王子が悪役令嬢と婚約破棄するのを手伝った結果【完結】

星森 永羽(ほしもりとわ)

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王子が悪役令嬢と婚約破棄するのを手伝った結果

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 カシャカシャと金属の擦れる音が、静まり返った礼拝堂に響いた。

 白い花弁が敷き詰められたバージンロードを進むたび、わたくしの足元で鎧が鳴る。

 純白のウェディングドレスの下に、銀の軽鎧を着込んでいる。

 参列客たちは奇妙な顔をしてこちらを見るが、誰1人として声を上げない。

 父であるディアナ公爵が怖いからだ。


 高い天井から差し込む光がステンドグラスを通り、赤や青の影を床に落としていた。

 わたくしは、その中をまっすぐ歩き新郎の隣に立つ。

 フェルマー伯爵令息は金髪を丁寧に撫でつけ、白い礼服に身を包んでいた。

 整った顔立ちだが、どこか軽薄さが滲む。

 牧師が厳かな声で、誓いの言葉を読み上げた。

「誓います」

 迷いのない新郎の声。

 続いて──

「わたくし“は”誓いません」

 礼拝堂がざわついた。
 誰もが息を呑む気配が伝わる。

 だが牧師だけは眉1つ動かさず、淡々と次の段取りへ進んだ。

 事前に通達してあるからだ。

「では婚姻届にサインを」

 差し出された紙に、わたくしはサラサラと署名する。

 ペン先が走る音だけが響いた。

「なぜ、夫より先にサインするんだ?
 普通あとだろ。
 っていうか『誓わない』って、何だ?
 そんな荒業あるのか?」

 わたくしは彼の疑問に答えず、ただペンを差し出した。

「どうぞ」

 その瞬間、白いドレスの女が勢いよく立ち上がった。
 ──平民のベラだ。
 濃い化粧に、胸元の開いた白ドレス。
 花嫁でもないのに目立つほど派手な装いだ。

「ちょっと、あんた何なの。失礼でしょ!」

 怒鳴りながら前へ出ようとした瞬間、ビリッと嫌な音が響いた。
 スカートが裂け、白い布が床に落ちる。

 次の瞬間、彼女の下着が礼拝堂中に晒された。

 ベラは甲高い叫び声を上げ、顔を真っ赤にして走り去っていく。

 客席から押し殺した笑いが漏れた。



 教会を出ると、外の空気は爽やかで澄んでいた。

 白い石畳の上に春の陽光が反射し、馬車の黒い車体を鈍く光らせている。

 わたくしの侍女は淡い灰色のドレスに身を包み、落ち着いた所作でわたくしの腕を取った。

 乗り込むと、侍女も当然のように続いて馬車へ足をかける。

「なぜ侍女が──」

 前に座った新郎が、驚いたように目を見開いた。

 誰も質問に答えないまま、馬車がゆっくりと動き出す。

 石畳を踏む蹄の音が規則的に響き、揺れが身体に伝わる。

「おい! 教会には、お前の父親がいたから静かにしていたけど、調子に乗るなよ」

 わたくしは答えず、視線だけを窓の外へ向けた。
 青空の下、教会の尖塔が遠ざかっていく。

 侍女が静かに荷物を開き、折り畳まれた衝立を取り出した。
 木製の枠に薄布が張られた簡素なものだが、馬車の中では十分な遮断になる。

 侍女は、それをわたくしと男の間に、迷いなく立てた。

「わ、なんだ、これ?」

 ジュリアンが情けない声を上げる。
 衝立が立つと、彼の顔が半分隠れた。

「姫様はフェルマー伯爵令息の体臭が苦手なのです。
 できる限り動かず、喋らないでください」

 侍女の声は淡々としていた。
 礼儀正しいが、容赦はない。

「なっ……」

 男は慌てて自分の襟元を嗅いだ。
 白い手袋をした指先が震えている。

 香水と汗が混ざった匂いが、馬車の中にわずかに漂った。



 馬車が止まると、古びた屋敷が目の前に現れた。
 外壁はところどころ色が剥げ、庭の手入れも行き届いていない。

 玄関前には数人の使用人が並んでいたが、どう見ても少なすぎる。
 伯爵家とは思えない寂れた光景だった。

 わたくしは侍女の手を借りて馬車を降りた。

 淡い灰色のドレスを揺らしながら、彼女は周囲を一瞥する。

「これしか使用人がいないのですか」

 侍女の声は静かだが、驚きを隠していなかった。

「当たり前だ。歓迎されない、お前たちの出迎えなど──」

 隣の男が言いかけたところで、わたくしは軽く息をついた。

「ミランダ、人様のお家を貧乏だと嘲笑ってはいけません」

 侍女はすぐに頭を下げた。
 銀色の髪飾りが揺れる。

「はい、申し訳ありません。
 公爵家の1/10もいなかったものですから……。
 さぞかし財政が厳しいのですね。
