雪冤の雪(せつえんのゆき)

碧井永

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第三景 とり違えの連鎖反応

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第三景 とり違えの連鎖反応

 1

「俺が書家を目指したきっかけ?」
 紘里の問いに、献之は意外なことを訊くとでも言いたげな顔をした。
 雨はかわらず降り続き、雨粒に打たれた草花がゆらゆらと揺れている。

 恵侯に着替えさせられたあの日以降、紘里の受難は続いていた。
 午前の掃除と洗濯が済むのを見計らったように、紘里の房室には侍者がやって来て、着替えに連れていかれるようになっていた。絹の服は素敵だと思うし、正直、羨ましいとも思っていた紘里ではあるが、身につけてみればいかんせん動きづらい。髪に挿さる簪も日を追うごとに増えていって、頭が重くて肩が凝り、歩いていると重さでひっくり返りそうになる。
 あれこれ世話を焼いてくれる恵侯には申し訳ないと思いつつ、それとなく断りをいれてみたところ、
「では、好きな物を好きなように身につけたらどうですか?」
 優しい口調ではあったものの、どうにも遠慮させてもらえない雰囲気だった。
 というわけで。
あらかじめ室内に用意されていた衣裳を適当に選び、〝貴族の服装にしては簡素〟な恰好で、紘里は毎日を過ごしている。髪を紐でくくっていたのも、今では細工の美しい簪でくくっているのだ。
 借り物の服を汚さないように緊張しまくる紘里を見た瑶は、褒めるどころか、
「なんだその恰好はッ」
 と、顔に青筋を浮かべて怒っていた。
「猿にも衣装というが、お前は猿以下じゃないかッ」
 とまでねちっこく罵られて、それをいうなら「馬子にも衣装」だ、と間違いを指摘することもできない紘里だった。
 瑶が人を褒めるなんてことは滅多にないので、褒めてくれるなんて期待していなかったけれど、そこまで言われると、瑶の傍で打たれ強く育った紘里でもさすがに傷つく。
「……お前に隙があるから悪いんだ」
「隙って、あたしは別に」
「ふん。なにかやらかしたから、恵侯に捕まったんだろう」
「…………あ」
 そうだ。ぶつかったのがきっかけで猿のように捕縛されたのだ。だから罰の如くからかわれているのかな、と紘里が苦悶していると、瑶が睨んでくる。
「いいか、所詮は貴族だ」
 瑶の表情が厳しいものになった。
瑶は人当たりがよく愛想もあるが、決して優しくはない。浮かべたその優しい表情で、確実に人と距離をとっている。その瑶が紘里をいじめる以外で、ここまで厳しい顔つきをするのは余程のこと。
「貴族と庶民は絶対に相容れない。忘れるな」
「ん、……そうだよね。ちゃんとわかってる」
 そう瑶には言ったものの。
目を丸くした延之にはしゃがれて、
「紘里、すっごくきれい」
 と飛びつかれれば、貴族と庶民の差ってなんだろうな、と紘里は考えてしまうのだ。

