7 / 7
7
しおりを挟む
読みかけの本が床に落ちる音が、部屋の静けさを裂いた。
ぱらり、とページがめくれ、蝋燭の灯りが震える。
「……なんですって?」
私の声はかすれていた。
目の前の騎士は、甲冑の下で顔を強張らせながら繰り返す。
「陛下が危篤です。自ら冷水に……」
椅子を倒し、裾を掴み、部屋を飛び出す。
早春の夜風が頬を打ち、城の塔が遠くに霞んで見えた。
「馬を用意して。すぐに」
白い帳に包まれたベッドの上、クラウドはまるで蝋細工のように静かに横たわっていた。
頬はこけ、唇は乾き、肌は青白い。
あの誇り高く傲慢で、手に負えなかった王の姿は、そこにはなかった。
「クラウド! クラウド! クラウド!」
私は駆け寄り、薄くなった彼の胸にすがりついた。
声が震え、涙が止まらなかった。
「嫌よ! 死なないで! ごめんなさい! 許して!」
私が「断食して冷水につかるなら浮気しない」なんて言ったせいで……。
そのとき、彼の指がかすかに動いた。
私は息を呑む。
「……泣いてるのか」
かすれた声が、私の耳に届いた。
「あなたのせいじゃない!」
彼はゆっくりと頷いた。
その動きが、あまりにも弱々しくて、胸が締めつけられる。
「君の気持ちが……ほんのちょっとだけ……理解できたかもしれない」
「それは……後で聞くから、回復して」
私は彼の手を握りしめた。
その手は冷たく、骨ばっていた。
「……口の中が、凄く甘い」
それは、意識がない間に医師が飲ませた栄養補給の液体──
砂糖と果物汁と塩を混ぜた、命をつなぐ甘さ。
「私もそうだったわ」
妾にされた後、抗議の意味で断食した。
衰弱した体を冷水に沈められ、死にかけた。
あの時の甘さを、私も忘れていない。
「……悪かった。本当に酷いことをした」
「後で聞くってば」
金色の髪を避け額を、そっと撫でた。
──熱はない。
命の灯は、まだ消えていない。
「亡命するのだろう」
「あなたが回復してからにする」
「そうしたら、逃げられなくなるぞ」
「……それは……そうしたら……最初からやり直すわ。あなたが壊れる前から。今度は、オルガに恋はしない」
彼の碧眼が、見開かれた。
「……キスしてくれ」
「甘すぎるから嫌。
執務室に行くわ。あなたの代わりに、仕事してあげる」
私は立ち上がり、彼の手をそっと布の中に戻した。
「……キスしてほしい」
その声は、まるで子どものようだった。
私は振り返らず、扉を開けた。
蝋燭の灯りが揺れていた。
私は王妃の部屋で寝支度を整え、ベッドに身を沈める。
シーツの冷たさが、まだ心のざわめきを鎮めてはくれない。
扉が静かに開く音。
振り返らなくても、誰かはわかる。
クラウドだった。
療養室にいたはずが、夜の帳を破ってここに来た。
3日前の再会より、ずっと顔色は良く足取り確かだけど……。
彼は何も言わず、私の隣に腰を下ろし、そっと顔を寄せてきた。
唇が触れ、冷たい手が私の体をなぞる。
「何してるの」
彼の窶れても美しい顔は、熱に浮かされたように赤く、けれど目は真剣だった。
「僕を受け入れてくれるんだろ?」
「い、今はダメ! 病み上がりなのに!」
「もう回復した」
「嘘つき! 10キロくらい痩せたでしょ」
「すぐ戻る」
「いやよ。細い腕には抱かれたくない」
彼の顔が曇った。
「……君は騎士が好きだもんな」
オルガのことを、まだ引きずっているようだ。
初婚相手は元々、私の護衛騎士だった。
「そういう意味じゃ……」
私は言葉を飲み込んだ。
問答が面倒なので、背を向け眠る体勢に入る。
「……おさまらない」
後ろから響く、呻くような彼の声は苦しげだった。
そして、私の手を自らの股間へ導く。
そこは驚くほど膨張していた。
つい先日、死にかけてたのに……。
朝の光が、レース越しに私の瞼をくすぐった。
ゆっくりと目を開けると、すぐ隣にクラウドの顔があった。
金髪が頬にかかっている彼は、真剣な顔で私の首元を見つめていた。
「ん……おはよう? 何してるの?」
「君の首筋に、浮気の跡がないかチェックしてる」
私は思わず、ため息をついた。
「……幸せな人生ね」
今夜は、もう逃げられないだろう。
新たに決意を固めた。
陽だまりの匂いが、春風に乗って頬を撫でる。
クラウドと並んで歩く庭は、どこか懐かしい香りがした。
私はふと足を止め、目を見開いた。
「ここは……」
そこには──
一面のオルレア。
白く、透き通るような花びらが、風に揺れていた。
マーガレット、カモミール……私が好きだった花ばかり。
「君のための庭だ」
その言葉に、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
婚約して、初めての誕生日に贈られた庭。
私は、ただ花々を見つめた。
「ずっと……ここを維持してたの?」
もし、そうなら16年近く、手入れを続けてたことになる。
「もちろん。僕の気持ちが変わったことはないよ、1度も」
クラウドは私の前に回り、膝をついた。
陽に透ける金髪、碧い瞳。
その美しい顔は、昔と変わらないのに、どこか弱さが滲んでいた。
「ずっと愛しているよ。これからも愛し続ける。いや、愛してしまうんだ」
涙が、気づけば頬を伝っていた。
「迷惑かい?」
「違う。嬉しくて……」
彼の腕が私を包む。
花の香りに包まれながら、私たちの影がひとつに重なっていく。
そのとき足音がして、私はそっと身を離した。
王妃ベラゾーマが現れ、赤いドレスを摘まんでカーテシーする。
「ここは『立ち入り禁止だ』と、伝えてあるはずだが?」
青い瞳が鋭く彼女を射貫く。
「ええ、しかし陛下に取り次いで貰えないので仕方なく」
「何の用だ?」
「離婚しても構いませんよ」
私は息を呑んだ。
クラウドも、驚いたように碧眼を見開く。
「その代わり、私の産む子供が王太子になるのが条件です」
「王妃の座を捨てて、国母になると?」
「ええ。それで父も納得するでしょう」
「王太子は、シンシアの産む子にする。
君は、これまで通り王妃でいればいい。嫌なら出ていけ」
「後悔なさいますよ」
ベラゾーマは毅然と言い放った。
「王を脅すのか」
「事実を申し上げるだけです。
我が家は貴族派の筆頭。跡継ぎなしに離縁すれば、離反する貴族が出ても仕方ありませんね」
「君が今まで王妃として僕を支え、貴族たちに王室を支持させていれば、そうならないはずだ。君の怠慢だ」
「それは認めます。しかし、事実は変わりません」
「いや、変わるさ。努めを果たさなかった者には、責任を取って貰う」
「っ! 私を処刑すると?!」
「幽閉だ」
愕然と立ち尽くす王妃を尻目に、クラウドは私を抱き上げた。
私は驚きながらも、彼の腕の中に身を預けた。
「もう1つ似た庭があったの、覚えてるかい? そこへ連れて行きたいのだけど、もう疲れた?」
先程とは打って変わって優しい声。
私は彼の胸元を、ぎゅっと握った。
「まだ体調が万全でないでしょう? 降ろして」
断食冷水事件による衰弱からは回復したものの、風邪をひきやすくなった彼は、つい先日も熱を出したばかりだった。
「……ベラゾーマは、1度も僕の心配をしなかった。
僕は何千年生きたとしても、彼女を愛せない」
その言葉に、私は何も返せなかった。
庭の香りが、私と彼と彼女の髪を撫でていった。
窓からやってくる晩春の風は、若葉の香りを含んでいた。
「馬に乗りたいって? 冗談だろ」
執務机から顔を上げたクラウドが、金の眉をひそめる。
けれど私は、笑って肩をすくめた。
「生徒たちへの返信も終わったし」
娼婦になったあと私は、副業として通信講座を始めた。
