れてしまうのだ。
 見鬼とは、鬼を見る能力のことで、これを見鬼術という。
 この見鬼術は生まれつきのものであり、修行したからといって習得できるものではないので、見鬼術を扱える巫祝はとても貴重だった。
「私の母は異国の生まれで、碧眼なんです」
「そうでしたか」
 無粋な者であれば、あれやこれやと異国の母親について尋ねてくるものだが、武人はそれ以上なにも訊いてこない。礼儀をわきまえた武人は好ましい。羽張は、相手が話しだすのを待った。
「私は、しゃ世誠せいせいの遣いとして参りました」
 武人の言葉に、軽く目を見開いた羽張。
 今の世は、貴族が支配している。士の位にある貴族と庶人では、「士庶のけじめは天隔す」という言葉が示すほど、暮らしぶりには様々な差があった。貴族の筆頭に位するのが王氏と謝氏であり、謝世誠はその二門閥貴族のひとつ、謝氏の一族なのである。
 謝世誠に雇われているらしい武人からは、品行方正な印象を受ける。ということは、この武人を使者として遣わした世誠も、それなりの人物なのだろう。
「世誠様といえば、そちらの姫君が太子妃候補に名があがっていましたよね?」
 羽張の問いに、今度は使者が目を見開いた。
「遠く離れた都の話なのによくご存知で」
「ええ、まあ、鳥の話を聞いたものですから」
「はい? ……鳥ですか?」
 使者が首をかしげた。
 どうやらこの使者は、羽張が解鳥語を扱えることは知らないらしい。
 なんでもない、というふうに片手を振ると、使者は言葉を継いでくる。
「つい先日のことになりますが、太子妃に決まりまして。謝の一族はみな、喜んでいます」
 羽張が祝いを口にしたあとで、使者はやっと本題を切りだした。
「……巫祝殿は、漸水で洪水があったのを知っていますか?」
 漸水は、ここから北に少しいったところに流れる川であり、王都からはかなり離れている。くだんの洪水についても鳥の会話から聞き取っていたので、羽張は頷きながら、
「漸水付近の一部は確か、……謝氏の領地でしたか?」
「ええ、そうなのです。領内で二度、立て続けに洪水が起こりまして」
「それは災難でしたね」
「はあ――」と使者は、曖昧あいまいな返事を寄越してくる。
「――実は、洪水が起こることは、事前にわかっていたのです」
 それを聞いて、羽張の特徴的な眦が微かに動いた。
「二度とも、ですか? 卜筮うらないでもしてもらったんですか?」
 卜筮ぼくぜいは、古来より脈々と伝わるもので、吉凶を判断する手段のひとつである。歴代の朝廷も、国の未来を占うものとして用いてきた。
「二度とも事前にわかっていました。……それは卜筮の結果ではなく」
 言いよどむ使者。
 羽張は安心させるようにして、微笑しながら続きをうながす。
「なにを聞いても驚きませんから。真実だけを話してくれますか」
「それは助かります。……洪水が起こる数日前のことになりますが、河伯かはくの孫なる者が漸水の畔に現れまして」
 河伯とは、川の神のこと。
 常人であれば「神の孫が現れた」などと言われれば信じることができずに「はぁ!?」とツッこむところだろう。だがしかし、羽張は疑いの眼差しを向けることなく、静かに頷いただけ。
「その河伯の孫を名乗る者が、――洪水を起こすからこの付近に住む者はみな逃げよ、逃げないのであればみな死すべし、と村に住む民に告げたのです」
「信じて逃げた者は助かり、信じない者はみな死んだのではありませんか?」
「……いいえ。ほとんどの者は、信じずに逃げなかったのです。それも当然といえば当然でしょう。神の孫だなどと、誰が信じるものですか。それで多くの民が、突如起こった大洪水に巻き込まれてしまったのですが、……不思議と大半が助かりまして」
「助かった?」
「はい……ああ、大半といいますのは老人を含めた大人のことでして」
「……え?」
「命を落としたのは、子どもばかりだったのです」
 羽張は器用に片方の眉を跳ね上げた。
「二度とも、ですか?」
 同じ問いを繰り返す羽張に、使者は根気よく「はい」と短く答える。
 羽張は「ふうむ」と腕を組んだ。
「謝世誠は、この惨事をひどく嘆いています」
「それは、洪水によって農地が荒れ収穫高が下がることを、ですか?」
「いいえ。……子を失った親たちは、ヤル気をも失います。気力が削がれれば、その分、村の復興が遅れる。世誠が嘆いているのはそこでして、これ以上、親たちから子を、幸せな未来を奪うようなことがあってはならないと」
「ですが使者殿、水害は自然の摂理せつり。時の運でもありましょう。いくら筆頭貴族・謝の一族であっても、偉大なる自然の力には逆らえますまい」
 使者の視線が強くなった。
「今の話を聞いて、巫祝殿は本気でそう思われているのですか?」
 強い眼差しをしっかと受けとめた羽張。
 しばし視線を交わらせてから、
「いいえ」
 と返事をした。