 同情を禁じえません」

 彼女は本気で心配しているのか、それとも皮肉なのか。
 どちらとも取れる声音だった。

「あとで一緒に祈りましょう」

「はい、姫様」

 隣の男は口を閉ざし、視線を逸らした。
 礼服の襟元をいじりながら、何か言いたげに唇を動かすが、結局言葉にはならない。

「ようこそ、おいでくださいました。
 お部屋にご案内いたします」

 年老いた執事が深く頭を下げた。
 黒い服は古く、肩の縫い目が少しほつれている。

 彼の後ろ姿を追って屋敷に入ると、廊下の壁紙は色褪せ、ところどころ剥がれていた。


 案内された部屋に足を踏み入れた。

 そこは、どう見ても使用人部屋だった。

 狭く、窓も小さく、家具は最低限。

 寝台は1つしかなく、荷物を置く場所もほとんどない。

「まあ、やはり荷物を持って来なくて正解だったわね」

「さようでございますね。
 これでは荷物が1/20も入りません」

 侍女は部屋を見回しながら、真剣な顔で言った。

「あとで祈りましょう」

「はい、姫様」

 年老いた執事は深く頭を下げたまま、落ち着いた声で告げた。

「お食事は7、12、19時に持って参ります。
 この部屋は外からのみ鍵がかけられるようになっております。
 それでは、ごゆっくりお寛ぎください」

 その言葉を最後に、執事は静かに扉を閉めた。

 金属の擦れる音がして、鍵が外側から回される。

 廊下を歩く足音が遠ざかりかけたその時、突然パタンと何かが倒れる音が響いた。
 続いて、低い呻き声。

 わたくしは微動だにせず耳を澄ませた。
 侍女は静かに扉の方へ視線を向ける。

 やがて廊下が騒がしくなり、誰かの悲鳴が上がった。

 慌ただしい足音が近づき、鍵が乱暴に開けられる。

「お前、セバスチャンに何した?」

 扉の向こうに立つジュリアンは、顔を強張らせていた。
 焦りと怒りを混ぜた目で、こちらを睨む。

「何、とは?」

 わたくしは淡々と返す。

「セバスチャンがここから出て、すぐに倒れて死んだんだ」

「さようですか」

 新郎は、信じられないというように目を見開いた。

「おい、人が死んだんだぞ。
 何故そんなに落ち着いてられる」

「王妃教育の賜物ではないですかね」

 わたくしが面倒そうに言うと、男は鼻で笑った。

「はは、その王妃になりそこなった女か。
 滑稽だな、こんな場所にいて。
 本来なら今頃、王宮にいただろうに」

 侍女が一歩前に出る。
 灰色の瞳が冷たく光った。

「失礼ですが、ご用件は終わりでしょうか?」

「は? だから、セバスチャンに何したと聞いてるんだ」

「それは、こちらのセリフですよね。
 外から鍵がかけられてるのに、何ができるんですか?」

 ジュリアンは口を開きかけ、言葉を詰まらせた。

「……うるさい。確認しただけだ」

 吐き捨てるように言い、扉を閉める。再び鍵が外側から回される音が響いた。

 静寂が戻る。
 わたくしは侍女と目を合わせ、ほんのわずかに肩をすくめた。



 夕刻を過ぎ、薄暗い部屋に蝋燭の灯りが揺れていた。

 古い木の壁は冷たく、湿気を含んでいる。

 侍女が困ったように振り返った。

「姫様、湯浴みの準備をしようとしたのですが、バスタブがありません」

「あらあら、バスタブを忘れるなんて、うっかりね」

 わたくしは思わず笑ってしまった。
 侍女も肩をすくめる。

 屋敷の貧しさは想像以上だった。



 夜が更け、蝋燭の火が短くなった頃、扉が乱暴に開いた。

 バスローブ姿のジュリアンが、立ち尽くし息を飲んでいる。

 薄暗い部屋の中、鎧を着たわたくしの姿が影を落としていたからだろう。

「な、だ、誰だ?」

「わたくしですわ」

 兜を少しずらし、顔を見せる。
 金属の縁が頬に触れ、ひんやりとした。

「何の御用でしょうか。
 わたくし、もう寝るところですの」

「なんで、そんな格好をしている?!」

「万一にも、純潔を散らされては困るからです。
 それよりも、何の御用でしょうか?」

「だ、は? え、なぜ?」

 彼は理解できないというように目を瞬かせた。

 わたくしは小さくため息をつく。

「何の御用でしょうか」

「お、お、お前を愛することはない」

「ですが──」

「すがっても無駄だ。
 俺にはベラという恋人がいる」

 わたくしは舌打ちした。
 鎧の籠手がわずかに鳴る。

「そうではありません。
 神の前で、あなたは『愛する』と誓っていたではありませんか。
 早速、誓いを破るのですか。
 それなら、わたくしみたいに最初から『誓わない』と言えば良かったではないですか」

