放蕩な血

星森 永羽(ほしもりとわ)

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「久しぶりだから緊張しちゃう」

 私はオルガの腕に手を添えながら、王宮の大広間を見上げた。
 4年前に護衛騎士だったオルガと結婚してすぐ子爵領に引きこもり、ほどなく妊娠──それからというもの、社交界とはすっかり縁遠くなっていた。
 2人目の子供が2歳になり、ようやくこうして大規模な舞踏会に顔を出せるようになった。

「大丈夫だ、君は今日も美しいから」

 護衛騎士だっただけあり、恵まれた体格の彼は、平均より2回り大きい。
 礼服は彼の髪と同じ紺色の刺繍が施され、歩くたびに重厚な布が音を立てる。
 私は夫の腕に寄り添いながら、彼の顔に浮かぶ穏やかな笑みを見た。

 少しだけ、胸の奥の緊張がほどけた。

 私は決して美人ではない。
 どちらかと言えば、愛嬌のある顔立ち。身長もスタイルも、どこにでもいるような“普通”だと思う。
 唯一誇れるとしたら、エメラルドの瞳くらいか。

「オルガ・フェルゼン子爵。シンシア夫人」

 司会の声が響き、私たちは会場へと足を踏み入れた。
 天井の高い大広間には、無数の燭台が揺らめき、金と白を基調とした装飾が夜の光を反射している。
 絹のドレスが擦れる音、香水とワインの香り、そして視線──すべてが、4年ぶりの私を歓迎するようであり、試すようでもあった。

 夫に並んで、まっすぐ玉座へと進む。
 そこに座す同じ歳の王は、金髪を丸く整え、碧眼を氷のように澄ましていた。
 背は高く、鎧のように見える礼服がその肩幅を際立たせる。
 顔立ちは天使のように美しく、気品に溢れていた。

 オルガが王夫婦に、深く頭を下げる。

「王国の若き太陽と月である両陛下に、挨拶いたします。
 この度は、ご招待いただき恐悦至極でございます」

「よく来てくれた、フェルゼン子爵。近頃は、領地の発展が目覚ましいと聞く」

 クラウド・ヴァルレイン王の声は低く、よく通る。まるで冷たい水面を撫でる、風のようだった。

「お陰様で、この5年で税収が2倍に」

 オルガが厚い胸板を反らすようにして、誇らしげに答えた。
 その瞬間だった。

「ならば、もう夫人は必要なかろう」

 ……え?

「王命を下す。
 シンシア・フェルゼン子爵夫人を、愛妾として後宮に召し上げる」

 空気が凍った。
 私の時間も、呼吸も、すべてが止まった気がした。

 シルバーブロンドを豊かに結い上げ、紫のドレスに身を包んだベラゾーマ王妃が扇子を、ひらりと開いて口元を隠した。
 その扇子の動きが、まるで合図のように、私ははっとして現実に引き戻される。

 ──こんな馬鹿げた命令、あるはずがない。  
 何かの冗談だ。

 特に貴族には珍しい恋愛結婚だった夫が、黙っているはずがない。

 私は隣に立つオルガを見上げた。
 すると彼は、愛想笑いを浮かべた。  
 きっと「面白いご冗談を」と笑って、やんわりと断ってくれるのだ。

 しかし──

「光栄でございます。
 しがない子爵家にすぎない我が家から妻を後宮に召し上げていただけるなど、これ以上の喜びはありません。
 早速、今夜は妻を置いて参ります。
 どうぞ陛下の、ご随意に」

 一瞬、何のことか理解できなかった。
 ──置いて帰る?
 どこに? ここに?
 全身から血の気が引いていくのが、わかった。  
 しかし、玉座の前で倒れるわけにはいかない。
 踏ん張っているうちに、オルガに腕を引かれ、その場を辞した。


 案内されたのは、後宮の端にある部屋だった。  
 北向きで壁は薄く、調度も簡素で、空気はどこか湿っていた。
 窓の外には枯れかけた植え込みが見えるだけで、風の音ばかりがよく通る。
 足元の絨毯は擦り切れ、部屋全体に漂うのは、寒さと忘れられた空気だった。