 目の前で腕を回しながら、コキコキと肩を鳴らしているのは袁洪。
「にしてもさあ、この近くにあるのは寂しい村だな」
 もとより鬼である洪は夜目がきく。山中で修行した羽張も同様ではあるが、羽張よりも遠くまで見通せる洪が、目をしばしばさせながら周囲を探るように見渡していた。
「今の王朝は所詮、華北からの流寓りゅうぐう政権だ。先の王朝崩壊にともなった戦乱を避けるため、貴族にならって南下してきた民には本来の黄籍こうせきとは別に、白籍はくせきという戸籍が与えられる。……が、流寓する者たちをまとめるのは難しいんだろう。難民という差別があれば、村の内情もそれだけ混乱するだろうしな。混乱したままでは豊饒な大地であっても、土地は発展しないといういい例だ」
「ふうん」と、随分適当な返事をする洪。
 人と人との間に起こる出来事は、鬼の洪にとっては、まさしく他人事なのだろう。
「そんで? オレが相手しなきゃならんのは、どんなヤツ?」
 説明するのが面倒ということもあって、洪には「大刀を磨いておけ」としか伝えていなかった羽張である。生粋の武人である洪にはそれだけで充分だったのだろう、戦闘準備万端といった様子で身体を慣らしている。
「オレを呼び出すってことは、人相手じゃないんだよな?」
「河伯の孫、だそうだ」
 その「河伯の孫」と名乗ったものが人ではないと踏んだから、謝世誠はわざわざ王都から使者を寄越したのだ。
 見鬼の能力がある巫祝のもとへ、と。
「河伯? へえ、川の神に孫なんていたのかい?」
「や、……たぶん、孫じゃないだろうな。おそらくは、河伯から飼育を任ぜられたものだ」
「飼育?」
 ぽかんとなった洪が訊いてくる。
 そのアホ丸出しの顔を見返しながら、羽張は、使者の言葉を思い出していた。
 ――洪水が起こる直前、漸水の水が天にも届くほどに伸び上がったのです。
 渦を巻いて川の水が伸び上がるのを、何人かの村人が目撃したという。そんなことが、ただの洪水で起きるはずがない。自然界では、あまりに不自然な光景。
「……龍だ」
「龍? 川で龍を飼育してるってことかい?」
「そうだ。河伯に命じられ、龍を育てる飼育人がいるという話を聞いたことがある」
 洪に説明しながら、羽張たちは漸水のつつみまで歩いてきていた。
 流れの速い川面は冷々とした月の光を反射して、辺りを銀にきらめかせている。
「龍は地上に姿を現すとき、その大きさのせいで水が天へと伸び上がり、周辺一帯に洪水を引き起こすんだ。住んでいる民にしてみれば迷惑極まりないことではあるが」
 そこで羽張は沈思する。
 使者は「子どもばかりが命を落とした」と言っていた。龍の飼育人が絡んでくる話で、そんなことは初耳だった。
 なにかがおかしい――これは羽張の直感でもあった。
 本来であれば、飼育人の起こした出来事は放っておいても、なんら問題はない。
 もともと河川が増水するのは雨量ももちろん関係はするが、川を棲み処とする龍の移動が最大の原因であり、それを民が知らないだけのこと。
 飼育人は気まぐれに警告を発することがあり、信じて逃げた民だけが洪水から救われる、といったことも多く伝わっている。
「そいつ、能力が高いのか?」
 沈黙を破ったのは洪の声。
 川の流れの音にかき消されないように、羽張も声を大きくした。
「人の姿に変じ、なおかつ、人にその姿を見せている。能力は高いだろうな。だからお前に頼んでいるんだ」
「巫祝に頼まれるなら、悪い気はしないな」
 その言葉を、羽張は複雑な気持ちで聞いていた。
 洪は相手のよいところを素直に褒める、そこも羽張が苦手とするものだった。
「この場に飼育人を呼び出したい。それなりの鬼が自分の領地である川を荒らしているとなれば、飼育人も怒って姿を現すだろう。ここがお前の業の見せ所だ、遠慮せずドドンと披露してくれ」
 挑発するように羽張は言った。
 正直なところ、ここらで洪のもてる能力を見極めておきたいというのもある。
 それに気づいているのかいないのか、洪が薄く笑った。
「別にいいけど。巫祝も手伝ってくれるんだろう?」
 洪が見ているのは、羽張が手にしている布に包まれた細長くて厚みのある板のようなものだった。
「それ、刀剣だよな?」
 頷いた羽張は提灯を地面に置いて、手早く布を取り去った。使い慣れた環柄刀かんへいとうは、一目で刀剣を持ち歩いているとバレないように普段は布に包んであるのだ。
「お前が不甲斐ないときのみ、手伝ってやるよ。いいか、のみ、だからな」
「不甲斐ない、って重ね重ねひでえな。まあ、しょうがないけど。オレは巫祝の剣術に負けたんだから」
 軽く顔をゆがめながら羽張は、
「くっちゃべってないで、とっととやれ」
「はいはい、やりますよ」
 うるさいなといわんばかりに小指で耳をかっぽじりながら、洪は少しばかり距離をとった。
 その戦に慣れた後ろ姿が、不意に使者の背に重なっていく。

