放蕩な血

星森

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 クラウドが廊下に出て、何かを押して戻ってきた。  
 ──車椅子だ。

「ここに乗って」

「な、何で?」

 思わず声が裏返る。  
 彼は真顔のまま、私を見下ろして言った。

「僕に触られたくないんだろ?  
 拒否するなら、抱きかかえていく」

 私は、ぐっと言葉を飲み込んだ。  
 そして、しぶしぶ車椅子に座る。  
 座面は思ったより柔らかく、ひんやりしていた。

 クラウドは無言で車椅子を押し、廊下を進む。  
 すれ違う人が皆、驚いた顔をする。

「恥ずかしいから、やめて……」

「衰弱してるのだから、介護が必要だろう?」

 その言い方があまりに真面目で、私は返す言葉を失った。

 扉を抜け、庭へと出る。
 晩秋の空気が頬を撫で、草の匂いが鼻をくすぐった。 
 木々は赤や黄に染まり、落ち葉が石畳に散っている。
  遠くで噴水の音がかすかに聞こえ、空は高く澄んでいた。
 後宮へ入れられて1カ月半、初めて建物の外へ出た。


 やがて、庭の端に繋がれていた馬の前で、彼は車椅子を止めた。  
 そして、私をひょいと抱き上げ、鞍の上に乗せる。

「ちょ、ちょっと! あの、病み上がりなんだけど!?」

「大袈裟と言ったり、病み上がりと言ったり、どっちなんだ」

 呆れたように言われ、私は唇を噛んだ。  

「……普通に過ごさせて欲しかったの」

 その一言だけが、ぽつりとこぼれた。  
 クラウドは何も言わず、後ろに乗って馬を進めた。  
 不器用に、でも確かに──私を気遣っていた。  


 馬はゆっくりと森の入り口へと進んでいく。  
 木々はすでに葉を落とし始め、枝の隙間から差し込む光が、地面にまだらな模様を描いていた。  
 落ち葉を踏む音が、静かな森に心地よく響く。

「うわ~、懐かしい!」

 思わず声が漏れた。

「子供の頃、脱走してここへ来ては叱られたの。  
 王妃教育が嫌で、ここに逃げ込んで──」

 はっとして、口を噤んだ。  
 つい、はしゃいでしまった。

 クラウドは、声をあげて笑った。  
 その笑い声は、森の奥へと軽やかに響いていく。

「笑い方を忘れたのかと思ってたわ」

「……誰のせいで」

 王は手綱を掴んだまま、ポツリと呟いた。

「え?」

「何でもない」

 金髪を緩く揺らして、首を振った。
 私のクリーム色の髪とそれは似てるけど、こんな風に輝きはしない。

 そのとき、茂みがガサリと揺れた。  
 黒い影が飛び出し、低く唸る。

 獣──大きな灰色の狼だった。

 クラウドは即座に馬から飛び降り、腰の剣を抜く。  
 鋭い金属音が森に響き、白いマントが風を切る。  
 狼は一瞬ひるみ、そして逃げていった。

「大丈夫か? 怪我は?」

「何ともない。平気。ありがとう。……あなたは?」

「ああ……何ともない」

 彼の肩が、わずかに上下していた。  
 それでも、剣を納める手は確かだった。

 王が馬上に戻ろうとした、その時──
 私はふと、木陰に浮かぶ淡い光に目を奪われた。

「あれ……」

 小さな蝶。  
 翅が淡く光り、まるで月のかけらのように宙を舞っている。  
 その幻想的な姿に見とれていると、クラウドの顔色が変わった。

 青ざめた彼が、私の腕を掴む。

「今、見たものは──誰にも言うな」

「……何か知ってるの?」

 答えは返って来なかった。  
 ただ、蝶を見つめる青い瞳に、深い恐れが宿っていた。  



 最初に宛がわれた後宮の簡素な部屋で、大量の書類を捌いていた。
 ドアは修理され、窓には落下防止の柵が取り付けられていた。  
 絶食と冷水の影響はなくなったが、過労になりそうだ。
 王の情緒不安定は、仕事が追い付かないことにあったのだろうか。  

