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精霊は、ジェフの言った「あんなこと」を掘り下げるべきか迷った。彼女自身、人間として生き始めたばかりではあるが、人生には様々な試練が待ち受けていることを理解していた。かつて彼女は数え切れないほどの恋を成就させる一方で、人間を破滅に追い込んできた。そんな経験からしてみても、「あんなこと」は知らなくてもいいことのように思えた。

物干し竿にかかったアンドレの仕事着が、湿り気を帯びた微風に揺れていた。ジェフは炭を傍らに下ろし、物干し場にある切り株に腰を下ろした。精霊も少し息をついた。

森の大樹に住んでいた時代とは異なり、彼女にはある決定的な違いがあった。それは、人を信じる気持ちである。人間として生きていると、木々の声も動物の声も聞こえない。そんな孤独な人間にとっての唯一の理解者は、やはり人間しかないだろうと彼女は考えていた。

「そ、そうね、前はジェフにも迷惑をかけたわね……。もう大丈夫よ……」

精霊は「あんなこと」の中身も知らないまま、理解ある妻を演じた。彼女にとって、「何のこと?」とジェフに問い返すことは、二つの理由からできなかった。一つは、正体がバレることを恐れていたこと。もう一つは、アンドレとの夫婦生活を壊したくなかったためであった。朝と夜の少ししか会えないという不満も、森での生活を考えると、悪くはなかった。なにしろ今の彼女には、アンドレに触れられる”手”があるのだから。

ジェフは切り株に座ったまま、何の屈託もなく自分の靴の汚れを払っていた。そしてほっとした表情で、
「なんか、エマの顔が明るくなった気がするよ。いいことだ! アンドレはめちゃくちゃいいやつだし、あの浮気癖にさえ目をつむれば、完璧な男だよ。だから、これからもあいつを見捨てないでやってくれ」
と、何でもないことのように、軽く頭を下げて言った。

(浮気癖……ですって……!?)

精霊は意図せずして、アンドレの秘密らしきものを知ってしまった。”エマ”は、浮気されていたのだろうか……。

「あんなこと」を知るまいと心に決めたばかりなのに、それは不意に破られてしまった。あの心優しいアンドレに限って……浮気を……!?

精霊の手から、アンドレの部屋着がぽろっと土に落ちた。
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