 謝世誠の遣わした使者が、帰り際、何気ないふうを装って訊いてきた。
「巫祝殿は、なぜ刀剣を持ち歩いているのです?」
 やはり気づいていたか、と羽張は小さく笑った。
 山で出会ったとき、使者が籠をしきりに気にしていたのは、相手が刀剣を扱えると咄嗟とっさに判断して、警戒していたからだ。
 どうするかしばらく迷い、結局は真実を口にする。
「性分ですね。……子どもの頃に、親に殺されそうになったものですから。まあ、仕事柄というのもありますが、いろいろと用心深くなったんですよ」
「……そうでしたか」
 短く応じた使者は視線を逸らさないままに、束の間黙考していた様子だった。
「この度の仕事をお引き受けくださったのは、そのこと・・・・も関係しているのでしょうか」
 その問いは、相手の答えを期待していないものに思えた。
 まるで独り言のような問いかけに、羽張は曖昧に笑った。
「そうかもしれませんね」
 思慮ある使者に、たった一言だけ、羽張は返す。
 子どもだけが落命した――
 それが心に突き刺さったのは事実なのだから。

     3

 川の畔に立つ洪は、右手を頭上へともち上げた。
 川を見下ろしている彼の双眸が黄金の雷光のごとくひらめいたのは幾刹那。
 その手には風が逆巻くようにしてまといついている。
 しゅんしゅんと音をたて、風のつくりだす渦が大きくなりかけたところで、唐突に出現したのは大刀。
 それは、優男が持つには重過ぎるだろうというほどの、大振りの刀剣だ。
 能力の高い鬼は、己の所有物を隠し持つことができ、それを変幻自在に出現させる。ゆえに、洪が手にしている大刀には鞘がなく、すでに抜き身であった。刃金が蒼い月光を浴びてぎらりと光る。
「巫祝はつくづく運がいい。オレの能力は春が一番強くなるんだ」
 首だけを巡らせて羽張を見ながら、洪が得意気に言う。どこか状況を愉しんでいるような雰囲気だ。それも仕方のないことだろう、洪は武人なのだから。
「目をつぶらずにしっかり見とけよ」
 両手で握った大刀を、洪が前方へと突き出した。
 すると、たちまちその白刃の周りに風が発生する。
 大刀を出現させたときのように刀身に絡みつく風は、しゅんしゅんと鋭い音をたてていた。
 ――その直後。
 羽張の眼前が赤く染まった。
 そう見えたのは、どうやら一瞬のことらしい。
 よくよく見れば、洪の全身が赤いなにかに包まれている。
 大刀の起こす風に乗り、前面に舞い上がっているのは紅の花片だった。
 それは梅の花。
 洪の身体に巻きつくように梅の花片が集まりだしている。
 漸水に来るまでの道に咲いていた梅の花が、すべて洪に引き寄せられているのだ。否、それだけではないのかもしれない。梅山で生まれたとされていることが能力に関係しているのか? ――紅の花片はそう考えてしまうほどに大量だった。
 身体を取り巻く梅花に満足したのか、ニヤリとした洪が大刀を振り上げた。そうして間を空けずに一気に振り下ろす。
 その切っ先から繰り出されたのは、白い光。
 正確に表現するなら、急速に川を横切っていく梅の花片が、闇を背景にして、あまりの速度に白くたなびく光のように見えたのだ。
「……これが袁洪の最大の業、〝白光はっこう〟か。聞いたことはあったが」
 間近で見せつけられれば、さすがの羽張も驚いた。あまりに破壊的な力だった。
 眼前に流れる漸水が、白光の威力によって断ち切られる。光が通り抜けたところは、すぐに川の流れがもとに戻っているものの、光が通った刹那は水が跳ね上がって川底の土が覗いたほどなのだ。
 対岸に到達した白光は、弾けるようにして消えていく。
 光がどれほどの時、川を分断していたのか。
 それを見極めるのも忘れ、羽張は白い輝きに目を奪われるばかり。
「どーよ巫祝、ちっとはオレのこと見直した?」
 大特技を披露し終えた洪は、大刀を肩に担ぎ上げて大きく笑っている。
 人を酔わせるほどの眩い白光のせいか、時が止まったように感じていた。
 まるで夢幻から意識を引き戻すように、夜陰に微かに漂うのは、梅香。
「……あ、……ま、なかなかに……美しかった」
「なに? 聞こえないって。もっと大きな声で褒めてくれよ」
 褒めてくれ、と言った時点で聞き取れていたことがバレバレのアホな洪に、平静を装う羽張は苦笑するしかできない。
 これだから洪の扱いには困るのだ。
 速度ある川の流れを断ち切るほどの業をもっているのに、剣術勝負のときには正々堂々と大刀だけで挑んできた。羽張の腕を褒めるだけで、「剣術勝負で負けたのだから」と、巫祝の役鬼になることを快く承知した。
 洪は、巫祝の術に屈したのではなく、人である羽張の剣術に屈することを選択したのだ。
 その潔さは武人らしいといえばそうなるが、
「お前は真性ホンモノのバカだったんだな」
「ええっ!? なんでだよっ」
 くくく、と喉で笑った羽張に、洪が喰ってかかろうとしたとき。
 微かではあるが。
 漸水の流れがかわった。