 意識を取り戻したあと連れていかれた広い部屋は、婚約者時代を思い出すので拒否した。
 そもそも、あれは殺人未遂に対する償いなのだから、受け取ると許したことになる。

 クラウドが入ってきて言った。
 相変わらず白い準礼服ばかり着ている。
 似合うから良いのだけど、白と黄は私の好きな色なのだ。
 このままでは、嫌いになってしまいそう。

「今度、ラウザール国から大使が来る」

「ついに貿易することに?」

「まだ、わからない。それについて1週間後、会議がある。  
 そこに君を出席させるから、準備しておくように」

「え? 公妾でもないのに、会議?」

「君は語学に明るく、外交が得意だろう。  
 王妃は社交界を牛耳るのに夢中で、まともに公務をしない。  
 妾たちは、教養も身分も足りない。  
 1人、伯爵夫人がいるが、子供を産ませるために囲っているだけだ。国政に口出しさせるつもりはない」

 王夫婦に子供はいない。  
 伯爵夫人は、跡継ぎを産むのに“適している”として、連れてこられたのだろう。  
 私が王と褥を共にしたことは、1度もない。  
 あのとき子作りをしようとしたのは、妊娠すれば自殺しないと踏んだからだろう。
 どうやら彼は、私に仕事をさせるために妾にしたようだ。
 女性の議員はいないので、国政の参加させたければ王が身内にするしかない。



 ──そして、1週間後。

 長机には羊皮紙とインク壺、地図が広げられ、窓の外には城下の屋根が連なって見えた。 
 貴族たちはそれぞれの家紋をあしらった緋色や深緑の衣をまとい、金糸の刺繍が光を拾っている。
  私はクリーム色の髪を纏め、簡素な黒のドレスに白い襟を合わせた装いで、異質な存在のまま席に着いた。

 議題は、ラウザール国との関係について。

「ラウザール国は未発達な国です」  
 ローデリヒ侯爵が言った。  
 白髪を後ろで束ね、銀の眼鏡をかけた男だ。
「対等に取引するのではなく、植民地にするべきでしょう」

 多くの参加者が頷いた。  
 私は、静かに手を挙げた。

「お待ちください。  
 戦に発展した場合、距離が遠く、国民の負担は計り知れません。  
 友好国として、貿易に関する内容を含めた条約を結ぶべきです」

 ざわめきが広がる。  
 そして、誰かが吐き捨てるように言った。

「たかが愛妾のくせに、しゃしゃり出て」

 私は、その声の主を見据えた。  
 エルマー子爵だった。まだ30代で、派手な金糸の外套を羽織っている。

「あなたは私の議案に、いつも賛成していたではありませんか」

 彼は私がクラウドの婚約者だった頃、常に愛想よく私を支持していた。

「それはフェルゼン子爵夫人が、未来の王妃になると思ってたからだ」

「相手の身分によって意見を変える者が、国政会議に出席すべきでしょうか」

「何だと──!」

 エルマーが立ち上がりかけた、その時。

「その通りだ」

 国王の声が、会議室を静めた。  
 クラウドはゆっくりと立ち上がり、エルマーを見据える。

「エルマー子爵は今後、政への口出しを禁ずる」

 空気が凍りついた。  
 エルマーが抗議しようとするが、護衛兵に摘まみ出されて行った。


 会議のあと、私室に戻って間もなく、扉の向こうから足音が近づいてきた。  
 ノックもなく、扉が開く。

 クラウドだった。  
 白と金の軍装のまま、肩にかかるマントを翻し、上機嫌な顔で入ってくる。  
 青い瞳が珍しく柔らかく、口元にはうっすらと笑みが浮かんでいた。
 私が死にかけた時の窶れはとれ、元の美貌を輝かせている。

