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しおりを挟むクラウドが廊下に出て、何かを押して戻ってきた。
──車椅子だ。
「ここに乗って」
「な、何で?」
思わず声が裏返る。
彼は真顔のまま、私を見下ろして言った。
「僕に触られたくないんだろ?
拒否するなら、抱きかかえていく」
私は、ぐっと言葉を飲み込んだ。
そして、しぶしぶ車椅子に座る。
座面は思ったより柔らかく、ひんやりしていた。
クラウドは無言で車椅子を押し、廊下を進む。
すれ違う人が皆、驚いた顔をする。
「恥ずかしいから、やめて……」
「衰弱してるのだから、介護が必要だろう?」
その言い方があまりに真面目で、私は返す言葉を失った。
扉を抜け、庭へと出る。
晩秋の空気が頬を撫で、草の匂いが鼻をくすぐった。
木々は赤や黄に染まり、落ち葉が石畳に散っている。
遠くで噴水の音がかすかに聞こえ、空は高く澄んでいた。
後宮へ入れられて1カ月半、初めて建物の外へ出た。
やがて、庭の端に繋がれていた馬の前で、彼は車椅子を止めた。
そして、私をひょいと抱き上げ、鞍の上に乗せる。
「ちょ、ちょっと! あの、病み上がりなんだけど!?」
「大袈裟と言ったり、病み上がりと言ったり、どっちなんだ」
呆れたように言われ、私は唇を噛んだ。
「……普通に過ごさせて欲しかったの」
その一言だけが、ぽつりとこぼれた。
クラウドは何も言わず、後ろに乗って馬を進めた。
不器用に、でも確かに──私を気遣っていた。
馬はゆっくりと森の入り口へと進んでいく。
木々はすでに葉を落とし始め、枝の隙間から差し込む光が、地面にまだらな模様を描いていた。
落ち葉を踏む音が、静かな森に心地よく響く。
「うわ~、懐かしい!」
思わず声が漏れた。
「子供の頃、脱走してここへ来ては叱られたの。
王妃教育が嫌で、ここに逃げ込んで──」
はっとして、口を噤んだ。
つい、はしゃいでしまった。
クラウドは、声をあげて笑った。
その笑い声は、森の奥へと軽やかに響いていく。
「笑い方を忘れたのかと思ってたわ」
「……誰のせいで」
王は手綱を掴んだまま、ポツリと呟いた。
「え?」
「何でもない」
金髪を緩く揺らして、首を振った。
私のクリーム色の髪とそれは似てるけど、こんな風に輝きはしない。
そのとき、茂みがガサリと揺れた。
黒い影が飛び出し、低く唸る。
獣──大きな灰色の狼だった。
クラウドは即座に馬から飛び降り、腰の剣を抜く。
鋭い金属音が森に響き、白いマントが風を切る。
狼は一瞬ひるみ、そして逃げていった。
「大丈夫か? 怪我は?」
「何ともない。平気。ありがとう。……あなたは?」
「ああ……何ともない」
彼の肩が、わずかに上下していた。
それでも、剣を納める手は確かだった。
王が馬上に戻ろうとした、その時──
私はふと、木陰に浮かぶ淡い光に目を奪われた。
「あれ……」
小さな蝶。
翅が淡く光り、まるで月のかけらのように宙を舞っている。
その幻想的な姿に見とれていると、クラウドの顔色が変わった。
青ざめた彼が、私の腕を掴む。
「今、見たものは──誰にも言うな」
「……何か知ってるの?」
答えは返って来なかった。
ただ、蝶を見つめる青い瞳に、深い恐れが宿っていた。
最初に宛がわれた後宮の簡素な部屋で、大量の書類を捌いていた。
ドアは修理され、窓には落下防止の柵が取り付けられていた。
絶食と冷水の影響はなくなったが、過労になりそうだ。
王の情緒不安定は、仕事が追い付かないことにあったのだろうか。
意識を取り戻したあと連れていかれた広い部屋は、婚約者時代を思い出すので拒否した。
そもそも、あれは殺人未遂に対する償いなのだから、受け取ると許したことになる。
クラウドが入ってきて言った。
相変わらず白い準礼服ばかり着ている。
似合うから良いのだけど、白と黄は私の好きな色なのだ。
このままでは、嫌いになってしまいそう。
「今度、ラウザール国から大使が来る」
「ついに貿易することに?」