 雨音の響く四阿で延之と待ち合わせていると、ほてほてとやって来た献之に声をかけられて、せっかくだからと二人で話しをしている。
腰を下ろす寸前で躓いた献之が転びそうになり、ボケッとしているところが情けなくなって紘里が手を貸してやったほどだった。
「俺が書家になったのは、これといった理由もなくて些細なことなんだ」
 人に言うほどのこともなくてねと、どこを見るともなしに献之は小さく笑った。
「白状すれば、あんまり芸術にも興味がなくて。父上は芸術の美にうといなんて言ってるけど、余程父上のほうが美をわかっている」
 口を挟んではいけないような気がして、紘里は黙って聞いていた。
「太平の時代といえど、やっぱり人には身分っていうものがあるだろ?」
 献之に言われて、瑶の厳しい表情が紘里の脳裏にチラついた。「身分」というたった一言で、献之の話がぐっと身近なものになる。
「人が人に、正面きってものを言える時代じゃない。同じ人なのに、平等じゃないんだよ。位の低い人間は、位の高い人間に本心を打ち明けることはできない。下の人間は嘘をつく。もちろん逆も、ね。生まれが人生を支配して、人は雁字搦めにされてしまうんだ」
 紘里は驚いていた。
 恵侯の家族はかわった考え方をする。それに慣れてきてはいたが、こうも身分制度を批判するような発言を貴族にされると、庶民としてはどう接していいかわからなくなる。
「この世のすべては騙し合いだ。口から出る言葉は、必ずしも真実じゃない」
 園林を見ていた献之が、紘里に向きなおった。
「心を映してはいないんだ」
 つと伸ばされた献之の指が、紘里の額髪をさらりとかき上げる。それは紘里自身の、なにかを確かめるような仕種だった。
「……紘里には山吹の色が似合うな」
 延之がくれた山吹のことかと紘里が思っているうちに、献之は話を戻してしまう。
「人の書く字には、その人の本性が滲みでる。その字が連なれば、それにこめられた本心が浮きあがる。俺が興味あるのは、そこ。書は嘘をつかない。だから書にはまってしまった。書を究めて、人の深層心理を見極めたいんだ」
 深層心理とは。お金持ちのぼんぼんのわりに、複雑な考え方をするものだ。
「ああ今、所詮は貴族の道楽とか思ったろ?」
「思ってないっ……です」
 心を見透かされたことが恥ずかしくて紘里が俯けば、献之は磊落に笑った。
「いいんだ。俺が貴族だからって嘘をつかないでいてくれるなら。俺が心底嫌になるのは、俺の前で礼をとるために俯いた人間が、口にした言葉と正反対の気持ちを押し隠しているってこと。紘里は考えが顔に出るから一緒にいて楽でいい。俺は好きだな」
 あまりにも自然に「好き」と言われて、聞き流してしまう紘里だった。
「あたし、そんなに顔に出るかな?」
「うん? 馬嵬山で逢ったときも、ずっと俺を心配してくれてたろ? 裏表がなくて、ホントに正直者なんだなって思ったよ」
 正直者はばかをみるというが、「お前はバカだからばかをみるんだ」と瑶にバカにされている紘里だった。
「あ、……もしかしなくても、恵侯に瑶を推挙してくれたのは献之?」
「そうだよ。俺は結構、州内をふらふらしてるんだけどさ。あの人ほど慕われている巫祝の噂を耳にしたことはないからな」
 それで納得した紘里だった。
 瑶が招聘されたのはわかるが、付属品のような自分の存在を、恵侯がどうして知っていたのか、ずっと疑問だったのだ。
「けど、あの風水師殿、……逢ってみれば裏表(せいかく)が激しいな。ああ、誤解しないでくれよ。悪く言ってるんじゃなくて」
 鋭い! ――と紘里は思った。そのとおりなので異論はない。
「州内をふらふらしてるって言ったけど、いろんな場所に行ったの?」
「……ああ、まあね。庶民の恰好をしてくから、気軽に人と接することができていい」
 馬嵬山で出逢ったときも、献之は紘里と大差ない服装をしていたのだ。旅を続けていたせいか、かなりボロい旅装で、それにしては馬に乗れる身分なのかと訝しんだものたが、まさか舜国第一級の貴族とは思いもしなかった。
「出(、)逢えれば(、、、、)いい(、、)と思っていた。だから太原に行きたかった」
「……なに?」
 雨音にかき消され、うまく聞きとれなくて紘里が首を傾げれば、再び献之の手が伸びてくる。紘里の後れ毛をすくうようにして、しげしげと見つめていた。瑶以外の男にこういうことをされるのは初めてで、紘里の肩がびくっと揺れる。
「その簪もいいけど、紘里の髪には花のほうが似合うな」
「そ……そう、かな?」
 照れもあり、自分でもなにを言っているのかわからなくて、紘里の声は裏返る。
「この前、延之くんが髪に挿してくれたの」
 すると献之は、なぜか満足したように微笑んだ。
「……そうか。延之とはうまくやってる?」
 そこで紘里はハッとした。延之とはうまくやっているものの、気になることがあるのだ。
 つい先日のことになるが、恵侯に呼び止められて「どうかしましたか?」と訊かれたのだ。なにが「どうかした」のかわからないままに話をしていたら、恵侯は紘里を昼餉に誘ってくれたという。伝言した約束の時刻に紘里が来なかったと、恵侯に言われたのだ。もちろん紘里は初耳だった。
 実は今日の昼も、同じことがあった。
 ほかにもある。
 借りていた簪をきれいなままで返したのに、翌日、室内に置かれていた簪がぽっきりと折れていたのだ。それを見た紘里は自分の責任ではないものの、恵侯にお詫びにいった。蒼ざめて必死に謝る自分を恵侯が責めることはなく、「物は壊れるものですよ」と笑ってくれたが、あの豪華な簪はいくらするんだと思えば、紘里は震えるしかなかった。
 どうやら紘里の身につけるものは登綺が管理しているらしい。それを知ったところで登綺に問えるものでもなく、そのままにしていたら、侍者から「食事に誘うよう恵侯から言づかっていたのは奥様だ」と教えられて、紘里の目の前は真っ暗になった。
 明らかに、紘里は登綺に嫌われているのだ。
 瑶のような直接的なイジメには慣れているものの、こういう回りくどいいじめ方をされるのは初めてで、どう対処していいのか戸惑ってしまう。なんで嫌われたのか、ずっと考えているものの、粗相をした記憶もないから余計に気持ちが暗く沈んだ。
 瑶に相談したかったけれど、「お前のニブさは天下一品だからな」と罵倒されるのも癪だったし、数日前にあることを目撃してから瑶とはうまくしゃべれないのだ。
「あ、あのさ……幼い延之くんのお相手をさせてもらうんだから、動きやすい服のほうがいいよね?」
 登綺と接触をもつのが嫌で、明日からは自分の服を着ようと紘里は思っていた。
 なかなか鋭いところがあるらしく、献之は「なにかあった?」と訊いてくれる。
「う、……ううん。たださ、あたし、こういうのは着慣れないし」
「何事も経験だ。ここにいる間だけは、身分というものを取っ払った生活をしてみたらいい。なにより父上は、そういうのはあまり気になさらない」
 言葉を濁す紘里を見て、身分を気にしていると献之は思ったようだ。
 貴族に招聘されたとはいえ、あくまでも招かれたのは巫祝の瑶であって、紘里ではない。だから身分は紘里も気になる。しかし今、気にかかっているのは、絶対に対等になることのない庶民の紘里に対して、敵意のようなものを剥き出しにしてくる登綺の態度だった。
 借り物が登綺の衣裳というのであれば、まだ理解できるのだが……。
「紘里の肌には絹が似合う。父上の趣味に、もう少し付き合ってやってくれ」
 ホント、どんな趣味なのよ――と、本来なら全力でツッこむ紘里ではあるが。
 察することのできない相手の想いは、自分の心をすくませる。なにを想っての登綺の行動なのか、これはすべて偶然の勘違いなのか。
 なにもわからないから、紘里は沈む気持ちを隠して生活するしかできない。

