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王子が悪役令嬢と婚約破棄するのを手伝った結果
しおりを挟むカシャカシャと金属の擦れる音が、静まり返った礼拝堂に響いた。
白い花弁が敷き詰められたバージンロードを進むたび、わたくしの足元で鎧が鳴る。
純白のウェディングドレスの下に、銀の軽鎧を着込んでいる。
参列客たちは奇妙な顔をしてこちらを見るが、誰1人として声を上げない。
父であるディアナ公爵が怖いからだ。
高い天井から差し込む光がステンドグラスを通り、赤や青の影を床に落としていた。
わたくしは、その中をまっすぐ歩き新郎の隣に立つ。
フェルマー伯爵令息は金髪を丁寧に撫でつけ、白い礼服に身を包んでいた。
整った顔立ちだが、どこか軽薄さが滲む。
牧師が厳かな声で、誓いの言葉を読み上げた。
「誓います」
迷いのない新郎の声。
続いて──
「わたくし“は”誓いません」
礼拝堂がざわついた。
誰もが息を呑む気配が伝わる。
だが牧師だけは眉1つ動かさず、淡々と次の段取りへ進んだ。
事前に通達してあるからだ。
「では婚姻届にサインを」
差し出された紙に、わたくしはサラサラと署名する。
ペン先が走る音だけが響いた。
「なぜ、夫より先にサインするんだ?
普通あとだろ。
っていうか『誓わない』って、何だ?
そんな荒業あるのか?」
わたくしは彼の疑問に答えず、ただペンを差し出した。
「どうぞ」
その瞬間、白いドレスの女が勢いよく立ち上がった。
──平民のベラだ。
濃い化粧に、胸元の開いた白ドレス。
花嫁でもないのに目立つほど派手な装いだ。
「ちょっと、あんた何なの。失礼でしょ!」
怒鳴りながら前へ出ようとした瞬間、ビリッと嫌な音が響いた。
スカートが裂け、白い布が床に落ちる。
次の瞬間、彼女の下着が礼拝堂中に晒された。
ベラは甲高い叫び声を上げ、顔を真っ赤にして走り去っていく。
客席から押し殺した笑いが漏れた。
教会を出ると、外の空気は爽やかで澄んでいた。
白い石畳の上に春の陽光が反射し、馬車の黒い車体を鈍く光らせている。
わたくしの侍女は淡い灰色のドレスに身を包み、落ち着いた所作でわたくしの腕を取った。
乗り込むと、侍女も当然のように続いて馬車へ足をかける。
「なぜ侍女が──」
前に座った新郎が、驚いたように目を見開いた。
誰も質問に答えないまま、馬車がゆっくりと動き出す。
石畳を踏む蹄の音が規則的に響き、揺れが身体に伝わる。
「おい! 教会には、お前の父親がいたから静かにしていたけど、調子に乗るなよ」
わたくしは答えず、視線だけを窓の外へ向けた。
青空の下、教会の尖塔が遠ざかっていく。
侍女が静かに荷物を開き、折り畳まれた衝立を取り出した。
木製の枠に薄布が張られた簡素なものだが、馬車の中では十分な遮断になる。
侍女は、それをわたくしと男の間に、迷いなく立てた。
「わ、なんだ、これ?」
ジュリアンが情けない声を上げる。
衝立が立つと、彼の顔が半分隠れた。
「姫様はフェルマー伯爵令息の体臭が苦手なのです。
できる限り動かず、喋らないでください」
侍女の声は淡々としていた。
礼儀正しいが、容赦はない。
「なっ……」
男は慌てて自分の襟元を嗅いだ。
白い手袋をした指先が震えている。
香水と汗が混ざった匂いが、馬車の中にわずかに漂った。
馬車が止まると、古びた屋敷が目の前に現れた。
外壁はところどころ色が剥げ、庭の手入れも行き届いていない。
玄関前には数人の使用人が並んでいたが、どう見ても少なすぎる。
伯爵家とは思えない寂れた光景だった。
わたくしは侍女の手を借りて馬車を降りた。
淡い灰色のドレスを揺らしながら、彼女は周囲を一瞥する。
「これしか使用人がいないのですか」
侍女の声は静かだが、驚きを隠していなかった。
「当たり前だ。歓迎されない、お前たちの出迎えなど──」
隣の男が言いかけたところで、わたくしは軽く息をついた。
「ミランダ、人様のお家を貧乏だと嘲笑ってはいけません」
侍女はすぐに頭を下げた。
銀色の髪飾りが揺れる。
「はい、申し訳ありません。
公爵家の1/10もいなかったものですから……。
さぞかし財政が厳しいのですね。
同情を禁じえません」
彼女は本気で心配しているのか、それとも皮肉なのか。
どちらとも取れる声音だった。
「あとで一緒に祈りましょう」
「はい、姫様」
隣の男は口を閉ざし、視線を逸らした。
礼服の襟元をいじりながら、何か言いたげに唇を動かすが、結局言葉にはならない。
「ようこそ、おいでくださいました。
お部屋にご案内いたします」
年老いた執事が深く頭を下げた。
黒い服は古く、肩の縫い目が少しほつれている。
彼の後ろ姿を追って屋敷に入ると、廊下の壁紙は色褪せ、ところどころ剥がれていた。
案内された部屋に足を踏み入れた。
そこは、どう見ても使用人部屋だった。
狭く、窓も小さく、家具は最低限。
寝台は1つしかなく、荷物を置く場所もほとんどない。
「まあ、やはり荷物を持って来なくて正解だったわね」
「さようでございますね。
これでは荷物が1/20も入りません」
侍女は部屋を見回しながら、真剣な顔で言った。
「あとで祈りましょう」
「はい、姫様」
年老いた執事は深く頭を下げたまま、落ち着いた声で告げた。
「お食事は7、12、19時に持って参ります。
この部屋は外からのみ鍵がかけられるようになっております。