「まだ、わからない。それについて1週間後、会議がある。
そこに君を出席させるから、準備しておくように」
「え? 公妾でもないのに、会議?」
「君は語学に明るく、外交が得意だろう。
王妃は社交界を牛耳るのに夢中で、まともに公務をしない。
妾たちは、教養も身分も足りない。
1人、伯爵夫人がいるが、子供を産ませるために囲っているだけだ。国政に口出しさせるつもりはない」
王夫婦に子供はいない。
伯爵夫人は、跡継ぎを産むのに“適している”として、連れてこられたのだろう。
私が王と褥を共にしたことは、1度もない。
あのとき子作りをしようとしたのは、妊娠すれば自殺しないと踏んだからだろう。
どうやら彼は、私に仕事をさせるために妾にしたようだ。
女性の議員はいないので、国政の参加させたければ王が身内にするしかない。
──そして、1週間後。
長机には羊皮紙とインク壺、地図が広げられ、窓の外には城下の屋根が連なって見えた。
貴族たちはそれぞれの家紋をあしらった緋色や深緑の衣をまとい、金糸の刺繍が光を拾っている。
私はクリーム色の髪を纏め、簡素な黒のドレスに白い襟を合わせた装いで、異質な存在のまま席に着いた。
議題は、ラウザール国との関係について。
「ラウザール国は未発達な国です」
ローデリヒ侯爵が言った。
白髪を後ろで束ね、銀の眼鏡をかけた男だ。
「対等に取引するのではなく、植民地にするべきでしょう」
多くの参加者が頷いた。
私は、静かに手を挙げた。
「お待ちください。
戦に発展した場合、距離が遠く、国民の負担は計り知れません。
友好国として、貿易に関する内容を含めた条約を結ぶべきです」
ざわめきが広がる。
そして、誰かが吐き捨てるように言った。
「たかが愛妾のくせに、しゃしゃり出て」
私は、その声の主を見据えた。
エルマー子爵だった。まだ30代で、派手な金糸の外套を羽織っている。
「あなたは私の議案に、いつも賛成していたではありませんか」
彼は私がクラウドの婚約者だった頃、常に愛想よく私を支持していた。
「それはフェルゼン子爵夫人が、未来の王妃になると思ってたからだ」
「相手の身分によって意見を変える者が、国政会議に出席すべきでしょうか」
「何だと──!」
エルマーが立ち上がりかけた、その時。
「その通りだ」
国王の声が、会議室を静めた。
クラウドはゆっくりと立ち上がり、エルマーを見据える。
「エルマー子爵は今後、政への口出しを禁ずる」
空気が凍りついた。
エルマーが抗議しようとするが、護衛兵に摘まみ出されて行った。
会議のあと、私室に戻って間もなく、扉の向こうから足音が近づいてきた。
ノックもなく、扉が開く。
クラウドだった。
白と金の軍装のまま、肩にかかるマントを翻し、上機嫌な顔で入ってくる。
青い瞳が珍しく柔らかく、口元にはうっすらと笑みが浮かんでいた。
私が死にかけた時の窶れはとれ、元の美貌を輝かせている。
「良くやった。褒美をとらす」
私は書類から顔を上げた。
「良くって……これからが大変よ?」
貴族たちは、王の圧で黙ってるだけ。
私の存在なんて、疎ましいに決まってる。
何かしらを仕掛けてくる可能性があった。
「そのくらい、わかっている」
クラウドは窓辺に立ち、外を見ながら答えた。
陽光が金髪に差し込み、豪奢なサファイアがきらりと光る。
「若い王って、大変ね」
「父上も、今の歳には即位していた」
「まあね……」
代々の王については当然、学んでいる。
「褒美は何がいい」
「子供に会わせて」
その瞬間、クラウドの表情がスンと消え失せた。
目を逸らし、わずかに口元を引き結ぶ。
「……いいだろう。1日やる」
「いえ、あの、領地に戻るのに3日かかるんですけど」
「子供をタウンハウスに置けばいいだろう」
「タウンハウス持ってない」
「は?」
「しがない弱小貴族だもの」
クラウドはしばし黙り、そして短く言った。
「……しばし待つように」
踵を返し、マントを翻して出ていった。
数日後、私は馬車を降りて、目の前の建物を見上げた。
「ここ……本当に貰っていいの?」