 重い足取りで自室への廊下を歩いている紘里は、何度目かの溜め息をついた。
 今夜は冷やしてもらう三日目。でも、瑶と顔を合わせたくないのだ。
 なぜなら――それは三日前の夜。
 瑶の房室から、登綺が出てくるのを目撃してしまったからだった。そのときは深く考えもせず、登綺が消えてくれるのを廊下の角に隠れて待っていたものの、瑶の房室に入って牀榻を見た途端に全身の血がすうっと引くのを感じた。
 掛布が乱れていたのだ。
 紘里もそれなりの歳だ、男と女が閨ですることくらい理解している。
 瑶と登綺が……男女の行為を想像するだけで、激しい眩暈がした。
「ほら、おいで」
 牀榻では優しくなる瑶が手を差し延べてくれても、紘里は動けなかった。
 動きたくなかったのかもしれない。いつもはきっちりと夜着を着ている瑶の胸元の合わせが乱れているのも目についた。
 ……あの夜はちっとも眠れなかった。「どうした?」と瑶は訊いてくれて、なだめるように背を撫でてくれても、なにも言えなかった。口を開けば「登綺に触った手であたしに触らないでよっ」と怒鳴りつけてしまいそうで、怖かったのだ。
 瑶が牀榻で女と寝ていたことに、すごく腹が立った。目の奥がカッと熱くなって、涙が零れそうだった。いつもは気持ちいい瑶の腕が、急に、知らない人の腕に思えた。
 登綺は人妻だけれど、瑶は悪くない。歳だけでみれば、紘里の相手をするより登綺の相手をしたほうが、立派な男として楽しいはずだ。紘里も、瑶が早く結婚したほうがいいと思っていた。だからお金を手に入れて、独りで暮らしたかったのに。
 瑶を占有できないことが、これほどつらいとは。……思えば三日も房室を別にしたのも初めてで、たとえ三日でも瑶と離れたことはない。
 朝と夜がくるごとに、瑶が遠くなっていく……。
 瑶の双眸に映るのが自分だけではないことに、紘里は途轍もない淋しさを感じた。

     2

 書卓に向かい、献之は手なぐさみに四言詩を書き連ねていた。五言詩と比べ、どちらかといえば献之は四文字から成る四言詩のほうが好きで、末尾の語が脚韻をふむのが心地よい。
 決して雨量は多くないものの、霧雨のようなもので窓の外は白く霞んでいた。それにしてもよく降るなと、雨を目で追ったとき。登綺の甲高い声が聞こえた。どうやら延之と何事かを言い争っているふうだった。
 母にきゃんきゃん喚かれ、延之も懸命に言い返しているようではあるが、所詮は五歳の子どもだ。操れる言葉はそれほど多くない。みるみるうちに延之が劣勢となった。
 これだから女は嫌だと、献之は思う。天気が崩れれば苛々して、浅慮だから人に八つ当たりする。巻き添えになる者のことは眼中にないのだ。
 どうするかしばらく悩み、結局献之は腰を上げた。今後のことを思えば延之と距離をとっておきたかったものの、近くで親子喧嘩を繰り広げられれば、うるさくてかなわない。
 登綺にしても、この(、、)顔(、)をみれば退くはずだ。
 ちょっと顔を出せば延之を救えるとわかっていても、献之にはそれがひどく憂鬱だった。

 邸内の気の流れをよくするために、どんな樹木を選ぶのがよいかと恵侯に問われ、瑶は窓の外へと目を向けた。
「風水では、東に桃・柳、西に梔(くちなし)・楡、南に梅・棗(なつめ)、北に柰(からなし)・杏を植えるのがよいと規定しています」
 そう説明すると、「荒唐無稽では?」と恵侯が重ねて尋ねてくる。
「そうでもありません。この植え方は樹木の特性にも合っていますし、邸宅近辺の小気候を改善するのに重要です」
 陽のあたる東側に桃と柳を植えるのは、この二つが陽光を好むからである。しかもこの二種は、暑さ避けに適しているのだ。
 梅の幹はあまり太くならないので陽気を遮らず、鑑賞にも便利なように南側に植える。
 杏は水分に弱く、葉が落ちてしまうことがある。舜国の家は東面に水分が多くなる造りであることと、杏は耐寒性があるので陽のあたりにくい北に植えるのがよい。
 このように、細々と解説していけばキリがなかった。
「楡は邸の後ろに植えるのがよいと、よく聞きますね?」
 恵侯の言葉どおりなので、瑶は頷いた。
「楡は成長が早く枝葉が繁りやすいので、邸の後ろに植えれば風や寒さをしのげます。これはあまり知られていないのですが、楡は毒気や塵を吸ってくれる強い効能がありますから、気を浄化してくれるのです。そういうこともあって〝百鬼不近〟と呼ばれています」
 百鬼不近とは、百鬼も近づかないという意である。
 ふうむ、と恵侯は唸った。
「さすが風水師殿。素晴らしい知識ですね、とても参考になります」
「それはようございました。ですが私ができるのは助言だけですので、増設部分の測量などは大木師傅と相談するのがよいでしょう」
 邸の向きを決定することを、風水では「向法」という。
 この段取りを瑶もできなくはないが、なにしろ貴族の邸である。貴族邸の図面は門外不出。建っている部分の図面を見せてもらうのは不可能で、既存のものとの釣り合いをとるのは難しい。
「では近いうちに呼ぶことにします」
 恵侯が微笑んだ。
 この笑みはクセモノだと、瑶は身構える。だいたいこの後、恵侯は脈絡もなく話題を飛ばしてくるのだ。
「折り入って、紘里さんのことでご相談があります」
 きたかッ、と思ったものの、「折り入って」という言葉がひっかかった。
「……なにか?」
 そこから発せられた恵侯の言葉に、瑶は我が耳を疑った。