マナー、外国語、書簡の書き方──
最初は数人だった生徒も、王の愛妾に復帰したことで格段に増えた。
窓から飛び降りたせいで一時、中断していたけれど。
今は執務の合間に続けている。
「仕方ないな。僕が手綱を握る」
最近は体調のいいクラウドが、ため息まじりに言う。
私は笑って、頷いた。
王家の私有地にある森は、若葉が陽を透かしてきらめいていた。
馬の背に揺られながら、私は深く息を吸い込む。
この空気の匂いが、私は好きだった。
王妃教育から逃げて来た日を思い出す。
「少し冷えてきたね。そこで焚き火をして暖まろうか」
乗馬服のクラウドが馬を降り、私に手を差し伸べる。
その手は温かく、迷いがなかった。
けれど──
私は、馬の腹を軽く蹴った。
馬が驚いたように前脚を踏み出し、森の奥へと駆け出す。
「なっ──!」
クラウドの声が、背後に遠ざかっていく。
私は振り返らなかった。
風が頬を打ち、涙が滲む。
──ごめんなさい、こうするしかないの。
数日前、王妃の遣いが来た。
「息子の身柄は預かった。殺されたくなければ、消えろ」
そう告げられた。
私は、自分の子供──長男クリスを守るために、また逃げる。
森の端まで辿り着いたとき、私は息を呑んだ。
そこには、見たこともない高い塀が築かれていた。
「何これ? 今まで、こんなの無かったのに!」
馬上からでも、塀の向こうは見えない。
仕方なく、私は裏門の方へ馬を進めた。
けれど、そこには兵士たちが立っていた。槍を持ち、門を固く守っている。
「どうしよう? どうやって出よう……」
私は長い間、王の婚約者だった。
顔を知られていないはずがない。
しかも今は、王の愛妾。
そんな私が森の裏口から出ようとすれば、怪しまれるに決まっている。
いっそ……表から堂々と出てみようか。
私は馬の向きを変え、王宮の近くまで戻った。
けれど、門の前に立っていたのは──
「君はいつから、そんなに御転婆になったんだ?」
クラウドだった。
腕を組み、睨むように立っている。
「お願い、見逃して。お願い……」
「僕は君を逃さない。もし事情があるなら、諦めるんだな」
私は迷った。
このまま強行突破するか、それとも森の中で時間を稼ぐか。
馬の手綱を引き、引き返そうとしたそのとき──
「危ない!」
クラウドの声と同時に、私は馬上から引き落とされた。
けれど、地面に叩きつけられることはなかった。
彼の腕が、私をしっかりと抱き止めていた。
「っ……」
顔を上げると、すぐそばの地面に、矢が突き刺さっていた。
次の瞬間、クラウドが剣を抜き、飛んでくる矢をはね除ける。
しかし、次々と矢の雨が降ってくる。
「ヒヒィィンッ!!」
馬が悲鳴を上げ、前脚を跳ね上げる。
1本の矢が、馬の肩に深く突き刺さっていた。
「危ない、こっちだ!」
クラウドが私の手を強く引き、森の奥へと駆け出す。
矢が追いかけてくる。
私は彼の背中を見つめながら、必死に足を動かした。
「このままじゃ埒が明かない……。
森の北側に、古い狩猟小屋がある。そこまで走るぞ!」
木々の間をすり抜けながら、私たちの影は深い森の奥へと消えていく。
森の奥へと駆ける途中、クラウドが再び剣を抜いた。
その動きは鋭く、迷いがなかった。
次の瞬間、木々の影から複数の気配が現れる。
黒装束の暗殺者たち。
遠くから矢を放つ者、短剣を構えて接近してくる者。
私は思わず息を呑んだ。
「影! 僕でなくシンシアを守れ!」
クラウドが叫ぶ。
その声に応じて、木の上から黒い影が舞い降りた。
王直属の影──無言の護衛。
「その命令は聞けません」
低く、冷たい声。
影は王の前に立ち、迫る暗殺者に反撃を始めた。
だが、敵の数が多すぎた。
矢が飛び交い、刃が閃き、私の肩をかすめて血が滲む。
「くっ……これまでか」
息の荒いクラウドが私の前に立ち、剣を構える。
その背中が、あまりにも大きくて、あまりにも脆く見えた。
暗殺者のひとりが、剣を振り上げる。
私は咄嗟に、クラウドを庇うように飛び出した。
その瞬間だった。
光る蝶が、空間を満たすように現れた。
無数の光の羽が、夜の森を照らし、刺客たちの動きを止める。
蝶たちは舞い、絡みつき、刃を奪い、命を奪った。
そして──
蝶たちが集まり、ひとつの人型を形作る。
光が収まると、そこに現れたのは、長い水色の髪を揺らす男だった。
その顔は整っていて、どこか軽薄そうな笑みを浮かべている。
目元は涼しげで、唇の端がいたずらっぽく上がっていた。
「これ、貸しだからね、クラウド」
どうやら知ってる仲らしい。
クラウドが剣を下ろし、低く問う。
「……わかっている。条件は?」
「シンシアをボクにちょうだい」
「断る」
「だったら、この国を滅ぼしちゃう♪」
「契約は続いてるはずだ」
「それは雨を降らすだけでしょ」
「ならば新しい契約を。この国の平和と安寧を。見返りは僕の命」
──すぐ死のうとする国王って、どうなんだろう?
っていうか、魔法使い?
「ここでキミの命とれば、シンシアを連れてくよ?」
「シンシアの自由を。見返りは僕の私財」
「わかってないんだよな。金なんて腐るほど持ってるし」
「何が欲しい。シンシア以外で」
「シンシアしか欲しくない」
そのやりとりを聞きながら、私は前に出た。
胸の奥が、静かに決まっていた。
「あの、私、行きます」
クラウドが碧眼を見開いた。
魔法使いが、にやりと笑う。
「フフフ、話がわかる人いて良かった。
──じゃっ」
次の瞬間、私の体がふわりと浮いた。
光が視界を包み、クラウドの声が遠ざかっていく。
私は、彼の腕を振りほどいたのではない。
ただ、守るために、選んだだけだった。
彼の前から私は消えた。
蝶の光とともに。
ツリーハウスの床は、朝露の匂いが染み込んでいた。
私は木の階段を降り、竈の前に立つ魔法使いを見つめた。
「まずはねー、エッグトーストで歓迎」
彼は長い髪を後ろでゆるく結び、フライパンを熱しながら鼻歌を歌っていた。
魔法使いなのに、火を使って料理しているのが不思議で、私は思わず聞いてしまった。
「魔法で作らないんですか?」
「あーそれそれそれそれ。何でも魔法でできて楽チンって思ってるでしょ? それ、大間違い」
ティーポットに茶葉を入れながら、彼はくるりと回って私を見た。
「魔法ってのはね、“代償”が必要なの。
火を出すにも、風を呼ぶにも、何かを削る。命だったり、記憶だったり、運命だったり──」
「じゃあ、さっきの戦いのときは?」
「うん、あれはちょっと君の“記憶の欠片”をね」
「えっ……?」
魔法使いは、にっこり笑った。
その笑顔は、どこか無邪気で、でも底が見えなかった。
「だから、君は"ある大事なこと"を思い出せない」
「それは……」
「まあ、絶対戻んないわけじゃないし、無い方がいい記憶もあるよね」
「……わかりました」
「元気だしなって。
ボクはマーカス。敬語は要らない。
よろしく」
差し出された手を、私は少し迷ってから握った。
「よろしく。
さっきの……クラウドと知り合いですよね? “雨を降らす”って何ですか?」
「ああ、ヴァルレイン国は昔、砂漠だった。
初代の王が魔法使い──ボクの先祖と契約して、雨を降らすのに成功してから豊かになった」
「知りませんでした」
「歴史の教科書に載せてないからね。
だって契約が終わったら干からびる国、怖くて住めないでしょ?」
「確かに、そうですね……。
見返りは何だったんですか? 雨の」
「性欲を制御する能力」
「はい? ……まさか!」
「そう。放蕩な血の正体」
放蕩な血の原因が、魔法の対価!