「良くやった。褒美をとらす」

 私は書類から顔を上げた。  

「良くって……これからが大変よ?」

 貴族たちは、王の圧で黙ってるだけ。  
 私の存在なんて、疎ましいに決まってる。
 何かしらを仕掛けてくる可能性があった。

「そのくらい、わかっている」

 クラウドは窓辺に立ち、外を見ながら答えた。  
 陽光が金髪に差し込み、豪奢なサファイアがきらりと光る。

「若い王って、大変ね」

「父上も、今の歳には即位していた」

「まあね……」  

 代々の王については当然、学んでいる。  

「褒美は何がいい」

「子供に会わせて」

 その瞬間、クラウドの表情がスンと消え失せた。  
 目を逸らし、わずかに口元を引き結ぶ。

「……いいだろう。1日やる」

「いえ、あの、領地に戻るのに3日かかるんですけど」

「子供をタウンハウスに置けばいいだろう」

「タウンハウス持ってない」

「は?」

「しがない弱小貴族だもの」

 クラウドはしばし黙り、そして短く言った。

「……しばし待つように」

 踵を返し、マントを翻して出ていった。


 数日後、私は馬車を降りて、目の前の建物を見上げた。

「ここ……本当に貰っていいの?」

 白い石造りの外壁に、蔦が絡まり、バルコニーには花が咲いている。  
 噴水のある中庭、広々とした玄関ホール、そして高い天井に吊るされたシャンデリア。  
 まさに“豪邸”だった。

「もう使わないから」

 クラウドは無造作に言った。

「勿体ない。前は誰が住んでたの?」

「高級娼婦を囲うのに使ってたんだ」

「……」

「シーツは洗濯してある」

「当たり前でしょうよ。
 その人は、どこに行ったの?」

「男爵令息と駆け落ちした」

「わー……えっと……」

 私は言葉に詰まる。  
 でも、ふと思い出して、口を開いた。

「でも私を召し上げるのに、税を1年免除にしたのに……家まで貰うと、気が引けるわ」

 フェルゼン子爵領からの上納を、王は1年分免除していた。  
 小さな土地とはいえ、かなりの額だ。
 それは、私を妾に差し出した見返りだった。

「なら、売却して買い直せばいい。ここは、もう君のだ。好きにしろ」

 そう言って、クラウドは秘書官に目配せする。  
 秘書官が恭しく差し出したのは、金の封蝋が押された分厚い書類だった。

「こちらが権利書です」

 私はそれを受け取りながら、胸の奥に小さな波紋が広がるのを感じていた。  


 馬車の窓から見える街路樹は、すでに葉を落とし、黒い枝が空を引っかいていた。  
 車内には暖かな毛布が敷かれ、揺れるランタンの灯りが揺らめいている。

「ねえ、あの家……どうして、もう使わないの?  
 また高級娼婦にハマるかもよ?」

 私が軽口を叩くと、クラウドは金の眉をひそめた。

「君は、悪い癖が直らないんだな」


「って言われたの。どう思う?」

 私は先程、馬車の中で交わした会話を、メイドのローリエに伝えた。
 実家から運んで貰った鏡台の前で、私の髪をほどく彼女は、緑色の髪を三つ編みにまとめたている。

「恐れながら……」

「言ってちょうだい」

「『子供に会わせて』と仰った時も、ヒヤヒヤしました」

「どうして?」

「陛下の顔を……ご覧にならなかったのですか?」

「見たわ。急に真顔になって」

「わかってるのですね」

「どういうこと?」

 ローリエは少しだけ視線を伏せ、言葉を選ぶように口を開いた。

「……陛下も、関係が構築された後なら、お子様と自由に会わせてくださるはずです。  
 今は、まだ時期尚早というか……」

「ハッキリ言ってよ」

「私は第3公妾のメイドだったのです。  
 第3公妾ノルン男爵令嬢は、16歳で献上されてきました。  
 陛下が『子供は20歳になってから作ろう』と仰ったのに、彼女は『早く欲しい』と粘って……見捨てられました。  
 ノルン男爵令嬢は陛下の気を引くために絶食しましたが、実家に戻されそうになり断念したのです。  
 フェルゼン子爵夫人のように付きっきりで看病など……」