白い石造りの外壁に、蔦が絡まり、バルコニーには花が咲いている。
噴水のある中庭、広々とした玄関ホール、そして高い天井に吊るされたシャンデリア。
まさに“豪邸”だった。
「もう使わないから」
クラウドは無造作に言った。
「勿体ない。前は誰が住んでたの?」
「高級娼婦を囲うのに使ってたんだ」
「……」
「シーツは洗濯してある」
「当たり前でしょうよ。
その人は、どこに行ったの?」
「男爵令息と駆け落ちした」
「わー……えっと……」
私は言葉に詰まる。
でも、ふと思い出して、口を開いた。
「でも私を召し上げるのに、税を1年免除にしたのに……家まで貰うと、気が引けるわ」
フェルゼン子爵領からの上納を、王は1年分免除していた。
小さな土地とはいえ、かなりの額だ。
それは、私を妾に差し出した見返りだった。
「なら、売却して買い直せばいい。ここは、もう君のだ。好きにしろ」
そう言って、クラウドは秘書官に目配せする。
秘書官が恭しく差し出したのは、金の封蝋が押された分厚い書類だった。
「こちらが権利書です」
私はそれを受け取りながら、胸の奥に小さな波紋が広がるのを感じていた。
馬車の窓から見える街路樹は、すでに葉を落とし、黒い枝が空を引っかいていた。
車内には暖かな毛布が敷かれ、揺れるランタンの灯りが揺らめいている。
「ねえ、あの家……どうして、もう使わないの?
また高級娼婦にハマるかもよ?」
私が軽口を叩くと、クラウドは金の眉をひそめた。
「君は、悪い癖が直らないんだな」
「って言われたの。どう思う?」
私は先程、馬車の中で交わした会話を、メイドのローリエに伝えた。
実家から運んで貰った鏡台の前で、私の髪をほどく彼女は、緑色の髪を三つ編みにまとめたている。
「恐れながら……」
「言ってちょうだい」
「『子供に会わせて』と仰った時も、ヒヤヒヤしました」
「どうして?」
「陛下の顔を……ご覧にならなかったのですか?」
「見たわ。急に真顔になって」
「わかってるのですね」
「どういうこと?」
ローリエは少しだけ視線を伏せ、言葉を選ぶように口を開いた。
「……陛下も、関係が構築された後なら、お子様と自由に会わせてくださるはずです。
今は、まだ時期尚早というか……」
「ハッキリ言ってよ」
「私は第3公妾のメイドだったのです。
第3公妾ノルン男爵令嬢は、16歳で献上されてきました。
陛下が『子供は20歳になってから作ろう』と仰ったのに、彼女は『早く欲しい』と粘って……見捨てられました。
ノルン男爵令嬢は陛下の気を引くために絶食しましたが、実家に戻されそうになり断念したのです。
フェルゼン子爵夫人のように付きっきりで看病など……」
「陛下は私を政治利用したいから、死なれては困るのよ」
「違います。王妃陛下にも、公妾にもカヴァネスを付けず放置しているのです。
つまり、それは……子爵夫人に妃のポジションを与えるためでは」
「ちょっと待って。私は彼の浮気で婚約破棄したのに、今更そんな……」
「放蕩な血を、抑え切れなかったのでしょう」
放蕩な血──
ヴァルレイン王家は代々、女好きで有名だ。
先代は後宮に100名以上の美人を抱えても足りず、城下町へ繰り出しては手当たり次第に女を漁り、“会える王様”と揶揄されていた。
クラウドは、妾が11人。私を入れても12人。
それでも、歴代最小規模なのだ。
「それは……でも……どうして私なの?」
「愛してるからです」
「まさか……」
その夜、私は悶々として眠れなかった。
月明かりは静かに揺れ、部屋は静まり返っている。
そのとき、扉がノックもなく開いた。
クラウドだった。
金の刺繍が入ったガウン姿のまま、無言で入ってくる。
唯一のメイドは既に下がっているので、取り次ぐ人間がいない。
「ねえ、あなたって……私のことが好きなの?」
「はあ?」
彼は金の眉を歪め、私を凝視する。
「やっぱり違うよね。ごめんなさい。気にしないで。
メイドに変なこと言われたものだから」
私は視線を逸らし、毛布を引き寄せた。
「……君は、僕を苛立たせる天才だ」
「なら、どうして王命で妾にしたの?