呪いかと思った私は、ある意味正しかった。
でも──
「……それって、代を追うごとに弱まってます? 契約の力」
「いいや、なんで?」
「だって、妾にされて1年半、クラウドとは肉体関係なかったし。
婚約者時代も、私が失望させるまで一途でした。勿論、最後までしてなくて」
「それ、愛の力」
マーカスは、パチンと指を鳴らして言った。
「はい?」
「君への愛の力で踏ん張ってただけ。相当つらかったはずだよ。
多分、気絶するくらい鍛錬したりして消耗してたはず。動ける体力がなくなれば、性欲どころじゃないし」
「あ……」
婚約者時代のクラウドは、誰より剣の鍛練に取り組んでいた。
私を守れる男になると言ってたけど、実は性欲を抑えるためだったのか。
「心当たりあるね」
私は頷いてから言った。
「代償って、変えられないんですか?」
「魔法契約って大小あって、国に雨を降らせるのは“大きい契約”だから変えられない」
「そうですか……」
「どうしたの?」
「可哀想で」
「クラウドのこと、憎んでなかった? ボク、たまにこっそり覗いてたの。
──いい気味じゃない?」
「……そうなんですけど……」
「まあ、人間の気持ちは複雑だから。
0か100で決める必要ないよ。40恨んでて60愛してるなら、それは愛でいいんじゃない?」
私は黙って、湯気の立つティーカップを見つめた。
香ばしいトーストの匂いが、ツリーハウスの中に広がっていた。
この場所は、静かで温かく、でもどこか、現実から切り離された夢のようだった。
焼きたてのエッグトーストは、外がカリッとしていて、中はふんわりしていた。
卵の香りとバターの甘さが口いっぱいに広がって、私は思わず声を漏らした。
「美味しい……料理ができるなんて、凄い!」
マーカスはティーカップを傾けながら、私をちらりと見る。
「キミは出来ないの?」
「あ、そうね……ここに住むなら、作れなくちゃ。教えてくれる?」
そう言った私に、彼は少しだけ目を細めた。
「キミは、ここに住むこと、納得してるの?」
「え……だって、そうしないと国が滅ぼされてしまうのでしょう?」
私の言葉に、マーカスはしばらく黙った。
その横顔は、いつもの軽さが消えていて、どこか遠くを見ているようだった。
「……そう」
その一言だけが、ぽつりと落ちた。
「出掛けよう」
午後になるとマーカスは、そう言って立ち上がり、私に布袋を手渡す。
「え、どこに……?」
訊ねた瞬間、彼は私の腰に手を回し、ひょいと抱き上げた。
「ちょ、ちょっと待って──!」
そのまま、ツリーハウスの縁から飛び降りる。
初夏の風が一気に頬を打ち、視界がぐらりと揺れた。
悲鳴すら出なかった。私はただ、ぎゅっと目をつぶるしかなかった。
「ふふ、びっくりした?」
地面に着地したマーカスが、楽しそうに笑う。
私は我に返ると、彼の胸をポコポコと拳で叩いた。
「何するのよ、もうっ!」
「わっ、見た目より気が強い」
その言葉に、つい、笑ってしまった。
自分でも驚くくらい、自然に。
森を抜けた先に、静かな泉が広がっていた。
水面は鏡のように澄んでいて、空の青と木々の緑を映していた。
マーカスが指先で袋を指した。
「その袋の中身を、この泉に投げて」
「え?」
私は袋を開け、中を覗いた。
その瞬間、息が止まった。
中に入っていたのは、小さな人形。
青の糸で刺繍された瞳、少し不器用な縫い目。
それは、私が11歳の時に作って、クラウドに贈ったものだった。
彼を模して作った、世界でたったひとつの人形。
「……どうして、ここに?」
「いいから、投げてごらん」
マーカスの声は優しかったけれど、どこか試すようでもあった。
私は迷いながらも、人形をそっと泉に投げ入れた。
ぽちゃん、と音を立てて水面に落ちたそれは、すぐに泡に包まれた。
水が渦を巻き、光が差し込む。
やがて、水面から女神が現れた。
その姿は透き通るように美しく、髪は水草のように揺れていた。
「あなたが落としたのは、金の王子ですか? それとも銀の王子ですか?」
私は息を呑んだ。
目の前に浮かぶのは、まるで神話のような問いかけ。
けれど、私は迷わず答えた。
「っ……わ、私が落としたのは……普通の王子です」
女神はしばし沈黙し、やがてふわりと微笑んだ。
「正直者ですね。では──あなたの王子を、お返ししましょう」
再び水面が泡立ち、光が弾ける。
そこに現れたのは──
18歳のクラウドだった。
金髪は今より短く、体の線も細い。
彼は私に近づくと、怒りを隠そうともせず声を上げた。
「あのような発情した顔でフェルゼン子爵令息を見つめれば、誰でも気持ちがどこにあるかわかるではないか!」
私は目を見開いた。
18歳になったばかりの私は、クラウドとの結婚を3ヶ月後に控え、舞踏会に参加していた。
そして当時、護衛騎士だったオルガと踊った後、今の台詞を言われた。
「答えろ。これが、どういうことかわかってるのか?」
「ああ……そう……ごめんなさい。私が悪かった。
あなたの気持ちも、体面も、蔑ろにしてしまって……ごめんなさい」
胸の奥から、言葉があふれた。
「政略結婚なのだから、心は自由だ」
そう言って彼を傷つけてしまったこと、後悔していた。
「私、何もわかってなかった。
あなたが私を、どれだけ想ってくれてたか。……世界が狭すぎたの。そして浅慮だった。
もう惑わされたりしない」
クラウドは、ふっと息を吐いた。
その完璧な顔に、いつもの柔らかさが浮かぶ。
「僕こそ声を荒げて、ごめん。不安で仕方なかったんだ。
これからも、君のことだけ見るよ。結婚式が楽しみだ」
「ええ。私も心から、あなたと結婚したいと思ってる。
これからは傷つけ合うんじゃなくて、愛し合いましょう」
彼が私の頬に手を添え、唇が重なる。
その瞬間、泉の水面が光を放ち、世界が眩しさに包まれた。
目を覚ますと、見慣れた天蓋の下だった。
柔らかなシーツの感触、窓から差し込む午後の光、そして──
隣の部屋から聞こえる、言い争う声。
「無謀です! どこにいるか、わからない魔法使いを世界中探して歩くなど!」
側近の声だった。
そのあとに続いたのは、聞き慣れた、少し低くて、感情を抑えきれない声。
「お前は僕が、どれだけ彼女ばかり見てたか知ってるだろう!」
クラウド……。
「知ってますよ! 強引に妾にしたのは、シンシア様だけです。陛下は受け身ですからね。
だからと言って、これとそれとは話が別です。王の不在を取り纏められる人材がいません」
「お前が何とかしろ」
「無茶苦茶な!」
私はそっと立ち上がり、続き扉を開けた。
「ただいま」
部屋の空気が、ぴたりと止まった。
クラウドがこちらを振り向き、目を見開く。
「シンシア!」
彼は一気に距離を詰めてきて、私を強く抱きしめた。
その腕の力が、少しだけ震えている。
「怪我はないか?」
「ええ、大丈夫」
「何もされなかったか?」
「例えば?」
「いや、あの……だから変なこと」
「え、そういう興味はないと思うよ?」
「男には全て警戒しろ」
私は思わず首を傾げた。
その姿を見て、彼は少しだけ照れたように笑う。
「とにかく、おかえり」
そう言って、彼が顔を近づけてきた。
けれど──
「うっ……」
私は口を押さえ、慌てて洗面室へ駆け込んだ。
診察室の空気は、どこか神聖で、静かだった。
医師が微笑みながら言った。
「おめでたです」
クラウドが、まるで子どものように拳を握りしめて叫んだ。
「よっし、頑張って良かった!」
私は思わず笑ってしまった。
あんなに不安そうだったのに、今はこんなに嬉しそうで。
その顔を見ていると、胸の奥がじんわりと温かくなった。
でも──
……何かを、忘れてるのが気になる。
私は、何を置いてきたんだろう?
何を、思い出せないままでいるんだろう?
私は純白のドレスに身を包み、クラウドの隣に立っていた。
お腹には、彼との2人目の命が宿っている。
ようやく、ここまで来た。
そう思っていたのに──
「健やかなる時も、病める時も──」
牧師の声が響いた、その時だった。
「異議あり」
その声に、会場がざわめいた。
立ち上がったのは、王妃の父・グランディエール公爵。
その顔には、怒りと侮蔑が浮かんでいた。
「シンシア様は、側室に相応しくありません。
まず離婚歴があり、出産経験のある妃は王族以外認められません。
次に、シンシア様は罪人奴隷として娼婦になった経験がおありです。
このような経歴の方が、王宮に住まうこと自体が許されません!」
私は息を呑んだ。
会場の空気が、一気に冷たくなるのを感じた。
けれど、クラウドは1歩も引かなかった。
「君は勘違いしているようだ、公爵。
シンシアが、奴隷の身分になったことはない。
彼女の戸籍を洗ってみるがいい。一時的に娼館に住まわせたのは、単なる“おとり捜査”だ。
罪人を炙り出すために“娼婦と客ごっこ”していただけだ」
「それは……っ」
「気付いたようだね。
シンシアが相手にした客の2人は、前から悪い噂があった。
だが現場は密室の上、貴族ゆえ簡単に踏み込めなかった。
だから、潜入してもらったんだ。
勿論、貞操の危険が訪れる前に捕らえたよ」
ざわめきが強くなる。
──やはり、あの2人の客は、わざとだった。
牢番トニーが客として娼館に入れなかったのは、そういうことだ。
「で、ですが、王命に逆らって逃亡したそうではありませんか。処刑すべきです!」
喰い下がる公爵に、クラウドの声が低く響いた。
「エルノワール侯爵。そんな事実、あったかい?
君が領地を1/5返納したのは、どうして?」
父が立ち上がった。
その顔は、静かに、しかし毅然としていた。
「娘が逃亡など、あり得ません。
娘は陛下を愛しています。
我が領地を一部返納したのは、私が娘に後宮で苦労してほしくなくて『王命を取り下げてほしい』と嘆願したためです」
実際は逃亡した私すら信じてしまいそうな程、父は役者だった。
「王命を取り下げるなどと、何と不敬な!」
参列客が非難する。
あれは確か北方の伯爵だ。
「ええ、その通りです。
慈悲深い王は、領地の削減だけで許してくださいました」
クラウドが、父を見つめながら言った。
「君の娘は、王命に背いてなどいない。
むしろ、余に応えるために、命を懸けて戻ってきた。
それを、君が誰よりも知っている」
その時だった。
グランディエール公爵が、怒りに任せて叫んだ。
「戯れ言を!
自分の子を見捨てるような女が、国母に相応しいわけない!
お前とフェルゼン男爵との子供達は、どうした?!
2人共、お前が殺したようなものだ!
そんなに権力が欲しいなら、最初から素直に王と結婚しておけば良かったではないか!