「う……う、う、うるさい。小癪なやつだ」

 怒りに顔を赤くし、新郎は扉を乱暴に閉めて出ていった。

 廊下で足音が遠ざかる。

「暇な方ね」

 わたくしが呟くと、侍女が微笑んだ。

「さ、甲冑を脱いで寝ましょう」

 わたくしは頷き、侍女に手伝われながら鎧の留め具を外した。
 金属が外れるたび、今日という日の滑稽さが胸に積もっていく。




 薄い光が小さな窓から差し込み、埃が舞っていた。

 朝の空気は冷たく、湿った木の匂いが鼻をかすめる。

 やがて扉が開き、無表情のメイドがトレイを運んできた。
 パン2つと水2杯だけの、あまりに質素な朝食だ。

 彼女は何も言わず、テーブルにトレイを置くとすぐに出ていった。

 足音が遠ざかり、廊下が静かになったかと思えば──

 悲鳴が響いた。

 侍女は肩を竦めると、窓を開けた。

 朝の風が吹き込み、カーテンが揺れる。

「姫様、失礼いたします」

 そう言って、侍女はトレイごと外へ放り投げた。

 ガシャン、と金属の音がして、続いてまた悲鳴が上がる。

 どうやら下に人がいたらしい。

 わたくしは刺繍を続けながら、暇を潰した。

 外が慌ただしくなり、怒号と足音が交錯する。

 やがて、扉が勢いよく開かれた。

 ずぶ濡れのジュリアンが立っていた。
 金髪は水を滴らせ、シャツはパンカスで汚れている。

「窓から食事を捨てるとは……どういう了見だ!」

 怒鳴り声が部屋に響く。

 侍女は一歩も引かず、淡々と答えた。

「あれは“食事”だったのですか?
 鳥の餌だと思って、鳥にやったのです」

「なっ……!」

 男の顔が真っ赤になり、濡れた髪が頬に張り付く。

 わたくしは刺繍を置き、静かに微笑んだ。

「ミランダ、それだと伯爵家がとても貧乏だという風に聞こえるわ。
 “蟻に慈悲を与える、ボランティア精神に溢れた方たち”と言わなければ」

 侍女は深く頷いた。
 灰色の瞳が真面目に光る。

「確かに……その方が伯爵家の名誉を守れますね」

 ジュリアンは、口を開いたまま固まった。
 返す言葉が見つからないらしい。

 わたくしは刺繍の糸を指に絡めながら、静かに口を開いた。

「フェルマー伯爵令息。
 ご用件が、それだけでしたら……私は朝の祈りがありますので」

 男の肩がびくりと震え、顔がみるみる赤くなる。

「……っ、ふ、ふざけるな!
 うちは、そんなに貧乏じゃない!」

「まあ、そうでしたの?
 父が事前に調査した時は、借金だらけだとありましたが」

「ぐ、うるさい! うるさい! だま──」

 その瞬間、廊下から慌ただしい足音が近づいてきた。

「大変です、キッチンが燃えています! 念のため避難を!」

 若い使用人が青ざめた顔で叫ぶ。

「なっ、わ、わかった!」

 ジュリアンはわたくしたちを振り返る余裕もなく、扉を開け放したまま走り去った。

 廊下の向こうで怒号と足音が交錯し、屋敷全体が騒然としていく。

 侍女は静かに扉へ歩み寄り、ため息をついた。

「まったく、礼儀がないですね」

 そう言って、丁寧に扉を閉めた。
 古い蝶番がきしむ音が部屋に残る。

 わたくしは刺繍を再開しながら、静かに思う。  
 この屋敷での混乱は、まだ始まったばかりだ。







 屋敷の外は騒然としていた。

 黒煙が空へ昇り、焦げた匂いが鼻を刺す。

 使用人たちは慌てて外へ飛び出し、庭に集まっている。

 火の粉が風に乗り、まだ熱を帯びた空気が肌を刺した。

「ねえ、アウローラは?
 この機会だから『火傷防止』とか言って水をかけてやろうと思ったのに」

 恋人のベラが、不満げに唇を尖らせる。
 赤いドレスの裾をつまみ、煙を避けるように後ずさった。

 俺は辺りを見回した。
 どこにも、あの女の姿がない。

 逃げられるように、わざと鍵をかけずに出てきたはずだ。
 なのに、なぜ避難していない。



 数時間燃え続けたキッチンは、屋敷が半焼する前にようやく鎮火した。
 だが、もう使い物にならないらしい。

 焦げた木材の匂いが、まだ鼻に残っている。

「みんな、とりあえず復旧作業をしよう」

 俺が声を上げると、家令が眉をひそめた。

「何をおっしゃいますか。
 まだ火跡の熱が残ってますし、そもそも解体業者に依頼せず素人がやったら怪我しますよ」

「それは……確かに。
 だったら、どうすればいい?」

「復旧作業が終わるまで家に帰れる者は帰って、帰れない者は近くに宿を取るか、宿が満杯ならテントなどを張っての宿泊になるでしょう」

「分かった。では、そのように取り計らえ」

「はい」

 その時、ベラ付きのメイドが吐き捨てた。

「全く。血筋だけで何もできない無能な公爵令嬢が嫁いできてから、ろくなことないですね」

「本当よ。あいつ疫病神なんじゃないの?」

 ベラが同意するように腕を組む。

 俺はふと気づき、周囲を見渡した。

「そういえば、あいつ、どこ行った」

「知らないわよ。煙吸って死んでんでしょ」

「それはまずいだろ。
 嫁いで、すぐ死んだなんて公爵に知られたら殺されるぞ」

 胸がざわついた。
 あの女が死んだら、俺の家がどうなるか分からない。

 嫌な汗が背中を伝う。

 俺は急いで、あの女を閉じ込めていた部屋へ向かった。



 部屋の前に立つと、外側から鍵がかかっていた。
 わざと開けておいたはずなのに。

 震える指で鍵を回し、扉を開けた。

 中は静まり返っていた。

 薄暗い部屋の中、侍女も、あの女の姿もない。

「……いない?」

 胸がざわつく。

 部屋の隅から隅まで探すが、どこにもいない。

 窓も閉まっている。隠れられる場所などないはずだ。

 どういうことだ?
 どうなってる?
 どうすればいい?