それでは、ごゆっくりお寛ぎください」
その言葉を最後に、執事は静かに扉を閉めた。
金属の擦れる音がして、鍵が外側から回される。
廊下を歩く足音が遠ざかりかけたその時、突然パタンと何かが倒れる音が響いた。
続いて、低い呻き声。
わたくしは微動だにせず耳を澄ませた。
侍女は静かに扉の方へ視線を向ける。
やがて廊下が騒がしくなり、誰かの悲鳴が上がった。
慌ただしい足音が近づき、鍵が乱暴に開けられる。
「お前、セバスチャンに何した?」
扉の向こうに立つジュリアンは、顔を強張らせていた。
焦りと怒りを混ぜた目で、こちらを睨む。
「何、とは?」
わたくしは淡々と返す。
「セバスチャンがここから出て、すぐに倒れて死んだんだ」
「さようですか」
新郎は、信じられないというように目を見開いた。
「おい、人が死んだんだぞ。
何故そんなに落ち着いてられる」
「王妃教育の賜物ではないですかね」
わたくしが面倒そうに言うと、男は鼻で笑った。
「はは、その王妃になりそこなった女か。
滑稽だな、こんな場所にいて。
本来なら今頃、王宮にいただろうに」
侍女が一歩前に出る。
灰色の瞳が冷たく光った。
「失礼ですが、ご用件は終わりでしょうか?」
「は? だから、セバスチャンに何したと聞いてるんだ」
「それは、こちらのセリフですよね。
外から鍵がかけられてるのに、何ができるんですか?」
ジュリアンは口を開きかけ、言葉を詰まらせた。
「……うるさい。確認しただけだ」
吐き捨てるように言い、扉を閉める。再び鍵が外側から回される音が響いた。
静寂が戻る。
わたくしは侍女と目を合わせ、ほんのわずかに肩をすくめた。
夕刻を過ぎ、薄暗い部屋に蝋燭の灯りが揺れていた。
古い木の壁は冷たく、湿気を含んでいる。
侍女が困ったように振り返った。
「姫様、湯浴みの準備をしようとしたのですが、バスタブがありません」
「あらあら、バスタブを忘れるなんて、うっかりね」
わたくしは思わず笑ってしまった。
侍女も肩をすくめる。
屋敷の貧しさは想像以上だった。
夜が更け、蝋燭の火が短くなった頃、扉が乱暴に開いた。
バスローブ姿のジュリアンが、立ち尽くし息を飲んでいる。
薄暗い部屋の中、鎧を着たわたくしの姿が影を落としていたからだろう。
「な、だ、誰だ?」
「わたくしですわ」
兜を少しずらし、顔を見せる。
金属の縁が頬に触れ、ひんやりとした。
「何の御用でしょうか。
わたくし、もう寝るところですの」
「なんで、そんな格好をしている?!」
「万一にも、純潔を散らされては困るからです。
それよりも、何の御用でしょうか?」
「だ、は? え、なぜ?」
彼は理解できないというように目を瞬かせた。
わたくしは小さくため息をつく。
「何の御用でしょうか」
「お、お、お前を愛することはない」
「ですが──」
「すがっても無駄だ。
俺にはベラという恋人がいる」
わたくしは舌打ちした。
鎧の籠手がわずかに鳴る。
「そうではありません。
神の前で、あなたは『愛する』と誓っていたではありませんか。
早速、誓いを破るのですか。
それなら、わたくしみたいに最初から『誓わない』と言えば良かったではないですか」
「う……う、う、うるさい。小癪なやつだ」
怒りに顔を赤くし、新郎は扉を乱暴に閉めて出ていった。
廊下で足音が遠ざかる。
「暇な方ね」
わたくしが呟くと、侍女が微笑んだ。
「さ、甲冑を脱いで寝ましょう」
わたくしは頷き、侍女に手伝われながら鎧の留め具を外した。
金属が外れるたび、今日という日の滑稽さが胸に積もっていく。
薄い光が小さな窓から差し込み、埃が舞っていた。
朝の空気は冷たく、湿った木の匂いが鼻をかすめる。
やがて扉が開き、無表情のメイドがトレイを運んできた。
パン2つと水2杯だけの、あまりに質素な朝食だ。
彼女は何も言わず、テーブルにトレイを置くとすぐに出ていった。
足音が遠ざかり、廊下が静かになったかと思えば──
悲鳴が響いた。
侍女は肩を竦めると、窓を開けた。
朝の風が吹き込み、カーテンが揺れる。
「姫様、失礼いたします」
そう言って、侍女はトレイごと外へ放り投げた。
ガシャン、と金属の音がして、続いてまた悲鳴が上がる。
どうやら下に人がいたらしい。
わたくしは刺繍を続けながら、暇を潰した。
外が慌ただしくなり、怒号と足音が交錯する。
やがて、扉が勢いよく開かれた。
ずぶ濡れのジュリアンが立っていた。
金髪は水を滴らせ、シャツはパンカスで汚れている。
「窓から食事を捨てるとは……どういう了見だ!」
怒鳴り声が部屋に響く。
侍女は一歩も引かず、淡々と答えた。
「あれは“食事”だったのですか?
鳥の餌だと思って、鳥にやったのです」
「なっ……!」
男の顔が真っ赤になり、濡れた髪が頬に張り付く。
わたくしは刺繍を置き、静かに微笑んだ。
「ミランダ、それだと伯爵家がとても貧乏だという風に聞こえるわ。
“蟻に慈悲を与える、ボランティア精神に溢れた方たち”と言わなければ」
侍女は深く頷いた。
灰色の瞳が真面目に光る。
「確かに……その方が伯爵家の名誉を守れますね」
ジュリアンは、口を開いたまま固まった。
返す言葉が見つからないらしい。
わたくしは刺繍の糸を指に絡めながら、静かに口を開いた。
「フェルマー伯爵令息。
ご用件が、それだけでしたら……私は朝の祈りがありますので」
男の肩がびくりと震え、顔がみるみる赤くなる。
「……っ、ふ、ふざけるな!
