6 / 15
婚約者の元婚約者
執務室へ入ると、ラキが書類から顔を上げた。
金の瞳が、僕を見つめる。
「ふうむ……少しだけマシになった」
「はあ……良かった」
胸を撫で下ろした瞬間、ラキの視線が鋭くなる。
「…………君は、本当に我が家に婿入りするのか?
君が心底、望んでいるようには見えないが」
「ああ、いえ、その……はじめは親に強制されましたが、今は望んでいます」
ラキは深く息を吐いた。
「わかった。下がりなさい」
その言葉に安堵しつつも、どうしても気になっていたことを口にした。
「あの……家庭教師って、このままでしょうか?」
「なんだって?」
「いくらなんでも厳しいですよ」
ラキは眉ひとつ動かさず答えた。
「間違わなければ殴らない。シンプルだろう」
「しかし──」
「王弟殿下が、お決めになったことだ」
その名を聞いて、思わず言葉が詰まった。
「そもそも、どうして王弟殿下が出てくるのです?」
「親戚だからだ。
王弟殿下の母君は、私の姉だ。
だから我が家を、特別気にかけてくださっている」
息が止まりそうになった。
知らなかった。
いや、考えてみれば不思議ではない。
リュシアンヌは、元は王太子の婚約者だった。
王子が浮気して婚約破棄したせいで、僕にとばっちりが来たのだ。
ラキは書類を閉じ、静かに言った。
「君、勘違いしていないか?
伯爵位といえば、高位貴族に分類される。
しかも娘と婚約が決まって1年。
実家で教育を受けるのに、充分な時間はあったはずだ。
あまりに結果がひどいようなら、君の親に抗議しなければならない」
「そ、それは……申し訳ありません。頑張ります」
背筋が冷たくなった。
親に抗議されれば、予算を止められる。
ノラが戻ってきた時、買い物に行けなくなる。
それだけは困る。
執務室から戻り、部屋で一息ついたところで、トーシハンが入ってきた。
執務室でのやり取りを報告する。
「ふむ。いいだろう。
では、着替えて観劇に行け」
「えっ」
「オルフェリア公爵令嬢は、すでに支度されている。
舞踏会に出る前に、小さい社交場から慣らしていく必要がある」
「観劇が社交場?」
「公爵令嬢といれば、多くの貴族が挨拶に来るに決まっているだろう」
なるほど、と思った。
観劇は娯楽ではなく、社交の場なのだ。
「わかりました」
観劇が終わり、ロビーに出ると、次々と貴族たちが挨拶に来た。
リュシアンヌは落ち着いた微笑みで応じ、僕は横で愛想笑いをして突っ立っているだけだった。
挨拶がひと通り終わり、帰ろうとした時──
人の流れが、ふっと割れた。
エドモンド・ラグナス王子と、その“真実の愛”と呼ばれるロザ・ピアット伯爵令嬢が立ち塞がった。
リュシアンヌが、挨拶しようと一歩進む。
「私的な場なので、正式な挨拶はいらない」
王子が、手で制す。
「さようですか」
リュシアンヌは頭を下げた。
王子は僕を見て、眉をわずかに動かした。
「彼が、ドレイモンド伯爵令息か」
喉がひきつりながらも、なんとか声を出した。
「よ、よろしくお願いします」
王子は変な顔をした。
何が悪かったのか分からない。
リュシアンヌが、補足するように言った。
「今年、社交デビューする予定です()の」
女性は15、男性は18から社交デビューする。
ただし婚約者がいる場合や代理の場合は、18未満でも舞踏会に出ることができる。
ロビーのざわめきの中、突然ロザが声を張り上げた。
「ちょっと! あなたたち早く結婚しなさいよ。
あなたたちが結婚しないと、私たちが結婚できないじゃない!」
その瞬間、ロビーがしんとなった。
周囲の貴族たちが一斉に、こちらを見る。
リュシアンヌは扇子で口元を隠し、静かに笑った。
「ピアット伯爵令嬢は冗談が、お好きなのですね。
きっと明るい性格のお子が産まれますわ」
ロザは元は平民だったが、王子と結婚するために伯爵家の養子になった。
その背景を知っている貴族たちは、微妙な表情で成り行きを見守っている。
「何よ、それ! バカにしてんの?!