「陛下は私を政治利用したいから、死なれては困るのよ」

「違います。王妃陛下にも、公妾にもカヴァネスを付けず放置しているのです。  
 つまり、それは……子爵夫人に妃のポジションを与えるためでは」

「ちょっと待って。私は彼の浮気で婚約破棄したのに、今更そんな……」

「放蕩な血を、抑え切れなかったのでしょう」

 放蕩な血──  
 ヴァルレイン王家は代々、女好きで有名だ。  
 先代は後宮に100名以上の美人を抱えても足りず、城下町へ繰り出しては手当たり次第に女を漁り、“会える王様”と揶揄されていた。

 クラウドは、妾が11人。私を入れても12人。  
 それでも、歴代最小規模なのだ。

「それは……でも……どうして私なの?」

「愛してるからです」

「まさか……」


 その夜、私は悶々として眠れなかった。  
 月明かりは静かに揺れ、部屋は静まり返っている。  
 そのとき、扉がノックもなく開いた。

 クラウドだった。  
 金の刺繍が入ったガウン姿のまま、無言で入ってくる。
 唯一のメイドは既に下がっているので、取り次ぐ人間がいない。

「ねえ、あなたって……私のことが好きなの?」

「はあ?」

 彼は金の眉を歪め、私を凝視する。

「やっぱり違うよね。ごめんなさい。気にしないで。  
 メイドに変なこと言われたものだから」

 私は視線を逸らし、毛布を引き寄せた。

「……君は、僕を苛立たせる天才だ」

「なら、どうして王命で妾にしたの?  
 互いに憎しみ合っても、仕方ないじゃない。
 前にも言ったけど、首をあげるから、それで終わらせてちょうだい」

 クラウドは何も言わなかった。  
 ただ、しばらく私を見つめたあと、くるりと背を向けて、静かに部屋を出ていった。

 扉が閉まる音が、やけに遠く感じられた。  
 私は毛布を抱きしめたまま、目を閉じた。  
 眠れそうにない夜が、またひとつ、始まった。  


 12月になり、ラウザール国からの貴賓が到着したその日、王宮はいつにも増して華やかだった。  
 ラウザール国は温暖なので、民は冬でも移動する癖がついている。

 大理石の床は磨き上げられ、天井から吊るされた巨大なシャンデリアが、無数の光を反射して会場を照らしている。  
 壁には金糸のタペストリーがかけられ、各国の紋章が誇らしげに並んでいた。  
 長く伸びた晩餐のテーブルには、銀の燭台と季節の花が飾られ、香ばしい料理の匂いが漂っていた。

 私は、外交員として広間にいた。  
 クリーム色の髪を夜会巻きにまとめ、エメラルドの瞳に合わせた深緑のドレスを身にまとって。  
 妾ではない。あくまで、王命による外交の任を帯びた者として。

 やがて、クラウド・ヴァルレイン王が入場した。  
 金髪に碧眼、白い軍装に金の刺繍が映える。  
 その隣には、王妃ベラゾーマ。  
 シルバーブロンドの髪をゆるく巻き、血のように赤い瞳を細めて、完璧な笑みを浮かべていた。  
 その笑みは、まるで仮面のように一切崩れず、食事の間中、ずっと貼りついたままだった。

 ラウザール国の大使は、オレンジの民族衣装に身を包み、朗らかな口調で自国の特産品を紹介していた。  
 香辛料、絹織物、そして──大豆。

「大豆は、我が大陸では育たないのです。土壌が違うようで」

 私がそう言うと、大使は目を輝かせて応じた。

「我が国を通して、ロロノア国から輸入できるようにしましょう」

「そうしていただけると、ありがたいですわ。  
 大豆は栄養価が高く、料理の幅も広い。保存も利くし、飢餓対策にも使えるもの」

 その瞬間、王妃の赤い瞳がわずかに細まり、私を一瞥した。  
 笑顔はそのままだったが、視線には冷たい棘があった。


 その夜、私は部屋で待っていた。  
 王が外交の件で何か言いに来るだろうと、そう思っていた。  
 けれど、扉は1度も開かなかった。


 2週間後、見送りのパーティーが開かれた。  
 王宮の大広間は再び華やかに飾られ、今度は舞踏会の装いで賓客を迎えていた。  

 私は控え室で、久しぶりに夫と顔を合わせた。
 紺色の髪を後ろに撫で付け、軍服に身を包んだ長身の彼は、まるで何事もなかったかのように私に話しかけてきた。  
 その態度に、私は思わず眉をひそめる。