 いや違う。

 逃げた後に、誰かが鍵を閉めたんだ。
 きっと、そうだ。
 そうでなければ説明がつかない。

「何してるの? 荷物持って宿に行くわよ」

 背後からベラの声がした。
 不機嫌そうに眉を寄せている。

 俺は状況を説明した。
 鍵が閉まっていたこと、部屋に誰もいなかったこと。

「アウローラが逃げた後に、誰かが鍵を閉めたんでしょう」

「何のために?」

「知らないわよ。さあ行きましょう」

 ベラは面倒くさそうに言い、俺の腕を引いた。



 屋敷の奥にある自分の部屋へ向かうと、扉が半開きになっていた。

 胸騒ぎがして中へ入る。

 息が止まった。

 部屋は、めちゃくちゃに荒らされていた。

 壁には穴が開き、床板は剥がれ、貴重な絵画やオブジェ、花瓶は粉々に砕け散っている。
 衣服は引き裂かれ、部屋全体に油が撒かれていた。

 焦げ臭い匂いが鼻を刺す。

「なっ……強盗よ! 強盗! 憲兵に──」

 ベラは叫びながら廊下へ飛び出した。

 これが強盗? どう見ても怨恨じゃないか。

 俺の背中に冷たい汗が流れた。

 その時、悲鳴が響いた。

 慌てて廊下へ出ると、ベラが腰を抜かして座り込んでいた。
 顔面蒼白で震えている。その視線の先には──

 ベラ付きのメイドが血まみれで倒れていた。
 目は虚ろに開き、胸元には深い傷。すでに息はない。

「ふ、2日で3人も使用人が死ぬなんて……」

 俺が呟くと、近くにいたメイドが震える声で言った。

「3人ではありません。
 キッチンにいた調理人も全員……ですから8人です」

「は、8?」

 足元がぐらりと揺れた。
 喉が乾き、声が出ない。

「ねえ……これって……呪いじゃない……?」

 ベラが震える声で言った。

「黙れ!」

 俺は怒鳴り返したが、胸の奥では同じ言葉が渦巻いていた。

 本当に──呪いなのか。

 そんな中、家令が血相を変えて駆け寄ってきた。

「ぼっちゃま……ご報告がございます」

 俺は疲れ切った顔で振り返った。
 頭痛がする。胸がざわつく。

「……今度は何だ?」

 家令は深く頭を下げ、淡々と告げた。

「洗濯メイドが……庭で3名ほど死んでおりました。
 すでに憲兵に報せましたので、対応をお願いします」

 言葉の意味が理解できず、思考が止まった。

「え? は? ……3……?」

 家令は静かに頷く。

 頭の中で数字が弾けた。  
 さっきのメイド、キッチンの調理人たち、そして今の3人。

「11……? 2日で……11人……?」

 口が勝手に動く。
 声にならない声が漏れた。  

 理解が追いつかない。
 現実味がない。  
 こんなこと、あり得るはずがない。

「と、とりあえず……昨日、領地に向かった両親を呼び戻してくれ……!」

「早馬を出します」

 家令は深く頭を下げ、すぐに走り去った。

 俺は、その場に立ち尽くした。
 足が震えている。  

 11人……?  
 なんで……なんでこんなことに……。

 アウローラは……どこに……?  
 まさか……いや、そんな……。

 だが、頭の奥で声が囁く。

 ──これは偶然ではない。

 その考えを否定しようとしたが、喉が乾いて声が出なかった。



 屋敷の前には憲兵たちが集まり、使用人たちの確認や現場の封鎖に追われていた。

 焦げた匂いと血の匂いが混ざり、空気は重く淀んでいる。

 俺はその中心で、もはや何が起きているのか理解できずに立ち尽くしていた。

 憲兵隊長が書類を手に、重い声で告げる。

「たった2日で11人も死亡し、部屋が荒らされ、屋敷が半焼……ですか」

 喉がひりつく。
 俺は顔を引きつらせながら頷いた。

「そ、そうだ……頼む、なんとかしてくれ……」

 だが、隊長は首を横に振った。

「申し訳ありませんが、これは我々の手に負える範囲を超えています。
 王宮騎士団に回します」

「……っ、わかった。今は……復旧作業を頼む」

 すがるように言ったが、隊長は淡々と返した。

「いえ、それは我々の仕事ではありません。
 復旧は業者に依頼してください」

「う……わかった……」

 俺はその場に立ち尽くした。

 思考がまとまらない。  
 ただ、不安だけが確実に形を持ち始めていた。

 そのとき、屋敷の奥で影が揺れたように見えた。

 俺は反射的に振り返った。
 だが、そこには誰もいない。



 呆然としているうちに、いつの間にか空は暗くなっていた。

 焦げた匂いがまだ残り、屋敷の壁は黒く煤けている。

 冷たい夜風が吹き抜け、肌を刺した。

 そこへ家令が足早に近づいてきた。
 顔色は悪く、手には書類が握られている。

「ぼっちゃま……王都中の宿屋に宿泊を拒否されました」

「は?」

 意味が分からず、思わず聞き返した。

「ですので、庭にテントを張ります」

「ちょ、え? 何で?」

 家令は淡々と続けた。

「すべての宿で『今後フェルマー伯爵家とは取引しない』と言われたそうです」

「何?! 理由は?」

「門前払いされたようなので、理由は分かりません」

 頭が真っ白になった。  

 なぜだ? どうしてだ? 

 昨日まで普通に暮らしていたはずなのに。



 使用人たちは黙々と庭にテントを張り、焚き火を起こし、残った食材で簡単な料理を始めていた。

 そのとき、馬車の音が近づいてきた。  

 黒い馬車が門をくぐり、ゆっくりと庭へ入ってくる。

 扉が開き、紫のドレスの裾が現れた。  
 アウローラが侍女を伴って降りてくる。

「なっ、なっ、ど、どこに行ってた?」

 声が裏返った。  
 この混乱の中、どこへ行っていたというのか。

「今日はアルマン家のお茶会でしたの。
 執事から聞きませんでした?」

「執事は死んだと言ったろ」

「あら、ちゃんと茶会の予定を報告してから死ぬべきですわ。
 教育がなってませんのね」

「は、な、バカなことを……」

 言い返そうとしたが、言葉が喉でつかえた。  

 彼女はまるで何事もなかったかのように、侍女と共にすたすたと屋敷へ向かっていく。

「待て、家の中は危険だ」

 思わず声が裏返る。  
 だが彼女は振り返り、首を傾げた。

「地震ならともかく火災なのに、なぜ危険なのです?
 倒壊するのですか?」

 ……言われてみれば、そうだ。  

 火事はキッチンだけで、屋敷全体が崩れるほどではない。  

 なのに、なぜ俺たちは庭でテントを張っている?

 考えがまとまらないうちに、気づけばアウローラの姿はもうなかった。  

「キャンプはやめて家に入ろう」

 俺は家令に言った。  
 家令は眉をひそめ、静かに答える。

「柱の一部が燃えて弱っています。
 崩れる可能性はあります」

「確かに、そうだ」

 さっきの自分の言葉が、急に馬鹿らしく思えた。



 アウローラの部屋へ向かうと、また外から鍵がかかっていた。  

 胸がざわつく。  

 鍵を開け、中を覗く。

 次の瞬間、息が止まった。

 部屋の真ん中に、湯気の立つバスタブが置かれていた。  
 その中で、アウローラが白い肌を湯に沈めている。

「きゃっ」

「失礼!」

 慌てて扉を閉めた。  

 心臓が跳ねる。  
 顔が熱くなる。

 ……いや、待て。  
 なんで、あんなところにバスタブが?

 それに、キッチンは燃えて使えない。  
 湯を沸かす場所などないはずだ。
 どこから湯を調達した?

