後宮の毒見役は、毒が効かない体質だった。おかげで暗殺が全部バレる

セッシー

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第3話 皇帝の茶碗

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 三日目。
 朝の毒見を終え、部屋に戻ると、玉鈴が待っていた。
「大変なことになってるわよ」
 玉鈴は興奮した様子で、椅子の上で正座していた。
「何がですか」
「昨日の干し柿の件。犯人が捕まったの。賢妃様の侍女よ。彼女が厨房から苦扁桃の実を持ち出していたのが、記録と合わなかったんですって」
「賢妃様の侍女が、なぜ私に」
「あなたに、じゃないと思う。あなたの前任者——淑妃派の毒見役を使って、皇帝の食事に毒を紛れ込ませる計画だったんじゃないかって。でもその毒見役が消されて、代わりにあなたが来た。計画が狂ったのよ」
 玉鈴は指を折りながら説明した。
「つまりね、賢妃派はまず新しい毒見役——あなたを排除しようとした。排除して、次に自分たちの息のかかった毒見役を入れるつもりだったんでしょう。ところがあなたが死ななかった。それで慌てて二度目を仕掛けた。でもそれも失敗して、足がついた」
「初日の紫河豚も賢妃派?」
「それはまだ分からない。初日のは劉芳蘭様が直接淹れた茶だったでしょ? 劉芳蘭様はどの派閥にも属さないことで有名だから、茶葉に毒を仕込んだのは厨房の段階か、茶葉の保管庫に手を回したか——」
「詳しいですね」
「麗妃様の侍女ですもの。情報は命綱よ」
 玉鈴は声をひそめた。
「それでね、問題はここから。賢妃派の侍女が捕まったことで、賢妃様の立場が悪くなった。当然よね、自分の侍女が毒見役を毒殺しようとしたんだから。でも賢妃様は『知らぬ存ぜぬ』で通してる。侍女の独断だと」
「信じる人がいるんですか」
「いないわよ。でも証拠がなければ、妃を罰することはできない。侍女一人が処罰されて終わり。表向きはね」
 玉鈴は窓の外に目をやった。
「でも裏では、力関係が動いてる。賢妃派が弱ったことで、淑妃派と麗妃派が勢いづいてる。特に麗妃様は——」
「玉鈴」
 私は遮った。
「私にそれを話して、大丈夫なんですか。麗妃様の侍女として」
 玉鈴は一瞬きょとんとした顔をして、それから笑った。
「大丈夫。麗妃様はね、あなたを味方につけたいの。だから私を寄越したのよ。友達になれって」
 あけすけな物言いに、私は呆れるより先に感心した。少なくとも、裏で手を回すよりはずっと分かりやすい。
「味方になるかどうかは別として、友達にはなれます」
「上等」玉鈴は手を叩いた。「あ、でもこれ、麗妃様には『味方になるとは言ってません』って伝えるからね。正直に」
「お願いします」
 玉鈴は立ち上がりかけて、思い出したように振り返った。
「そうだ。もう一つ大事なこと。今日の午後、徳妃様があなたに会いたいって」
「徳妃様が?」
「四人の妃の中で一番古株。一番静かで、一番怖い人。断れないと思うけど、気をつけてね」
 玉鈴は去っていった。