うちは、そんなに貧乏じゃない!」
「まあ、そうでしたの?
父が事前に調査した時は、借金だらけだとありましたが」
「ぐ、うるさい! うるさい! だま──」
その瞬間、廊下から慌ただしい足音が近づいてきた。
「大変です、キッチンが燃えています! 念のため避難を!」
若い使用人が青ざめた顔で叫ぶ。
「なっ、わ、わかった!」
ジュリアンはわたくしたちを振り返る余裕もなく、扉を開け放したまま走り去った。
廊下の向こうで怒号と足音が交錯し、屋敷全体が騒然としていく。
侍女は静かに扉へ歩み寄り、ため息をついた。
「まったく、礼儀がないですね」
そう言って、丁寧に扉を閉めた。
古い蝶番がきしむ音が部屋に残る。
わたくしは刺繍を再開しながら、静かに思う。
この屋敷での混乱は、まだ始まったばかりだ。
屋敷の外は騒然としていた。
黒煙が空へ昇り、焦げた匂いが鼻を刺す。
使用人たちは慌てて外へ飛び出し、庭に集まっている。
火の粉が風に乗り、まだ熱を帯びた空気が肌を刺した。
「ねえ、アウローラは?
この機会だから『火傷防止』とか言って水をかけてやろうと思ったのに」
恋人のベラが、不満げに唇を尖らせる。
赤いドレスの裾をつまみ、煙を避けるように後ずさった。
俺は辺りを見回した。
どこにも、あの女の姿がない。
逃げられるように、わざと鍵をかけずに出てきたはずだ。
なのに、なぜ避難していない。
数時間燃え続けたキッチンは、屋敷が半焼する前にようやく鎮火した。
だが、もう使い物にならないらしい。
焦げた木材の匂いが、まだ鼻に残っている。
「みんな、とりあえず復旧作業をしよう」
俺が声を上げると、家令が眉をひそめた。
「何をおっしゃいますか。
まだ火跡の熱が残ってますし、そもそも解体業者に依頼せず素人がやったら怪我しますよ」
「それは……確かに。
だったら、どうすればいい?」
「復旧作業が終わるまで家に帰れる者は帰って、帰れない者は近くに宿を取るか、宿が満杯ならテントなどを張っての宿泊になるでしょう」
「分かった。では、そのように取り計らえ」
「はい」
その時、ベラ付きのメイドが吐き捨てた。
「全く。血筋だけで何もできない無能な公爵令嬢が嫁いできてから、ろくなことないですね」
「本当よ。あいつ疫病神なんじゃないの?」
ベラが同意するように腕を組む。
俺はふと気づき、周囲を見渡した。
「そういえば、あいつ、どこ行った」
「知らないわよ。煙吸って死んでんでしょ」
「それはまずいだろ。
嫁いで、すぐ死んだなんて公爵に知られたら殺されるぞ」
胸がざわついた。
あの女が死んだら、俺の家がどうなるか分からない。
嫌な汗が背中を伝う。
俺は急いで、あの女を閉じ込めていた部屋へ向かった。
部屋の前に立つと、外側から鍵がかかっていた。
わざと開けておいたはずなのに。
震える指で鍵を回し、扉を開けた。
中は静まり返っていた。
薄暗い部屋の中、侍女も、あの女の姿もない。
「……いない?」
胸がざわつく。
部屋の隅から隅まで探すが、どこにもいない。
窓も閉まっている。隠れられる場所などないはずだ。
どういうことだ?
どうなってる?
どうすればいい?
いや違う。
逃げた後に、誰かが鍵を閉めたんだ。
きっと、そうだ。
そうでなければ説明がつかない。
「何してるの? 荷物持って宿に行くわよ」
背後からベラの声がした。
不機嫌そうに眉を寄せている。
俺は状況を説明した。
鍵が閉まっていたこと、部屋に誰もいなかったこと。
「アウローラが逃げた後に、誰かが鍵を閉めたんでしょう」
「何のために?」
「知らないわよ。さあ行きましょう」
ベラは面倒くさそうに言い、俺の腕を引いた。
屋敷の奥にある自分の部屋へ向かうと、扉が半開きになっていた。
胸騒ぎがして中へ入る。
息が止まった。
部屋は、めちゃくちゃに荒らされていた。
壁には穴が開き、床板は剥がれ、貴重な絵画やオブジェ、花瓶は粉々に砕け散っている。
衣服は引き裂かれ、部屋全体に油が撒かれていた。
焦げ臭い匂いが鼻を刺す。
「なっ……強盗よ! 強盗! 憲兵に──」
ベラは叫びながら廊下へ飛び出した。
これが強盗? どう見ても怨恨じゃないか。
俺の背中に冷たい汗が流れた。
その時、悲鳴が響いた。
慌てて廊下へ出ると、ベラが腰を抜かして座り込んでいた。
顔面蒼白で震えている。その視線の先には──
ベラ付きのメイドが血まみれで倒れていた。
目は虚ろに開き、胸元には深い傷。すでに息はない。
「ふ、2日で3人も使用人が死ぬなんて……」
俺が呟くと、近くにいたメイドが震える声で言った。
「3人ではありません。
キッチンにいた調理人も全員……ですから8人です」
「は、8?」
足元がぐらりと揺れた。
喉が乾き、声が出ない。
「ねえ……これって……呪いじゃない……?」
ベラが震える声で言った。
「黙れ!」
俺は怒鳴り返したが、胸の奥では同じ言葉が渦巻いていた。
本当に──呪いなのか。
そんな中、家令が血相を変えて駆け寄ってきた。
「ぼっちゃま……ご報告がございます」
俺は疲れ切った顔で振り返った。
頭痛がする。胸がざわつく。
「……今度は何だ?」
家令は深く頭を下げ、淡々と告げた。
「洗濯メイドが……庭で3名ほど死んでおりました。
すでに憲兵に報せましたので、対応をお願いします」
言葉の意味が理解できず、思考が止まった。
「え? は? ……3……?」
家令は静かに頷く。
頭の中で数字が弾けた。
さっきのメイド、キッチンの調理人たち、そして今の3人。
「11……? 2日で……11人……?」
口が勝手に動く。
声にならない声が漏れた。
理解が追いつかない。
現実味がない。
こんなこと、あり得るはずがない。
「と、とりあえず……昨日、領地に向かった両親を呼び戻してくれ……!」
「早馬を出します」
家令は深く頭を下げ、すぐに走り去った。
俺は、その場に立ち尽くした。
足が震えている。
11人……?