お前のせいで私の娘は、王妃にも関わらず日陰者のような扱いを受け、石女呼ばわりされたのだぞ!」
その言葉が、私の胸を突き刺した。
そして頭がぐらりと揺れて、私はその場にしゃがみ込んだ。
「ううっ……」
「シンシア! おい! 医者を呼べ!」
クラウドの声が遠くなる。
そのとき光る蝶が舞い、私の体に吸い込まれていった。
記憶が、蘇る。
森でクラウドを置いて逃げようとした、少し前。
「思い出した……私は2年前、王妃に『息子の命が惜しければ消えろ』と脅された」
「何だと?」
王の金の眉がつり上がる。
「嘘だ!」
「公爵を黙らせろ!」
王の一喝により、参列者達が興奮するグランディエール公爵を宥める。
私は立ち上がり、震える声で続けた。
「私は色々あって、息子の記憶そのものをなくしていた。
──でも陛下、不思議なのです。
陛下は息子を探してくださる、と言いました。
それから2年以上経っても、一言も成果を教えてくださいませんね」
色々というのは、魔法の代償として記憶が奪われたことだ。
しかし……本当は代償として奪われたのではなく、魔法使いが私に同情して預かったのではないだろうか。
クラウドは、静かに碧眼を伏せた。
「このようなめでたき日に、話したくはなかったが……言わざるを得ない。
君の息子は南ア大陸に連れていかれ、そこでマラリアにかかり……。
それがわかった時、君は自殺未遂から立ち直ろうとしていた。
もしこの事実を知れば、再び……だから怖くて言えなかった。すまない」
「そう……ですか……探してくださり、ありがとうございました」
思い出した瞬間、そうではないかと思ったが、やはりそうだった。
実際に聞くのは辛いが、確かめずにいられなかった。
本当は大声で叫び出したいが、8年の王妃教育が私を静かに佇ませていた。
クラウドが、会場に向かって宣言した。
「皆の者、身内事で騒がしてすまなかった。
この際だから言う。
2年前、余とシンシアは私有地で刺客に襲われた。
調べの結果、王妃が放った者だとわかった」
その言葉は、雷鳴のように大聖堂を貫いた。
誰もが凍りつき、息を呑んだ。
「……王妃の立場と動機を省み、 これまでは“病気療養”という名目で幽閉していた。
だが──その父である公爵が、憶測で王の結婚式を台無しにした以上、もはや看過はできない」
会場の空気が、ぴしりと張り詰める。
「王妃ベラゾーマ及び、その親族は極刑とする。
公爵家は、取り潰しだ」
「ひっ……!」
グランディエール公爵は、その場に崩れ落ちた。
「お待ちを! 陛下! 陛下ぁっ!」
叫ぶも、すでに動き出した騎士たちの足音にかき消されていった。
岡の上にポツンと、しかし豪華な石碑が建っていた。
近付くと「第1子クリス、第2子ベリーナ」と彫ってある。
元夫の名前はなかった。私の庶子という扱いなのだろう。
花束を供えて、黙祷を捧げる。
──ごめんなさい、不甲斐ない母親で。
「お墓を用意してくれていたのね。ありがとう」
「こんなことしか出来ずに、すまない。
君のいう通り、僕のせいで亡くなったようなものだ」
「私が、もっと早く修道院に行っていれば良かった……」
クラウドが傷ついた顔をする。
「一生かけて償わせて貰えないか」
「私は、もうあなたを恨んでいない。ただ子供達に申し訳ないと思うだけ」
「僕が言うべきじゃないが、君の腹には彼らの兄弟が居るのだから、気持ちを強く持って欲しい。できることはするから」
その時、優しい風が吹いた。
私は頷いた。
「誓います」
私の声は、震えていなかった。
もう、何も怖くなかった。
そして、口づけを交わす。
誰もいない聖堂で、ただ2人だけの式。
結局、大聖堂での式は中止になり、改めて挙げ直すことになった。
ステンドグラスから差し込む光の中、 ふたりの影が、長く並んで伸びていく。
「やっぱりショボいな」
空の参列席を見た、白衣装のクラウドがぽつりと呟いた。
私はクスっと笑って、彼の腕に寄り添う。
「そんなことない。私は、これくらいでいいの」
「仮にも王の側室だぞ?」
「お互い初婚じゃないんだから、いいじゃない」
その言葉に、クラウドは少しだけ拗ねた顔をした。
「……僕の心は、ずっと君だけだった」
私は、そっと彼の手を握り返す。
「ありがとう。これからは、あなたが私を愛してくれた分まで、私もあなたを愛していきたい」
その瞬間、お腹の中で、小さな命が蹴った。
私は思わず微笑んで、お腹を撫でる。
「ふふ、勿論あなたのこともね」
そして、ふと顔を上げた。
「それより──」
「うん?」
クラウドが振り返る。
「よく、ここまで来られたよね」
彼は肩をすくめて、あっさりと言った。
「僕は最初から、君を妃にするつもりだった。
だから妾は、すべて伯爵夫人以下の身分にしたし、正室とは“白い結婚”を貫いた」
離婚歴ある私を妃にするには、私が産んだクラウドの子供を王太子にする必要があった。
侯爵令嬢である私より身分の高い女性と子供をつくると、優先的にその子を王太子にしなければならない。
だから後宮は伯爵夫人(父・伯爵)子爵夫人(父・子爵)男爵令嬢、平民で構成されていた。
妾達は単に王の好みなのだと思っていたけど、まさか私を妃にするために策略だったとは……。
「私が婚約破棄しなければ、皆、振り回されずに済んだのね」
領地にいる公妾を想い、胸が痛んだ。
彼女らは婚家に戻らず、王の直轄領に行くことを選んだ。
クラウドは、少しだけ眉尻を下げた。
「言っておくが、僕は最初に『心から愛することはないが、いいか?』と、確認した上で彼女たちを受け入れてた。
僕から望んで妾にした女性は、1人もいない。
──君以外、愛せるはずがない。
君は、この国で1番強いのだから」
「強い?」
彼は、まっすぐに私を見つめて言った。
「君が一言、僕に『愛してる、お願い』と言うだけで、この世の全てが手に入る」
私は、少しだけ首を捻って笑った。
「……困った時は言うかもしれないわね」
そして、彼の手を引いた。
「じゃ、行きましょ」
聖堂の扉を開けると、外には通信講座の生徒たちが並んでいた。
それからラウザールの大使、トニー一家、ローリエ、両親……。
拍手と笑顔で、私たちを迎えてくれた。
光の中、クラウドと私の影が、またひとつに重なっていく。
□完結□
ぱらり、とページがめくれ、蝋燭の灯りが震える。
「……なんですって?」
私の声はかすれていた。
目の前の騎士は、甲冑の下で顔を強張らせながら繰り返す。
「陛下が危篤です。自ら冷水に……」
椅子を倒し、裾を掴み、部屋を飛び出す。
早春の夜風が頬を打ち、城の塔が遠くに霞んで見えた。
「馬を用意して。すぐに」
白い帳に包まれたベッドの上、クラウドはまるで蝋細工のように静かに横たわっていた。
頬はこけ、唇は乾き、肌は青白い。
あの誇り高く傲慢で、手に負えなかった王の姿は、そこにはなかった。
「クラウド! クラウド! クラウド!」
私は駆け寄り、薄くなった彼の胸にすがりついた。
声が震え、涙が止まらなかった。
「嫌よ! 死なないで! ごめんなさい! 許して!」
私が「断食して冷水につかるなら浮気しない」なんて言ったせいで……。
そのとき、彼の指がかすかに動いた。
私は息を呑む。
「……泣いてるのか」
かすれた声が、私の耳に届いた。
「あなたのせいじゃない!」
彼はゆっくりと頷いた。
その動きが、あまりにも弱々しくて、胸が締めつけられる。
「君の気持ちが……ほんのちょっとだけ……理解できたかもしれない」
「それは……後で聞くから、回復して」
私は彼の手を握りしめた。
その手は冷たく、骨ばっていた。
「……口の中が、凄く甘い」
それは、意識がない間に医師が飲ませた栄養補給の液体──
砂糖と果物汁と塩を混ぜた、命をつなぐ甘さ。
「私もそうだったわ」
妾にされた後、抗議の意味で断食した。
衰弱した体を冷水に沈められ、死にかけた。
あの時の甘さを、私も忘れていない。
「……悪かった。本当に酷いことをした」
「後で聞くってば」
金色の髪を避け額を、そっと撫でた。
──熱はない。
命の灯は、まだ消えていない。
「亡命するのだろう」
「あなたが回復してからにする」
「そうしたら、逃げられなくなるぞ」
「……それは……そうしたら……最初からやり直すわ。あなたが壊れる前から。今度は、オルガに恋はしない」
彼の碧眼が、見開かれた。
「……キスしてくれ」
「甘すぎるから嫌。
執務室に行くわ。あなたの代わりに、仕事してあげる」
私は立ち上がり、彼の手をそっと布の中に戻した。
「……キスしてほしい」
その声は、まるで子どものようだった。
私は振り返らず、扉を開けた。
蝋燭の灯りが揺れていた。
私は王妃の部屋で寝支度を整え、ベッドに身を沈める。
シーツの冷たさが、まだ心のざわめきを鎮めてはくれない。
扉が静かに開く音。
振り返らなくても、誰かはわかる。
クラウドだった。
療養室にいたはずが、夜の帳を破ってここに来た。
3日前の再会より、ずっと顔色は良く足取り確かだけど……。
彼は何も言わず、私の隣に腰を下ろし、そっと顔を寄せてきた。
唇が触れ、冷たい手が私の体をなぞる。
「何してるの」
彼の窶れても美しい顔は、熱に浮かされたように赤く、けれど目は真剣だった。
「僕を受け入れてくれるんだろ?」
「い、今はダメ! 病み上がりなのに!」
「もう回復した」
