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第十九章
最後の音を選ぶとき
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森の音にも、季節の移ろいがある。
風の角度、土の湿り気、虫の羽音、鳥の声の高さ。
すべてが少しずつ変化しながら、蓮の耳に届いてくる。
その日、蓮は録音機を持たなかった。
代わりに、一冊のノートを手にしていた。
白いページに、言葉を並べてゆく。
音はいつも、先にそこにある。
僕が感じるよりも前に、風は吹いていた。
でも、今日の音は、すこし待ってくれている気がした。
蓮は、風の呼吸に合わせてページをめくる。
言葉はもう、残すためのものではなかった。
そこにある“音を受け取る”ための、静かな道標だった。
彼はふと、かつて少女の声が録音されていたUSBを思い出す。
あのとき彼女が残した声もまた、“誰かへ”ではなく、
“この世界に向けて”発された音だった。
それが、静かに届いていたこと。
そして今、自分の音も誰かのなかで「残響」となっていること。
——それだけで十分だった。
蓮は最後のページに、たったひとつの言葉だけを書き記した。
ありがとう。
それは名前を呼ばず、誰かを指さず、
ただ、音に向けた感謝の言葉だった。
—
一方、少女は森の入口に立っていた。
録音機を手に持ち、イヤホンを片耳に差し、
もう片方の耳は、風の音に委ねていた。
今日は、録音しないつもりだった。
ただ、自分のなかにあるすべての音を「送り出す」ために来た。
レコーダーの録音ボタンをそっと押し、
少女は、ほんの一呼吸だけ言葉を残した。
これで、さいごにします。
あなたの音が、わたしを変えました。
わたしも、誰かに静けさを渡せるような人になりたい。
録音を終えると、少女は森に背を向け、歩き出した。
名も知らぬ人に向けた、最後の音。
それが、誰かの心に届くかどうかはわからない。
けれど彼女にはわかっていた。
「届くかどうか」よりも、「届けたいと思ったこと」のほうが、
ずっと深く、静かに人を変えるのだと。
—
その夜、蓮は少女の録音を聴いた。
封筒に入れられていたUSBを、図書館の棚で偶然手に取ったのだった。
流れてきたのは、あの森の空気。
そして、少女の声。
……わたしも、誰かに静けさを渡せるような人になりたい。
蓮はヘッドフォンを外した。
目を閉じて、長く、深く息を吐く。
森にいた日々、交わしたことば、交差した音たち。
それらが、すべて自分の中に染み込み、
ゆっくりと沈殿していくのを感じた。
——もう、録音は必要ないのかもしれない。
音は、耳で録られるのではない。
心のどこかに、いつの間にか刻まれていくものだと、今なら思える。
そして、ふと、蓮の口から声がこぼれた。
「またね」
誰にも届かない声。
けれどそれは、森に向けられた、静かな別れの音だった。
—
風が吹いた。
森が、応えるように、木々を揺らした。
ひとつの音が、終わりのかたちをして、
けれどどこかで、始まりのように響いた。
風の角度、土の湿り気、虫の羽音、鳥の声の高さ。
すべてが少しずつ変化しながら、蓮の耳に届いてくる。
その日、蓮は録音機を持たなかった。
代わりに、一冊のノートを手にしていた。
白いページに、言葉を並べてゆく。
音はいつも、先にそこにある。
僕が感じるよりも前に、風は吹いていた。
でも、今日の音は、すこし待ってくれている気がした。
蓮は、風の呼吸に合わせてページをめくる。
言葉はもう、残すためのものではなかった。
そこにある“音を受け取る”ための、静かな道標だった。
彼はふと、かつて少女の声が録音されていたUSBを思い出す。
あのとき彼女が残した声もまた、“誰かへ”ではなく、
“この世界に向けて”発された音だった。
それが、静かに届いていたこと。
そして今、自分の音も誰かのなかで「残響」となっていること。
——それだけで十分だった。
蓮は最後のページに、たったひとつの言葉だけを書き記した。
ありがとう。
それは名前を呼ばず、誰かを指さず、
ただ、音に向けた感謝の言葉だった。
—
一方、少女は森の入口に立っていた。
録音機を手に持ち、イヤホンを片耳に差し、
もう片方の耳は、風の音に委ねていた。
今日は、録音しないつもりだった。
ただ、自分のなかにあるすべての音を「送り出す」ために来た。
レコーダーの録音ボタンをそっと押し、
少女は、ほんの一呼吸だけ言葉を残した。
これで、さいごにします。
あなたの音が、わたしを変えました。
わたしも、誰かに静けさを渡せるような人になりたい。
録音を終えると、少女は森に背を向け、歩き出した。
名も知らぬ人に向けた、最後の音。
それが、誰かの心に届くかどうかはわからない。
けれど彼女にはわかっていた。
「届くかどうか」よりも、「届けたいと思ったこと」のほうが、
ずっと深く、静かに人を変えるのだと。
—
その夜、蓮は少女の録音を聴いた。
封筒に入れられていたUSBを、図書館の棚で偶然手に取ったのだった。
流れてきたのは、あの森の空気。
そして、少女の声。
……わたしも、誰かに静けさを渡せるような人になりたい。
蓮はヘッドフォンを外した。
目を閉じて、長く、深く息を吐く。
森にいた日々、交わしたことば、交差した音たち。
それらが、すべて自分の中に染み込み、
ゆっくりと沈殿していくのを感じた。
——もう、録音は必要ないのかもしれない。
音は、耳で録られるのではない。
心のどこかに、いつの間にか刻まれていくものだと、今なら思える。
そして、ふと、蓮の口から声がこぼれた。
「またね」
誰にも届かない声。
けれどそれは、森に向けられた、静かな別れの音だった。
—
風が吹いた。
森が、応えるように、木々を揺らした。
ひとつの音が、終わりのかたちをして、
けれどどこかで、始まりのように響いた。
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