 二人が水面に視線を向けると、そこに人が立っていた。
 流れる川の上に、だ。
 顔だけで判断するなら、立っている男は若い。歳はせいぜい十八、九。
 質素な袍を纏ってはいるものの、きっちりと結い上げている髪は冠でとめてあることから、水中世界ではそれなりの位にあるもののはず。
 おそらく、これが龍の飼育人だ。
 羽張が素早く考えを巡らせているうちに、飼育人が大股で川の上を歩いてくる。彼の足許には水飛沫なのか、白い霧のようなものがわずかにかかっていた。
「流れる川を歩けるなんて、あんた、すげえな」
 緊張漂う場に不似合いな、素っ頓狂な感想を洩らしたのは、大刀を肩に担いだままの洪だった。
 その声を聞き取ったらしい飼育人の三白眼さんぱくがんに露骨な怒気が宿った。
 どうやら川を荒らして飼育人を怒らせ、呼び出すことには成功したらしい。
 が、
「貴様らのうち、我の安寧を妨げたのはどちらだ?」
 洪の白光の威力が想像以上だったので、怒らせすぎてしまったようだ。
 意志の強さを示すようにむっつりと引き結ばれていた口唇くちびるを開き、飼育人が憤怒ふんぬの声をあげた。玲瓏れいろうとしたその声は、水の膜をとおした異世界から響いてくるようにも聞きとれた。
「うっわ、どーしよ? すっごいご立腹みたいだけど?」
「みたい、じゃなくて、本気でキレてるんだよ。見ればわかるだろうが、このタレ目ッ」
 間抜けたことばかり言う洪に、羽張もキレた。
 飼育人を呼び出したら話をするつもりだったのに、これではまともな会話は成立しないだろう。
 諦め半分の溜め息を洩らした羽張に、すかさず洪が、
「めちゃめちゃわくわくするんだけど。オレ、どうしたらいい?」
 期待のこもった眼差しを向けてきた。
「やれ」
 一言命じると、「了解」と返した洪が大刀を肩から下ろす。
 ふざけた言葉とニヤついた顔とは正反対に、その眼光には隙がない。片方の指を大刀に添えて構える体勢にも隙はなかった。
 川を歩いてきた飼育人の足が地を踏んですぐ、洪は躊躇することなく大刀を振り上げた。
 続いて響いたのは、耳をつんざく金属音。
 驚くべきことに、洪の大刀を飼育人は前腕だけで防いでいるのだ。確かに響いたのは金属音なのに、防いでいるのは人の身である腕――その違和感に、洪は目を見開いている。
「あ、悪い。言うのを忘れていたが、人に変化する前の飼育人は、人の頭に魚の体をしているんだ。体を覆う鱗は楯のように硬いらしい。なんでも刀剣では貫けないとか」
 洪の仕種をマネて、小指で耳をかっぽじりながら羽張は教えてやる。
「ちょ、うっそ、今頃ぉ!?」
 今頃、情報を与えられて目をむきながらも、洪は力任せに刃文をずらして大刀を振り切った。後方へと飛びすさって距離をとる洪に、今度は容赦なく飼育人が踏み込んでいく。
 カラ手の飼育人は巧みに大刀を避けながら、見惚れるほどの体さばきで洪に入身いりみをし、蹴りなどの攻撃を繰り返している。それを洪の白刃が防ぐ。
 墨を零したような闇が周辺に垂れこめていて、ぶつかる大刀の閃きは星の瞬きのよう。鋼の擦れ合う音が酷く耳障りで、その音から判断しても、飼育人の皮膚は鋼並みの強度があるのだ。
 大刀を地に突き立て、柄を軸にして洪が回し蹴りを喰らわせるが、それも飼育人には効果なく弾き返されてしまう。
 羽張は仕方なく、環柄刀を鞘から抜いた。
「飼育人」
 律儀に声をかけてから、鶴氅の長い裾をひるがえし一気に踏み込んでいく。
 それを合図にして洪も下から斜めに斬り込んだが、飼育人はいとも簡単に両腕で二人の刀剣を防いでしまった。さらに二人がかりで交互に十合やり合ったものの、飼育人は息を乱すこともない。それどころか、先に音をあげたのは洪だった。
「埒が明かないって。なんとかしてくれよ巫祝」
「く……お前はどれだけ諦めが早いんだっ」
「だってよお、刀剣じゃ斬れないし、蹴っても殴ってもけろっとしてるんだぜ。手ごたえがなくてつまんねえよ」
 そのとおりだから始末が悪い。
 今も羽張は角度をかえて斬り込んでいる最中だが、力押しではどうにもならない。飼育人は二の腕で防いでしまうのだ。柄を握る掌はじんじんと痺れてきていて限界は近かった。
「おいコラ、ボッとしてないでお前も攻撃しろッ」
 飼育人と斬り結んだままで文句をつければ、背後で大刀をぶらりと下げていた洪も不満たらたらに文句を垂れる。
「ぶひぶひ言ってないで、さっさとしろ。どうにかしてやるからっ」
「ぶひぶひ、って。……オレは豚じゃないのに」
 催促すると、逆手に柄を握った洪が反対側から大刀を繰り出してくる。それを防ぐために、飼育人の注意がわずかに逸れたところで、斬り込んだままの羽張は鋭い視線を投げた。
 その気配を察したのか、飼育人と羽張の視線が至近でぶつかり合う。
「飼育人、お前と話がしたい。少し落ち着いてくれないか」
「鬼を操ってまで我の領地を侵す者と、なにを話せと?」
「そっちのアホ面が鬼と気づいているなら、……わかるだろう? 私は召鬼法しょうきほうの執行者だ」
 召鬼法とは、鬼に関するさまざまな方術である。
 羽張の問いかけに、飼育人が目を細めた。
「私はお前の名を知っている」
 名は、その実体と本質的に結びつき、実体そのものなのである。
 巫祝が鬼の名を掌握するということは、鬼を己の掌中におさめて意のままにすることであった。
 見鬼術によって鬼の正体を見抜き、その名を呼べば、劾鬼術がいきじゅつが執行されて、鬼は術の執行者の役鬼となるしかない。
 川に棲む龍の飼育人は水怪で、鬼である。
 名を呼ばれたら最後、呪に拘束されるだけ。
「ここで即座に術を執行することも可能だ」
 洪が踏み込んできたことで、片手を柄から放す余裕のできた羽張は、人差し指と中指を立てて手刀しゅとうをつくる。手刀は、巫祝が術を執行するときにかかせない動作だった。
 羽張の低声を聞き、嘘ではないと悟ったらしい飼育人は身を引いた。
 二人はやっとのことで刀剣を下ろす。しかし洪はまだ、どこか警戒している様子だ。その警戒は、武術に長けた飼育人に対してのものと、羽張が嘘をついているのではないかという、ふたつの理由からきているようだった。「名を知っている」というのがハッタリであれば、再び飼育人と刃を交えなければならないからだろう。
 だが、羽張は嘘をついていなかった。
 二頭の乗し、地上に現れては洪水が起こると民に警鐘をらす。
 飼育人の名は、騎龍鳴きりゅうめいという。