 廊下に出た献之は、延之のところにたどり着く前に父親と行きあった。そのまま回廊へと導かれて、わずかにホッとする献之だった。
「紘里さんは綺麗だったろう?」
 前置きもなく唐突に子雲に切り出され、献之は面喰った。
「……は? はあまあ、そうですね」
「それだけかい?」
「……はあ。女というものは妖怪ですね、化粧と着る物であそこまでかわるのですから」
 率直に言ってみた。
 すると子雲は、からからと笑う。
「お前らしいね。なら私も率直に訊くけれど、紘里さんをお嫁さんにほしいと思わないかい?」
「…………。…………。…………はい?」
「はい? じゃなくて。紘里さんを誰かにとられてもいいのかい?」
 子雲が冗談を言っているようにも見えず、献之はしばし黙考した。
 紘里はどう想っているのか知らないが、おそらく風水師殿は……
「……俺は、……女人はあまり好きではありませんので」
「ほう。でもお前、時々朝帰りするよね?」
「なッッッ、……父上知ってい――いえ、あ、あれはですね。妓楼に集う大尽どもに、書を売ってくれと頼まれまして」
「ふふ、妓楼に集うねえ」
「ぅあっ、で、ですから……妓楼では自分の書を売った金で遊んで――ぇウっ」
 しゃべればしゃべるほど、墓穴を掘りまくる献之は舌を噛んだ。
 心得ているというふうに、子雲は献之の肩を叩いた。
「なら、いいのだよ。風水師殿と一緒に紘里さんを呼んだらいいと勧めてくれたのは、お前だからね。彼女に想うところでもあるのかと、一応、確認してみただけ」
「…………確認、ですか?」
「そう。紘里さんをね、養女に迎えようかと思って」
 献之の切れ込んだ眦が微かに動いた。
 初めて馬嵬山で紘里を見たときから、彼女は子雲に好かれるだろうとは考えていた。うまく事が運べば「養女に」と言いだすことも予測していたので、別段驚きはない。すべては献之の目論見どおりだったが、実のところ、それはもうどうでもいいのだ。
「……この時期に養女ですか? もしや父上は中央に打って出るおつもりですか?」
 子雲には娘がいない。となれば、王の公子が妃を求めても差し出せる女がいないのだ。
この時期に養女をとる――それはつまり、妃の父として、王都の政治に権力を伸ばす意思表示となる。
「私は今も昔も中央に興味はないよ」
「ならば、なぜ公子の外戚になるようなことを?」
「私が大切なのは、家族だ」
 子雲にじっと見つめられ、献之はハッとなる。
「話を戻すけれど、紘里さんはなかなかに優秀だ。内緒だけれど、延之を通じて貸してあげている書物を順調に読破していっているからね。彼女、『詩経』や屈原の『離騒』のようなものが好みのようだ。これから楽と舞を学べば、その美しさと知性に公子も惹かれていくだろう。きっと彼女が正妃に選ばれる」
 そう――紘里は美しい。向学心もある。加えて筆頭貴族であり、序列三位の永氏が押す娘ならば、王も公子も彼女を意識するだろう。……それは献之もわかっていた。
「先王の愛妃――楊太真(ようたいしん)も、養女となってから後宮に入り、貴妃(きひ)の位を得た」
 呟くように、子雲が言う。
 その楊貴妃は、舜国の最も南に位置する序列最下位の胡州の生まれ。もともとは没落寸前の貴族・范(はん)氏の娘だったが、その美貌と教養を見込まれて胡州州侯・楊氏の養女となり、先王に召された。
 貴妃となったのは十八年前のこと。
 それが停滞していたこの国の流れをかえたのだ。
「当時私は恵州州侯を継承する直前だったから、何度か楊貴妃にはお目にかかったことがある。美しく、聡明な御方だったよ」
「……父上が州侯になられたのは十七年前でしたね」
「十七年か、お前は大きくなったね。月並だけれど、どおりで私は歳をとるはずだ」
「歳って……父上はまだお若いではありませんか」
「ふふ、そうかい」
 子雲の声を聞きながら、献之は緩やかに時が巻き戻るのを感じていた。
 降る雨が、あの日の涙に重なっていく。
「もし紘里さんが王都へ行くことになれば、お前は付いていくと言うのだろうね」
 なにもかもお見通しというふうに、子雲は笑う。しかし献之は笑えなかった。
「父上、……俺は」
「お前の好きなようにしなさい」
 官吏の推挙を断ったときと同じように、子雲はあっさりしていた。それは決して投げやりにではなく。あのときも、まったく同じことを言った。
「ただね、これだけは忘れないでいてほしい。ここがお前の家で、唯一帰ることのできる場所だ」
 遠くの園林を眺めるようにしていた子雲の眼差しが、再び献之に向けられる。
「お前がいつかここを出ていくと、……そう決めていると承知していたよ。人生は一度きり、それがお前の選んだ道なら仕方ない。でも、私は淋しいな」
「……延之が、……いるではありませんか」
「うん、延之も大切な息子だ。お前も大切な息子だ、二人とも愛している」
 真摯に告げられ、献之は言葉に詰まった。
「いいかい、献之。この世に生を受けたと同時に人生は始まり、始まれば死という終わりに向かって人は歩み続けるだけ。過ぎ去った時には、決して手は届かない。それが誰であっても、このふたつはかえられない」
 だから人は前を向くしかないのだよ――そう子雲は続ける。
「どんな(、、、)結果(、、)になっても私はかまわない。父として選んだ道を、私は決して悔いたりしない」
「……父上」
「もう一度言うよ。お前の、好きなようにしなさい」
 そのとき、園林の池で羽を休めていた鳥が飛び立った。
 あの鳥のように、献之は子雲のもとで傷ついた羽を休ませてもらっていたのだ。
 それはかりそめの平穏――これまでは考えもしなかったが、そう想えば父と同じく、淋しさの湧いてくる献之だった。