「本日から、こちらをお使いください」

 深緑の髪をきっちりとまとめた女性が、淡々と頭を下げた。
 ローリエ・ブランシェ──30歳前後だろう、背筋の伸びた姿勢と無駄のない動きが印象的な女性だった。
 白いエプロンの下には灰色の制服。琥珀の瞳は、感情を見せない。

「ここに……住むの?」

 領地が小さいとは言え、フェルゼン子爵邸の方がマシだ。

「はい。それからフェルゼン子爵夫人付きのメイドは私だけですので、手の回らない部分はご容赦ください」

「1人?!」

「どうしても足りない時は、本宮から助っ人が来ますので」

 私は返す言葉もなく、部屋の隅にあるソファーに腰を下ろした。  
 ……堅い。座面は薄く、背もたれは軋んだ。

 5年前──まだ王子だったクラウドの婚約者だった頃。  
 あのとき与えられた部屋は、後宮ではなく王子の私室のすぐ隣。
 日当たりのいい広い部屋で、窓からは庭園が見えた。
 家具はすべて最高級、白と黄色で統一された空間は、私の好みに合わせて整えられていた。

 それが今は、末端の妾とはいえ、まるで使用人部屋のような場所を宛がわれている。

 一体、何がどうなっているのか。  
 王となったクラウドは、何を考えているの。


 1ヶ月、私は寒く狭い貧相な部屋で、ただ待機させられていた。  
 王は1度も姿を見せなかった。

 その間、何度か夫と子供たちに手紙を書いた。  
 上の子は3歳、下の子は2歳。まだ返事など書ける年齢ではない。  
 けれど、せめて私の気配を感じてほしかった。母がここにいると、伝えたかった。

 オルガから届いた返事は、どれも言い訳ばかりだった。  
「急な王命に逆らえなかった。単なる子爵の俺に、何ができる? 君のためを思っての判断だった」  
 そんな言葉を並べて、まるで自分を慰めるような文面。

 年上の騎士だった彼を、頼もしくて優しい人と思っていた。  
 けれど今、私の目の前にあるのは、失望の積み重ねだった。

 扉の外から、控えめな声が響いた。

「陛下のお渡りにございます」

 私はハッとして、椅子から立ち上がった。  
 薄いネグリジェの上に、慌ててバスローブを羽織る。  
 胸の奥がざわめき、手がわずかに震えた。

 ──ついに、来た。  

 扉が静かに開いた。  
 冷たい空気が部屋に流れ込み、それと同時に彼が現れた。

 クラウドは、金の刺繍が施された黒のガウンを纏い、まっすぐに部屋の中央へと歩みを進めた。  
 その姿は変わらず整っていて、金髪は灯りを受けて淡く輝き、碧眼は氷のように澄んでいた。  
 理想の王子様を具現化した彼を見て、嫌悪する女性は、この世にいないだろう──今の私以外。
 そして、そこにあったのは、かつて私が知っていた優しさではなかった。

 彼は何も言わず、部屋の奥に置かれた王用の椅子に腰を下ろした。  
 その動作ひとつで、空気が一段と張り詰める。

「一体、どういうことなのか説明して」

 私は声を震わせずに言ったつもりだった。
 けれど、喉の奥がひりついて、言葉は思ったよりも鋭く響いた。

「フェルゼン子爵夫人。まずは挨拶だと習わなかったのか?」

 その声は低く、冷ややかだった。  
 私は息を呑み、思わず背筋を伸ばす。

「っ……し、失礼いたしました、陛下。
 王国の太陽に、オルガ・フェルゼンが妻シンシアが挨拶いたします」

「面を上げよ。今後、改まった挨拶は省略してよい」

「ありがたき幸せにございます」

 口にした瞬間、自分の声が他人のもののように聞こえた。  
 これは夢──悪夢なのか。

「君は王妃教育を、どのくらい覚えてる?」

 唐突な問いに、私は一瞬、首を捻った。  
 王妃教育──それは、かつて婚約者として受けた礼儀作法や政務の心得、そして夜伽の作法まで含む、王の伴侶としての訓練だった。

「それは……実践してみないことには、私にもわかりません」

 ブランクがあるのだから、当然だろう。

 すると──

「閨は?」

「はい?」

 何を言ってるのだろう?