互いに憎しみ合っても、仕方ないじゃない。
前にも言ったけど、首をあげるから、それで終わらせてちょうだい」
クラウドは何も言わなかった。
ただ、しばらく私を見つめたあと、くるりと背を向けて、静かに部屋を出ていった。
扉が閉まる音が、やけに遠く感じられた。
私は毛布を抱きしめたまま、目を閉じた。
眠れそうにない夜が、またひとつ、始まった。
12月になり、ラウザール国からの貴賓が到着したその日、王宮はいつにも増して華やかだった。
ラウザール国は温暖なので、民は冬でも移動する癖がついている。
大理石の床は磨き上げられ、天井から吊るされた巨大なシャンデリアが、無数の光を反射して会場を照らしている。
壁には金糸のタペストリーがかけられ、各国の紋章が誇らしげに並んでいた。
長く伸びた晩餐のテーブルには、銀の燭台と季節の花が飾られ、香ばしい料理の匂いが漂っていた。
私は、外交員として広間にいた。
クリーム色の髪を夜会巻きにまとめ、エメラルドの瞳に合わせた深緑のドレスを身にまとって。
妾ではない。あくまで、王命による外交の任を帯びた者として。
やがて、クラウド・ヴァルレイン王が入場した。
金髪に碧眼、白い軍装に金の刺繍が映える。
その隣には、王妃ベラゾーマ。
シルバーブロンドの髪をゆるく巻き、血のように赤い瞳を細めて、完璧な笑みを浮かべていた。
その笑みは、まるで仮面のように一切崩れず、食事の間中、ずっと貼りついたままだった。
ラウザール国の大使は、オレンジの民族衣装に身を包み、朗らかな口調で自国の特産品を紹介していた。
香辛料、絹織物、そして──大豆。
「大豆は、我が大陸では育たないのです。土壌が違うようで」
私がそう言うと、大使は目を輝かせて応じた。
「我が国を通して、ロロノア国から輸入できるようにしましょう」
「そうしていただけると、ありがたいですわ。
大豆は栄養価が高く、料理の幅も広い。保存も利くし、飢餓対策にも使えるもの」
その瞬間、王妃の赤い瞳がわずかに細まり、私を一瞥した。
笑顔はそのままだったが、視線には冷たい棘があった。
その夜、私は部屋で待っていた。
王が外交の件で何か言いに来るだろうと、そう思っていた。
けれど、扉は1度も開かなかった。
2週間後、見送りのパーティーが開かれた。
王宮の大広間は再び華やかに飾られ、今度は舞踏会の装いで賓客を迎えていた。
私は控え室で、久しぶりに夫と顔を合わせた。
紺色の髪を後ろに撫で付け、軍服に身を包んだ長身の彼は、まるで何事もなかったかのように私に話しかけてきた。
その態度に、私は思わず眉をひそめる。
私の訝しげな視線に、彼は観念したように息を吐いた。
「……俺だって辛いんだ。
シンシアばかり、辛気臭い顔しないでくれ」
その言葉に、私は何も返せなかった。
返せる言葉が、見つからない。
舞踏会が始まり、王と王妃が先陣を切って踊り始めた。
クラウドは王妃の手を取り、完璧なステップで舞い、ラウザールの大使とそのパートナーが続く。
やがて、他の貴族たちも次々と踊りの輪に加わっていった。
クラウドは王妃の後、公妾たちと順番に踊った。
だが、私の前には来なかった。
音楽が終わった。
夫は踊り終えると、私の元には戻らず、どこかへ消えた。
「惨めねえ」
背後から、冷たい声がした。
振り返ると、ローデリヒ侯爵令嬢が、赤いドレスに身を包み、扇子を口元に当てて立っていた。
その目は、勝ち誇ったように細められている。
「まったく愛されてない第3公妾まで踊って貰えたのに、王妃になるはずだったあなたが見向きもされないなんて」
私は微笑み、静かに言った。