「嘘つき! 10キロくらい痩せたでしょ」
「すぐ戻る」
「いやよ。細い腕には抱かれたくない」
彼の顔が曇った。
「……君は騎士が好きだもんな」
オルガのことを、まだ引きずっているようだ。
初婚相手は元々、私の護衛騎士だった。
「そういう意味じゃ……」
私は言葉を飲み込んだ。
問答が面倒なので、背を向け眠る体勢に入る。
「……おさまらない」
後ろから響く、呻くような彼の声は苦しげだった。
そして、私の手を自らの股間へ導く。
そこは驚くほど膨張していた。
つい先日、死にかけてたのに……。
朝の光が、レース越しに私の瞼をくすぐった。
ゆっくりと目を開けると、すぐ隣にクラウドの顔があった。
金髪が頬にかかっている彼は、真剣な顔で私の首元を見つめていた。
「ん……おはよう? 何してるの?」
「君の首筋に、浮気の跡がないかチェックしてる」
私は思わず、ため息をついた。
「……幸せな人生ね」
今夜は、もう逃げられないだろう。
新たに決意を固めた。
陽だまりの匂いが、春風に乗って頬を撫でる。
クラウドと並んで歩く庭は、どこか懐かしい香りがした。
私はふと足を止め、目を見開いた。
「ここは……」
そこには──
一面のオルレア。
白く、透き通るような花びらが、風に揺れていた。
マーガレット、カモミール……私が好きだった花ばかり。
「君のための庭だ」
その言葉に、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
婚約して、初めての誕生日に贈られた庭。
私は、ただ花々を見つめた。
「ずっと……ここを維持してたの?」
もし、そうなら16年近く、手入れを続けてたことになる。
「もちろん。僕の気持ちが変わったことはないよ、1度も」
クラウドは私の前に回り、膝をついた。
陽に透ける金髪、碧い瞳。
その美しい顔は、昔と変わらないのに、どこか弱さが滲んでいた。
「ずっと愛しているよ。これからも愛し続ける。いや、愛してしまうんだ」
涙が、気づけば頬を伝っていた。
「迷惑かい?」
「違う。嬉しくて……」
彼の腕が私を包む。
花の香りに包まれながら、私たちの影がひとつに重なっていく。
そのとき足音がして、私はそっと身を離した。
王妃ベラゾーマが現れ、赤いドレスを摘まんでカーテシーする。
「ここは『立ち入り禁止だ』と、伝えてあるはずだが?」
青い瞳が鋭く彼女を射貫く。
「ええ、しかし陛下に取り次いで貰えないので仕方なく」
「何の用だ?」
「離婚しても構いませんよ」
私は息を呑んだ。
クラウドも、驚いたように碧眼を見開く。
「その代わり、私の産む子供が王太子になるのが条件です」
「王妃の座を捨てて、国母になると?」
「ええ。それで父も納得するでしょう」
「王太子は、シンシアの産む子にする。
君は、これまで通り王妃でいればいい。嫌なら出ていけ」
「後悔なさいますよ」
ベラゾーマは毅然と言い放った。
「王を脅すのか」
「事実を申し上げるだけです。
我が家は貴族派の筆頭。跡継ぎなしに離縁すれば、離反する貴族が出ても仕方ありませんね」
「君が今まで王妃として僕を支え、貴族たちに王室を支持させていれば、そうならないはずだ。君の怠慢だ」
「それは認めます。しかし、事実は変わりません」
「いや、変わるさ。努めを果たさなかった者には、責任を取って貰う」
「っ! 私を処刑すると?!」
「幽閉だ」
愕然と立ち尽くす王妃を尻目に、クラウドは私を抱き上げた。
私は驚きながらも、彼の腕の中に身を預けた。
「もう1つ似た庭があったの、覚えてるかい? そこへ連れて行きたいのだけど、もう疲れた?」
先程とは打って変わって優しい声。
私は彼の胸元を、ぎゅっと握った。
「まだ体調が万全でないでしょう? 降ろして」
断食冷水事件による衰弱からは回復したものの、風邪をひきやすくなった彼は、つい先日も熱を出したばかりだった。
「……ベラゾーマは、1度も僕の心配をしなかった。
僕は何千年生きたとしても、彼女を愛せない」
その言葉に、私は何も返せなかった。
庭の香りが、私と彼と彼女の髪を撫でていった。
窓からやってくる晩春の風は、若葉の香りを含んでいた。
「馬に乗りたいって? 冗談だろ」
執務机から顔を上げたクラウドが、金の眉をひそめる。
けれど私は、笑って肩をすくめた。
「生徒たちへの返信も終わったし」
娼婦になったあと私は、副業として通信講座を始めた。
マナー、外国語、書簡の書き方──
最初は数人だった生徒も、王の愛妾に復帰したことで格段に増えた。
窓から飛び降りたせいで一時、中断していたけれど。
今は執務の合間に続けている。
「仕方ないな。僕が手綱を握る」
最近は体調のいいクラウドが、ため息まじりに言う。
私は笑って、頷いた。
王家の私有地にある森は、若葉が陽を透かしてきらめいていた。
馬の背に揺られながら、私は深く息を吸い込む。
この空気の匂いが、私は好きだった。
王妃教育から逃げて来た日を思い出す。
「少し冷えてきたね。そこで焚き火をして暖まろうか」
乗馬服のクラウドが馬を降り、私に手を差し伸べる。
その手は温かく、迷いがなかった。
けれど──
私は、馬の腹を軽く蹴った。
馬が驚いたように前脚を踏み出し、森の奥へと駆け出す。
「なっ──!」
クラウドの声が、背後に遠ざかっていく。
私は振り返らなかった。
風が頬を打ち、涙が滲む。
──ごめんなさい、こうするしかないの。
数日前、王妃の遣いが来た。
「息子の身柄は預かった。殺されたくなければ、消えろ」
そう告げられた。
私は、自分の子供──長男クリスを守るために、また逃げる。
森の端まで辿り着いたとき、私は息を呑んだ。
そこには、見たこともない高い塀が築かれていた。
「何これ? 今まで、こんなの無かったのに!」
馬上からでも、塀の向こうは見えない。
仕方なく、私は裏門の方へ馬を進めた。
けれど、そこには兵士たちが立っていた。槍を持ち、門を固く守っている。
「どうしよう? どうやって出よう……」
私は長い間、王の婚約者だった。
顔を知られていないはずがない。
しかも今は、王の愛妾。
そんな私が森の裏口から出ようとすれば、怪しまれるに決まっている。
いっそ……表から堂々と出てみようか。
私は馬の向きを変え、王宮の近くまで戻った。
けれど、門の前に立っていたのは──
「君はいつから、そんなに御転婆になったんだ?」
クラウドだった。
腕を組み、睨むように立っている。
「お願い、見逃して。お願い……」
「僕は君を逃さない。もし事情があるなら、諦めるんだな」
私は迷った。
このまま強行突破するか、それとも森の中で時間を稼ぐか。
馬の手綱を引き、引き返そうとしたそのとき──
「危ない!」
クラウドの声と同時に、私は馬上から引き落とされた。
けれど、地面に叩きつけられることはなかった。
彼の腕が、私をしっかりと抱き止めていた。
「っ……」
顔を上げると、すぐそばの地面に、矢が突き刺さっていた。
次の瞬間、クラウドが剣を抜き、飛んでくる矢をはね除ける。
しかし、次々と矢の雨が降ってくる。
「ヒヒィィンッ!!」
馬が悲鳴を上げ、前脚を跳ね上げる。
1本の矢が、馬の肩に深く突き刺さっていた。
「危ない、こっちだ!」
クラウドが私の手を強く引き、森の奥へと駆け出す。
矢が追いかけてくる。
私は彼の背中を見つめながら、必死に足を動かした。
「このままじゃ埒が明かない……。
森の北側に、古い狩猟小屋がある。そこまで走るぞ!」
木々の間をすり抜けながら、私たちの影は深い森の奥へと消えていく。
森の奥へと駆ける途中、クラウドが再び剣を抜いた。
その動きは鋭く、迷いがなかった。
次の瞬間、木々の影から複数の気配が現れる。
黒装束の暗殺者たち。
遠くから矢を放つ者、短剣を構えて接近してくる者。
私は思わず息を呑んだ。
「影! 僕でなくシンシアを守れ!」
クラウドが叫ぶ。
その声に応じて、木の上から黒い影が舞い降りた。
王直属の影──無言の護衛。
「その命令は聞けません」
低く、冷たい声。
影は王の前に立ち、迫る暗殺者に反撃を始めた。
だが、敵の数が多すぎた。
矢が飛び交い、刃が閃き、私の肩をかすめて血が滲む。
「くっ……これまでか」
息の荒いクラウドが私の前に立ち、剣を構える。
その背中が、あまりにも大きくて、あまりにも脆く見えた。
暗殺者のひとりが、剣を振り上げる。
私は咄嗟に、クラウドを庇うように飛び出した。
その瞬間だった。
光る蝶が、空間を満たすように現れた。
無数の光の羽が、夜の森を照らし、刺客たちの動きを止める。
蝶たちは舞い、絡みつき、刃を奪い、命を奪った。
そして──
蝶たちが集まり、ひとつの人型を形作る。
光が収まると、そこに現れたのは、長い水色の髪を揺らす男だった。
その顔は整っていて、どこか軽薄そうな笑みを浮かべている。
目元は涼しげで、唇の端がいたずらっぽく上がっていた。
「これ、貸しだからね、クラウド」
どうやら知ってる仲らしい。
クラウドが剣を下ろし、低く問う。
「……わかっている。条件は?」
「シンシアをボクにちょうだい」
「断る」
「だったら、この国を滅ぼしちゃう♪」
「契約は続いてるはずだ」
「それは雨を降らすだけでしょ」
「ならば新しい契約を。この国の平和と安寧を。見返りは僕の命」
──すぐ死のうとする国王って、どうなんだろう?