     3

 目を覚ませば、辺り一面、赤く染まっていた。
 子どもにもそれが炎であると、すぐにわかった。玻璃の向こう側で揺れる火が化け物に見えて、怖くて必死で父を捜した。
 ――父上ぇ、たいへんです、燃えていますっ!
 しかし叫べば叫ぶほど煙に喉をやられ、皮膚は熱でただれていく。怯える身体を叱咤しながら火と煙をかき分けて進んでいくと、なにかに蹴躓いた。
それは――死体だった。
 ある者は刀剣で斬られ、ある者は矢に貫かれ、血を噴いて倒れている。
 死体はどれも、この世に怨念を残すように目を剥いていた。その目と自分の目が合えば呪われたように思えて、身体が震える。いくつかの矢が燃えながら壁や柱や死体に突き刺さっているのを見て、ああ火攻めに遭ったんだ、と理解した。
 人の焼かれていく臭いに耐え切れず、父を捜して駆け出したとき。
 一人の女が転がるようにして目の前に現れた。
 ――ごめんなさい。あなたを、巻き添えにしてしまって。
 ひたすら詫びる女の目から、宝珠のような涙がいくつも零れ落ちては宙に消えた。
 そう――あの女のせいでこうなった。
 だから俺は女が嫌いだ、いつでも自分中心で、犠牲になる者のことを考えない。
 詫びても、すべてはもとに戻らない。
 お前が憎くて堪らない!

 ぱかんっと、献之は目蓋をあげた。
 一瞬、なんで目覚めたのかわからなかったが、耳を澄ませば雨の音が途絶えている。きっと雨のやんだ気配で起きてしまったのだろう。
 あれは嫌な夢だったのか、それとも寝入り端にたどっていた意識によるものか、半身を起こした献之は片手で額を押さえた。
 昼間に父とあんな話をしたせいかと、回らない頭で献之はぼんやり考える。
 もう一度眠る気もおこらなくて、献之はそれ(、、)を抱えて榻に移動した。
 背もたれにもたれ、呼吸を整えながら、十六年前の出来事をゆっくりと思い巡らせていく。

 当時の王――先王は「暴虐の天子」と呼ばれ、民から恐れられていた。
 六雄国の争乱がおさまって以降、舜を建国した江州に座する王は代々善政を布いたが、世襲が続けば昏君は出るもの。先王は気紛れに法をかえて民を虐げ、その行為を諫言した官を次々に殺した。国が傾いていくことを嘆いた官たちが必死に軌道修正を図ろうにも、先王は本来の正しい政務には興味を示さず、舜国の滅亡は日に日に迫っていた。
 あるとき、江州の東隣の徐州と南隣の益州で日照りが続き、大規模な飢饉が起こった。
 官吏は「国庫を開いて備蓄の食料をこれら二州へ回すべき」と奏上したが、先王は「備蓄は王の大事のためのものである」と一蹴した。重ねて官が「多数の餓死者が出ている今、来年の作づけの種までもが失われている」と報告した。食べ物に餓えた民が、翌年に作づけする種までも食べ尽してしまったのだ。生きるため、それは当然のことだった。
 しかし先王は傲然と言い放った――「翌年のことに頭の回らぬ愚かな民など殺してしまえ」と。
 これが徐州と益州に伝わって「暴虐の天子」と呼ばれる所以となる。
 その悪政は十年近くにも及び、各州の州侯に加えて、王の掌握する王師までもが叛旗を翻す寸前だった。その事態に憂慮した中央の官たちは、一計を案じたのだ。
 先王は生来色好みだった。ならば美色にひたらせてしまえばいいのだと。先王に女をあてがい、夢中にさせて、女の手管で朝政に目を向けさせようとした。
 情けなくも官たちは、一国の行く末を、一人の女に賭けたのだ。
 そうして多くの官吏が各州を回り、意にかなう女人を捜し歩いた。
 胡州で捜しあてたのが、范太真である。
 とはいえ范氏は没落貴族、しかも太真は家の口減らしもあって出家したばかり。これでは王家に相応しくないと、急遽、胡州州侯の養女となった。
 太真は楊氏の娘として後宮に入り、その後ろ楯もあって貴妃となる。現実離れした美しさと妖艶な姿態、得意の歌舞で先王を虜にし、その聡明さでもって先王の目を朝政に向けさせることに成功した。
 先王は「天下の至宝を得た」と楊貴妃を評し、ずるずると魅了されていった。
 以後二年――今から十六年前まで、治政は安定することになる。
 だが、とある事をきっかけに王都のある江州で内乱が勃発するのだ。
 あのときは先王の勅命により、各州の州侯が王都に召集されていた。
 献之は父に言った。
「父上は私よりも、あの(、、)御方(、、)をとるのですかッ!」
 その叫びは虚しく、方々へとこだました。
 唯一受けとめてくれた父はその場に跪き、苦しそうに顔をゆがめて、献之の顔を覗き込んできた。
「あの御方の腹にはお子が宿っておられるのだ。……子に罪はない」
 自分も子どもだった。だから父の言うことが理解できなかったのだ。
「お前にはつらい想いをさせる。すまない、献之」
 そう言って、父は抱き締めてくれた。
 二つの物を手渡してくれて、献之の肩におかれた掌に力がこめられた。
「私は決して悔いていない。お前も悔いのないように生きるのだ」
 鼓舞するようにして、父の掌が軽く献之の頬を打った。その掌に献之は縋った。
 あの、大きな掌が好きだった。不可能のないような、ゴツい掌が。
 強くて、憧れで、大好きだった父。
 けれど父が選んだのは……。

 あのときは噂を信じ、父を恨んだものだった。
 けれど、時が経った今ならはっきりと言い切れる――あれは父なりの正義だったのだと。
 今の自分ならば、父を赦すことができた。
 だから自分も、父に赦してもらいたかった。
 あれから十六年――献之は己の右手を見つめた。
 長かったこの年月。自分は父の誇れる人間になれただろうか……?