「そう思うのなら、あなたのお父様から口添えしてもらえないかしら。私を領地に戻すように」
「なんと不敬な!」
「その代わり、私からも陛下に進言するわ。
あなたを後宮へ召し上げるようにって」
ローデリヒ侯爵令嬢は扇子を閉じ、目を細めた。
「……考えておきましょう」
その声には、ほんの少し期待が滲んでいた。
パーティーが終わり、王宮の灯がひとつ、またひとつと落ちていく。
石畳の回廊に、冬の夜気が忍び込んでいた。
オルガは、黒い外套を羽織り、馬車の前で私に軽く頭を下げた。
「それじゃあ、また」
その言葉に、私は思わず声をかけていた。
「待って。いつになったら、子供達を王都に連れてきてくれるの?」
私は幾度となく「子供に会わせて欲しい」と手紙を書いたが、実現していない。
オルガは紺の眉をひそめ、少しだけ顔を背けた。
「まだ小さいのに、3日も馬車に乗せろと?」
「それは……」
言葉に詰まる。
確かに、2歳と4歳の子供に長距離の馬車移動は酷だ。
「子供だけじゃない。乳母や侍女、護衛兵士も移動するんだぞ?
君の我儘で振り回さないでくれ」
その言葉に、胸が締めつけられた。
母親が幼い我が子に会いたいと願うことは、我儘なのだろうか。
後宮へ来て、もうすぐ4ヶ月が経とうとしていた。
王が怒って部屋を出ていって以来、執務の書類も回ってこなくなり、私はただ放置されていた。
部屋の外に出るのも気が引けたが、何もすることがない。
仕方なく、重いマントを羽織って、庭を歩くことにした。
冬の庭は静かだった。
枯れたバラの枝が風に揺れ、噴水は凍りかけていた。
その中に、ひときわ鮮やかな赤いマントが目に入った。
第3公妾リアーナ・カシ・ノルン男爵令嬢。
赤い癖毛を揺らしながら、ベンチに腰かけていた。
私が挨拶すると、彼女はちらりとこちらを見て、微笑んだ。
「あなた"も"することがないの?」
「ええ……できれば自宅に戻って、家政をしたいのですが……。我が領地は発展途上で、人材も少ないので」
リアーナは首をかしげた。
「王の寵愛を得る努力をするのが、ここにいる者たちの務めなのに?」
「それは……申し訳ありません」
「王に対して、不敬が過ぎるのではなくて?
パーティーの時も、ローデリヒ侯爵令嬢とのやり取りを見ていたわ。
その前にも、騒ぎを起こしたそうね。
過去に陛下の婚約者だったとしても、今は単なる子爵夫人に過ぎないのよ?」
私は唇を噛んだ。
彼女の言うことは正論だった。
散歩がいやになり、部屋へ戻る。
窓の外は雪がちらつき始めていた。
私はマントを脱ぎ、椅子に沈み込んで、深いため息をついた。
そのとき、扉がノックされた。
「失礼します。陛下から言付けです」
伝令の青年が、丁寧に頭を下げる。
「ラウザール国の大使が『フェルゼン子爵夫人を外交官として、今後の取引を仕切ってほしい』と──そう仰せです」
私は驚きに目を見開いた。
すぐに姿勢を正し、静かに頷いた。
「わかりました。では、今回の御礼を兼ねて、手紙を書きます」
伝令が去ったあと、私は机に向かい、インク壺の蓋を開けた。
久しぶりに、指先に力が戻るのを感じた。
まだ終わっていない。
私には、やるべきことがある──そう思えた瞬間だった。
手紙を書き終え、インクを乾かしながら私はメイドに声をかけた。
「図書室に行きたいのだけれど」
ローリエは一瞬、紅茶を片付ける手を止めた。
「必要な本は、私が取ってまいります」
「いえ、自分で選びたいのだけど」
彼女は困ったように緑の眉をひそめた。
「それは……あまり……部屋から、お出にならないほうが宜しいかと」
「……? だけど、外交するのに知識が必要でしょう?