 背中に冷たい汗が流れた。  

 もう1度確認しようと、扉に手をかけた。  

 中では湯浴みをしていたはずだ。  

 さっきは驚いて飛び出してしまったが、どうして湯があるのか確かめなければならない。

 そっと扉を開けようとした瞬間──

 バシン、と頬に衝撃が走った。

「変態! 出て行きなさい!
 覗くなんて最低ですよ!」

 侍女が拳を握りしめ、鋭い目で睨みつけていた。  
 灰色のドレスの裾が揺れ、怒りで頬が紅潮している。

「違う! 何で、どうなってるんだ……意味がわからない。
 俺はただ……」

 言い訳をしようとしたが、侍女は容赦なく押し返してきた。

「出て行きなさい!」

 背中を押され、俺は廊下に追い出された。  

 頬が熱い。  
 心臓が早鐘を打つ。  
 何がどうなっているのか、本当に分からない。



 庭へ戻ると焚き火の明かりの中で、ベラと使用人達が倒れて呻いていた。  
 顔色は悪く、汗を流し、身体を丸めている。

「ベラ! ベラ、どうした?」

 駆け寄ると、ベラは苦しげに手を伸ばした。

「……医者を……早く……」

「わかった! おい、誰か早く医者を呼べ!」

 叫んだが、誰も動かない。  

 倒れている者ばかりで、立っている者すらいない。

「あなた以外、動ける人はいない……早く言ってよ……」

 ベラが涙を滲ませながら訴える。

「な……仕方ない!」

 俺は走り出した。  

 庭の焚き火が背後で揺れ、夜風が冷たく頬を打つ。

 ──侍医を呼ばなければ。  
 このままでは、本当に誰もいなくなる。



 夜の王都を走り抜け、侍医の家の扉を叩いた。
 冷たい空気が肺に刺さる。息が荒い。

「頼む! ベラが……使用人たちが倒れて……!」

 扉がわずかに開き、侍医が顔を出した。  
 その顔は怯え、青ざめ、まるで幽霊でも見たかのようだった。

「……フェルマー家ですか……」

「ああ! 早く来てくれ!」

 侍医は震えるように首を横に振った。

「今日限り……侍医を辞めます。
 もう……関わりたくありません」

「は……?」

 扉はすぐに閉じられ、内側から鍵がかけられた。  
 叩いても返事はない。  

 胸の奥がじわりと冷えていく。  
 理解できない。

 しかし足を止めず、王都の病院を次々と回った。

 だが、どこも同じだった。

「フェルマー家の人間は診ません」
「申し訳ありませんが、お引き取りを」
「うちは関係を断っています」
「他を当たってください」

 名前を告げた瞬間、受付の表情が固まり、声の温度が一気に下がる。  

 理由を尋ねても、誰も答えない。  

 ただ、恐怖と嫌悪の混じった目で見られるだけだった。

 王都の灯りが、やけに遠く感じた。  
 足が重い。  
 息が苦しい。

 医療からも拒絶された。  
 宿屋からも拒絶された。  
 憲兵にも見放された。

 そして──アウローラだけが、優雅に湯浴みをしていた。

 理解が追いつかない。  
 何が起きているのか分からない。  

 言葉にできない恐怖が広がっていく。



 とぼとぼと屋敷へ戻ると、庭には冷たい夜風が吹き抜けていた。

 そこに──使用人たちの死体が転がっていた。

 焚き火の残りが赤く揺れ、影が死体の上を這う。  

 ベラだけが地面に倒れたまま、かすかに呻いていた。

「ベラ……どうした……何で……どうすれば……」

 声が震えた。  

 助けを求めるように周囲を見回すが、動ける者は誰もいない。

 昼間、憲兵が言っていた言葉が脳裏に浮かぶ。

 ──王宮騎士団に回します。

「……王宮に行こう」

 自分に言い聞かせるように呟き、夜の王都へ走り出した。



 王宮騎士団の詰所に着くと、衛兵たちが怪訝そうな目でこちらを見た。  

 俺は息を切らしながら状況を説明した。

 屋敷が半焼したこと。  
 使用人が次々と死んでいること。  
 医者にも宿屋にも拒絶されたこと。

 騎士たちは互いに顔を見合わせ、やがて1人が前に出た。

「フェルマー伯爵令息。
 あなたを放火および殺人の容疑で逮捕します」

「……は?」

 言葉の意味が理解できなかった。

「違う! 俺じゃない! 俺は被害者だ!」

 騎士は冷たい目で言い放つ。

「犯罪者は、みんなそう言うんだ」

 腕を掴まれ、後ろ手にねじられる。  
 鉄の手錠が冷たく肌に食い込んだ。




 牢の中は湿っていて、冷たかった。  

 石の床に体育座りしたまま、時間の感覚が曖昧になっていく。  

 食事が10回以上出てきたのだから、3日は経ってる。

 鉄格子の向こうから足音が近づき、顔見知りの騎士が無表情で立ち止まった。

「お前の処刑が決まったぞ」

「なっ……嘘だろ。俺は何もしてない」

 声が震えた。  
 騎士は鼻で笑う。

「本当に何もしてないのか?」

「た、確かに妻を監禁したが……それだけだ。
 一連の犯人はアウローラだ」

 騎士は肩をすくめた。

「ふうん。仮に、お前の言う通りでもディアナ公爵令嬢は、どれだけ人を殺しても処刑されないよ」

「は? なんだそれ。
 あんな、王太子殿下に婚約破棄された──血筋だけで使い物にならない無能な女が、何故?」

 騎士は淡々と、しかし呆れたように言った。

「ディアナ公爵令嬢の父君は王弟。
 母君は隣国ヴァルシェリアの王女。
 母君の母君はグランツベルク帝国の皇女。
 兄君の奥様はリュミエール王国の王女。
 妹君の婚約者は、カストレオン国の第1王子。
 これで処刑できるわけないだろう。戦争になる」

 言葉が喉で止まった。  

「な、でも……罪は罪だ。
 罪人を裁かないと国民に示しがつかない」

 騎士は呆れたように、ため息をついた。

「さっきから何言ってるのかな、お前。
 お前の家で死ななかった使用人は、全員ディアナ公爵家の放った間者や監査人だ」

 35人中22人が死んだ。  
 つまり、残りの13人は公爵家の者。

「彼女のアリバイは完璧だ。
 犯人だとしても証拠は1つもない」

「そんな……どうすればいい……?」

 騎士は冷たい目で見下ろした。

「お前って本当に──自分の頭で考える能力ないよな」

「なんだ……一介の騎士のくせに」

「王宮騎士団は全員、貴族で成立してるんだぞ。
 知らないのか?
 王子殿下の腰ぎんちゃくだったくせに」

「腰ぎんちゃくじゃない……側近だ」

「学生時代、殿下の周りをウロウロしてただけで、登城して働いてるわけじゃないじゃないか。
 なんで、それが“側近”なんだよ」

「ぐ……」

 言い返せなかった。  

 ──そうだ。  
 卒業パーティーで王子がアウローラに婚約破棄を突きつけた直後、なぜか俺にアウローラを娶るよう命令してきた。

 俺にはベラという恋人がいる。  
 だが平民なので結婚はできない。  
 いつかは貴族と結婚しなければならないことは分かっていた。
 しかし、まだ先のことだと思っていた。