 ――同じ夜。
 自室の鏡台で顔を洗っていた紘里は、顔をあげて文字通りブッ飛んだ。そこに腕を組んで仁王立ちした瑶が映っていたからだった。
「ンなッ、……ちょ、いつの間に入ってきたのよ。扉の開く音がしなかったけどっ」
 ふんふんと鼻息を荒げながら紘里が振り向けば、その問いが聞こえなかったかのような顔で瑶にキッと睨まれた。
「お前は数もかぞえられんのかッ」
「は? 数くらい……」
「今夜は三日目だろうがッ」
 ぐっと紘里は息を詰まらせる。
 怒鳴られなくても、そんなことは百も承知だ。でも、何度も瑶の房室の前まで行ったけれど、扉を叩くことはできなかった。惑いつつも三日前はド根性で自分を奮い立たせて房室に入ることができたが、今夜は平常心を保てそうになかったからだ。
 紘里はいつも、昼餉は瑶ととっていた。ところが今日は登綺の侍者が迎えにきて、彼を連れていってしまったのだ。
 夜だけじゃなく、昼も瑶をとられたと思えば、苛々して頭がどうにかなりそうだった。
 本気で頭を柱にぶつけたい衝動に駆られて柱を黙々と見ていたら、「紘里、だいじょうぶ?」と子どもの延之に心配されてしまったほどだ。
 しかも今日の昼の食膳は、紘里の分は用意されていなかった。厨房で理由を訊けば、「奥様が必要ないと言ったので」と返された。また登綺かと、紘里は悄然となった。
「なんで来なかった? 身体が腐ってもいいのか?」
「いいわけないじゃん」
「なら、来い」
 そのまま瑶に抱え上げられそうになり、とっさに紘里は彼の腕を払った。
 瑶の目が、これまでに見たことがないほど大きく見開かれる。驚きを表すその表情が刹那に胸に痛みを与えたけれど、紘里はもう、我慢ならなかった。
「あたしが房室に行ったら邪魔でしょッ?」
「……お前が邪魔なのはガキの頃からだ」
「はあぁぁぁ!? なら、拾わなきゃよかったじゃないッ」
 しまったと、……言ってはいけないことを口にしたと、紘里は後悔した。
 男として遊び盛りの頃を、瑶は子育てに費やしてくれたのに。けれど胸に溜まる想いが重すぎて、それ以上、口を噤んでいられなくなってしまったのだ。
 句容にいるときは、瑶になんでも言えた。互いに隠し事なんてなかった。それなのに永氏の邸では、登綺のいじめを相談したくてもできないし、相談したい瑶本人がその登綺と仲よくしている。自分の居場所が奪われたように感じられて、紘里は息苦しかった。
 もう嫌だ……
「……もう瑶としゃべりたくない。出てってくれないと嫌いになっちゃう」
 その場に蹲った紘里は、膝に顔を埋めて、それだけを伝える。
 しばらくすると、瑶が無言で出ていく気配があった。出ていけと言ったのは自分でも、本当に出ていかれれば淋しくて堪らない。
「ふええええんっ、あたしもバカだけど瑶もバカじゃん……」
 幼かった頃に馬嵬山で迷ったときと、身体が腐りかけたときしか紘里は泣いたことがなかったのに、今夜は涙が止まらなかった。
 泣けば瑶が困った顔をするから、涙を見せることなくきたけれど、瑶がいないとなれば存分に泣いてやるつもりだった。身体が涙で干からびたってかまわない、雪女なら水分はいっぱいあるはずだから……。
 ひとしきり泣いて、洟をすすりながら顔をあげると、なんと! 瑶はまだそこにいた。
 紘里の前にちんまりとしゃがんでいる。
「う、……うそ、さっき出ていく音がしたのにぃ」
「お前は単純だから、すぐに騙されるんだ」
 しゃがんだままで膝に頬杖をつき、瑶は細い溜め息を吐いた。
「泣くほど私が嫌いになったか」
 その声は反則だと紘里は思う。こんなときに添い寝するときの優しい声で話しかけないでほしかった。ほとんど反射的に紘里は、床に垂れた瑶の髪を一房指に絡めていた。
「嫌いになれたらよかったぁ」
 そう言って腕を伸ばせば、いつものように瑶が抱き上げてくれた。

