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短い夢の終わり
「私の分は記入済みだ。
さあ、ナタリー。サインするんだ」
目の前に置かれた紙が、ぼやけて見える。
私は放心していた。
「え……?」
頭が回らない。
王が深いため息をついた。
「もうよい。
……我が甥アレクシス・レンツを、王太子に任命する。
エドモンの処遇は、議員を召集し審議する」
その瞬間、エドモンが取り乱した。
「まっ! お待ちください!
今度こそエヴァと添い遂げます!
エヴァだって再婚約してくれたんだ。
──そうだろう?」
エヴァは冷静だった。
「1年限定の契約であって、添い遂げるというのは誤解を生む表現です」
「リュミエール公爵令嬢は、最初から条件付きと言っていた」
「添い遂げる? どの口が言う。
離婚届を持ってきた男が」
貴族たちの憤慨が刺さる。
エドモンは信じられないものを見るように、エヴァを見つめた。
「エヴァ……どうして……?
これまで何も言わず、助けてくれたじゃないか」
「それは婚約破棄されるまでの話ですね」
「私を愛してないのか」
──愛?
誰が見てもエヴァはエドモンなんか愛してないのに、何を言ってるの?
エドモンは焦り、必死に言葉を重ねた。
「まさか、私が平民と浮気したのを根に持ってるのか?
それは、これから時間かけて償う。
そうだ、君の好きなサファイアをたくさんプレゼントしよう。
それで機嫌を直してくれ」
私は息を呑んだ。
浮気……?
本妻になって子供を産んであげたのに──浮気?
そのとき、アレクシスが前に出た。
王族の冷徹さをまとった少年が、静かに宣言する。
「王太子の命、謹んでお受けします」
会場が拍手に包まれた。
エドモンが叫ぶ。
「おい、待て! 王太子は私だ!
エヴァを王妃にするのは、私だ!」
私は力の入らない足を叱咤して立ち上がり、よろけながら夫に近づいた。
「落ち着いて……。
あなたが騒ぐと、子供の立場が悪くなるわ……止めて……」
──状況が絶望的なことだけは、わかった。
だから、せめて子供だけは守らないと。
エドモンは、私を振り返った。
ヘーゼル色の目は、怒りで濁っていた。
「うるさい! お前が、私を誘惑したせいだ、このアバズレ!」
次の瞬間、頬に衝撃が走った。
「きゃっ」
私は床に倒れ込んだ。
視界が揺れる。
痛みよりも、心が壊れていく音の方が大きかった。
アレクシスの声が鋭く響く。
「エドモンを捕らえろ! 自室に監禁して、外に出すな!」
衛兵たちが一斉に動き、エドモンを押さえつける。
「離せ! 私が次の王だ! 私が──!」
叫びながら連行されていく背中を、私はただ呆然と見つめていた。
その瞬間、義母である王妃が白目をむいて倒れた。
「きゃあっ……!」
侍女たちが慌てて駆け寄り、王妃を抱えて運んでいく。
大広間は混乱でいっぱいだった。
王は疲れ切った顔で言った。
「騒がせてしまった……。
息子は、もう王族ではない。
産まれた赤子は保護する。
このまま会議の準備に入る。
めでたい席であったが、本日はここまでとする」
“息子は、もう王族ではない”。
ああ……終わった……。
そのとき、アレクシスがエヴァを抱き締めた。
私は床に座り込んだまま、その光景を見上げるしかなかった。
誰も助け起こさない。
見向きもしない。
「エヴァ、よく頑張ったね」
未来の王妃は、落ち着いた声で答える。
「驚きの連続で、特に何も頑張ってないわ」
そりゃ、驚きしかなかったわ。
アレクシスは笑っていた。
この状況で笑えるなんて、どういう神経なの。
「あはは。離婚届は、さすがに僕も予想してなかった」
周りの貴族たちも口々に怒っている。
「とんでもないことだ」
「王家の恥」
「前代未聞だろう」
アレクシスは肩をすくめた。
「まあ……でもさ、舞踏会の最中に婚約破棄して上手くいったから、離婚も上手くいくと思ったんだろうね」
クラウディオが苦い顔で言う。
「あの時、きちんと陛下が叱咤していれば……」
「結果的に、クーデターにならなくて良かったよ」
「ギリギリだったけどな」
アレクシスは兄を見て、軽く笑った。
「兄さん、お疲れ。
兄さんが反王派に入り浸っててくれたから、こっちは自由に動けた」
「矢面に立つのが、俺の仕事だから……」
私はその会話を聞きながら、胸が締めつけられた。
この人たちは……ずっと裏で動いていたんだ。
アレクシスが指を鳴らす。
「そうだ。褒美に、王太子権限でカトリーヌを出所するよう進言するよ」
「カトリーヌ?」
「自分の元婚約者だろ」
クラウディオは、ぽかんとしていた。
「あ、忘れてた……。
まあ貴族牢だから、生活に不便はないだろう」
私は震えた。
この人たちにとって、他人の人生はこんなにも軽いものなの?
とんでもない世界に来てしまった……。
でも、もう──それも終わった。
そう。終わった。
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