王妃教育は受けてたけど、5年も前のことだもの」
図書室は、王宮の西翼にある。
高い天井とアーチ型の窓、壁一面を覆う書架には、革装丁の書物がぎっしりと並んでいた。
赤い絨毯が足音を吸い込み、ステンドグラスから差し込む光が、床に色とりどりの影を落としている。
私は扉に手をかけた──その時、中から話し声が聞こえた。
隙間から、そっと覗く。
「君は本当に勉強熱心だね」
クラウドだった。
向かい合っていたのは、ケイト・ド・ラマルシュ伯爵夫人──第1公妾。
ライトブラウンの髪をゆるく結い、鼈甲色の瞳が艶やかに笑っている。
「だって陛下、私にカヴァネスをつけてくださらないんですもの」
「君は子供を2人産んでるじゃないか。子育てに専念して欲しいんだ」
「乳母たちが優秀なので、することがありません」
「では、僕を構ってもらおうか」
2人の唇が重なる。
そして、くすくすと笑い合う。
「ここでそんな、はしたないことを」
「こうされたくて誘ったんだろう? 僕に『図書室に行こう』だなんて」
「陛下は何でも、お見通しなのですね」
「君のように、僕を素直に求めてくれる女性は可愛いよ」
また顔を近付ける。
私はそっと踵を返し、何も見なかったふりをして廊下を歩き出した。
その途中、すれ違った侍女たちが、ひそひそと囁く。
「新しい愛妾は、未だに初夜を迎えてないんですって」
「何のために来たのかしらね」
私は何も言わず、ただ歩いた。
足音が、深紅の絨毯に吸い取られていった。
その日の午後、私は第3公妾──リアーナ・カシ・ノルン男爵令嬢の部屋を訪ねた。
赤いカーテンに囲まれた部屋は、スパイシーな香水を振り撒いたみたいだった。
「昨日の今日で、何の用?」
「秘密の話をしたく。お人払いを」
リアーナは扇子を閉じ、私を見つめた。
「聞く価値あるの?」
「聞いてくださらないなら、他へ持っていきます。
お時間を取らせて、申し訳ありませんでした」
私が踵を返しかけた時、彼女が声をかけた。
「待って。聞くだけ聞いてあげる。
──下がりなさい」
侍女たちが部屋を出ていくと、私は静かに切り出した。
「取引をしていただきたいのです」
それからわずか1ヶ月。
リアーナは、私の従弟に嫁ぐことが決まった。
あっという間の縁談だった。
「まさか、1ヶ月で下賜されるなんて思わなかったわ」
私は、暖炉の前で紅茶を口にしながら呟いた。
ローリエが答える。
「陛下は、第3公妾を持て余してらしたのでしょう。これ幸い、と思われたのかと」
「……なんだか、不憫ね」
「陛下は、あの美貌で女性に不自由していませんから。若い令嬢は、面倒でしかなかったのでしょう」
私はカップを置き、窓の外を見つめた。
雪が静かに降り始めていた。
王から与えられた豪邸を売却し、私は新たなタウンハウスを探していた。
業者の助言を受けながら、不動産をいくつか見て回る。
その帰り道──
視界が暗転したのは、路地を曲がった瞬間だった。
背後から布を被せられ、腕を強く引かれる。
声を上げる間もなく私は、広い肩に担がれ連れ去られた。
早馬を乗り継ぎ、丸1日。
止まることなく走り続け、やがて見慣れた風景が窓の外に広がった。
フェルゼン子爵領──私の婚家。
私は盗賊に扮した傭兵達に、礼金を渡した。
そして平民の粗末な服にフードを深く被って、フェルゼン子爵邸の裏門へと向かった。
門番に顔を見せると、彼は目を見開き言葉を失った。
「……お、奥様……?」
「静かに。誰にも知らせないで。子供たちに会わせて」
門番はコクコク頷く。
──やっと子供達に会える!