「は? なんだそれは?」
 瑶は椅子に座っている。その膝に乗せられたまま、紘里は登綺のことを尋ねていた。
「あの女と私がどうにかなるなんて、よくもまあ、そんなくだらんことを思いつくな」
 州侯の妻を「あの女」呼ばわりするなんて。
 その度胸に、紘里のほうが度肝を抜かれる。
「だって、かかか掛布が乱れてたし。瑶の夜着だって……さ」
「掛布が乱れてたか知らんが、私はあの夜、うたた寝していたんだ。お前の来るのが遅いせいだろうが」
「……なら、なにしてたの?」
「三世富貴になるには風水的にどうしたらいいかと訊かれたんだ。わざわざ夜に訪ねてこられて迷惑だったから、槐(えんじゅ)を南に植えたらいいと適当に返事をして追い払ってやった」
 辟易した様子の瑶。
 しかし瑶は迷惑ととったにしても、夜に訪ねてくる登綺の思惑なんてひとつしかないのではなかろうか?
「……じゃあ、今日の昼餉は?」
「占いをしてくれと頼まれた」
 つと、瑶のタレ目が細められる。
「どうもな、将来に不安があるらしい。富貴になる法を訊いてきたことからしても、なにかに怯えているのは確かだな。まあ、私にはまったくわずかも関係ないし興味もないが」
 ドきっぱりと、瑶は言った。そうして紘里の顔を至近で覗き込んでくる。
「私もお前に訊きたいことがある」
「ん、……なに?」
 登綺との関係を訊けて、ひとまず安心していた紘里は、瑶の首筋に顔を埋めた。冷たくて心地よく、眠れない夜が続いたこともあって、目蓋が落ちる寸前だった。
「お前は恵侯をどう思う?」
「んん、……いい方だなって」
「……王都へ……行ってみたいか?」
 王都よりも、どちらかといえば太原に行ってみたい紘里だった。それまでにも行ってみたいと望んでいたけれど、延之と太原の話をすることが多くなっているせいもあった。
 そのまま紘里は眠りに落ちてしまい、自分がどう返事をしたのか憶えていなかった。

 翌朝、よく寝たなと目覚めてみれば案の定、紘里は寝坊していた。玻璃から薄く、陽が射し込んでいた。
 すでに瑶は起きていて、半身を起こしたまま、難しい顔で何事かを考え込んでいる。紘里が目覚めるのを確認した瑶が房室から出ていくのを、ひょこひょこと追ってしまった。難しい顔をしている原因が、なんとなく自分にあるような気がしたからだった。
 思わず瑶の長い白髪をつかむと、扉を開けたままで瑶が振り返った。
「お前、今日は自分の服を着ろ」
「へ?」
「いいな!」
 紘里の肩に手をおいた瑶は、息がかかるほど顔を寄せて念押しした。

     4

 眠れなかった献之は、モロモロ気になることがあって紘里の房室を目指していた。
 朝餉までにはまだ間があったし、久々に晴れたこともあって清々しい回廊を歩いてみたかったのだ。
 この廊下の角を曲がれば紘里の房室だ。
 角を曲がりかけた献之は、ハッとして一歩後退り、そっと覗き込む。見れば、紘里の房室から風水師が出てくるところだった。
 やっぱりか! ――ドキリとしながら献之は胸を押さえた。
 朝に夜着姿で女の房室から出てくるなんて、理由はひとつしかないだろう。
 子雲は昨日、「紘里に厲姓を名乗らせているのは結婚の意思がないということか」と風水師に尋ねてみたと言っていた。その風水師は曖昧に笑うだけだったらしいが、この現場を見れば一目瞭然。
 さてどうしたものかと、壁にへばり付いて献之は考え込む。
 気の早いことに、「養女に迎えたい」と子雲は風水師に申し出たらしいが、昨日の今日で返事はまだない。
 すでに紘里が風水師と結婚しているのであれば、養女にとるのは非常に難しいだろう。庶民を相手に金を積んで縁を切らせるという姑息な手もあるが、どうにもあの風水師はつかみどころがない。巫祝といえば呪術を扱えるのをいいことに、悪辣行為を働いて金を荒稼ぎする者も多いのに、彼には微塵の欲もないのだ。
 ……そこまでごちゃごちゃと考えて、献之の思考はぴたっと停止した。
 あれ? と思ったのだ。
 子雲が「養女に」と言いだすのを望んでいたのは最初だけで、正直、今はもうどうでもいい。ならばなぜ、こんなに焦っているのか……。
 その焦燥を確認するようにして、もう一度献之は廊下を覗き込んだ。
 ちょうど紘里が風水師の白髪をつかんだところで、風水師も身を屈める。そこまで目撃してぎょっとなった。
献之の目には、二人が口づけているように映ったのだ。
 子雲にバレていたように、そこそこ妓女と遊んでいる献之である。純真無垢な少年でもあるまいに、今更、口づけ如きで心臓が口から飛び出しそうになる理由がわからない。
廊下にたたずんだままで、ひたすら首を捻るしかない献之だった。

 そもそも紘里という少女は、自分の美貌に無自覚なようだった。着飾ることに興味もないように献之には見えた。そこから察するに、彼女はいろいろなことに無頓着なのだろう。
 おそらく厲姓を名乗ることについても深く考えていない。一人暮らしを望んでいたことからしても、そう推察できた。
 なんで書家を目指したのか訊かれたとき、女にしては妙なことを訊くものだと思った。
 女の幸せはより位の高い男と結婚するものだと考えられていて、女もそれを願い、媚びへつらう。しかし紘里の願いは、そこにないのだ。献之の目には、紘里が生きる糧を探してもがいているように映っていた。覇気のあるところが結構、気に入っていた。
 書を教えれば紘里は喜ぶだろうか――そんなことをつらつらと考えながら、朝餉をとるために席に着くと、子雲がやって来た。
 子雲の方針で、朝餉は必ず家族揃ってとる。登綺と延之の姿はまだなく、いい機会だからと「紘里に書を教えてみたい」と子雲に向けて口を開きかけたとき。
 廊下へと通じる扉が、バタンッとけたたましく開かれた。