 私の訝しげな視線に、彼は観念したように息を吐いた。

「……俺だって辛いんだ。  
 シンシアばかり、辛気臭い顔しないでくれ」

 その言葉に、私は何も返せなかった。  
 返せる言葉が、見つからない。


 舞踏会が始まり、王と王妃が先陣を切って踊り始めた。  
 クラウドは王妃の手を取り、完璧なステップで舞い、ラウザールの大使とそのパートナーが続く。  
 やがて、他の貴族たちも次々と踊りの輪に加わっていった。

 クラウドは王妃の後、公妾たちと順番に踊った。  
 だが、私の前には来なかった。

 音楽が終わった。
 夫は踊り終えると、私の元には戻らず、どこかへ消えた。

「惨めねえ」

 背後から、冷たい声がした。  
 振り返ると、ローデリヒ侯爵令嬢が、赤いドレスに身を包み、扇子を口元に当てて立っていた。  
 その目は、勝ち誇ったように細められている。

「まったく愛されてない第3公妾まで踊って貰えたのに、王妃になるはずだったあなたが見向きもされないなんて」

 私は微笑み、静かに言った。

「そう思うのなら、あなたのお父様から口添えしてもらえないかしら。私を領地に戻すように」

「なんと不敬な!」

「その代わり、私からも陛下に進言するわ。
 あなたを後宮へ召し上げるようにって」

 ローデリヒ侯爵令嬢は扇子を閉じ、目を細めた。

「……考えておきましょう」

 その声には、ほんの少し期待が滲んでいた。 


 パーティーが終わり、王宮の灯がひとつ、またひとつと落ちていく。  
 石畳の回廊に、冬の夜気が忍び込んでいた。

 オルガは、黒い外套を羽織り、馬車の前で私に軽く頭を下げた。

「それじゃあ、また」

 その言葉に、私は思わず声をかけていた。

「待って。いつになったら、子供達を王都に連れてきてくれるの?」

 私は幾度となく「子供に会わせて欲しい」と手紙を書いたが、実現していない。

 オルガは紺の眉をひそめ、少しだけ顔を背けた。

「まだ小さいのに、3日も馬車に乗せろと?」

「それは……」

 言葉に詰まる。  
 確かに、2歳と4歳の子供に長距離の馬車移動は酷だ。

「子供だけじゃない。乳母や侍女、護衛兵士も移動するんだぞ?  
 君の我儘で振り回さないでくれ」

 その言葉に、胸が締めつけられた。  
 母親が幼い我が子に会いたいと願うことは、我儘なのだろうか。



 後宮へ来て、もうすぐ4ヶ月が経とうとしていた。    
 王が怒って部屋を出ていって以来、執務の書類も回ってこなくなり、私はただ放置されていた。

 部屋の外に出るのも気が引けたが、何もすることがない。  
 仕方なく、重いマントを羽織って、庭を歩くことにした。

 冬の庭は静かだった。  
 枯れたバラの枝が風に揺れ、噴水は凍りかけていた。  
 その中に、ひときわ鮮やかな赤いマントが目に入った。
  
 第3公妾リアーナ・カシ・ノルン男爵令嬢。
 赤い癖毛を揺らしながら、ベンチに腰かけていた。

 私が挨拶すると、彼女はちらりとこちらを見て、微笑んだ。

「あなた"も"することがないの?」

「ええ……できれば自宅に戻って、家政をしたいのですが……。我が領地は発展途上で、人材も少ないので」

 リアーナは首をかしげた。

「王の寵愛を得る努力をするのが、ここにいる者たちの務めなのに?」

「それは……申し訳ありません」

「王に対して、不敬が過ぎるのではなくて?  
 パーティーの時も、ローデリヒ侯爵令嬢とのやり取りを見ていたわ。  
 その前にも、騒ぎを起こしたそうね。  
 過去に陛下の婚約者だったとしても、今は単なる子爵夫人に過ぎないのよ?」