     4

「まずはお詫びする。私たちは、貴殿の領地を侵したかったわけではないので」
 口調をあらためた羽張は頭を下げた。
「そっちのアホが、能力の使い方を間違えたせいなんだ」
 洪を指差せば、
「いや、そんなに褒められても困るんだけど」
 アホさ加減丸出しで、てれてれと照れている。
 褒めたわけではないのに本気で照れている洪はおき去りにして、羽張はもう一度頭を下げた。
 戦っているときには気にならなかったが、騎龍鳴は痩身で、大人二人の背に比べればわずかばかり低かった。見た目の年齢は関係ないにしても、その身体であれだけの近接戦闘を繰り広げたのだから、やはり水怪の力は侮れない。
「貴殿にうかがいたいことがある」
 目だけで騎龍鳴は請け負った。
 洪とは対照的に、口数は少ない鬼らしい。
「この付近で二度、立て続けに水害が起きている。それは貴殿の仕業か?」
「そうだ」
「私の知る限り、貴殿が起こすいつもの水害とは様子が違ったようだが」
 その問いかけに、騎龍鳴はかわらず無表情ではあったものの、眼光からはなにかを考えているように察せられた。
 数拍数秒の沈黙ののち、
「貴様は、ここが誰の領地か知っているか?」
「地上の、ということであれば、ここは謝世誠の領地だ」
「そう。我は謝世誠なる者の願いを聞き入れただけのこと」
「願い?」
 羽張は片眉を跳ね上げる。
「謝世誠は川に人形を投げた。その人形には――娘の病を治し、無事太子妃になれるように、との願いが捧げられていた」
 その人形は替身たいしんである。
 人形を、病などで悩める者の形代かたしろにして、川に流すのだ。そうすれば、病や汚穢けがれは人形が負ってくれると信じられている。
「謝世誠の娘の病は篤く、先は短いと医師に言われていた」
 表情がないままに、騎龍鳴が答えた。
「な!? では貴殿は、謝世誠の娘のかわりとして、村の子どもたちを被害に遭わせたというのか?」
 替身とは、身がわりのことだ。
 命が危うい病であった場合、その命が助かれば、当然、誰かの命が奪われる。
 川に流す人形に願をかければ、どこかで誰かが落命するのは謝世誠も承知していたはず。
 しかし、謝世誠の行いはそれほどの問題ではない。替身への願かけは、貴族・庶人にかかわらず、誰もが行うことだからだ。
 問題は、
「たった一人の娘の命と引き換えに、貴殿は多くの子どもを連れ去った・・・・・というのか……?」
 その願いを受け入れた騎龍鳴のほうにあった。
 民は替身を行う。だが、すべての願いがかなうわけではない。人形を川に流しても、効き目がないことのほうが多い。願いがかなうかどうかは、川に流した人形をそこに棲む水怪が受け入れるかどうかにかかっていて、能力の高い水怪の度量次第なのだ。
 謝世誠の投げた人形を、騎龍鳴が拾ったのはたまたまだろう。拾ったからといって、鬼は願いをかなえるものではない。その行為のほとんどが一時の気紛れにすぎず、今回、騎龍鳴が動いたのも気が向いたというだけのことだろう。
「我は河伯の力を借りて、娘の命を救ってやったのだ。その代償は支払ってもらわねばならない」
 きっぱりと言い切った騎龍鳴の言葉に、羽張は頷いた。
「貴殿の行為は間違っていない。この世にタダで手に入るものなど、なにひとつないのだから」
 けれど、と羽張は慎重に続ける。
「命は平等だ。ひとつの命は、ひとつの命によってあがなわれるものだろう」
「なぜ?」
 意味がわからない、といったふうに騎龍鳴が訊き返してくる。
 表情のない顔から発せられる本気の問いに、羽張は苦々しさを覚えた。
「我が救ってやった娘は、太子妃になったという。太子とは、末は王になる者のことであろう? その妃ともなれば、代償となる命はひとつで足りるものではない」
「いいや。ひとつ、だ」
 力をこめて羽張が言えば、騎龍鳴の目蓋が微かに動いた。
「位などというものは所詮、あとづけにすぎないものだ。人は、誰かの子である――これは貴族であっても庶人であってもかわらない。子を奪われれば、子の親は悲嘆に暮れる。……悲しみは、人であればみな同じなんだ。貴族であろうと庶人であろうと、悲しい、という気持ちに差などない。だからみな、命は等しく、大切なものなんだ」