「他の妾たちは僕の上で跳ねたり、口で咥えたり、それぞれ得意技がある。
 君は何ができる?」

 その言葉は、刃のように私の耳を裂いた。  
 顔が熱くなり、心臓が跳ねる。

「っ、そんな……! 娼婦であるまいし、そんなこと!」

 思わず声を荒げてしまった。  
 けれど彼は、まるで退屈そうに肩をすくめただけだった。

「そうか。随分つまらないのだな。
 わかった、今夜はメリンダのところへ行こう」

 そう言って、彼は椅子から立ち上がった。  
 その動作は軽やかで、まるで私の存在など最初から眼中にないかのようだった。

「もう挨拶したか?」

「メリンダ……さんというのは、確か平民では?」

「そうだが、ここ(後宮)では先輩だ。新人の君は最も序列が低い。
 君から挨拶するのは、当然では?」

 私は開いた口が塞がらなかった。  
 貴族としての誇りも、妻としての記憶も、すべてが音を立てて崩れていく。

「挨拶がまだなら、一緒に行こう」

「え……?!」

 彼はもう、扉の方へと歩き出していた。  
 私は慌てて裾を掴み、仕方なくその背中を追いかけた。  
 その歩幅は広く、冷たい床に彼の足音だけが響いていた。


「陛下~!」

 扉を開けた瞬間、甲高い声が飛び込んできた。  
 全体にフリルがあしらわれた、まるでお菓子の箱のような部屋。  
 壁紙は淡いピンク、カーテンはレースとリボンで飾られ、ぬいぐるみが床に転がっている。  
 その中心にいたのは、胸元が大胆に開いた薄いネグリジェを着た少女だった。

 ピンク色の髪を高くツインテールに結び、頬を染めた彼女の姿に、私は思わず1歩後ずさる。

「もー! 1週間も来ないんだから! 怒っちゃう、プンプン!」

 少女は王に飛びつき、両腕を首に絡めた。  
 クラウドは驚く様子もなく、片手で彼女の細い腰を抱き寄せ、へらりと笑みを浮かべた。

「すまない。少し忙しかったんだ。これからは、会う時間を作るから」

「ホントー? 約束だからね!」

 少女──メリンダは、王の手を引いてベッドへとぐいぐいと押しやった。  
 そしてそのまま彼を押し倒し、馬乗りになる。  
 ネグリジェの裾がふわりと舞い、彼女の笑顔がクラウドの顔に重なった。

 唇が重なり、甘い吐息が部屋に満ちる。  
 私は思わず目を逸らし、静かにその場を離れようとした。

「待った」

 低く鋭い声に、足が止まる。  
 王がメリンダを軽く押しのけ、上体を起こしていた。

「新しい妾だ」

 そう言って、私の方を見た。  
 その視線に導かれるように、メリンダがようやくこちらを振り返った。

 大きな瞳がぱちくりと瞬き、唇が小さく開く。 

 沈黙が降りた。  
 部屋の空気が、ぴたりと凍りつく。

 メリンダは王の膝の上に座ったまま、じっと私を見つめていた。  
 その視線は、好奇心と軽蔑が入り混じったような、奇妙な光を帯びていた。

 クラウドの顔が、徐々に険しくなっていく。  
 その変化に気づいた私は、慌てて口を開いた。

「お、お初に御目にかかります。
 新しく入りました、オルガ・フェルゼンが妻、シンシアでございます。
 お見知り置きを……」

 言い終えると同時に、メリンダが首を傾げた。

「いつ来たの?」

「1ヶ月ほど前です」

「ふーん。私が平民だから、挨拶しに来なかったの? それとも、公妾の御姉様たちにも挨拶いってないの?」

 その問いに、私は言葉を詰まらせた。  
 確かに、第1~第3公妾は貴族なので挨拶に行った。
 他に8人いる愛妾は平民のため、足を運ばなかった。
 けれど、それを言い訳にしていいのかどうか、わからなかった。