 私は唇を噛んだ。  
 彼女の言うことは正論だった。


 散歩がいやになり、部屋へ戻る。  
 窓の外は雪がちらつき始めていた。  
 私はマントを脱ぎ、椅子に沈み込んで、深いため息をついた。

 そのとき、扉がノックされた。

「失礼します。陛下から言付けです」

 伝令の青年が、丁寧に頭を下げる。

「ラウザール国の大使が『フェルゼン子爵夫人を外交官として、今後の取引を仕切ってほしい』と──そう仰せです」

 私は驚きに目を見開いた。  
 すぐに姿勢を正し、静かに頷いた。

「わかりました。では、今回の御礼を兼ねて、手紙を書きます」

 伝令が去ったあと、私は机に向かい、インク壺の蓋を開けた。  
 久しぶりに、指先に力が戻るのを感じた。  
 まだ終わっていない。  
 私には、やるべきことがある──そう思えた瞬間だった。

 手紙を書き終え、インクを乾かしながら私はメイドに声をかけた。

「図書室に行きたいのだけれど」

 ローリエは一瞬、紅茶を片付ける手を止めた。

「必要な本は、私が取ってまいります」

「いえ、自分で選びたいのだけど」

 彼女は困ったように緑の眉をひそめた。

「それは……あまり……部屋から、お出にならないほうが宜しいかと」

「……? だけど、外交するのに知識が必要でしょう?  
 王妃教育は受けてたけど、5年も前のことだもの」


 図書室は、王宮の西翼にある。  
 高い天井とアーチ型の窓、壁一面を覆う書架には、革装丁の書物がぎっしりと並んでいた。  
 赤い絨毯が足音を吸い込み、ステンドグラスから差し込む光が、床に色とりどりの影を落としている。

 私は扉に手をかけた──その時、中から話し声が聞こえた。  
 隙間から、そっと覗く。

「君は本当に勉強熱心だね」

 クラウドだった。  
 向かい合っていたのは、ケイト・ド・ラマルシュ伯爵夫人──第1公妾。  
 ライトブラウンの髪をゆるく結い、鼈甲色の瞳が艶やかに笑っている。