なんで……なんでこんなことに……。
アウローラは……どこに……?
まさか……いや、そんな……。
だが、頭の奥で声が囁く。
──これは偶然ではない。
その考えを否定しようとしたが、喉が乾いて声が出なかった。
屋敷の前には憲兵たちが集まり、使用人たちの確認や現場の封鎖に追われていた。
焦げた匂いと血の匂いが混ざり、空気は重く淀んでいる。
俺はその中心で、もはや何が起きているのか理解できずに立ち尽くしていた。
憲兵隊長が書類を手に、重い声で告げる。
「たった2日で11人も死亡し、部屋が荒らされ、屋敷が半焼……ですか」
喉がひりつく。
俺は顔を引きつらせながら頷いた。
「そ、そうだ……頼む、なんとかしてくれ……」
だが、隊長は首を横に振った。
「申し訳ありませんが、これは我々の手に負える範囲を超えています。
王宮騎士団に回します」
「……っ、わかった。今は……復旧作業を頼む」
すがるように言ったが、隊長は淡々と返した。
「いえ、それは我々の仕事ではありません。
復旧は業者に依頼してください」
「う……わかった……」
俺はその場に立ち尽くした。
思考がまとまらない。
ただ、不安だけが確実に形を持ち始めていた。
そのとき、屋敷の奥で影が揺れたように見えた。
俺は反射的に振り返った。
だが、そこには誰もいない。
呆然としているうちに、いつの間にか空は暗くなっていた。
焦げた匂いがまだ残り、屋敷の壁は黒く煤けている。
冷たい夜風が吹き抜け、肌を刺した。
そこへ家令が足早に近づいてきた。
顔色は悪く、手には書類が握られている。
「ぼっちゃま……王都中の宿屋に宿泊を拒否されました」
「は?」
意味が分からず、思わず聞き返した。
「ですので、庭にテントを張ります」
「ちょ、え? 何で?」
家令は淡々と続けた。
「すべての宿で『今後フェルマー伯爵家とは取引しない』と言われたそうです」
「何?! 理由は?」
「門前払いされたようなので、理由は分かりません」
頭が真っ白になった。
なぜだ? どうしてだ?
昨日まで普通に暮らしていたはずなのに。
使用人たちは黙々と庭にテントを張り、焚き火を起こし、残った食材で簡単な料理を始めていた。
そのとき、馬車の音が近づいてきた。
黒い馬車が門をくぐり、ゆっくりと庭へ入ってくる。
扉が開き、紫のドレスの裾が現れた。
アウローラが侍女を伴って降りてくる。
「なっ、なっ、ど、どこに行ってた?」
声が裏返った。
この混乱の中、どこへ行っていたというのか。
「今日はアルマン家のお茶会でしたの。
執事から聞きませんでした?」
「執事は死んだと言ったろ」
「あら、ちゃんと茶会の予定を報告してから死ぬべきですわ。
教育がなってませんのね」
「は、な、バカなことを……」
言い返そうとしたが、言葉が喉でつかえた。
彼女はまるで何事もなかったかのように、侍女と共にすたすたと屋敷へ向かっていく。
「待て、家の中は危険だ」
思わず声が裏返る。
だが彼女は振り返り、首を傾げた。
「地震ならともかく火災なのに、なぜ危険なのです?
倒壊するのですか?」
……言われてみれば、そうだ。
火事はキッチンだけで、屋敷全体が崩れるほどではない。
なのに、なぜ俺たちは庭でテントを張っている?
考えがまとまらないうちに、気づけばアウローラの姿はもうなかった。
「キャンプはやめて家に入ろう」
俺は家令に言った。
家令は眉をひそめ、静かに答える。
「柱の一部が燃えて弱っています。
崩れる可能性はあります」
「確かに、そうだ」
さっきの自分の言葉が、急に馬鹿らしく思えた。
アウローラの部屋へ向かうと、また外から鍵がかかっていた。
胸がざわつく。
鍵を開け、中を覗く。
次の瞬間、息が止まった。
部屋の真ん中に、湯気の立つバスタブが置かれていた。
その中で、アウローラが白い肌を湯に沈めている。
「きゃっ」
「失礼!」
慌てて扉を閉めた。
心臓が跳ねる。
顔が熱くなる。
……いや、待て。
なんで、あんなところにバスタブが?
それに、キッチンは燃えて使えない。
湯を沸かす場所などないはずだ。
どこから湯を調達した?
背中に冷たい汗が流れた。
もう1度確認しようと、扉に手をかけた。
中では湯浴みをしていたはずだ。
さっきは驚いて飛び出してしまったが、どうして湯があるのか確かめなければならない。
そっと扉を開けようとした瞬間──
バシン、と頬に衝撃が走った。
「変態! 出て行きなさい!