「それは……その……」

 メリンダは、ふっと鼻で笑った。

「もう行っていいよ」

「え……?」

「今後は私に会っても、挨拶しなくていいよ。
 バイバイ、おばさん」

 その言葉は、笑顔とともに投げられた。  
 甘く、軽く、そして容赦なく。  
 私はそれが叱咤なのか本意なのかわからず困惑したが、もう興味がないと言わんばかりに顔を背けられたので、部屋を後にした。


 翌日、私は残り7人の愛妾たちの部屋を順に回った。  
 けれど、それはそれは酷かった。

 扉を開けた瞬間に、水をかけてくる者。  
 無言で頬を平手打ちしてくる者。  
 暴言を吐いてくる者も、当然いた。

 流石に「これはない」と思い、私はメイドのローリエに言った。

「騎士団を呼んで。これは暴行罪よ」

 けれど、彼女は首を横に振った。

「ここでは、行動が極端に制限されています。男子禁制のこの宮には、例え騎士団でも入れません」

 その返答に、私は声を失った。  
 いくら先輩とはいえ、平民が貴族を暴行すれば、本来なら無礼打ちとなる。  
 けれど、ここには私しかいない。  
 味方も、証人もいない。

 もし私がやり返したとして、彼女たちに「先に向こうが手を出した」と言ったら……。
 そして王が、それを信じてしまったら……。
 投獄されるのは、私だ。

 ここは、法も身分も通じない場所。  
 王の寵愛と、女たちの序列だけがすべてを決める、閉ざされた水の底だった。


 私は、食事を拒んだ。  
 他に手段がなかった。ナイフなどの危険物は、触らせて貰えないのだ。
 ──帰りたかった。子供たちのもとへ。  
 この場所にいる理由も、意味も、何も見出せない。

 メイドが運んできた銀の食器を、私はすべて床に叩き落とした。  
 スープが飛び散り、皿が割れ、肉の塊が冷たい石床に転がる。  
 ローリエは、何も言わなかった。ただ静かに、壊れた器を片付けていった。

 それが1度きりではないとわかっても、彼女は何も咎めなかった。  
 けれど、日が経つにつれ、彼女の緑の目に焦りの色が見え始めた。

 1週間が過ぎた頃、私はもう立ち上がることもできなくなっていた。  
 手足は痺れ、視界は霞み、喉は乾いているのに水を飲む気力すら湧かない。

 そんな私の前に、王が現れた。  
 隙のない装いで、冷たい瞳をこちらに向けていた。
 ただ、いつもサラサラにセットされてる丸みある金髪は乱れていた。

「食事を摂らないそうだな」

「……」

「強情を張り続けるなら、冷水につけるからな!」

 碧眼はつり上がり、彼から感じたことない種類の怒気が溢れていた。

 私は何も答えなかった。  
 答える力も、もう残っていなかった。

 その日の夜、使用人たちがやってきた。  
 私はベッドから引きずり出され、何も言えぬまま、冷たい水の中に沈められた。

 氷のような水が肌を刺し、肺が悲鳴を上げる。  
 意識が遠のく。  
 ブラックアウトした世界のどこかで、誰かが叫んでいた。
 けれど、それが誰なのか、もうわからなかった。


 ふと気がつくと、みすぼらしい天井が目に入った。  
 木の板が歪み、ところどころに染みが浮いている。  
 フェルゼン子爵邸に、こんな部屋あったっけ?