 目の前の騎龍鳴は黙したままだった。
 たとえ人の姿をとっていようとも、騎龍鳴は人ではなく、鬼。
 人とは隔たった存在。
 人の想いを懇々と伝えたところで理解できるはずもないだろうが、羽張は言わずにはいられなかった。
「謝世誠の娘も、庶人の子どもも、等しく同じ。ひとつの命だ」
 念押しするように羽張は繰り返したが、騎龍鳴はそれに対し、なにも返してはこなかった。無反応であっても、羽張は視線を逸らさずに、じっと彼を見つめている。
 不意に口を開いたのは騎龍鳴だった。
「貴様は先程、妙なことを口走ったな。子どもを連れ去った、と」
「違うのか?」
 羽張が問えば、再び騎龍鳴は考えこむように口を閉ざした。
 同じように羽張も黙考する。
 謝世誠の使者は言っていた。
 ――子どもは誰一人、見つかっていないのです。見つからなければ親は諦めきれず、子がどこかで生きているかもしれないという期待を一生背負っていくことになりました。
 子どもの亡骸がなくとも、幾日もかけて捜しても見当たらないのであれば、子どもだけが川に流されて落命した――死んだ、と判断するしかなかったのだ。
 そう語った使者の悲痛な面もちを思い出し、羽張は奥歯を噛み締める。
「貴殿の領地は侵さないと約束する。その約束と引き換えに教えてくれないか。子どもたちがどうなったかを」
 永遠にもとれた長い沈黙の後で、騎龍鳴が重い口を開く。
にえとして集めた子らは、河伯のもとで歌舞音曲かぶおんぎょくを学んでいる」
「…………そうか」
「みな優秀だ。学ぶことを楽しんでいる様子だった」
「……本当に楽しんでいるんだろう。貴族の子弟と違って、庶人の子どもは学ぶ場を与えられていない者が多い。……こういう差別が、貴殿たちに誤解を与えるのだろうな」
 今の世に嘆きつつも、子どもたちが無事と知って、羽張は肩の力を抜いた。ホッ、と安堵の息を洩らすと、騎龍鳴が猜疑さいぎに満ちた声をあげた。
「河伯のもとで生きているからといって、子らを地上に返すことはない」
「……ああ、いいんだ。生きている、と貴殿の口から聞きたかっただけだから」
 いぶかしむようにして騎龍鳴は目をすがめてから、素っ気なく顔を背ける。話が済んだのなら、といったふうに、さっときびすをめぐらせた。
 来たときと同じように川を歩いていく背に向かい、羽張は声をかける。
「子どもたちを、どうかよろしく頼む」
 かけられた声を聞き流した騎龍鳴は、数歩あるいたところで足をとめた。
 つと、なにかを思い出したように顎を振り、羽張を振り返る。
「ひとつの命は、ひとつの命」
 その言葉は、羽張に尋ねているようでもあり、己に言い聞かせているようでもあった。
 羽張が大きく頷いたのを最後に、騎龍鳴は姿を消した。

「いいのかい?」
 大刀を無造作に肩に乗せて、洪が訊いてくる。
「オレなら、あいつを追っかけて、子どもらを連れ帰ってくることもできるけど?」
「ま、……確かにお前の能力なら可能だろうな。だが、簡単に連れ帰ると言っているが、それは河伯を警護しているものたちを斬り殺して、ということだろう?」
「そりゃ、しょうがねえよ。穏便に済ましてくれそうもないんだし」
 そこで羽張は、ちらと流し目に洪を見た。
「でもお前、飼育人一人にずいぶんとてこずっていたろう。浅慮せんりょなお前のことだ、水界で大業を繰り出してスタコラ逃げるつもりなんだろうが、そんなことをしたら子どもたちも無事では済まない」
「……うぅ、まあ」
 見事に言い当てられてしょげる洪に、羽張は隠れて笑みを洩らす。
「今回、お前はよくやってくれた。だがな」
 そこでポカッと頭を殴られた洪はぶすくれた。
「なにするんだよっ」
「見てみろ。お前のせいで、せっかくの梅の木が丸裸だ。花見の季節になんてことをしてくれたんだっ」
 道端で花を咲き誇らせていた気高い梅花は、跡形もなく消えていた。
 道を染めていた紅の花片もひとつ残らず。
「それは……だってしょうがないだろう。それがオレの能力なんだし」
 もごもごと言い訳する洪を軽くあしらいながら、羽張は微笑を刻んだ。
 そうして、鬼を見ることができる自分自身を納得させるように、呟きを零す。
「ああ、それが鬼の能力・・・・なんだから仕方がない」