覗くなんて最低ですよ!」
侍女が拳を握りしめ、鋭い目で睨みつけていた。
灰色のドレスの裾が揺れ、怒りで頬が紅潮している。
「違う! 何で、どうなってるんだ……意味がわからない。
俺はただ……」
言い訳をしようとしたが、侍女は容赦なく押し返してきた。
「出て行きなさい!」
背中を押され、俺は廊下に追い出された。
頬が熱い。
心臓が早鐘を打つ。
何がどうなっているのか、本当に分からない。
庭へ戻ると焚き火の明かりの中で、ベラと使用人達が倒れて呻いていた。
顔色は悪く、汗を流し、身体を丸めている。
「ベラ! ベラ、どうした?」
駆け寄ると、ベラは苦しげに手を伸ばした。
「……医者を……早く……」
「わかった! おい、誰か早く医者を呼べ!」
叫んだが、誰も動かない。
倒れている者ばかりで、立っている者すらいない。
「あなた以外、動ける人はいない……早く言ってよ……」
ベラが涙を滲ませながら訴える。
「な……仕方ない!」
俺は走り出した。
庭の焚き火が背後で揺れ、夜風が冷たく頬を打つ。
──侍医を呼ばなければ。
このままでは、本当に誰もいなくなる。
夜の王都を走り抜け、侍医の家の扉を叩いた。
冷たい空気が肺に刺さる。息が荒い。
「頼む! ベラが……使用人たちが倒れて……!」
扉がわずかに開き、侍医が顔を出した。
その顔は怯え、青ざめ、まるで幽霊でも見たかのようだった。
「……フェルマー家ですか……」
「ああ! 早く来てくれ!」
侍医は震えるように首を横に振った。
「今日限り……侍医を辞めます。
もう……関わりたくありません」
「は……?」
扉はすぐに閉じられ、内側から鍵がかけられた。
叩いても返事はない。
胸の奥がじわりと冷えていく。
理解できない。
しかし足を止めず、王都の病院を次々と回った。
だが、どこも同じだった。
「フェルマー家の人間は診ません」
「申し訳ありませんが、お引き取りを」
「うちは関係を断っています」
「他を当たってください」
名前を告げた瞬間、受付の表情が固まり、声の温度が一気に下がる。
理由を尋ねても、誰も答えない。
ただ、恐怖と嫌悪の混じった目で見られるだけだった。
王都の灯りが、やけに遠く感じた。
足が重い。
息が苦しい。
医療からも拒絶された。
宿屋からも拒絶された。
憲兵にも見放された。
そして──アウローラだけが、優雅に湯浴みをしていた。
理解が追いつかない。
何が起きているのか分からない。
言葉にできない恐怖が広がっていく。
とぼとぼと屋敷へ戻ると、庭には冷たい夜風が吹き抜けていた。
そこに──使用人たちの死体が転がっていた。
焚き火の残りが赤く揺れ、影が死体の上を這う。
ベラだけが地面に倒れたまま、かすかに呻いていた。
「ベラ……どうした……何で……どうすれば……」
声が震えた。
助けを求めるように周囲を見回すが、動ける者は誰もいない。
昼間、憲兵が言っていた言葉が脳裏に浮かぶ。
──王宮騎士団に回します。
「……王宮に行こう」
自分に言い聞かせるように呟き、夜の王都へ走り出した。
王宮騎士団の詰所に着くと、衛兵たちが怪訝そうな目でこちらを見た。
俺は息を切らしながら状況を説明した。
屋敷が半焼したこと。
使用人が次々と死んでいること。
医者にも宿屋にも拒絶されたこと。
騎士たちは互いに顔を見合わせ、やがて1人が前に出た。
「フェルマー伯爵令息。
あなたを放火および殺人の容疑で逮捕します」
「……は?」
言葉の意味が理解できなかった。
「違う! 俺じゃない! 俺は被害者だ!」
騎士は冷たい目で言い放つ。
「犯罪者は、みんなそう言うんだ」
腕を掴まれ、後ろ手にねじられる。
鉄の手錠が冷たく肌に食い込んだ。
牢の中は湿っていて、冷たかった。
石の床に体育座りしたまま、時間の感覚が曖昧になっていく。
食事が10回以上出てきたのだから、3日は経ってる。
鉄格子の向こうから足音が近づき、顔見知りの騎士が無表情で立ち止まった。
「お前の処刑が決まったぞ」
「なっ……嘘だろ。俺は何もしてない」
声が震えた。
騎士は鼻で笑う。
「本当に何もしてないのか?」
「た、確かに妻を監禁したが……それだけだ。
一連の犯人はアウローラだ」
騎士は肩をすくめた。
「ふうん。仮に、お前の言う通りでもディアナ公爵令嬢は、どれだけ人を殺しても処刑されないよ」
「は? なんだそれ。
あんな、王太子殿下に婚約破棄された──血筋だけで使い物にならない無能な女が、何故?」
騎士は淡々と、しかし呆れたように言った。
「ディアナ公爵令嬢の父君は王弟。
母君は隣国ヴァルシェリアの王女。
母君の母君はグランツベルク帝国の皇女。
兄君の奥様はリュミエール王国の王女。
妹君の婚約者は、カストレオン国の第1王子。
これで処刑できるわけないだろう。戦争になる」
言葉が喉で止まった。
「な、でも……罪は罪だ。
罪人を裁かないと国民に示しがつかない」
騎士は呆れたように、ため息をついた。
「さっきから何言ってるのかな、お前。
お前の家で死ななかった使用人は、全員ディアナ公爵家の放った間者や監査人だ」
35人中22人が死んだ。
つまり、残りの13人は公爵家の者。
「彼女のアリバイは完璧だ。
犯人だとしても証拠は1つもない」
「そんな……どうすればいい……?」
騎士は冷たい目で見下ろした。
「お前って本当に──自分の頭で考える能力ないよな」
「なんだ……一介の騎士のくせに」
「王宮騎士団は全員、貴族で成立してるんだぞ。
知らないのか?