 視界がぼやけ、まぶたが重い。
 口の端に、何か異物感があった。  
 甘ったるくて仕方ない。

 どうやら意識の無い時に、直接胃に水分や栄養を送っていたらしい。  

 起き上がろうとした瞬間、周囲がざわめいた。  
 白衣を着た医師たちが、わっと押し寄せてくる。  
 誰かが私の手を押さえ、誰かが額に手を当て、誰かが何かを記録していた。

「お加減は、どうですか? 寒い暑いはありますか?」

 目の前にしゃがみこんだ老医師が、優しい声で問いかけてくる。  
 私は、ぼんやりと首を振った。

 そう言えば、寒くない。  
 あれほど冷え切っていたこの部屋が、今は妙に暖かい。

 視線を足元に落とすと、火鉢が3つ、並べて置かれていた。  
 赤く燃える炭が、じんわりと熱を放っている。

 ──ナニコレ?
 人を殺しかけておいて、この程度の施し?
 火鉢を3つ並べたくらいで、私が泣いて喜ぶとでも思っているのか。  
 馬鹿にしすぎだろう。

 私は、ハッと鼻で笑った。  
 その音に、医療チームの動きが一瞬止まる。

「邪魔だから出ていって。眠れないわ」

 静かに、けれどはっきりと告げると、彼らは顔を見合わせた。  
 困惑と戸惑いが、部屋の空気に滲む。

「申し訳ありませんが、陛下から全快させるように命じられておりますので……」

 老医者の言葉に、私は眉をひそめた。

「……陛下が?」

 私を殺そうとしておいて、生かせと命じる?  
 どういうこと?  
 あの冷たい目で、私を水に沈めた男が──今さら、何を望んでいるの?

 胸の奥に、じわりと黒いものが広がっていく。  
 怒りとも、疑念ともつかない、濁った感情。  
 私は目を閉じ、深く息を吐いた。


 3日が経つと、私はようやくベッドから起き上がれるようになった。  
 けれど、体はまだ重く、足元はふらついた。  
 視界も完全には戻っておらず、少し動くだけで息が上がる。

 医者の数は減らなかった。  
 シングルベッド6つ分ほどの広さしかないこの部屋に、昼夜問わず5人の医者が常駐している。  
 誰かが脈を測り、誰かが記録を取り、誰かが薬の準備をしている。  
 その気配と視線が、私の神経をじわじわと削っていく。

 ──落ち着かない。  
 ここは病室ではなく、監視室だ。

「陛下がいらっしゃいました」

 ローリエの声が響いた瞬間、私は顔をしかめた。  
 この世で1番、見たくない顔。  
 来てほしくなかった。

「見て、わからない? 衰弱してるの、私。頼むから、ゆっくり寝かせて」

 それだけ言って、掛布に潜った。


「すまなかった」

 低く掠れた声が、部屋の静けさを破った。  
 驚いて掛布の隙間から顔を出すと、そこにクラウドが立っていた。

 彼は以前のような威圧感を、纏っていなかった。  
 頬はこけ、碧眼の下には濃い隈が浮かび、唇の色も悪い。  
 心なしか金髪もくたびれている。
 よほど忙しいのだろう。  

「言い訳になるが、脅しただけなんだ。君に、食事を摂ってほしくて。  
 本当に冷水につけるなんて、想像してなかった」

 私はしばらく黙っていた。  
 そして、静かに言った。

「……使用人たちは、あなたの言葉に従っただけです」

「だ、だから、すまなかったと……」

 彼の声は、どこか焦っていた。  
 けれど、私の心には何も響かなかった。

 私は呆れて天井を見上げた。  
 顔を見ると、胃がムカムカする。  
 謝罪の言葉すら、もう聞きたくなかった。

「何でも言うこと聞くから、許してくれないか?」

 その言葉に、私はゆっくりと目を閉じた。  
 そして、静かに、はっきりと告げた。

「なら、出ていって」

 突然、クラウドがベッドに手を伸ばし、私の身体を抱き上げた。  
 驚いて声も出せず、私はそのまま彼の腕の中に収まった。

「ちょ、ちょっと……!」

 抗議の声も虚しく、王は無言で部屋を出ていく。  
 医者たちが慌てて後を追い、メイドも小走りでついてきた。

 連れて行かれた先は、以前の部屋とは比べものにならないほど広い空間だった。  
 シングルベッド6つ分どころではない。3倍はある。  
 壁には繊細な刺繍のタペストリーがかかり、床には厚手の絨毯。  
 暖炉には火が灯され、部屋全体が柔らかな暖かさに包まれていた。  
 調度品もすべて上質で、色調は落ち着いた白と黄。  
 王子時代に婚約者だった頃の部屋を、思い出させるような空間だった。

