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逃亡
ヒューバードは、灰青色の瞳を大きく見開いた。
「一体、どうしたと言うんですか?
あなたが教会に寄付など、するわけないではないですか」
……そうよね。
私も、そう思っていた。
「ルシアナがいた修道院だ!
ルシアナの待遇が悪くならないように毎年、白金貨100枚の寄付をしてた!
お前に任せてたろ!」
「そんな話、初めて聞きましたよ」
ヒューバードは、困惑している。
「何だと。ふざけやがって!」
家臣の1人が小声で言った。
「カイエン様は、ご乱心だ……」
ヒューバードは眉を寄せ、私に向き直る。
「カイエン様は、隔離施設に入れた方がいい。
テレサ様。危ないので、こちらへ」
私は赤子を抱きしめたまま、黙って彼らを見つめた。
──もし、本当にルシアナのために寄付していたのなら……カイエンの言葉は、あり得なくはない。
ヒューバードの表情に、焦りが滲んでいる。
「さあ──カイエン様は、おかしいのです。早く」
私は赤子を抱きしめたまま、カイエンを見た。
深い緑の瞳は、必死に揺れている。
「……何年、寄付してたの?」
「10年だ」
「カイエンの預金を見れば、信憑性が増すのでは?
彼は寝たきりの父の代わりに、ずっと働いていて散財はしてないはず」
私は思い返した。
彼が分不相応な高価な時計や宝飾品を身につけているところなど、1度も見たことがない。
むしろ地味で、質素で、必要最低限のものしか持たない男だった。
「……確かに」
家臣の1人が呟く。
「カイエン様は倹約家だ」
親族の1人も頷いた。
その瞬間、ヒューバードの表情が一瞬だけ固まった。
私は見逃さなかった。
「カイエンの個人資産を確認しましょう」
「そんなこと証拠にならない!」
ヒューバードの声が、わずかに震えた。
「私は初めから“証拠“とは言ってない。
“信憑性が増す“と言ってるだけ」
ヒューバードは、後ずさった。
家臣たちの視線が、一斉に彼へ向けられる。
執事が、口を開いた。
「カイエン様が寄付金を託した後に、ヒューバード様は数日、仕事を休んでいるはずです。
修道院への往復は、早馬で2日かかる」
私は息を呑んだ。
──だから、この2日いなかったのね。
修道院へ、確認に行ってたんだ……。
「カイエン様が託した日と、ヒューバード様が休んだ日が合致すれば、さらに信憑性は増します。
毎年いつ頃、渡していました?」
執事が質問する。
「9月だ。彼女の誕生日だから」
カイエンは、迷いなく答えた。
「出勤記録を調べます」
執事が、動こうとした瞬間──
「うるさい、黙れ! それがなんだ! 俺が当主だ!
衛兵たち! コイツらを斬り伏せろ!」
ヒューバードが叫んだ。
家臣たちが、一斉にざわめく。
「直系の前当主と次期当主を『斬れ』など、恥知らずが!」
怒号が飛び交い、剣が抜かれる音が響いた。
戦いが始まり、廊下は混乱に包まれた。
カイエンは、私の腕を掴んだ。
「テレサ、こっちだ!」
彼の逞しい腕が私と娘を包み込み、そのまま走り出す。
背後から剣戟の音、怒号、悲鳴が響いた。
屋敷全体が揺れるような混乱だった。
カイエンの深緑の瞳は、ただ1つの方向だけを見据えていた。
──逃げ道。
カイエンは私の腕を掴んだまま、屋敷の裏手にある厩舎へ駆け込んだ。
厩舎の中には、彼が愛用していた大型の軍馬がいた。
黒い毛並みが光り、逞しい脚が地面を踏みしめている。
カイエンは迷いなく私を馬に乗せ、自分もその後ろにまたがった。
「馬車じゃないと、アーレイが……」
私は赤子を抱きしめながら言った。
まだ雪が少し残る季節。
夜は冷える。
「この季節なら野宿でも凍死しない」
本当に……?
私は心の中で首を傾げた。
けれど、カイエンは振り返り、真っ直ぐに私を見た。
「俺を信じろ」
その言葉と同時に、彼は馬の腹を蹴った。
軍馬が大きく嘶き、闇の中へ走り出す。
冷たい風が頬を刺し、雪解けの匂いが鼻をかすめた。
背後では、屋敷の方から怒号が聞こえた。
胸には不安と恐怖と、そしてほんの少しの希望が混ざり合っていた。
山奥に着いた頃には、空が白み始めていた。
冷たい空気が肌を刺し、吐く息が白く揺れる。
「熊の洞穴を奪ってくるから、ここでじっとしてろ」
……穴を奪う?!
私は赤子を抱きしめたまま固まった。
カイエンは弓を構え、暗闇に紛れて洞穴へ近づいた。
矢を放つと、中から大きな影が飛び出してくる。
熊だ。
彼は迷いなく剣を抜き、短い攻防の末、熊を倒した。
動きは素早く、無駄がなく、まるで訓練された猟師のようだった。
……嘘でしょ……。
私は、ただ呆然と見ていた。
カイエンはランプに火を灯し、洞穴の中を確認した。
「大丈夫だ。使える。
寒ければ熊をマットにしよう」
私は思わず首を振った。
「……死体の上は無理よ」
「大丈夫だ。熊は暖かい。
毛皮も厚いし、血抜きすれば匂いも減る」
そういう問題じゃないのよ!
けれど、屋敷に戻れば流れ矢に当たるかもしれない。
夜道を走れば盗賊に遭うかもしれない。
私は赤子を抱きしめ、渋々洞穴の中へ入った。
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