 なのに、あの命令は強制だった。  

 そして──用が済んだとばかりに王子は、その後1度も俺に会おうとしなかった。

 牢の冷たい石に背を預けたまま、言葉がこぼれた。

「俺は……何だったんだ?」

 鉄格子の向こうで騎士が鼻で笑う。

「王子の近くにいれば得すると、何も考えずに腰巾着してた結果、災難を押し付けられた馬鹿」

「っ……」

 反論できなかった。  
 騎士の言うことは、すべて事実だった。

 王子と仲良くしていると、親は喜んだ。  
 周囲の貴族も一目置いてくれた。  
 そばにいれば、将来は重要なポストに就けると信じていた。

 だが、実際は──役人ですらない。  
 ただの“取り巻き”だった。

 言葉を紡げなくなった俺を見捨て、騎士は去っていった。  
 牢には静寂だけが残る。


 どうしてこんなことになったのか。 
 
 使用人殺害の犯人は、公爵家の手の者だろうか。  
 他に考えられない。  
 だが、どうすればいいのか分からない。

 まずは今までのことを整理しよう。  
 その上で、ここから出る方法を考えなければならない。


 ──3年前。

 学園でフレデリック・ラングフォード王太子と同じクラスになった。  

 ラッキーだと思った。

 王子は気さくに挨拶してくれた。  
 それだけで、自分は“側近”になれると信じ込んだ。

 当時、フレデリックはアウローラの婚約者だった。  
 だが、同じクラスのマリーネ・カーヴェル男爵令嬢と恋仲になった。

 俺は2人がくっつくまで、そしてくっついたあとも、ずっとサポートしていた。  
 王子の恋路を手伝えば、信頼されると思っていた。

 ──最初、フレデリックは「学生時代だけの恋愛だ」と言っていた。

 だが、ある日「マリーネの純潔を奪ってしまった。責任を取って結婚しなければならない」と言い出した。

 しかし「男爵令嬢では王妃になれない」と窘めると、彼は「親戚の伯爵家の養子にするから大丈夫だ」と答えた。

 その時点で、もう道を誤っていたのかもしれない。

 王子有責での婚約破棄はできない。
 将来の治世に傷がつくからだ。
  
 だから、アウローラに冤罪をかけることになった。

 俺はマリーネの教科書やノートを破き、 アウローラが犯人だという噂を流した。

 だが、それだけでは婚約破棄はできない。

 仕方なく、マリーネは自ら噴水に飛び込み、アウローラに落とされたと騒いだ。

 それでも足りないと言われた。

 次にマリーネは階段から落ち、アウローラに押されたと主張した。

 ──殺人未遂だ。  
 さすがに、これで婚約破棄できるだろう。

 卒業パーティーでアウローラを断罪する際、俺も「マリーネが突き落とされるのを目撃した」と証言した。

 すると──俺が結婚するよう命じられた。

 パーティーの後で理由を問い詰めると、フレデリックは言った。

「監視が必要だから」

 その時は納得した。  
 監視を引き受ければ、それなりの恩恵が受けられると思った。


 しかし、期待した恩恵は何もないまま、卒業式の1ヵ月後に結婚することになった。  

 急ピッチで準備が進み、当日を迎えた。

 結婚式には名だたる人物が並んでいた。  
 その光景に肝が冷えた。

 王子とマリーネも招待したはずだったが──  
 2人の姿はなかった。


 バージンロードの先から──カシャン、カシャンと金属音が響いた。

 アウローラが、ウェディングドレスの下に甲冑を着て現れたのだ。

 参列者たちがざわつく中、彼女は平然と誓いの言葉を拒否した。


 教会を出るときも馬車に乗るときも、エスコートしたのは新郎の俺ではなく侍女だった。

 馬車に乗り込み、結婚式で恥をかかされたことを言おうとした瞬間、侍女がついたてを立てた。

 俺とアウローラの間に、分厚い壁ができた。


 披露宴では突然腹を下し、会場にいられなかった。  

 なんとか自宅に戻ると、執事がアウローラを部屋へ案内していった。

 だが──その直後に彼は死亡した。

 最初は偶然だと思った。


 次に、アウローラの元へ朝食を運んだメイドが、階段から落ちて死んだ。

 さすがにおかしいと思い、アウローラに事情を聞きに行くと──  
 屋敷が火事になった。

 結婚して、すぐ死なれると困るので部屋の鍵は、かけずにおいた。

 だが避難先の庭に、彼女の姿はなかった。


 その後も、料理人、洗濯メイド、ベラのメイドが死んでいった。  

 部屋は荒らされ、家具は破壊され、油が撒かれた。

 途方に暮れていると、アウローラが平然と帰ってきた。
 まるで何事もなかったかのように。

 話し合いもできないまま困っていると、使用人とベラが毒に倒れた。  

 医者は誰も来てくれなかった。

 王宮に助けを求めに行くと──  
 俺は逮捕された。


 膝を抱えたまま、暗い牢の中で呟いた。

「これは……復讐……?」

 言葉にした瞬間、背筋が冷えた。  

 もしかして王子は、こうなることを分かっていたのではないか。  

 アウローラの怒りが全部、俺に向くように仕向けたのではないか。

 俺は──最初から捨て駒だったのか。

「そんな……バカな……。
 おい、誰か来い! 王子を呼んできてくれ!
 ふざけるな、こんなことあってたまるか!」

 鉄格子の向こうに牢番が現れた。

「罪人のお前が、王族を呼べるわけないだろう」

「しかし! ……分かった、自白する。今までやったことだ。
 王子に頼まれてアウローラを貶めた。
 司法取引してくれ!」

 必死に叫んだが、牢番は鼻で笑った。

「ここは王宮騎士団の管轄だ。
 王族の罪を告白したって、誰も聞いてくれるはずないだろう」