王子殿下の腰ぎんちゃくだったくせに」
「腰ぎんちゃくじゃない……側近だ」
「学生時代、殿下の周りをウロウロしてただけで、登城して働いてるわけじゃないじゃないか。
なんで、それが“側近”なんだよ」
「ぐ……」
言い返せなかった。
──そうだ。
卒業パーティーで王子がアウローラに婚約破棄を突きつけた直後、なぜか俺にアウローラを娶るよう命令してきた。
俺にはベラという恋人がいる。
だが平民なので結婚はできない。
いつかは貴族と結婚しなければならないことは分かっていた。
しかし、まだ先のことだと思っていた。
なのに、あの命令は強制だった。
そして──用が済んだとばかりに王子は、その後1度も俺に会おうとしなかった。
牢の冷たい石に背を預けたまま、言葉がこぼれた。
「俺は……何だったんだ?」
鉄格子の向こうで騎士が鼻で笑う。
「王子の近くにいれば得すると、何も考えずに腰巾着してた結果、災難を押し付けられた馬鹿」
「っ……」
反論できなかった。
騎士の言うことは、すべて事実だった。
王子と仲良くしていると、親は喜んだ。
周囲の貴族も一目置いてくれた。
そばにいれば、将来は重要なポストに就けると信じていた。
だが、実際は──役人ですらない。
ただの“取り巻き”だった。
言葉を紡げなくなった俺を見捨て、騎士は去っていった。
牢には静寂だけが残る。
どうしてこんなことになったのか。
使用人殺害の犯人は、公爵家の手の者だろうか。
他に考えられない。
だが、どうすればいいのか分からない。
まずは今までのことを整理しよう。
その上で、ここから出る方法を考えなければならない。
──3年前。
学園でフレデリック・ラングフォード王太子と同じクラスになった。
ラッキーだと思った。
王子は気さくに挨拶してくれた。
それだけで、自分は“側近”になれると信じ込んだ。
当時、フレデリックはアウローラの婚約者だった。
だが、同じクラスのマリーネ・カーヴェル男爵令嬢と恋仲になった。
俺は2人がくっつくまで、そしてくっついたあとも、ずっとサポートしていた。
王子の恋路を手伝えば、信頼されると思っていた。
──最初、フレデリックは「学生時代だけの恋愛だ」と言っていた。
だが、ある日「マリーネの純潔を奪ってしまった。責任を取って結婚しなければならない」と言い出した。
しかし「男爵令嬢では王妃になれない」と窘めると、彼は「親戚の伯爵家の養子にするから大丈夫だ」と答えた。
その時点で、もう道を誤っていたのかもしれない。
王子有責での婚約破棄はできない。
将来の治世に傷がつくからだ。
だから、アウローラに冤罪をかけることになった。
俺はマリーネの教科書やノートを破き、 アウローラが犯人だという噂を流した。
だが、それだけでは婚約破棄はできない。
仕方なく、マリーネは自ら噴水に飛び込み、アウローラに落とされたと騒いだ。
それでも足りないと言われた。
次にマリーネは階段から落ち、アウローラに押されたと主張した。
──殺人未遂だ。
さすがに、これで婚約破棄できるだろう。
卒業パーティーでアウローラを断罪する際、俺も「マリーネが突き落とされるのを目撃した」と証言した。
すると──俺が結婚するよう命じられた。
パーティーの後で理由を問い詰めると、フレデリックは言った。
「監視が必要だから」
その時は納得した。
監視を引き受ければ、それなりの恩恵が受けられると思った。
しかし、期待した恩恵は何もないまま、卒業式の1ヵ月後に結婚することになった。
急ピッチで準備が進み、当日を迎えた。
結婚式には名だたる人物が並んでいた。
その光景に肝が冷えた。
王子とマリーネも招待したはずだったが──
2人の姿はなかった。
バージンロードの先から──カシャン、カシャンと金属音が響いた。
アウローラが、ウェディングドレスの下に甲冑を着て現れたのだ。
参列者たちがざわつく中、彼女は平然と誓いの言葉を拒否した。
教会を出るときも馬車に乗るときも、エスコートしたのは新郎の俺ではなく侍女だった。
馬車に乗り込み、結婚式で恥をかかされたことを言おうとした瞬間、侍女がついたてを立てた。
俺とアウローラの間に、分厚い壁ができた。
披露宴では突然腹を下し、会場にいられなかった。
なんとか自宅に戻ると、執事がアウローラを部屋へ案内していった。
だが──その直後に彼は死亡した。
最初は偶然だと思った。
次に、アウローラの元へ朝食を運んだメイドが、階段から落ちて死んだ。
さすがにおかしいと思い、アウローラに事情を聞きに行くと──
屋敷が火事になった。
結婚して、すぐ死なれると困るので部屋の鍵は、かけずにおいた。
だが避難先の庭に、彼女の姿はなかった。
その後も、料理人、洗濯メイド、ベラのメイドが死んでいった。
部屋は荒らされ、家具は破壊され、油が撒かれた。
途方に暮れていると、アウローラが平然と帰ってきた。
まるで何事もなかったかのように。
話し合いもできないまま困っていると、使用人とベラが毒に倒れた。
医者は誰も来てくれなかった。
王宮に助けを求めに行くと──
俺は逮捕された。
膝を抱えたまま、暗い牢の中で呟いた。
「これは……復讐……?」
言葉にした瞬間、背筋が冷えた。
もしかして王子は、こうなることを分かっていたのではないか。
アウローラの怒りが全部、俺に向くように仕向けたのではないか。
俺は──最初から捨て駒だったのか。
「そんな……バカな……。
おい、誰か来い! 王子を呼んできてくれ!