 クラウドはソファに腰を下ろすと、私を膝の上に乗せた。  
 私は一瞬、何が起きているのかわからず、彼の顔を見つめた。

 けれど、王は何も言わない。  
 そのまま、ただ静かに私を抱えている。

「……何のつもり?」

 ようやく声を絞り出すと、彼は穏やかな声で答えた。

「今日から、ここが君の部屋だ」

「はあ?」

「気に入らなければ、自由に改装していい。こちらで予算を組む」

 私は、しばし言葉を失った。  
 ──なに言ってるの?  
 もしかして、これで償ってるつもり?

「あなたは『何でも言うことを聞く』と言い、私は『出ていって』って言ったの」

 私は彼の腕の中で、睨みつけながら言った。  
 怒りというより、呆れに近い感情が胸を満たしていた。

 けれど、クラウドは平然と答えた。

「あの部屋からは出た」

 私は一瞬、言葉を失った。  
 そして、苛立ちを露にしながら言い返す。

「あなたが『目の前からいなくなって』ってことよ!」

 彼は少しだけ金の眉を上げたが、すぐ真顔に戻る。

「言うことを聞くのは、1日1回。今日の分は、もう聞いた」

 その瞬間、私の中で何かがぷつりと切れた。  
 この男は、やはり──何もわかっていない。  
 謝罪も、優遇も、すべて自分の都合でしかない。

 私は彼の膝の上から降りようと、身を捩った。  
 けれど、彼の腕はそれを許さず、静かに、しかし確かに私を抱き留める。

 カッとなった私は、その美しい顔を思いきり引っ叩いた。  
 乾いた音が、部屋に響き渡る。

 その瞬間、空気が凍りついた。  
 暖炉の火の音さえ、遠くに感じるほどの静寂。  
 医者たちも、メイドたちも、誰1人として動かない。  
 まるで時間が止まったかのように、全員が息を呑んでいた。