「だって陛下、私にカヴァネスをつけてくださらないんですもの」

「君は子供を2人産んでるじゃないか。子育てに専念して欲しいんだ」

「乳母たちが優秀なので、することがありません」

「では、僕を構ってもらおうか」

 2人の唇が重なる。
 そして、くすくすと笑い合う。

「ここでそんな、はしたないことを」

「こうされたくて誘ったんだろう? 僕に『図書室に行こう』だなんて」

「陛下は何でも、お見通しなのですね」

「君のように、僕を素直に求めてくれる女性は可愛いよ」

 また顔を近付ける。  
 私はそっと踵を返し、何も見なかったふりをして廊下を歩き出した。

 その途中、すれ違った侍女たちが、ひそひそと囁く。

「新しい愛妾は、未だに初夜を迎えてないんですって」

「何のために来たのかしらね」

 私は何も言わず、ただ歩いた。  
 足音が、深紅の絨毯に吸い取られていった。


 その日の午後、私は第3公妾──リアーナ・カシ・ノルン男爵令嬢の部屋を訪ねた。  
 赤いカーテンに囲まれた部屋は、スパイシーな香水を振り撒いたみたいだった。

「昨日の今日で、何の用?」

「秘密の話をしたく。お人払いを」

 リアーナは扇子を閉じ、私を見つめた。

「聞く価値あるの?」

「聞いてくださらないなら、他へ持っていきます。  
 お時間を取らせて、申し訳ありませんでした」

 私が踵を返しかけた時、彼女が声をかけた。

「待って。聞くだけ聞いてあげる。
 ──下がりなさい」

 侍女たちが部屋を出ていくと、私は静かに切り出した。

「取引をしていただきたいのです」



 それからわずか1ヶ月。  
 リアーナは、私の従弟に嫁ぐことが決まった。  
 あっという間の縁談だった。

「まさか、1ヶ月で下賜されるなんて思わなかったわ」

 私は、暖炉の前で紅茶を口にしながら呟いた。

 ローリエが答える。

「陛下は、第3公妾を持て余してらしたのでしょう。これ幸い、と思われたのかと」

「……なんだか、不憫ね」

「陛下は、あの美貌で女性に不自由していませんから。若い令嬢は、面倒でしかなかったのでしょう」

 私はカップを置き、窓の外を見つめた。  
 雪が静かに降り始めていた。  



 王から与えられた豪邸を売却し、私は新たなタウンハウスを探していた。  
 業者の助言を受けながら、不動産をいくつか見て回る。  
 その帰り道──

 視界が暗転したのは、路地を曲がった瞬間だった。  
 背後から布を被せられ、腕を強く引かれる。  
 声を上げる間もなく私は、広い肩に担がれ連れ去られた。


 早馬を乗り継ぎ、丸1日。  
 止まることなく走り続け、やがて見慣れた風景が窓の外に広がった。  
 フェルゼン子爵領──私の婚家。  

 私は盗賊に扮した傭兵達に、礼金を渡した。
 そして平民の粗末な服にフードを深く被って、フェルゼン子爵邸の裏門へと向かった。  
 門番に顔を見せると、彼は目を見開き言葉を失った。

「……お、奥様……?」

「静かに。誰にも知らせないで。子供たちに会わせて」

 門番はコクコク頷く。

 ──やっと子供達に会える!

 屋敷の中は、かつての面影を残しながらも、どこか空気が違っていた。  
 私は迷わず子供部屋へ向かう。  
 扉を開けた瞬間、胸が凍りついた。

 派手な化粧をした女が、私の娘の手から玩具を取り上げ泣かせていた。  
 年齢は夫と同じ30前後だろう。
 上の息子は隅で、怯えた目をしている。

「何をしているの?!」

 私は駆け寄り、子供たちを抱きしめた。  
 まだ4歳と2歳。小さな体が震えていた。

「何なの、このブス。新しい乳母? クビよ、クビ」

 女が悪態をついてきた。

「あなたこそ、誰なの? 私は、この子たちの母親よ!」

「はあ? この子らの母親は、王の妾になったのよ。  
 王に婚約破棄されたのに追い縋って、強引に妾の末端に入れてもらったんだって」

「……何ですって? そんなこと、誰が言ったの?」

「誰って、オルガに決まってるでしょ」

 夫の名を聞いた瞬間、私は言葉を失った。  
 胸の奥が、ぐらりと揺れる。  
 頭を押さえたそのとき、廊下から足音が響いた。

 扉が開き、オルガが現れた。  
 私の姿を見て、すぐに状況を察したようだった。

「脱走したのか? 後宮を」

「そうよ。それより──これは、どういうこと?  
 この女は誰? 私の子供に危害を加えてたけど?」

「そんなこと、どうだっていい! 何てことしてくれたんだ?! 自分が何したのか、わかってるのか!」

「答えて」

 私は有無言わせぬ強い口調で命じた。

「……彼女は、この家の新しい女主人だ。  
 子供たちは、貴様が王の妾であるうちは生かしておくつもりだったが……。今や、謀反人の子だ」

 その言葉に、私は全身の血が凍るのを感じた。
 そして、止める間もなく抜刀したオルガは、2人の子供を斬りつけた。

 私は子供たちにすがりつき、叫んだ。

 「退け。これ(子供達)は、王への詫びに使う」

 使用人たちが私を引き剥がし、子供たちを連れ去っていく。

「やめて! お願い、やめて!! 早く医者を!」

 私は泣き叫び、もがいた。  
 けれど、手足を縛られ、口を塞がれ、馬車へと押し込まれた。






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