ふざけるな、こんなことあってたまるか!」
鉄格子の向こうに牢番が現れた。
「罪人のお前が、王族を呼べるわけないだろう」
「しかし! ……分かった、自白する。今までやったことだ。
王子に頼まれてアウローラを貶めた。
司法取引してくれ!」
必死に叫んだが、牢番は鼻で笑った。
「ここは王宮騎士団の管轄だ。
王族の罪を告白したって、誰も聞いてくれるはずないだろう」
足元が崩れるような感覚がした。
「な……そんな……嫌だ……このまま殺されるなんて……」
牢番は肩をすくめた。
「お前にできるとしたら──」
「なんだ……?」
「ディアナ公爵令嬢が、お前を『処刑するな』と、一言いえば助かる」
息が止まった。
「それは……」
「跪いて謝れば、許してもらえるかもしれないぞ」
その“かもしれない”が、あまりにも遠く感じた。
「可能性は、ほぼないと思うがな。
……でも、やってみるか?」
俺は唇を噛みしめた。
「……やってみよう。アウローラを呼んでくれないか」
「まあ、聞くだけ聞いてみてやる」
牢番はそう言い残し、足音を響かせて去っていった。
暗い牢に、再び静寂が落ちた。
どれほど時間が経ったのか分からない。
牢の外から足音が近づき、鉄格子の前で止まった。
「ディアナ公爵令嬢が来てくださるそうだ。
貴族牢に移れ」
騎士の言葉に胸が跳ねた。
助かるかもしれない──そんな淡い期待が一瞬だけ胸に灯る。
だが、すぐに気づいた。
本来、最初から貴族牢に入れられるはずなのに、一般牢に放り込まれていた。
つまり──
最初から俺が逮捕されることは、織り込み済みだった。
背筋が冷えた。
風呂に入れられ、髪を整えられ、服を着替えさせられた。
そして、アウローラと対面する部屋へ通された。
薄紫のドレスに身を包んだアウローラは、まるで舞踏会にでも来たかのように優雅に立っていた。
ワインレッドの髪を結い上げ、同色の瞳に笑みを称えている。
俺は地面にひれ伏し、声を震わせた。
「どうか……どうか許してください……!」
アウローラは、挨拶でも返すように軽く言った。
「宜しくてよ」
「え……」
許されたのか。
それとも──ただの返事なのか。
判断がつかないまま固まっていると、アウローラは侍女に視線を向けた。
「では帰りましょうか」
それだけ言って、くるりと背を向けた。
まるで、ここに来たのは“ついで”でしかないかのように。
見張りの騎士が俺を見下ろし、短く告げた。
「ディアナ公爵令嬢について行け」
俺は立ち上がり、震える足でその背中を追った。
助かったのか。
それとも──別の地獄が始まるのか。
答えは、まだ分からなかった。
ディアナ公爵家に到着すると、侍女たちが整然と並び出迎えた。
アウローラは馬車を降りると、こちらを一瞥し告げた。
「晩餐会があるの。あなたは調理担当よ。
屠殺小屋に行って、料理に使う肉を解体して持ってきてちょうだい」
言葉の意味が、すぐには理解できなかった。
伯爵令息である自分に、肉の解体を命じるなどあり得ない。
だが、逆らえばどうなるかは、もう嫌というほど思い知らされている。
使用人の1人が無表情で言った。
「こっちだ」
敬語すらない。
胸の奥がざらついたが、口には出せなかった。
言えば──殺されるかもしれない。
案内された屠殺小屋の扉を開けた瞬間、息が止まった。
人間の死体が吊られていた。
腰が抜けそうになり、壁に手をつく。
よく見ると、そのピンクの髪に見覚えがあった。
──フレデリックの恋人マリーネだった。
全身は凄まじい拷問の跡で覆われ、損傷していない部分がないほどだった。
皮膚は裂け、骨が覗き、血が乾いて黒くこびりついている。
背後から係の男が、斧を差し出してきた。
「その肉は死後硬直で皮が剥がれないから、削ってくれ。
首を落として、ちゃんと血抜きするんだ。
分かったな?」
斧の柄が手に押しつけられる。
俺は首を横に振った。
「む、無理だ……こんな──」
言い終わる前に、背中に激痛が走った。
──鞭だ。
「命令に背いた場合は、鞭を打つように言われている。
動けなくなるまで打たれたくなければ、さっさとするんだ」
再び鞭が振り下ろされる。
皮膚が裂け、息が詰まる。
逃げ場はなかった。
見張りが2人、出口を塞いでいる。
震える手で斧を握り、マリーネの身体に近づく。
血の匂いが鼻を刺し、胃がひっくり返りそうになる。
斧を振り下ろすたび、肉が裂け、骨が軋む音が響いた。
こんなことが王子に知れたら、いくらアウローラに許されたとしても──
もう終わりだ。
だが、ここには逃げ場がない。
ただ、命令に従うしかなかった。
恐怖で手が震え、パニックで呼吸が乱れながらも、言われるままに解体を続けた。
皮を削り、肉を切り分け、使う部分と使わない部分を分ける。
「使わない部分はドブに捨てろ」
係の男に言われ、ふらつく足で外へ運び、黒い水の中へ落とした。
ぼちゃん、と鈍い音が響き、再び胃がひっくり返りそうになる。
可食部分を抱えてキッチンへ戻ると、調理人が無表情で言った。
「それを使って2人分の料理を作れ。補助はする」
言われるまま震える手で包丁を握り、肉を切り、焼き、味を整えた。
調理人は淡々と指示を出し、俺はただ従うしかなかった。
料理が完成すると、使用人の服を渡され着替えさせられた。
晩餐会の場に行くと、壁際に控えるよう命じられた。
テーブルにはアウローラの家族が並び、その向かいにはフレデリック・ラングフォード王子が座っていた。