 クラウドの顔がゆっくりと横を向き、頬には赤い手形が浮かんでいた。  
 彼の腕の力が、ふっと緩む。

 その隙を逃さず、私は彼の膝から飛び降りた。  
 スリッパも履かず、冷たい床を裸足で駆け抜ける。  
 医者たちが何か叫んでいたが、耳に入らなかった。

 私は元の部屋に戻ると、扉を閉め、内側から鍵をかけた。  
 カチリという音が、やけに大きく響いた。

 背中を扉に預け、息を整える。  
 胸の奥がまだ熱く、手のひらがじんじんと痛んでいた。  
 けれど、その痛みが、今の私をかろうじて支えていた。


 部屋を見渡す。  
 白いカーテンが風に揺れ、薬品の匂いがまだ微かに残っている。  
 壁際には医療器具が雑然と並び、彼らが慌てて出ていったままだ。

 鋭利なもの……あるかもしれない。  
 私は医療器具を探り、小さなメスを見つけた。手のひらに収まるほどの細い刃。  
 頼りないけれど、無いよりはましだ。

 私は、それを下着の内側に隠した。  
 そのとき、扉を叩く音が響いた。

 ──逃げなきゃ。

 窓へ駆け寄り、重たい鍵を外す。  
 庭の芝生を、秋の太陽が照らしている。  
 2階──飛び下りれば、逃げられるかもしれない。

 その瞬間、扉が蹴破られた。  
 木片が飛び散り、重い足音とともに、あの男が現れる。

 顔を見た瞬間、私は叫んでいた。

「来ないで!」

 私は窓の手摺に足をかけ、身を乗り出す。  
 冷たい風が頬を撫で、足元の空間がぐらりと揺れた。

 クラウドの動きがピタリと止まる。  
 その碧眼に、初めて見る焦りの色が浮かんだ。

「落ち着いて……こちらへ」

「あなたが何の理由で、私を憎んでいるか知らない。けど、だったら私の首をあげるから、それで終わらせて。家族は見逃して」

 私は毅然と言い放った。
 これ以上、好きにはさせない。

「……僕は君の死を望んでない」

 捨て犬のようなか細い声で、王が応答した。

「望んでるようにしか見えない。実際、望んでるのよ! 自覚がないだけで、心の底では!」

「やめろ! そんなこと思ってない!」

「私を辱しめ、虐げ、侮辱し尽くした上に殺そうとしておいて、死を望んでない?  
 だったら何が望みなの?  
 あなたがどう思おうと、どうしようと、私は死ぬと決めたら死ぬわよ。  
 あなたなんかに触れられるくらいなら、夫に操を立てた方がマシ!」

 私の叫びが響いた瞬間、クラウドは膝から崩れ落ちた。  
 白と金と青で織られた完璧な王の衣が、冷たい床に触れ汚れていく。  
 それでも彼は、何も言わなかった。  
 俯いたまま、動かない。

 この人は──いつから、こんなに話が通じなくなったのか。

 思い返す。  
 あれは、結婚式が3ヶ月後に迫った頃。  
 それまでの彼は、誠実で、優しくて、私の話に耳を傾けてくれる人だった。  

 けれど、ある日を境に壊れた。
 突如、公然と不貞を始めた。  
 しかも相手は1人ではない。  
 至るところで女を抱き「やはり放蕩な血が」と陰口を叩かれても、何のその。  
 まるで、すべてを壊すことに意味があるかのように。

 そして、結婚式は一方的に延期された。  
 父は、私の名誉を守るために、婚約破棄の手続きを進めた。

 それ以来、クラウドとはまともに口をきくことなく5年が過ぎた。

 私にはオルガがいる。  
 彼には、正室の他に11人の妾。  

 今さら、私に何の用?  

 ……それとも。  
 彼が壊れたのは、私のせいなのだろうか。  
 私が何かを壊したから、彼はああなった?  
 そして今、これはその“復讐”なのだろうか。

 ──冗談じゃない。

 私は、王位継承者の婚約者として、すべてに耐えてきた。  
 王位教育に修業し、公務にも政務にも身を投じ、誰よりも誠実に、責務を全うしてきた。

 それを裏切ったのは、彼だ。  
 不満があるなら、話し合えば良かったのだ。
 今の彼は、単なる加害者だ。

 私は、ふうっと息を吐いた。  
 胸の奥に溜まっていたものを、少しだけ外に流すように。

 机の引き出しを開け、便箋とペンを取り出す。  
 白い紙の上に、サラサラと文字を走らせた。  
 迷いはなかった。  
 言葉はすでに、心の中で何度も繰り返していたものだった。

 書き終えると、便箋を丁寧に3つ折りにし、封筒に入れる。  
 封をして、私はそれをクラウドに差し出した。

 彼は、訝しげに私を見る。  

「父に手紙を書きました。  
『私の不徳の致すところにより、斬首もしくは自害せざるを得なくなった。  
 表向きは病死ということにして貰えるはずだから、話を合わせるように』と」