屋敷の中は、かつての面影を残しながらも、どこか空気が違っていた。
私は迷わず子供部屋へ向かう。
扉を開けた瞬間、胸が凍りついた。
派手な化粧をした女が、私の娘の手から玩具を取り上げ泣かせていた。
年齢は夫と同じ30前後だろう。
上の息子は隅で、怯えた目をしている。
「何をしているの?!」
私は駆け寄り、子供たちを抱きしめた。
まだ4歳と2歳。小さな体が震えていた。
「何なの、このブス。新しい乳母? クビよ、クビ」
女が悪態をついてきた。
「あなたこそ、誰なの? 私は、この子たちの母親よ!」
「はあ? この子らの母親は、王の妾になったのよ。
王に婚約破棄されたのに追い縋って、強引に妾の末端に入れてもらったんだって」
「……何ですって? そんなこと、誰が言ったの?」
「誰って、オルガに決まってるでしょ」
夫の名を聞いた瞬間、私は言葉を失った。
胸の奥が、ぐらりと揺れる。
頭を押さえたそのとき、廊下から足音が響いた。
扉が開き、オルガが現れた。
私の姿を見て、すぐに状況を察したようだった。
「脱走したのか? 後宮を」
「そうよ。それより──これは、どういうこと?
この女は誰? 私の子供に危害を加えてたけど?」
「そんなこと、どうだっていい! 何てことしてくれたんだ?! 自分が何したのか、わかってるのか!」
「答えて」
私は有無言わせぬ強い口調で命じた。
「……彼女は、この家の新しい女主人だ。
子供たちは、貴様が王の妾であるうちは生かしておくつもりだったが……。今や、謀反人の子だ」
その言葉に、私は全身の血が凍るのを感じた。
そして、止める間もなく抜刀したオルガは、2人の子供を斬りつけた。
私は子供たちにすがりつき、叫んだ。
「退け。これ(子供達)は、王への詫びに使う」
使用人たちが私を引き剥がし、子供たちを連れ去っていく。
「やめて! お願い、やめて!! 早く医者を!」
私は泣き叫び、もがいた。
けれど、手足を縛られ、口を塞がれ、馬車へと押し込まれた。
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ギルベアト帝国。
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皇帝の命令で魔女を捕らえる動きが活発になっていく中、エミル王国との戦争が勃発。そしてウィノラが娼館に隠された秘密が明らかとなっていく。
ヒュー娼館の人々
ウィノラ(娼館で育った第四皇女)
アデリータ(女将、ウィノラの育ての親)
マイノ(アデリータの弟で護衛長)
ディアンヌ、ロラ(娼婦)
デルマ、イリーゼ(高級娼婦)
皇宮の人々
ライナー・フックス(公爵家嫡男)
バラード・クラウゼ(伯爵、ライナーの友人、デルマの恋人)
ルシャード・ツーファール(ギルベアト皇帝)
ガリオン・ツーファール(第一皇子、アイテル軍団の第一師団団長)
リーヴィス・ツーファール(第三皇子、騎士団所属)
オーティス・ツーファール(第四皇子、幻の皇女の弟)
エデル・ツーファール(第五皇子、幻の皇女の弟)
セリア・エミル(第二皇女、現エミル王国王妃)
ローデリカ・ツーファール(第三皇女、ガリオンの妹、死亡)
幻の皇女(第四皇女、死産?)
アナイス・ツーファール(第五皇女、ライナーの婚約者候補)
ロタリオ(ライナーの従者)
ウィリアム(伯爵家三男、アイテル軍団の第一師団副団長)
レナード・ハーン(子爵令息)
リナ(第二側妃、幻の皇女の母。魔女)
ローザ(リナの侍女、魔女)
※フェッチ
力ある魔女の力が具現化したもの。その形は様々で魔女の性格や能力によって変化する。生き物のように視えていても力が形を成したもの。魔女が死亡、もしくは能力を失った時点で消滅する。
ある程度の力がある者達にしかフェッチは視えず、それ以外では気配や感覚でのみ感じる者もいる。
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