さらに、もう1人──
青髪のトマリ・アラウザー侯爵令息。
学生時代、王子の腰巾着をしていた仲間だ。
彼の父親は宰相で、今も王の側近として名を馳せていた。
俺が作った料理は、王子とトマリの前に置かれた。
2人は何の疑いもなくナイフとフォークを手に取り、口へ運ぶ。
トマリは、マリーネを愛していたはずだ。
それなのに自分が食べている肉が誰のものか、まったく疑っていない。
壁際で立ち尽くす俺の手は、震え続けていた。
食事が終わると、アウローラが静かに口を開いた。
「次は、アラウザー侯爵令息の元に嫁ぎます」
トマリの顔が強張った。
「お断りします」
アウローラは瞬き1つせず、淡々と返した。
「そう。残念」
その瞬間、騎士達がトマリの腕を掴んで立たせた。
彼は椅子を倒しながら抵抗する。
「離せ! 何を──」
アウローラは静かに命じた。
「利き腕を斬り落としなさい」
騎士たちは淡々と従い、トマリを押さえつけた。
傷口を止血し、何か分からない注射を打つとトマリは動かなくなった。
そして、外へ運び出される。
扉が閉まり、会場には再び静寂が戻った。
アウローラは、ワイングラスを指先で転がしながら言った。
「炭鉱夫にしようと思ったけれど……治験にしましょう。
お父様、彼の家はどのように潰しましょうか?」
その声は、まるで天気の話でもしているかのように軽い。
ディアナ公爵は、ナプキンで口元を拭いながら答えた。
「前のアホ伯爵家のように、使用人から順番に殺していけばいいのでは?」
「うーん……嫁がないと実況中継のような楽しさがないのです」
「では森に放ち、獲物として逃がそう。逃げ切れたら恩赦だ」
アウローラは満足げに頷いた。
「アラウザー侯爵夫妻は走れ無いでしょうが、兄君は走れそうですわね。
──殿下、ご予定はいかがでしょうか?」
晩餐会の空気がわずかに揺れた。
王子がワイングラスを置き、弱々しい声で言った。
「もう……許して貰えないか?
側近は全員変死。議員は僕を『廃嫡せよ』と言う。
少しでも僕を気にかける使用人や親族は、みんな次々に身内が不幸になる。
そしてマリーネの実家は没落し、一家で行方不明だ……」
その顔は蒼白で、目の下には深い隈が刻まれていた。
かつての自信に満ちた王子の面影は、どこにもない。
アウローラは、にこにこと微笑んだ。
その笑顔は、まるで春の陽光のように柔らかいのに、背筋が凍るほど冷たかった。
「殿下、それは終わりではなく──始まりなのです」
フレデリックの顔が引きつり、固まった。
喉がひくりと動く。
アウローラは首を傾げ、無邪気な声で言った。
「ところでマリーネさんという方は、どなたですか?」
フレデリックの肩が、びくりと震えた。
「それは……君が……」
「聞いたことありませんわ。
どういった、お知り合いですの?」
王子は沈黙した。
言葉を失ったというより、言えないのだ。
この場で、何を言えば命取りになるか理解している。
アウローラは軽く頷いた。
「宜しいですわよ」
「え……?」
「先ほど“許して貰えないか”と仰ったでしょう」
フレデリックの顔に、わずかな安堵が浮かんだ。
「いいのか……ありがとう……」
その瞬間、アウローラは扇子を閉じ、俺に視線を送った。
「ジュリアン。彼を屠殺小屋に案内して、仕事を教えてあげて」
フレデリックが驚愕し、こちらを振り向いた。
「お前……!」
今まで彼は、俺の存在に全く気付いていなかった。
そして──アウローラの「宜しくてよ」は、“許す”ではなく “次の段階”という意味。
王子の膝が震え、椅子がきしむ音が響いた。
晩餐会の空気は、誰も声を上げないまま、静かに凍りついていった。
王子を連れて屠殺小屋へ向かう。
扉を開けた瞬間、フレデリックは悲鳴を上げ、俺は膝から崩れ落ちた。
そこに吊られていたのは──ベラだった。
王子は蒼白になり、後ずさる。
俺は声も出ない。
ただ、胸の奥が焼けるように痛む。
背後から鞭の音が響き、俺の背中に衝撃が走った。
「仕事は教えたろう。さっさとやれ」
係の男が冷たく言う。
逃げ場はない。
震える手で、解体していく。
涙が頬を伝う。
ふと、胸に黒い感情が湧き上がる。
──何もかも、王子が悪い。
フレデリックが俺に厄介を押し付けなければ、最愛のベラは死ななかった。
俺の家も、人生も、壊れなかった。
「殿下……ご存知ですか?」
王子は震える声で返す。
手にはノコギリが握られている。
「な、何が……?」
「本日、殿下が召し上がった料理──あれはマリーネでしたよ」
フレデリックの顔から、血の気が引いた。
「……は?」
「確かめたければ、ドブをさらってみてください。
ピンク色の髪が、きっと見つかります」
王子は頭を抱え、叫び声を上げた。
「…………うあああああああああ!」
その声は小屋の中に響き渡り、やがて鞭の音にかき消された。
「無駄口を叩くな。働け」
係の男が怒鳴る。
フレデリックは半狂乱になり、係に掴みかかった。
その瞬間、俺の手は斧へ伸びた。
振り上げた刃は、ベラではなく王子の背に向けて──
その後、ジュリアンは王子殺しの罪で逮捕された。
殺人と無関係のトマリも共犯として裁かれ、両家は取り潰しとなった。
アウローラは女王になると、フレデリック元王子の両親──先王夫妻を処刑した。
めでたし、めでたし。
□完結□
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