 私は封筒を彼の肩に突きつけた。  
 その瞬間、青い瞳から、ぽろりと涙がこぼれ落ちた。

 一瞬、ぎょっとした。  
 けれど、すぐに思い返す。

 泣きたいのは、私の方だ。  
 何もかもを奪われ、踏みにじられ、それでも立っているのは私だ。  
 涙を流す資格があるのは、私の方だ──と。

 クラウドは、服の袖で涙を拭った。  
 そして、私が差し出した封筒を、無言で受け取り──破いた。  
 ビリ、と紙が裂ける音が、やけに大きく響いた。

 私は唖然とした。  
 出遅れた。  
 その一瞬の隙を突かれ、腕を掴まれる。

「離し──」

「窓に格子のついてる部屋へ入れて、監禁しろ。  
 1秒たりとも目を離すな。  
 食事を拒否したら胃に直接、流動食を送れ」

 その声は、涙を流していた男のものとは思えないほど冷たかった。  
 命令を受けた兵士たちが、すぐに動き出す。

 私は、またしても自由を奪われた。  
 今度は、死ぬことすら許されない檻の中へ──。



「……何してるの?」

 私は低く問いかけた。  
 クラウドが私の上に覆い被さり、無言で寝間着の襟元に手をかけていた。  
 患者服が、彼の指先で僅かにずれる。
 使用人の仕置き部屋に入れられて、2週間。
 体調は回復したが、外の景色は格子越しにしか見れず、廊下にすら出して貰えない。

「これから子作りする」

 その言葉に、私は目を瞬いた。  
 怒りでも恐怖でもない。  
 ただ、冷たい水を浴びせるような声で答えた。

「残念だけど、子供はできないわ」

 彼の手が止まる。  
 青い瞳が、わずかに揺れた。

「2人も産んでおいて、不妊など──」

「違う。年子だったから、次は間を開けてということになって、長期的に効く避妊薬を飲んだの。  
 だから、今はできない。何度試しても、無駄よ」

 私は彼を、まっすぐに見返した。  

 すると──バンッ!

 顔のすぐ横に、クラウドの手が叩きつけられた。  
 風圧で髪が揺れ、心臓が跳ねる。
 彼の手の部分だけ、マットが深く沈む。

「君が飲んだのか? あの男じゃなくて」

 青い瞳が、怒りと混乱に濁っている。  

「そうだけど?」

「どれだけ避妊薬が体に悪いか、知ってるのか!」

 怒鳴り声というより、叫びに近かった。  
 私は一瞬、言葉を失う。

「それは……でも……」

 彼の剥き出しの怒りに、言葉が詰まる。

「くそ、殺してやる! フェルゼンめ!」

 その名が出た瞬間、私は目を見開いた。  
 彼の怒りの矛先が、私ではなく、オルガに向いている。

 クラウドが怒りに任せて部屋を出ようとしたその瞬間、私は思わず彼の背中に飛びついた。  
 腕を伸ばし、彼の肩にしがみつく。

「待って! 何する気? やめて!」

 彼の背中が震える。  
 振り返ったその顔は、怒りと悲しみと、何か別の感情でぐちゃぐちゃだった。

「君は! まだ、あの男を愛してるのか? !
 簡単に君を差し出した、不甲斐ない男を!」

「それ、は……そうは言っても、王命は拒否できないでしょ!」

 私は必死に言葉を絞り出す。  
 夫だって苦しんだだろう。
 手紙では保身しか見えなかったが。  
 でも、それを言えば、クラウドはきっと聞かない。

「その王命を回避するために、知恵を絞る努力すらしないのだぞ? なぜ庇う?」

「子供たちの父親だからよ!」

 その言葉が、空気を裂いた。  
 クラウドの動きが止まる。  
 ふと見れば、彼の拳が震えていた。  
 何かを堪えるように、指先まで力がこもっている。

 これは──

「……あの、どうして私を追い詰めながら、私の健康を心配するの?」

 思わず、口をついて出た言葉だった。  
 彼は、ハッとしたように私を見下ろす。

「あなた……働きすぎて、ノイローゼなんじゃない?  
 政務を手伝って欲しいの? もしかして」

 クラウドの金の眉がわずかに動いた。  
 困惑と戸惑いが入り混じった表情で、私を見つめる。

「……できそうか?」

 その声は、あまりにも素直で、あまりにも弱かった。  

 やっぱり──手伝って欲しかったんだ。

「5年離れてたから、すぐ元通りにはならないけど…… 。
 学びながらやれば、何とかなると思う」

 クラウドの肩が、ほんの少しだけ、落ちた。  
 それは、安堵か、諦めか、それとも──希望か。  
 私には、まだわからなかった。  








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