     終

 謝世誠から届けられた礼金を数えていた羽張の足許に、ふんわりとしたなにかが触れた。
 椅子から身を乗り出してみれば、そこにちんまりと丸まっていたのは山で助けてやった兎だった。
「なんだ? 私がなにをしているのか気になるのか?」
 言葉が伝わらないことを承知で、羽張は問うた。
 兎は髭をそよがせながら、見上げるような仕種をする。
 奇妙な兎だな、と羽張は思っていた。
 怪我が治ったのを確認して山に放してやったのに、兎はどこへ行くこともなく、そのまま羽張のあとを追い、邸までついてきてしまったのだ。門から続く院子中庭に出しておけばそのうち山に戻るだろうと放っておいたのに、逃げるどころか、周りをちょろちょろするようになってしまった。
 そうして兎は、日がな一日、羽張のすることをじっと見ている。書き物をすれば書き振りを、書物を読めばそのページを、興味深げに丸い目で追っているのだ。
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「この金で袁洪を労ってやろうか。たまには酒楼料理屋に連れていってやってもいいだろう」
 思いつくままに口にすれば、腕の中で丸まっていた兎が物言いたげに身じろいだ。
「うん? どうした?」
 言葉が通じないのは不便だなと考えて、羽張はあることを思いつく。
 片手は手刀をつくっていた。