っていうか、魔法使い?
「ここでキミの命とれば、シンシアを連れてくよ?」
「シンシアの自由を。見返りは僕の私財」
「わかってないんだよな。金なんて腐るほど持ってるし」
「何が欲しい。シンシア以外で」
「シンシアしか欲しくない」
そのやりとりを聞きながら、私は前に出た。
胸の奥が、静かに決まっていた。
「あの、私、行きます」
クラウドが碧眼を見開いた。
魔法使いが、にやりと笑う。
「フフフ、話がわかる人いて良かった。
──じゃっ」
次の瞬間、私の体がふわりと浮いた。
光が視界を包み、クラウドの声が遠ざかっていく。
私は、彼の腕を振りほどいたのではない。
ただ、守るために、選んだだけだった。
彼の前から私は消えた。
蝶の光とともに。
ツリーハウスの床は、朝露の匂いが染み込んでいた。
私は木の階段を降り、竈の前に立つ魔法使いを見つめた。
「まずはねー、エッグトーストで歓迎」
彼は長い髪を後ろでゆるく結び、フライパンを熱しながら鼻歌を歌っていた。
魔法使いなのに、火を使って料理しているのが不思議で、私は思わず聞いてしまった。
「魔法で作らないんですか?」
「あーそれそれそれそれ。何でも魔法でできて楽チンって思ってるでしょ? それ、大間違い」
ティーポットに茶葉を入れながら、彼はくるりと回って私を見た。
「魔法ってのはね、“代償”が必要なの。
火を出すにも、風を呼ぶにも、何かを削る。命だったり、記憶だったり、運命だったり──」
「じゃあ、さっきの戦いのときは?」
「うん、あれはちょっと君の“記憶の欠片”をね」
「えっ……?」
魔法使いは、にっこり笑った。
その笑顔は、どこか無邪気で、でも底が見えなかった。
「だから、君は"ある大事なこと"を思い出せない」
「それは……」
「まあ、絶対戻んないわけじゃないし、無い方がいい記憶もあるよね」
「……わかりました」
「元気だしなって。
ボクはマーカス。敬語は要らない。
よろしく」
差し出された手を、私は少し迷ってから握った。
「よろしく。
さっきの……クラウドと知り合いですよね? “雨を降らす”って何ですか?」
「ああ、ヴァルレイン国は昔、砂漠だった。
初代の王が魔法使い──ボクの先祖と契約して、雨を降らすのに成功してから豊かになった」
「知りませんでした」
「歴史の教科書に載せてないからね。
だって契約が終わったら干からびる国、怖くて住めないでしょ?」
「確かに、そうですね……。
見返りは何だったんですか? 雨の」
「性欲を制御する能力」
「はい? ……まさか!」
「そう。放蕩な血の正体」
放蕩な血の原因が、魔法の対価!
呪いかと思った私は、ある意味正しかった。
でも──
「……それって、代を追うごとに弱まってます? 契約の力」
「いいや、なんで?」
「だって、妾にされて1年半、クラウドとは肉体関係なかったし。
婚約者時代も、私が失望させるまで一途でした。勿論、最後までしてなくて」
「それ、愛の力」
マーカスは、パチンと指を鳴らして言った。
「はい?」
「君への愛の力で踏ん張ってただけ。相当つらかったはずだよ。
多分、気絶するくらい鍛錬したりして消耗してたはず。動ける体力がなくなれば、性欲どころじゃないし」
「あ……」
婚約者時代のクラウドは、誰より剣の鍛練に取り組んでいた。
私を守れる男になると言ってたけど、実は性欲を抑えるためだったのか。
「心当たりあるね」
私は頷いてから言った。
「代償って、変えられないんですか?」
「魔法契約って大小あって、国に雨を降らせるのは“大きい契約”だから変えられない」
「そうですか……」
「どうしたの?」
「可哀想で」
「クラウドのこと、憎んでなかった? ボク、たまにこっそり覗いてたの。
──いい気味じゃない?」
「……そうなんですけど……」
「まあ、人間の気持ちは複雑だから。
0か100で決める必要ないよ。40恨んでて60愛してるなら、それは愛でいいんじゃない?」
私は黙って、湯気の立つティーカップを見つめた。
香ばしいトーストの匂いが、ツリーハウスの中に広がっていた。
この場所は、静かで温かく、でもどこか、現実から切り離された夢のようだった。
焼きたてのエッグトーストは、外がカリッとしていて、中はふんわりしていた。
卵の香りとバターの甘さが口いっぱいに広がって、私は思わず声を漏らした。
「美味しい……料理ができるなんて、凄い!」
マーカスはティーカップを傾けながら、私をちらりと見る。
「キミは出来ないの?」
「あ、そうね……ここに住むなら、作れなくちゃ。教えてくれる?」
そう言った私に、彼は少しだけ目を細めた。
「キミは、ここに住むこと、納得してるの?」
「え……だって、そうしないと国が滅ぼされてしまうのでしょう?」
私の言葉に、マーカスはしばらく黙った。
その横顔は、いつもの軽さが消えていて、どこか遠くを見ているようだった。
「……そう」
その一言だけが、ぽつりと落ちた。
「出掛けよう」
午後になるとマーカスは、そう言って立ち上がり、私に布袋を手渡す。
「え、どこに……?」
訊ねた瞬間、彼は私の腰に手を回し、ひょいと抱き上げた。
「ちょ、ちょっと待って──!」
そのまま、ツリーハウスの縁から飛び降りる。
初夏の風が一気に頬を打ち、視界がぐらりと揺れた。
悲鳴すら出なかった。私はただ、ぎゅっと目をつぶるしかなかった。
「ふふ、びっくりした?」
地面に着地したマーカスが、楽しそうに笑う。
私は我に返ると、彼の胸をポコポコと拳で叩いた。
「何するのよ、もうっ!」
「わっ、見た目より気が強い」
その言葉に、つい、笑ってしまった。
自分でも驚くくらい、自然に。
森を抜けた先に、静かな泉が広がっていた。
水面は鏡のように澄んでいて、空の青と木々の緑を映していた。
マーカスが指先で袋を指した。
「その袋の中身を、この泉に投げて」
「え?」
私は袋を開け、中を覗いた。
その瞬間、息が止まった。
中に入っていたのは、小さな人形。
青の糸で刺繍された瞳、少し不器用な縫い目。
それは、私が11歳の時に作って、クラウドに贈ったものだった。
彼を模して作った、世界でたったひとつの人形。
「……どうして、ここに?」
「いいから、投げてごらん」
マーカスの声は優しかったけれど、どこか試すようでもあった。
私は迷いながらも、人形をそっと泉に投げ入れた。
ぽちゃん、と音を立てて水面に落ちたそれは、すぐに泡に包まれた。
水が渦を巻き、光が差し込む。
やがて、水面から女神が現れた。
その姿は透き通るように美しく、髪は水草のように揺れていた。
「あなたが落としたのは、金の王子ですか? それとも銀の王子ですか?」
私は息を呑んだ。
目の前に浮かぶのは、まるで神話のような問いかけ。
けれど、私は迷わず答えた。
「っ……わ、私が落としたのは……普通の王子です」
女神はしばし沈黙し、やがてふわりと微笑んだ。
「正直者ですね。では──あなたの王子を、お返ししましょう」
再び水面が泡立ち、光が弾ける。
そこに現れたのは──
18歳のクラウドだった。
金髪は今より短く、体の線も細い。
彼は私に近づくと、怒りを隠そうともせず声を上げた。
「あのような発情した顔でフェルゼン子爵令息を見つめれば、誰でも気持ちがどこにあるかわかるではないか!」
私は目を見開いた。
18歳になったばかりの私は、クラウドとの結婚を3ヶ月後に控え、舞踏会に参加していた。
そして当時、護衛騎士だったオルガと踊った後、今の台詞を言われた。
「答えろ。これが、どういうことかわかってるのか?」
「ああ……そう……ごめんなさい。私が悪かった。
あなたの気持ちも、体面も、蔑ろにしてしまって……ごめんなさい」
胸の奥から、言葉があふれた。
「政略結婚なのだから、心は自由だ」
そう言って彼を傷つけてしまったこと、後悔していた。
「私、何もわかってなかった。
あなたが私を、どれだけ想ってくれてたか。……世界が狭すぎたの。そして浅慮だった。
もう惑わされたりしない」
クラウドは、ふっと息を吐いた。
その完璧な顔に、いつもの柔らかさが浮かぶ。
「僕こそ声を荒げて、ごめん。不安で仕方なかったんだ。
これからも、君のことだけ見るよ。結婚式が楽しみだ」
「ええ。私も心から、あなたと結婚したいと思ってる。
これからは傷つけ合うんじゃなくて、愛し合いましょう」
彼が私の頬に手を添え、唇が重なる。
その瞬間、泉の水面が光を放ち、世界が眩しさに包まれた。
目を覚ますと、見慣れた天蓋の下だった。
柔らかなシーツの感触、窓から差し込む午後の光、そして──
隣の部屋から聞こえる、言い争う声。
「無謀です! どこにいるか、わからない魔法使いを世界中探して歩くなど!」
側近の声だった。
そのあとに続いたのは、聞き慣れた、少し低くて、感情を抑えきれない声。
「お前は僕が、どれだけ彼女ばかり見てたか知ってるだろう!」
クラウド……。
「知ってますよ! 強引に妾にしたのは、シンシア様だけです。陛下は受け身ですからね。
だからと言って、これとそれとは話が別です。王の不在を取り纏められる人材がいません」
「お前が何とかしろ」
「無茶苦茶な!」
私はそっと立ち上がり、続き扉を開けた。
「ただいま」
部屋の空気が、ぴたりと止まった。
クラウドがこちらを振り向き、目を見開く。
「シンシア!」
彼は一気に距離を詰めてきて、私を強く抱きしめた。
その腕の力が、少しだけ震えている。
「怪我はないか?」
「ええ、大丈夫」
「何もされなかったか?」
「例えば?」
「いや、あの……だから変なこと」
「え、そういう興味はないと思うよ?」
「男には全て警戒しろ」
私は思わず首を傾げた。
その姿を見て、彼は少しだけ照れたように笑う。
「とにかく、おかえり」
そう言って、彼が顔を近づけてきた。
けれど──
「うっ……」
私は口を押さえ、慌てて洗面室へ駆け込んだ。
診察室の空気は、どこか神聖で、静かだった。
医師が微笑みながら言った。
「おめでたです」
クラウドが、まるで子どものように拳を握りしめて叫んだ。
「よっし、頑張って良かった!」
私は思わず笑ってしまった。
あんなに不安そうだったのに、今はこんなに嬉しそうで。
その顔を見ていると、胸の奥がじんわりと温かくなった。
でも──
……何かを、忘れてるのが気になる。
私は、何を置いてきたんだろう?