 足元が崩れるような感覚がした。

「な……そんな……嫌だ……このまま殺されるなんて……」

 牢番は肩をすくめた。

「お前にできるとしたら──」

「なんだ……?」

「ディアナ公爵令嬢が、お前を『処刑するな』と、一言いえば助かる」

 息が止まった。

「それは……」

「跪いて謝れば、許してもらえるかもしれないぞ」

 その“かもしれない”が、あまりにも遠く感じた。

「可能性は、ほぼないと思うがな。
 ……でも、やってみるか?」

 俺は唇を噛みしめた。

「……やってみよう。アウローラを呼んでくれないか」

「まあ、聞くだけ聞いてみてやる」

 牢番はそう言い残し、足音を響かせて去っていった。

 暗い牢に、再び静寂が落ちた。



 どれほど時間が経ったのか分からない。  
 牢の外から足音が近づき、鉄格子の前で止まった。

「ディアナ公爵令嬢が来てくださるそうだ。
 貴族牢に移れ」

 騎士の言葉に胸が跳ねた。  

 助かるかもしれない──そんな淡い期待が一瞬だけ胸に灯る。

 だが、すぐに気づいた。

 本来、最初から貴族牢に入れられるはずなのに、一般牢に放り込まれていた。

 つまり──  
 最初から俺が逮捕されることは、織り込み済みだった。

 背筋が冷えた。



 風呂に入れられ、髪を整えられ、服を着替えさせられた。  

 そして、アウローラと対面する部屋へ通された。

 薄紫のドレスに身を包んだアウローラは、まるで舞踏会にでも来たかのように優雅に立っていた。

 ワインレッドの髪を結い上げ、同色の瞳に笑みを称えている。

 俺は地面にひれ伏し、声を震わせた。

「どうか……どうか許してください……!」

 アウローラは、挨拶でも返すように軽く言った。

「宜しくてよ」

「え……」

 許されたのか。  
 それとも──ただの返事なのか。

 判断がつかないまま固まっていると、アウローラは侍女に視線を向けた。

「では帰りましょうか」

 それだけ言って、くるりと背を向けた。

 まるで、ここに来たのは“ついで”でしかないかのように。

 見張りの騎士が俺を見下ろし、短く告げた。

「ディアナ公爵令嬢について行け」

 俺は立ち上がり、震える足でその背中を追った。

 助かったのか。  
 それとも──別の地獄が始まるのか。

 答えは、まだ分からなかった。



 ディアナ公爵家に到着すると、侍女たちが整然と並び出迎えた。  

 アウローラは馬車を降りると、こちらを一瞥し告げた。

「晩餐会があるの。あなたは調理担当よ。
 屠殺小屋に行って、料理に使う肉を解体して持ってきてちょうだい」

 言葉の意味が、すぐには理解できなかった。  

 伯爵令息である自分に、肉の解体を命じるなどあり得ない。  

 だが、逆らえばどうなるかは、もう嫌というほど思い知らされている。

 使用人の1人が無表情で言った。

「こっちだ」

 敬語すらない。  
 胸の奥がざらついたが、口には出せなかった。  
 言えば──殺されるかもしれない。



 案内された屠殺小屋の扉を開けた瞬間、息が止まった。

 人間の死体が吊られていた。

 腰が抜けそうになり、壁に手をつく。  
 よく見ると、そのピンクの髪に見覚えがあった。

 ──フレデリックの恋人マリーネだった。

 全身は凄まじい拷問の跡で覆われ、損傷していない部分がないほどだった。  
 皮膚は裂け、骨が覗き、血が乾いて黒くこびりついている。

 背後から係の男が、斧を差し出してきた。

「その肉は死後硬直で皮が剥がれないから、削ってくれ。
 首を落として、ちゃんと血抜きするんだ。
 分かったな?」

 斧の柄が手に押しつけられる。  
 俺は首を横に振った。

「む、無理だ……こんな──」

 言い終わる前に、背中に激痛が走った。  
 ──鞭だ。

「命令に背いた場合は、鞭を打つように言われている。
 動けなくなるまで打たれたくなければ、さっさとするんだ」

 再び鞭が振り下ろされる。  
 皮膚が裂け、息が詰まる。

 逃げ場はなかった。  
 見張りが2人、出口を塞いでいる。

 震える手で斧を握り、マリーネの身体に近づく。  
 血の匂いが鼻を刺し、胃がひっくり返りそうになる。

 斧を振り下ろすたび、肉が裂け、骨が軋む音が響いた。

 こんなことが王子に知れたら、いくらアウローラに許されたとしても──  
 もう終わりだ。

 だが、ここには逃げ場がない。  
 ただ、命令に従うしかなかった。

 恐怖で手が震え、パニックで呼吸が乱れながらも、言われるままに解体を続けた。  

 皮を削り、肉を切り分け、使う部分と使わない部分を分ける。

「使わない部分はドブに捨てろ」

 係の男に言われ、ふらつく足で外へ運び、黒い水の中へ落とした。  

 ぼちゃん、と鈍い音が響き、再び胃がひっくり返りそうになる。

 可食部分を抱えてキッチンへ戻ると、調理人が無表情で言った。

「それを使って2人分の料理を作れ。補助はする」

 言われるまま震える手で包丁を握り、肉を切り、焼き、味を整えた。  

 調理人は淡々と指示を出し、俺はただ従うしかなかった。

 料理が完成すると、使用人の服を渡され着替えさせられた。  



 晩餐会の場に行くと、壁際に控えるよう命じられた。  

 テーブルにはアウローラの家族が並び、その向かいにはフレデリック・ラングフォード王子が座っていた。

 さらに、もう1人──  
 青髪のトマリ・アラウザー侯爵令息。  
 学生時代、王子の腰巾着をしていた仲間だ。  
 彼の父親は宰相で、今も王の側近として名を馳せていた。

