ドアマット・ヒロインが、やり返さなくてイライラしたので代わりにやってみました

星森 永羽(ほしもりとわ)

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小1から始める現代日本

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 1週間後。ロベルトの“学習成果”は、予想外の方向に伸びていた。

- 九九 → 3の段まで覚えたが、7×8で「56……いや、58だ!」と叫ぶ  
- 作文 → 『ぼくは おうじです。 きょうは せんそうを しませんでした』  
- 図工 → 王宮の設計図を描いて提出。しかも本気の建築図面レベルで、私はコメントに困った

 ロベルトは消しゴムを指先で転がしながら、満足げに頷いた。

「俺は進化している。
 そして、この“消しゴム”という道具、非常に便利だ」

「そうね」

 私は苦笑しながら答えた。  
 異世界の王子が、小学生ドリルに本気で挑む姿は、どう見てもギャグなのに……妙に似合っているのが腹立たしい。

 それでも、彼が必死に現代で生きようとしているのは分かる。  
 だから私は、今日もドリルを追加で買って帰るのだった。





 2カ月、経った。
 私は仕事帰りに、佐野原のマンションへ向かった。高層階の窓から漏れる光は温かいのに、胸の中は妙に重い。

 玄関を開けると、スウェット姿のロベルト(見た目は佐野原)が腕を組んで立っていた。

「遅いではないか」

「はあ……こっちは働いてんのよ」

「まあ、いい。俺は既に因数分解まで理解した」

「え、本当? 早っ」

 地頭は、いいみたい。  
 ロベルトは得意げに顎を上げた。

「じゃあ、私もう教えることないね。銀行の暗証番号も無事に変えられたし、スマホやパソコンも使えるようになったし」

「……」

「じゃあね」

 私が踵を返した瞬間、壁にドンと手がつかれた。  
 ロベルトの腕が私の横を塞ぎ、影が落ちる。

「また、あの古い汚い狭い家に帰るのか」

 何度か送って行ってくれたので、シェアハウスのことは知っている。

「あなたのミアのせいでね」

「ここで暮らせばいい」

「また入れ替わった時、怒られる」

「向こうに戻る時は一緒だ」

「何度も行き来するの嫌」

 そもそも、また向こうに行けるかわからない。試してないから。
 ロベルトは私を見下ろし、低く囁いた。

「俺は、もうお前を逃がさない」

「あなたのものだったことなんて1度もないんだけど。
 それよりも……臭くない? もしかして、食器洗わないで溜めてる?」

「よくわかったな。誰も洗わないのだ」

「……洗い方教えてあげるから見なさい」

 私は、ため息をつきながらキッチンへ向かった。  
 シンクには皿が山のように積まれ、油の膜が張っている。  
 ロベルトは王子らしい姿勢のまま、真剣に私の手元を見つめていた。

 異世界の第2王子に、食器洗いを教える日が来るなんて。  
 人生、何が起こるか本当に分からない。


 食器洗いを終えると、シンクはようやく光を取り戻した。私は手を拭きながらロベルトに向き直る。

「家事はネットで検索してよね。じゃ、帰るから」

 踵を返そうとした瞬間、背後から強い腕が私の腰を引き寄せた。  
 服越しでも分かる鍛えられた体。茶色の瞳がすぐ近くにある。

「俺のものになれ。強情な女だ」

「あのね! 異世界ならあなたは王子だから、まだメリットもあるけど。ここでは単なる厄介者なの! ここまでしてあげたのに、感謝もしないなんて! 野垂れ死にすれば良かったのに!」

 私は腕を振りほどき、乱暴に玄関へ向かった。  
 ロベルトは追いかけて来なかった。

 

 それ以来、私はロベルトを徹底的に無視していた。  
 連絡も返さず、マンションにも行かず、仕事に没頭した。

 そして今日──1カ月ぶりに、彼が会社に復帰した。

 会議室の扉が開き、スーツ姿の佐野原……ロベルトが入ってくる。  
 見た目は完全に佐野原さんなのに、纏う空気はどこか違う。


 産業医が資料を見ながら診断した。

「治ってはないが、仕事はできる」

 私は胸の奥がざわついた。  
 “多重人格”という設定で押し通したけれど、本当に大丈夫なのか。

 とはいえ、職場にはすでに通知済みで、周囲も気を遣ってくれている。  
 何とか回っている……今のところは。


 私は、深く息を吐いて伸びをした。

「は~、やっと新しい企画書できた」

 焼き肉ザウルスが好評で、私は正式に企画担当になった。  
 忙しいけれど、やりがいはある。

 ロベルトが私のデスクに歩み寄り、企画書を指でつついた。

「企画書ができたのか。どれ」

「読んでわかるの?」

「マーケティングはしてある」

「っ!」

 2カ月前まで九九すら怪しかった男が、マーケティングを理解しているなんて。

 ロベルトはページをめくり、満足げに頷いた。

「ふむ。なかなか面白い。ザウルスの第2弾と言ったところか」

 その横顔は、異世界の王子そのもの。  
 整った顔立ちに自信が宿り、スーツ姿なのに妙に威圧感がある。

「何をぼんやりしている? 佐野原という男も不細工ではないが、元の俺程ではないぞ?」

 言い返そうと口を開いた瞬間、視界がぐらりと揺れた。  
 眩暈がして、私はデスクに手をつく。

 

 気がつくと、またあの真っ白な空間に立っていた。  
 何もない、音もない、ただ白だけの世界。

「あなたのせいで何もかも、めちゃくちゃ!」

 振り返ると、パープルブロンドの髪を揺らしたミアが立っていた。アメジスト色の瞳が涙で濡れ、怒りと悲しみが入り混じった顔で私を睨む。

「はあ? っていうか、また此処?」

「ロベルト殿下もアルペも使用人も騎士団も、皆『あなた、あなた』って! 誰も私を見てくれない!」

 ミアは顔を覆い、肩を震わせて泣き出した。

 私は腕を組み、冷静に言った。

「それより私の7千万返して。あれは両親の遺産も入ってるのよ」

「だって、仕事が難しかったんだもの。仕方ないわ」

「出来ないことはやらなきゃいい。退職すれば良かったのに。なぜ、余計なことをしたの?」

「そんな……逃げ出せるわけないでしょ。それに誰も『辞めろ』って言わないから」

「あー……出来ないことやって損失出したの自分のせいなのに、内省すらしないのね。
 そういえば小説でも、嫌がらせしてくる使用人を処罰しなかったしね。外に出られるんなら、何とでもなったのに」

「そ、そんなこと出来るわけない」

「じゃあ、一生そうやって生きていけば? 若いうちは下心で男が寄ってきて助けてくれても、年取れば浮浪者になるかもね」

「何で酷いことばかり言うの?」

「事実しか言ってないけど」

 ミアは涙を拭い、震える声で言った。

「もう、いい。あなたが立て直したであろう、あなたの世界で生きる」

「ふうん。頑張ってね」

 次の瞬間、白い光が視界を覆った。




   
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