あなたが側室になるのを断ったせいで、こっちは大変なんだから!」
「ロザ、やめろ!」
王子が慌てて制止するが、ロザは引かない。
「だって──」
「ロザが失礼した。
しかし、君の助けが必要だ」
王子はリュシアンヌへ向き直った。
その声には焦りが滲んでいる。
「我が父以外にも、公爵は3名おりますわ」
リュシアンヌは、落ち着いた声で返す。
「君が頷かないと、他も頷かない」
「私が頷いても、父は頷きませんわ。王弟殿下も」
王子の顔が引きつった。
ロザは苛立ちを隠さず叫ぶ。
「何なの、その言い方! 投獄するわよ!」
周囲がざわついた。
王子がロザの腕を掴み、力づくで引っ張っていく。
「すまない、失礼する!」
2人が去っていくと、ロビーの空気が一気に緩んだ。
しかし、僕の背中には冷たい汗が流れていた。
この世界は、僕が思っていたよりずっと複雑で、ずっと危険だ。
リュシアンヌは扇子を閉じ、何事もなかったように歩き出した。
僕はただ、その後ろを追うしかなかった。
あなたにおすすめの小説
私が出て行った後になって、後悔した旦那様から泣きの手紙がもたらされました♪
睡蓮
恋愛
ミーシャとブラッケン伯爵は婚約関係にあったが、その関係は伯爵の妹であるエリーナによって壊される。伯爵はミーシャの事よりもエリーナの事ばかりを優先するためだ。そんな日々が繰り返される中で、ミーシャは伯爵の元から姿を消す。最初こそ何とも思っていなかった伯爵であったが、その後あるきっかけをもとに、ミーシャの元に後悔の手紙を送ることとなるのだった…。
もう二度と、あなたの傷を引き受けません ~死に戻った治癒師伯爵夫人は、冷血公爵の最愛になる~
ゆぷしろん
恋愛
傷を癒やすたび、自分が同じ傷を負う――そんな代償つきの治癒魔法を持つ伯爵夫人セレフィナは、夫を救い続けた末に裏切られ、罪を着せられて処刑される。
しかし死の直前、「もう二度と、あなたの傷は引き受けない」と誓った瞬間、彼女は夫の凱旋祝賀会の日へ死に戻っていた。
今度こそ搾取されるだけの人生を捨てると決めたセレフィナは、夫との治癒契約を破棄し、離縁を宣言。そんな彼女に手を差し伸べたのは、“冷血公爵”と恐れられるディートハルトだった。
彼が求めたのは命を削る奇跡ではなく、治癒師としての知識と才能。北辺境で広がる奇病を調査する中で、セレフィナは研究者として認められ、本当の居場所と誠実な愛を見つけていく。
搾取の愛を捨てた治癒師伯爵夫人が、自分の人生を取り戻し、冷血公爵の最愛になる死に戻り逆転ロマンス。
"病弱な幼馴染"を完治させたら、なぜか怒られました
ばぅ
恋愛
「ルードル様、大変です!レニ様がまたお倒れに!」
婚約者であるルードルには「灰白病」という厄介な病気を抱えた幼馴染のレニがいる。甘いデートはいつも彼女の急な呼び出しによって邪魔され、その度フラウはずっと我慢を強いられていた。しかし、フラウはただの令嬢ではなく、薬師でもあるのだ。ある日ついに、彼女は灰白病の特効薬を完成させた。これで終わりかと思いきや、幼馴染は再び倒れる。
そこでフラウは、ある作戦を実行することにした――。
いつまでも変わらない愛情を与えてもらえるのだと思っていた
奏千歌
恋愛
[ディエム家の双子姉妹]
どうして、こんな事になってしまったのか。
妻から向けられる愛情を、どうして疎ましいと思ってしまっていたのか。
悪意には悪意で
12時のトキノカネ
恋愛
私の不幸はあの女の所為?今まで穏やかだった日常。それを壊す自称ヒロイン女。そしてそのいかれた女に悪役令嬢に指定されたミリ。ありがちな悪役令嬢ものです。
私を悪意を持って貶めようとするならば、私もあなたに同じ悪意を向けましょう。
ぶち切れ気味の公爵令嬢の一幕です。
(完結)私はあなた方を許しますわ(全5話程度)
青空一夏
恋愛
従姉妹に夢中な婚約者。婚約破棄をしようと思った矢先に、私の死を望む婚約者の声をきいてしまう。
だったら、婚約破棄はやめましょう。
ふふふ、裏切っていたあなた方まとめて許して差し上げますわ。どうぞお幸せに!
悲しく切ない世界。全5話程度。それぞれの視点から物語がすすむ方式。後味、悪いかもしれません。ハッピーエンドではありません!
婚約者は…やはり愚かであった
しゃーりん
恋愛
私、公爵令嬢アリーシャと公爵令息ジョシュアは6歳から婚約している。
素直すぎて疑うことを知らないジョシュアを子供のころから心配し、世話を焼いてきた。
そんなジョシュアがアリーシャの側を離れようとしている。愚かな人物の入れ知恵かな?
結婚が近くなった学園卒業の半年前から怪しい行動をするようになった婚約者を見限るお話です。
【完結】わたしの欲しい言葉
彩華(あやはな)
恋愛
わたしはいらない子。
双子の妹は聖女。生まれた時から、両親は妹を可愛がった。
はじめての旅行でわたしは置いて行かれた。
わたしは・・・。
数年後、王太子と結婚した聖女たちの前に現れた帝国の使者。彼女は一足の靴を彼らの前にさしだしたー。
*ドロッとしています。
念のためティッシュをご用意ください。