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勢いで家を出たものの、街にアンドレがいるかはわからなかった。まだ森で木を切っているかもしれないし、街へ向かっている途中かもしれない。
村から街までの街道は一本道なので、その点は安心だった。道中、ところどころで行商が商売をしていて、人の気配がある点もよい。
他の村々からの道が集結する大きな交差点があって、精霊はそこに差し掛かると、炭を売るジェフの姿が見えた。野菜を売る人、果物を売る人などに混じって、ジェフも道行く人達に声をかけ、元気よく商売をしていた。
「ジェフ! やってるわね!」
精霊もまたジェフに張りのある声で話しかけた。
「おお! エマじゃないか! 街に行くのかい?」
ジェフは汗を拭うと、笑顔を見せた。彼の頬にはうっすら煤がついていた。精霊は、それがジェフの爽やかな姿により魅力を加えているように思った。
「そうね。鍋とかお皿とか、家の物を見てみようかと思って。まあ間に合っていると言えば間に合っているんだけど、気分転換みたいなものね」
精霊は嘘が上手くなっていた。よくこんなにすらすら言葉が出てくるものだと、自分で感心してしまうほどだった。人間になる前は、嘘をつく必要もなかったし、我慢をする必要もなかった。”エマ”という人間に同化していくなかで、より人間らしくなっていった。人間は弱い生き物であり、周りとの協力がなければ生きていけない。ほぼ無限にある森の力を食んで生きてきた精霊にとって、それは不便極まりないことだった。しかし、人間の身として生きていくと、本能的に他者を頼ることができるようになっていった。一方では、生きている限り、他者にどこかの部分では支配されざるをえない、という感も持っていた。人間への適応は、精霊に、喜びと孤独を与えたのだった。
ジェフは売り物の炭を整理しながら、
「アンドレは最近、街の中央広場で陣取ってるよ。会っていけばいい。なんなら、そのままデートすればいいかもよ?」
と、いたずらっぽく言った。
精霊とアンドレは、一度もデートしたことがなかった。夫婦にあったのは、生活だけである。精霊は、好きな人と好きな場所に行けたらどんなに素敵だろうと、いまさら想像した。しかし、彼女はそう妄想し始めたとき、過去、恋の成就を願いに来た人間たちを思い返した。一人で来る者もいれば、カップルで来る者もいたし、友達どうしで来る者もあった。彼らもこんな瑞々しい気持ちを抱いていたのだろうかと思うと、無造作に彼らを呪っていた自分の振る舞いに胸が痛んだ。
「あら、エマじゃない!」
精霊に声をかけた一人の女性がいた。精霊は彼女に見覚えがなかった。
(……誰かしら……?)
ジェフもその女性のほうを向き「そっか、リンダは久しぶりに会うんだな!」と言った。
リンダは精霊とジェフのもとへ歩いてきた。ジェフのすぐ隣まで来ると、煤で汚れた手をエプロンで拭いた。
「久しぶりにね、エマ。元気だった?」
リンダはとても嬉しそうにしている。
精霊は彼女の笑顔に応え、自然と笑顔になった。
「うん、元気だったよ! 久しぶり!」
ジェフとの距離感から見て、ジェフの妻だろうと精霊は思った。
手を拭き終えたリンダが、ジェフと精霊の顔を交互に見つめると、しばらくの間、ぎこちない雰囲気が流れた。そして、彼女は精霊に向かってこう尋ねた。
「あなた……本当にエマ?」
村から街までの街道は一本道なので、その点は安心だった。道中、ところどころで行商が商売をしていて、人の気配がある点もよい。
他の村々からの道が集結する大きな交差点があって、精霊はそこに差し掛かると、炭を売るジェフの姿が見えた。野菜を売る人、果物を売る人などに混じって、ジェフも道行く人達に声をかけ、元気よく商売をしていた。
「ジェフ! やってるわね!」
精霊もまたジェフに張りのある声で話しかけた。
「おお! エマじゃないか! 街に行くのかい?」
ジェフは汗を拭うと、笑顔を見せた。彼の頬にはうっすら煤がついていた。精霊は、それがジェフの爽やかな姿により魅力を加えているように思った。
「そうね。鍋とかお皿とか、家の物を見てみようかと思って。まあ間に合っていると言えば間に合っているんだけど、気分転換みたいなものね」
精霊は嘘が上手くなっていた。よくこんなにすらすら言葉が出てくるものだと、自分で感心してしまうほどだった。人間になる前は、嘘をつく必要もなかったし、我慢をする必要もなかった。”エマ”という人間に同化していくなかで、より人間らしくなっていった。人間は弱い生き物であり、周りとの協力がなければ生きていけない。ほぼ無限にある森の力を食んで生きてきた精霊にとって、それは不便極まりないことだった。しかし、人間の身として生きていくと、本能的に他者を頼ることができるようになっていった。一方では、生きている限り、他者にどこかの部分では支配されざるをえない、という感も持っていた。人間への適応は、精霊に、喜びと孤独を与えたのだった。
ジェフは売り物の炭を整理しながら、
「アンドレは最近、街の中央広場で陣取ってるよ。会っていけばいい。なんなら、そのままデートすればいいかもよ?」
と、いたずらっぽく言った。
精霊とアンドレは、一度もデートしたことがなかった。夫婦にあったのは、生活だけである。精霊は、好きな人と好きな場所に行けたらどんなに素敵だろうと、いまさら想像した。しかし、彼女はそう妄想し始めたとき、過去、恋の成就を願いに来た人間たちを思い返した。一人で来る者もいれば、カップルで来る者もいたし、友達どうしで来る者もあった。彼らもこんな瑞々しい気持ちを抱いていたのだろうかと思うと、無造作に彼らを呪っていた自分の振る舞いに胸が痛んだ。
「あら、エマじゃない!」
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(……誰かしら……?)
ジェフもその女性のほうを向き「そっか、リンダは久しぶりに会うんだな!」と言った。
リンダは精霊とジェフのもとへ歩いてきた。ジェフのすぐ隣まで来ると、煤で汚れた手をエプロンで拭いた。
「久しぶりにね、エマ。元気だった?」
リンダはとても嬉しそうにしている。
精霊は彼女の笑顔に応え、自然と笑顔になった。
「うん、元気だったよ! 久しぶり!」
ジェフとの距離感から見て、ジェフの妻だろうと精霊は思った。
手を拭き終えたリンダが、ジェフと精霊の顔を交互に見つめると、しばらくの間、ぎこちない雰囲気が流れた。そして、彼女は精霊に向かってこう尋ねた。
「あなた……本当にエマ?」
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