何を、思い出せないままでいるんだろう?
私は純白のドレスに身を包み、クラウドの隣に立っていた。
お腹には、彼との2人目の命が宿っている。
ようやく、ここまで来た。
そう思っていたのに──
「健やかなる時も、病める時も──」
牧師の声が響いた、その時だった。
「異議あり」
その声に、会場がざわめいた。
立ち上がったのは、王妃の父・グランディエール公爵。
その顔には、怒りと侮蔑が浮かんでいた。
「シンシア様は、側室に相応しくありません。
まず離婚歴があり、出産経験のある妃は王族以外認められません。
次に、シンシア様は罪人奴隷として娼婦になった経験がおありです。
このような経歴の方が、王宮に住まうこと自体が許されません!」
私は息を呑んだ。
会場の空気が、一気に冷たくなるのを感じた。
けれど、クラウドは1歩も引かなかった。
「君は勘違いしているようだ、公爵。
シンシアが、奴隷の身分になったことはない。
彼女の戸籍を洗ってみるがいい。一時的に娼館に住まわせたのは、単なる“おとり捜査”だ。
罪人を炙り出すために“娼婦と客ごっこ”していただけだ」
「それは……っ」
「気付いたようだね。
シンシアが相手にした客の2人は、前から悪い噂があった。
だが現場は密室の上、貴族ゆえ簡単に踏み込めなかった。
だから、潜入してもらったんだ。
勿論、貞操の危険が訪れる前に捕らえたよ」
ざわめきが強くなる。
──やはり、あの2人の客は、わざとだった。
牢番トニーが客として娼館に入れなかったのは、そういうことだ。
「で、ですが、王命に逆らって逃亡したそうではありませんか。処刑すべきです!」
喰い下がる公爵に、クラウドの声が低く響いた。
「エルノワール侯爵。そんな事実、あったかい?
君が領地を1/5返納したのは、どうして?」
父が立ち上がった。
その顔は、静かに、しかし毅然としていた。
「娘が逃亡など、あり得ません。
娘は陛下を愛しています。
我が領地を一部返納したのは、私が娘に後宮で苦労してほしくなくて『王命を取り下げてほしい』と嘆願したためです」
実際は逃亡した私すら信じてしまいそうな程、父は役者だった。
「王命を取り下げるなどと、何と不敬な!」
参列客が非難する。
あれは確か北方の伯爵だ。
「ええ、その通りです。
慈悲深い王は、領地の削減だけで許してくださいました」
クラウドが、父を見つめながら言った。
「君の娘は、王命に背いてなどいない。
むしろ、余に応えるために、命を懸けて戻ってきた。
それを、君が誰よりも知っている」
その時だった。
グランディエール公爵が、怒りに任せて叫んだ。
「戯れ言を!
自分の子を見捨てるような女が、国母に相応しいわけない!
お前とフェルゼン男爵との子供達は、どうした?!
2人共、お前が殺したようなものだ!
そんなに権力が欲しいなら、最初から素直に王と結婚しておけば良かったではないか!
お前のせいで私の娘は、王妃にも関わらず日陰者のような扱いを受け、石女呼ばわりされたのだぞ!」
その言葉が、私の胸を突き刺した。
そして頭がぐらりと揺れて、私はその場にしゃがみ込んだ。
「ううっ……」
「シンシア! おい! 医者を呼べ!」
クラウドの声が遠くなる。
そのとき光る蝶が舞い、私の体に吸い込まれていった。
記憶が、蘇る。
森でクラウドを置いて逃げようとした、少し前。
「思い出した……私は2年前、王妃に『息子の命が惜しければ消えろ』と脅された」
「何だと?」
王の金の眉がつり上がる。
「嘘だ!」
「公爵を黙らせろ!」
王の一喝により、参列者達が興奮するグランディエール公爵を宥める。
私は立ち上がり、震える声で続けた。
「私は色々あって、息子の記憶そのものをなくしていた。
──でも陛下、不思議なのです。
陛下は息子を探してくださる、と言いました。
それから2年以上経っても、一言も成果を教えてくださいませんね」
色々というのは、魔法の代償として記憶が奪われたことだ。
しかし……本当は代償として奪われたのではなく、魔法使いが私に同情して預かったのではないだろうか。
クラウドは、静かに碧眼を伏せた。
「このようなめでたき日に、話したくはなかったが……言わざるを得ない。
君の息子は南ア大陸に連れていかれ、そこでマラリアにかかり……。
それがわかった時、君は自殺未遂から立ち直ろうとしていた。
もしこの事実を知れば、再び……だから怖くて言えなかった。すまない」
「そう……ですか……探してくださり、ありがとうございました」
思い出した瞬間、そうではないかと思ったが、やはりそうだった。
実際に聞くのは辛いが、確かめずにいられなかった。
本当は大声で叫び出したいが、8年の王妃教育が私を静かに佇ませていた。
クラウドが、会場に向かって宣言した。
「皆の者、身内事で騒がしてすまなかった。
この際だから言う。
2年前、余とシンシアは私有地で刺客に襲われた。
調べの結果、王妃が放った者だとわかった」
その言葉は、雷鳴のように大聖堂を貫いた。
誰もが凍りつき、息を呑んだ。
「……王妃の立場と動機を省み、 これまでは“病気療養”という名目で幽閉していた。
だが──その父である公爵が、憶測で王の結婚式を台無しにした以上、もはや看過はできない」
会場の空気が、ぴしりと張り詰める。
「王妃ベラゾーマ及び、その親族は極刑とする。
公爵家は、取り潰しだ」
「ひっ……!」
グランディエール公爵は、その場に崩れ落ちた。
「お待ちを! 陛下! 陛下ぁっ!」
叫ぶも、すでに動き出した騎士たちの足音にかき消されていった。
岡の上にポツンと、しかし豪華な石碑が建っていた。
近付くと「第1子クリス、第2子ベリーナ」と彫ってある。
元夫の名前はなかった。私の庶子という扱いなのだろう。
花束を供えて、黙祷を捧げる。
──ごめんなさい、不甲斐ない母親で。
「お墓を用意してくれていたのね。ありがとう」
「こんなことしか出来ずに、すまない。
君のいう通り、僕のせいで亡くなったようなものだ」
「私が、もっと早く修道院に行っていれば良かった……」
クラウドが傷ついた顔をする。
「一生かけて償わせて貰えないか」
「私は、もうあなたを恨んでいない。ただ子供達に申し訳ないと思うだけ」
「僕が言うべきじゃないが、君の腹には彼らの兄弟が居るのだから、気持ちを強く持って欲しい。できることはするから」
その時、優しい風が吹いた。
私は頷いた。
「誓います」
私の声は、震えていなかった。
もう、何も怖くなかった。
そして、口づけを交わす。
誰もいない聖堂で、ただ2人だけの式。
結局、大聖堂での式は中止になり、改めて挙げ直すことになった。
ステンドグラスから差し込む光の中、 ふたりの影が、長く並んで伸びていく。
「やっぱりショボいな」
空の参列席を見た、白衣装のクラウドがぽつりと呟いた。
私はクスっと笑って、彼の腕に寄り添う。
「そんなことない。私は、これくらいでいいの」
「仮にも王の側室だぞ?」
「お互い初婚じゃないんだから、いいじゃない」
その言葉に、クラウドは少しだけ拗ねた顔をした。
「……僕の心は、ずっと君だけだった」
私は、そっと彼の手を握り返す。
「ありがとう。これからは、あなたが私を愛してくれた分まで、私もあなたを愛していきたい」
その瞬間、お腹の中で、小さな命が蹴った。
私は思わず微笑んで、お腹を撫でる。
「ふふ、勿論あなたのこともね」
そして、ふと顔を上げた。
「それより──」
「うん?」
クラウドが振り返る。
「よく、ここまで来られたよね」
彼は肩をすくめて、あっさりと言った。
「僕は最初から、君を妃にするつもりだった。