 俺が作った料理は、王子とトマリの前に置かれた。

 2人は何の疑いもなくナイフとフォークを手に取り、口へ運ぶ。

 トマリは、マリーネを愛していたはずだ。  
 それなのに自分が食べている肉が誰のものか、まったく疑っていない。

 壁際で立ち尽くす俺の手は、震え続けていた。

 食事が終わると、アウローラが静かに口を開いた。  

「次は、アラウザー侯爵令息の元に嫁ぎます」

 トマリの顔が強張った。

「お断りします」

 アウローラは瞬き1つせず、淡々と返した。

「そう。残念」

 その瞬間、騎士達がトマリの腕を掴んで立たせた。  

 彼は椅子を倒しながら抵抗する。

「離せ! 何を──」

 アウローラは静かに命じた。

「利き腕を斬り落としなさい」

 騎士たちは淡々と従い、トマリを押さえつけた。

 傷口を止血し、何か分からない注射を打つとトマリは動かなくなった。

 そして、外へ運び出される。

 扉が閉まり、会場には再び静寂が戻った。

 アウローラは、ワイングラスを指先で転がしながら言った。

「炭鉱夫にしようと思ったけれど……治験にしましょう。
 お父様、彼の家はどのように潰しましょうか?」

 その声は、まるで天気の話でもしているかのように軽い。

 ディアナ公爵は、ナプキンで口元を拭いながら答えた。

「前のアホ伯爵家のように、使用人から順番に殺していけばいいのでは?」

「うーん……嫁がないと実況中継のような楽しさがないのです」

「では森に放ち、獲物として逃がそう。逃げ切れたら恩赦だ」

 アウローラは満足げに頷いた。

「アラウザー侯爵夫妻は走れ無いでしょうが、兄君は走れそうですわね。
 ──殿下、ご予定はいかがでしょうか?」

 晩餐会の空気がわずかに揺れた。  
 王子がワイングラスを置き、弱々しい声で言った。

「もう……許して貰えないか?  
 側近は全員変死。議員は僕を『廃嫡せよ』と言う。
 少しでも僕を気にかける使用人や親族は、みんな次々に身内が不幸になる。  
 そしてマリーネの実家は没落し、一家で行方不明だ……」

 その顔は蒼白で、目の下には深い隈が刻まれていた。  
 かつての自信に満ちた王子の面影は、どこにもない。

 アウローラは、にこにこと微笑んだ。  
 その笑顔は、まるで春の陽光のように柔らかいのに、背筋が凍るほど冷たかった。

「殿下、それは終わりではなく──始まりなのです」

 フレデリックの顔が引きつり、固まった。  
 喉がひくりと動く。

 アウローラは首を傾げ、無邪気な声で言った。

「ところでマリーネさんという方は、どなたですか?」

 フレデリックの肩が、びくりと震えた。

「それは……君が……」

「聞いたことありませんわ。
 どういった、お知り合いですの?」

 王子は沈黙した。  
 言葉を失ったというより、言えないのだ。  
 この場で、何を言えば命取りになるか理解している。

 アウローラは軽く頷いた。

「宜しいですわよ」

「え……?」

「先ほど“許して貰えないか”と仰ったでしょう」

 フレデリックの顔に、わずかな安堵が浮かんだ。

「いいのか……ありがとう……」

 その瞬間、アウローラは扇子を閉じ、俺に視線を送った。

「ジュリアン。彼を屠殺小屋に案内して、仕事を教えてあげて」

 フレデリックが驚愕し、こちらを振り向いた。

「お前……!」

 今まで彼は、俺の存在に全く気付いていなかった。

 そして──アウローラの「宜しくてよ」は、“許す”ではなく  “次の段階”という意味。

 王子の膝が震え、椅子がきしむ音が響いた。

 晩餐会の空気は、誰も声を上げないまま、静かに凍りついていった。



 王子を連れて屠殺小屋へ向かう。  

 扉を開けた瞬間、フレデリックは悲鳴を上げ、俺は膝から崩れ落ちた。

 そこに吊られていたのは──ベラだった。

 王子は蒼白になり、後ずさる。  
 俺は声も出ない。  
 ただ、胸の奥が焼けるように痛む。

 背後から鞭の音が響き、俺の背中に衝撃が走った。

「仕事は教えたろう。さっさとやれ」

 係の男が冷たく言う。  
 逃げ場はない。

 震える手で、解体していく。
 涙が頬を伝う。

 ふと、胸に黒い感情が湧き上がる。

 ──何もかも、王子が悪い。

 フレデリックが俺に厄介を押し付けなければ、最愛のベラは死ななかった。  
 俺の家も、人生も、壊れなかった。

「殿下……ご存知ですか?」

 王子は震える声で返す。
 手にはノコギリが握られている。

「な、何が……?」

「本日、殿下が召し上がった料理──あれはマリーネでしたよ」

 フレデリックの顔から、血の気が引いた。

「……は?」

「確かめたければ、ドブをさらってみてください。  
 ピンク色の髪が、きっと見つかります」

 王子は頭を抱え、叫び声を上げた。

「…………うあああああああああ!」
  
 その声は小屋の中に響き渡り、やがて鞭の音にかき消された。

「無駄口を叩くな。働け」

 係の男が怒鳴る。  

 フレデリックは半狂乱になり、係に掴みかかった。

 その瞬間、俺の手は斧へ伸びた。

 振り上げた刃は、ベラではなく王子の背に向けて──





 その後、ジュリアンは王子殺しの罪で逮捕された。  
 殺人と無関係のトマリも共犯として裁かれ、両家は取り潰しとなった。

 アウローラは女王になると、フレデリック元王子の両親──先王夫妻を処刑した。



 めでたし、めでたし。




□完結□




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感想 3

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みんなの感想(3件)

Kou
2026.03.16 Kou

ナイスです!
これこそがクズに対する高級なざまぁです!
本当、王サマも困ったな、こんなバカげてる連中をここまで野放しでいたなんて。ご愁傷サマ~
合掌。

2026.03.16 星森 永羽(ほしもりとわ)

コメントありがとうございます!
男爵令嬢を伯爵の養子にしても、国母になるには力不足なのに恋愛脳ですよね~

解除
はなこ
2026.03.16 はなこ

めでたしめでたし、で「ほんとは怖いグリム童話」を読んでる気分になりました
読後はスッキリしたというより、もっと読みたい!と興奮してしまいました

2026.03.16 星森 永羽(ほしもりとわ)

コメントありがとうございます!
励みになります。
小説家になろうで掲載している「お返しします」 という作品が、これと似ています。

解除
さやえんどう
ネタバレ含む
2026.03.15 星森 永羽(ほしもりとわ)

いつもコメントありがとうございます!
恋愛脳って怖いですね
ホラータッチにしてみました

解除

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