「お前に巫蠱ふこという術をかけた。これで私がなにを言っているのか理解できるはずだ」
 巫蠱は、小さな動物などを意のままに使役する術である。これをかければ術の執行者の意思が伝わるのだ。
 榻に下ろされた兎は無反応だった。
 隣に腰かけた羽張は、言葉を継ぐ。
「わかったときには、はい――これは頭を縦に振る。わからなかったときには、いいえ――これは頭を横に振る。どうだ、私の言っていることがわかったか?」
 兎はただでさえ丸い目を、さらに丸くしている。急に人語が理解できるようになってびっくりしているのだろう。驚きと戸惑いが混ざり合った様子で、兎は小さく頷いた。
「よし、ちゃんと伝わってるな。巫蠱が嫌なら、すぐに術をといてやる」
 肯定と否定の首の振り方を教えると、兎は首を横に振り、否定を示した。
「巫蠱が嫌じゃないのなら、さっきの質問をもう一度する。お前は、私がなにをしているのか、興味があるのか?」
 神経質そうに鼻をひくひくさせながら、兎は首を縦に振った。どこか嬉しそうに見えるのは、気のせいだろうか。
 そうやって術をかけた兎の様子をうかがいながら、幾日か過ぎた頃。
 あれこれと薬草を試している羽張のそばに、兎がほてほてとやって来た。
 いつものように、邪魔にならない程度の距離をとり、居座ってしまう。
 今では羽張も慣れたもので、苦笑しながらも、なにをしているのか教えてやっている。
 それは不思議な気分だった。
 見鬼の能力が現れたのは、まだ幼かった頃。それを両親は気味悪がり、果てには、自分の子どもを異常だと罵って殺そうとした。
 巫祝として大成した今なら、親の行動が理解できる。
 親も怖かったのだ。
 誰の目にも映らないのに、鬼が「見える」と叫んで癇癪かんしゃくを起こし、静かになったかと思えば、ぶつぶつと鳥の会話を聞き取っている――そんな子どもに恐怖を感じないわけがない。不気味なだけで可愛げがなく、意思の疎通ができない子どもと共に暮らすのは、さぞ苦しかったことだろう。
 親といえども所詮は他人。血を受け継いでいるというだけの他人である子どもを、完全に理解するのは難しかったはず。それが異能の力をもつ息子なら尚更だ。
 金と知識を蓄えた今となってはもう、親を恨む気持ちは微塵もない。ないが、親の出自によって子が差別されたり、生きる道を閉ざされてしまったりする出来事を目の当たりにすると、どうにも心がきしんでしまう。
 それは無意識のうちに、命を奪われそうになった幼い頃の自分と重ね合わせているせいだろうか。
 大人が支配する世の仕組みによって子が犠牲になると、感情が引きずられて、己が制御できなくなってしまう。
 義憤に振り切れた想いをどうにもできなくなって、他人の領域に踏み込んでしまうこともあった。
 凡人であれば、それは「お節介」の一言で済まされるかもしれない。だが、不可思議の術を駆使する巫祝が必要以上に他人とかかわれば、いろいろと差し障りがあるだろう。
 だから羽張は仕事以外では人と距離をとって生きてきた。
 ずっと独りで暮らしてきたのだ。
 それがどういう風の吹き回しか、意思の疎通がはかれる兎と暮らしてみるのもいいという気持ちになっている。
 不思議な気分で兎を見下ろせば、「なんの薬なのか」とでも問うように耳をぴんと立てた兎が前肢を動かした。
「うん? これはな、蓮の実。こっちは肉桂。手をかえ品をかえ薬草を取り混ぜて、不老長生薬を試しにつくっているんだ。なかなかうまくいかないんだが」
 兎が首をかしげる。
「不老長生というのは、歳をとらずにひたすら長生きすることだよ」
 きょとんとなった兎の顔には、「なんでそんな薬をつくるのか」と書いてあるようだった。
 ここ数日で羽張も、なんとなくではあるが兎の表情を読めるようになっていた。
「お前は、私が環柄刀を持っているのを知っているだろ?」
 兎が頷く。
「始めあれば終わりあるのはいにしえからの真理である――そう言った者がいたけどな」
 羽張は腕を伸ばして兎を抱え上げた。間をおかず、胸に心地よい温もりが広がっていく。
「私もそのとおりだと思う。貴族・庶人、関係なく、すべての人の命はついに尽きるときがある。でも一目でいいんだ、刀剣を持ち歩かなくていい世をこの目で見てみたい」
 ばかげたことだが、羽張は戦のないそんな日がくると信じていた。
 身の危険を感じることなく、刀剣を持たずに自由に出歩けるようになる。肉親を含めた他人から死を与えられず、誰に対しても疑心暗鬼を生ずることなく、心穏やかに会話ができるようになる――
 それは、なんの根拠もない淡い予感。
「刀剣を置く日がきっとくる。その日のために、薬をつくっているんだよ。ま、完成するとは限らないけどな。暇だし、やってみてもいいだろ?」
 腕の中の兎がめいっぱい背伸びしながら、羽張の顔を覗きこんできた。腕にしっくりくる兎の重みも心地いい。うんうん、と頷くように兎の長い耳がひょこひょこと揺れている。
「そうだ。薬ができたら、お前も飲んでみるか?」
 どういうわけか、兎がぷるぷると震えた。
 なぜ震えたのか羽張はしばらく考えて、ぷっ、とふきだした。
「違う。お前で試そうというわけじゃない。まずは私が飲んでからだ。それに、もとは本草で仙薬せんやくだからな、失敗作でも毒にはならず死ぬことはないだろうよ」
 怯える兎を見つめながら、羽張は笑いすぎて目の端に浮いた涙を指で拭う。
「刀剣を置く日がくるということは、王の龍顔かおに囚われずに生きられる日がくるということだ。人は他人に囚われて生きるべきじゃない」
 貴族も庶人もない、差別のない日がやってくる。
 この世に不変のものなどありはしない。
 生きていればきっと、違う世界を覗けるはず。
「そんな日がきたら、……そうだな、〝龍〟の字を使って名乗ってやろうか」
 兎を抱えたまま、羽張は開け放した窓の傍へと歩いていく。
 外からは初夏を感じさせる緑の匂いがそこはかとなく漂ってきていた。
「この辺りは山水の美しいところだ。ここがどのように語られているか教えてやろう」
 兎は耳をそばだてている。
「千なる岩は高きをきそい、万なるたには流れをあらそい、草木がその上をおおって、雲がわき霞がたちこめるようだ。……多くの名士がそう語るとおりに、私もこの地が好きだ。でも、そのうちここを出ていこうと思っている」
 羽張が澄んだ東の空を見上げると、つられたのか兎も顔を上げた。
「ここから東に少し行けば海があるんだ。もし不老長生が成ったら、海を渡ってみるのもいいだろうな。お前はどう思う?」
 海というものを知らない兎が前肢を揺らした。その仕種はたぶん、海に興味をもったのだろう。
 そう判断した羽張は大きく笑った。
「そのときはお前も一緒に行こう」
 薫る風が、ふわりと身体を取り巻いていく。

「この空の果てには、まだ知らぬ希望の欠片かけらがいくつ転がっているだろうな」




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大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。 真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。 引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。 偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。 ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。 優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。 大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。

三十年後に届いた白い手紙

RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。 彼は最後まで、何も語らなかった。 その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。 戴冠舞踏会の夜。 公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。 それは復讐でも、告発でもない。 三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、 「渡されなかった約束」のための手紙だった。 沈黙のまま命を捨てた男と、 三十年、ただ待ち続けた女。 そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。 これは、 遅れて届いた手紙が、 人生と運命を静かに書き換えていく物語。

英雄一家は国を去る【一話完結】

青緑 ネトロア
ファンタジー
婚約者との舞踏会中、火急の知らせにより領地へ帰り、3年かけて魔物大発生を収めたテレジア。3年振りに王都へ戻ったが、国の一大事から護った一家へ言い渡されたのは、テレジアの婚約破棄だった。 - - - - - - - - - - - - - ただいま後日談の加筆を計画中です。 2025/06/22

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

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