だから妾は、すべて伯爵夫人以下の身分にしたし、正室とは“白い結婚”を貫いた」
離婚歴ある私を妃にするには、私が産んだクラウドの子供を王太子にする必要があった。
侯爵令嬢である私より身分の高い女性と子供をつくると、優先的にその子を王太子にしなければならない。
だから後宮は伯爵夫人(父・伯爵)子爵夫人(父・子爵)男爵令嬢、平民で構成されていた。
妾達は単に王の好みなのだと思っていたけど、まさか私を妃にするために策略だったとは……。
「私が婚約破棄しなければ、皆、振り回されずに済んだのね」
領地にいる公妾を想い、胸が痛んだ。
彼女らは婚家に戻らず、王の直轄領に行くことを選んだ。
クラウドは、少しだけ眉尻を下げた。
「言っておくが、僕は最初に『心から愛することはないが、いいか?』と、確認した上で彼女たちを受け入れてた。
僕から望んで妾にした女性は、1人もいない。
──君以外、愛せるはずがない。
君は、この国で1番強いのだから」
「強い?」
彼は、まっすぐに私を見つめて言った。
「君が一言、僕に『愛してる、お願い』と言うだけで、この世の全てが手に入る」
私は、少しだけ首を捻って笑った。
「……困った時は言うかもしれないわね」
そして、彼の手を引いた。
「じゃ、行きましょ」
聖堂の扉を開けると、外には通信講座の生徒たちが並んでいた。
それからラウザールの大使、トニー一家、ローリエ、両親……。
拍手と笑顔で、私たちを迎えてくれた。
光の中、クラウドと私の影が、またひとつに重なっていく。
□完結□
24
この作品の感想を投稿する
みんなの感想(1件)
あなたにおすすめの小説
ガハハと笑う公爵令嬢は、王太子の自由を縛らない ~水戸黄門ムーブでざまぁします~
ふわふわ
恋愛
「公爵令嬢? 柄じゃねえな!」
前世の記憶が蘇った瞬間、
ウィンタースイート公爵令嬢ガラリアは“貴族らしく生きる”ことをやめた。
怒鳴る、笑う、現場に出る。
孤児院、病院、工事現場――
権力ではなく足で歩き、不正を正す水戸黄門ムーブが彼女の日常。
その振る舞いを理由に、婚約者からはあっさり婚約破棄。
しかしガラリアは気にしない。
「オーケー、俺もそう思う」
ところがその自由さに目を留めたのは、
理解できないまま理解しようとする王太子ディーンだった。
「あなたの自由を縛るつもりはありません」
型破りな公爵令嬢と、束縛しない王太子。
静かなざまぁと、現場主義の信頼が積み重なる、
“笑っているのに強い”逆転恋愛譚。
婚約破棄された私が辺境で薬師になったら、元婚約者が後悔し始めました
たくわん
恋愛
病弱で役立たずと侮られ、婚約破棄されて辺境の寒村に追放された侯爵令嬢リディア。しかし、彼女には誰も知らない天才的な薬学の才能があった。絶望の淵から立ち上がったリディアは、持ち前の知識で村人たちの命を救い始める。やがて「辺境の奇跡の薬師」として名声を得た彼女の元に、隣国の王子レオンハルトが研究協力を求めて現れて――。
形式だけの妻でしたが、公爵様に溺愛されながら領地再建しますわ
鍛高譚
恋愛
追放された令嬢クラリティは、冷徹公爵ガルフストリームと形式だけの結婚を結ぶ。
荒れた公爵領の再興に奔走するうち、二人は互いに欠かせない存在へと変わっていく。
陰謀と試練を乗り越え、契約夫婦は“真実の夫婦”へ――。
公爵令嬢は結婚式当日に死んだ
白雲八鈴
恋愛
今日はとある公爵令嬢の結婚式だ。幸せいっぱいの公爵令嬢の前に婚約者のレイモンドが現れる。
「今日の結婚式は俺と番であるナタリーの結婚式に変更だ!そのドレスをナタリーに渡せ!」
突然のことに公爵令嬢は何を言われたのか理解できなかった。いや、したくなかった。
婚約者のレイモンドは番という運命に出逢ってしまったという。
そして、真っ白な花嫁衣装を脱がされ、そのドレスは番だという女性に着させられる。周りの者達はめでたいと大喜びだ。
その場所に居ることが出来ず公爵令嬢は外に飛び出し……
生まれ変わった令嬢は復讐を誓ったのだった。
婚約者とその番という女性に
『一発ぐらい思いっきり殴ってもいいですわね?』
そして、つがいという者に囚われた者の存在が現れる。
*タグ注意
波乱万丈って言葉、私のためにある?
宵森みなと
恋愛
港町の外れに、ひっそりと建つ一軒の店――看板には「海辺書房兼・人生相談所」と書かれている。
表向きは本を売り、人の悩みに耳を傾ける小さな店。
だが、その実態は“影の一座”――依頼に応じて役者を派遣し、表沙汰にできない事情を裏から解決する、秘密の組織だった。
若き“親分”マイラは、依頼ごとに姿を変え、恋人役から家族役まで演じ分け、依頼人を成就へと導く。
笑いあり涙あり、思わぬ縁が生まれるその日々は、まさに波乱万丈。
……そんなある日、舞台の外からも大きな波が押し寄せる。
気がつけば王女、しかも帰国できない――!?
依頼の裏に潜む真実、秘密の扉を開いた先に待つのは、依頼者だけの物語と、マイラ自身の予想外な運命だった――。
短編『青薔薇の献身』、シリーズ長編化。
波乱万丈でコメディな、でもちょっと切ない物語が始まる。
【完結】婚約破棄寸前の不遇令嬢はスパイとなって隣国に行く〜いつのまにか王太子殿下に愛されていました〜
あまぞらりゅう
恋愛
「このままでは婚約破棄だ」
オディール・ジャニーヌ侯爵令嬢は窮地に立たされていた。
婚約者であるアンドレイ・アングラレス王子にそう告げられたのだ。
オディールは侯爵令嬢としての名誉挽回をするために、スパイとなって単身隣国に乗り込む。
狙うのは王太子のレイモンド・ローラント。
彼から機密情報を掴んで戦争計画を暴くのだ。
しかし、アンドレイには真の目的があった。
さらに、レイモンドは「令嬢嫌い」で有名で、一筋縄ではいかない人物で――……!?
★主人公が覚醒するのは中盤以降です!
★ざまぁ的なのはラスト付近です!
★他サイト様にも投稿しています!
無能な私を捨ててください!と婚約破棄を迫ったら溺愛?
萩月
恋愛
公爵令嬢のルルナには悩みがあった。それは、魔力至上主義のこの国で、成人を過ぎても一切の魔力が開花していない「無能令嬢」であること。
完璧超人の第一王子・アリスティアの婚約者として相応しくないと絶望した彼女は、彼を汚点から守るため、ある決意をする。
「そうだ、最低最悪の悪役令嬢になって、彼に愛想を尽かされて婚約破棄されよう!」
愛する人は、貴方だけ
月(ユエ)/久瀬まりか
恋愛
下町で暮らすケイトは母と二人暮らし。ところが母は病に倒れ、ついに亡くなってしまう。亡くなる直前に母はケイトの父親がアークライト公爵だと告白した。
天涯孤独になったケイトの元にアークライト公爵家から使者がやって来て、ケイトは公爵家に引き取られた。
公爵家には三歳年上のブライアンがいた。跡継ぎがいないため遠縁から引き取られたというブライアン。彼はケイトに冷たい態度を取る。
平民上がりゆえに令嬢たちからは無視されているがケイトは気にしない。最初は冷たかったブライアン、第二王子アーサー、公爵令嬢ミレーヌ、幼馴染カイルとの交友を深めていく。
やがて戦争の足音が聞こえ、若者の青春を奪っていく。ケイトも無関係ではいられなかった……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。
二人の愛憎は二人でやっていればいいと思うけど、子供達があまりにも報われない
コメントありがとうございます。
そうなんですよね。追悼シーンを入れようかと思ったんですけど、話のテンポが悪くなると思って省きました。
機会があれば追記します。