 瑶が、バタンッと扉を開けた。
 その真後ろで、紘里は冷や汗ダラダラだった。
 肩を怒らせた瑶に「ちょっと来い」と言われて付いてきてみれば、そこには恵侯と献之がいたからだ。どう見ても朝餉の前で無礼極まりなく、「ちょっと」どころの騒ぎではない。
「ああ、おはよ――」
「恵侯に申し上げます」
 頓着なく笑顔で挨拶してくる恵侯を、掌に拳をつけて礼をとる瑶が容赦なく遮った。わずかに腰を折っているものの、険をはらんだ声をしていては「申し上げる」態度では絶対にない。なにを言うつもりなのかと、紘里はびくびくしていた。
「私のお役目はほとんど終わっております。本日をもって、句容へ帰らせていただきたく存じます」
「ンなッッッ、えええっ!?」
 初耳であり、あまりにも突然のことに、紘里はつい叫んでしまった。
 なんでいきなりそんなことを言いだしたのかと紘里が卒倒寸前で考えていると、ちょうどそこへやって来た延之が半泣きになる。
「うええ。紘里ぃ、帰らないでっ」
 力いっぱい飛びつかれてヨロけつつも紘里が延之の頭を撫でていると、今度は登綺がやって来て、瑶を見つめたままで目を瞠っている。その視界には息子の延之も紘里も入っていないようで、刹那に紘里は、そんなに瑶ばっかり見ないでよッ! と心中でケチくさく毒づいた。瑶は減るものでもないが、見られた分、確実になにかが失われる気がした。
「私は雨季の終わる頃まで、とお願いしたはずですが」
「しかし恵侯、雨季といえばひと月。すでにひと月経っております。それに今朝は晴れました」
「そうですね、よい天気で。ですが雨季の晴れ間かもしれません」
 のらりくらりと恵侯に切り返され、打つ手なしとばかりに瑶も「くっ」と喉を鳴らした。
「お二人は汨羅江を下ってきたのでしょう? 雨季の頃は水位も上がり、流れも速いはず。本日許昌を発たれてもこれでは徒歩になり、句容に帰り着くのは、その日数を考えれば然程かわりないのでは?」
 瑶が黙していると、恵侯は紘里に問うてきた。
「紘里さんは帰りたいのですか?」
「は……あ、ええっと、……延之くんのお相手をするのは楽しいので――」
 子どもに抱きつかれていては、そうとしか返せないだろう。
 しかし言いさせば、瑶に鬼神の如く睨まれる。
「わたくしの息子も泣いて引き止めております。どうか瑶様、もう少しお留まりになってくださいませ」
 登綺も会話に割って入る。
 手入れの行き届いた登綺の白い繊手が、それとなく瑶の肩に置かれた。瑶の気持ちは確認済みでも、絵になる二人を間近にすれば紘里はカッカと頭にくる。
 結局、「数日後には大木師傅も来ますので」と恵侯にたしなめられるようにして、その場はおさまったのだった。

 前を歩く瑶の肩は相変わらず怒ったまま。怒りをダダ漏れにして、ずんずんと歩いていってしまう。足の長さの違いは顕著で、紘里は小走りになっていた。
「ちょっと瑶! 突然なんなのよ、しかもすっっっごく失礼じゃないッ!!」
 ぴたっと足を止めた瑶が急に振り返ったせいで、彼の長い髪が鞭のように紘里の顔をぴしゃりと叩く。「ぶっ」と呻きながら、これはかなりご立腹だな、と紘里は思ったものの、恵侯に対するあの態度はいかがなものか。
「お前が帰りたいと言ったんだろうがッ」
「……うへ?」
 まったく記憶にない。いつ言ったのかと、紘里は必死に記憶をたどる。
「……でもさ、お仕事はまっとうしないとお給金がもらえないかもしれないよ? 前金返せとか脅されたらどうするの?」
「私はやるべきことはやった。給金分は働いた」
「う、……や、そうかもだけど。契約期間も重要じゃない?」
 眉を垂れて紘里が説得すれば、瑶が冷たい目を向けてくる。さすがは雪男、辺りがぐんと冷えた気がして身体が凍りそうになった。
「お前はそんなに金が欲しいのか」
「そりゃ、もちろん」
「なんでだ? 理由を言え」
 瑶に、結婚して可愛いお嫁さんと幸せになってもらいたいから、とも言えず、紘里は「ふごふご」と口ごもる。なんとなくではあるが、瑶が結婚するのは嫌な気持ちもあって内心は複雑で、余計に言いにくくなっていた。すると瑶が、トンチンカンなことを言った。
「絹の服が着たいからか?」
「はあ? あたしがお給金で絹の服を買うとでも……?」
「髪に豪華な飾りを挿して、化粧をしてちやほやされたいからか?」
「ンなわけ――」
「身の程を知れ。お前のような辺境育ちの貧相な娘が貴族の暮らしなんぞ、できるはずもない」
 一瞬にして紘里の頭に血がのぼった。怒りのせいか頭がくらくらして、息が切れる。
 身の程なんて充分理解しているのに、そんな意地悪を言わないでほしかった。
「瑶のスカタンっ! あたしは分相応だもんっ。そんなコト言うならね、鼻に指つっこんで一本背負いに投げ飛ばしてやるんだからッッッ」
「痛ッ」
 紘里が叫びながら回し蹴りを喰らわすと、さすがの瑶も、蹴られた臑を抱えて蹲った。
「お前っ、……口で言っていることとやっていることがバラバラだろうがッ」
「バラバラにしないと瑶はよけるじゃないっ。あたしだって頭、使うの! たくさん考えてるの!! 瑶ってば酷いよっ」
 酷いのはお前だ、という悶絶間際の瑶の呻きが聞こえたが、無視して紘里は駆け出した。








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