     *

 午後。
 徳妃の居室は、後宮の北の奥にあった。
 他の妃の居室が華やかな装飾で彩られているのに対し、徳妃の部屋は簡素だった。調度品は最低限。壁には一幅の山水画。卓の上に筆と硯。書物が几帳面に積まれている。
 徳妃は、四十を過ぎているはずだが、それよりずっと若く見えた。痩身で、肌が白い。髪は黒々として、白髪が一本もない。
 目が印象的だった。深い色をした瞳。感情を映さない、凪いだ湖面のような目。
「座りなさい」
 声も静かだった。命令なのに、命令に聞こえない。
 私は徳妃の向かいに座った。侍女が茶を運んでくる。
 徳妃は私の前に茶碗を置いた。自分の分も。
「飲みなさい」
 私は茶碗を手に取り、香りを確かめた。菊花茶。苦味も異臭もない。毒は入っていない。一口飲んだ。美味しい。上等な菊の花を使っている。
「異常は?」と徳妃。
「ありません。とても美味しいです」
「そう」
 徳妃は自分の茶碗を持ち上げ、一口含んだ。そしてしばらく私を見つめた。値踏みするような、しかし敵意のない視線だった。
「紫河豚の毒を飲んで生きている人間を、私は初めて見た」
「私も初めてです。飲んだのが」
 嘘だった。子供の頃、川で捕まえた河豚を焼いて食べたことがある。あのときも何ともなかった。ただ、紫河豚の毒は桁違いに強いと聞くので、同じとは言い切れない。
「毒が効かない体質——生まれつきか」
「はい。物心ついた頃から」
「便利だな」
 皮肉の響きはない。声の温度がそのまま言葉になっている。
「翠玲。後宮に入った理由は」
「給金が良いからです」
 徳妃の眉が微かに動いた。
「正直だな」
「家族に仕送りをしたいんです。田舎に祖母と弟妹がいて」
「なるほど。忠義でも野心でもなく、家族か」
 徳妃は茶碗を置いた。
「一つ、助言をしよう。お前が毒に強い体質であることは、すでに後宮中が知っている。これは諸刃の剣だ」
「はい。分かっています」
「分かっていない」徳妃の声が、初めて鋭さを帯びた。「毒が効かないということは、お前を毒見役として使えば、どんな毒も検出できるということだ。それはつまり——お前がいる限り、毒による暗殺は不可能になる」
 私は息を詰めた。その意味を、咀嚼した。
「暗殺を企てる者にとって、お前は最大の障害になる。殺そうとするだろう。毒以外の方法で」
 背筋に冷たいものが走った。
 毒以外の方法——刃物。絞殺。転落。火事に見せかけた放火。毒が効かないことに安住していた自分の甘さを、徳妃の言葉が抉った。
「では、どうすればいいのでしょう」
「味方を作れ。ただし、派閥には入るな」
「矛盾していませんか」
「していない。派閥に属さず、しかし全ての派閥から必要とされる存在になれ。お前の体質はそれを可能にする。どの妃にとっても、有能な毒見役は喉から手が出るほど欲しい。しかしお前が特定の妃に偏れば、他の妃はお前を敵とみなす」
 徳妃は立ち上がった。
「全ての妃の食事の毒見を引き受けろ。皇帝だけでなく。そうすれば、お前を害することは後宮全体の損失になる。誰もお前に手を出せなくなる」
 会見は、それで終わった。
 徳妃の部屋を出ると、廊下の冷たい空気が頬に当たった。
 足が震えていた。寒さのせいではない。
 今更になって、自分がどれほど危険な場所に足を踏み入れたのか、実感が湧いてきた。毒が効かないという体質は、この後宮では盾にもなるが、的にもなる。

     *

 夕餉の毒見を終え、部屋に戻った。
 鍵が取り付けられていた。劉芳蘭の約束通りだ。真新しい鉄の鍵を回して、部屋に入った。
 寝台に座り、今日一日を振り返った。
 賢妃派の侍女が捕まった。玉鈴を通じて麗妃が接触してきた。徳妃が助言をくれた。
 三日目にして、後宮の四大派閥のうち二つと接触した。残りは淑妃派と——賢妃派は当分こちらに近づけないだろう。
 棚の上に置いた前任者の簪が、夕暮れの残光を受けて微かに光っていた。翡翠の緑が、暗がりの中で沈んでいく。
 この簪の持ち主は、派閥に取り込まれて死んだ。私はそうならない。
 ならない、ではなく——なるわけにはいかない。祖母が待っている。弟の学費がいる。妹はまだ十二だ。
 鐘が鳴った。夜の帳が、後宮に降りる。
 鍵をかけて、灯りを消すとした時——扉を叩く音がした。
 三度。等間隔。強すぎず、弱すぎず。
「誰ですか」
「開けろ」
 低い声。男の声だった。後宮に男——皇帝か、宦官か。
 宦官なら名乗るはずだ。名乗らず、命令の口調。
 鍵を回した。扉を開けた。
 廊下に立っていたのは、若い男だった。二十代半ば。長身で、肩幅が広い。黒い髪を高く結い上げ、金糸の刺繍が入った深紅の袍を纏っている。その袍の胸元に、五爪の龍が金糸で縫い取られていた。
 五爪の龍。
 それを身につけることを許されるのは、この国にただ一人。
「陛下——」
 膝をつこうとした私を、手で制した。
「立て。狭い部屋で礼は要らん」
 皇帝が毒見役の部屋に来る。異例中の異例だろう。背後に護衛の気配もない。一人で来たのか。
 碇帝は部屋に入り、狭い室内を見回した。卓。椅子。寝台。壁の漆喰。何もない部屋を、しかし興味深そうに見ている。
「お前が、紫河豚の毒を飲んで生きていた毒見役か」
「はい」
「名は」
「翠玲と申します」
「翠玲。いい名だ」
 碇帝は椅子に座った。当然のように、上座に。私は向かいに立ったまま、どうしていいか分からなかった。
「座れ」
 座った。
 碇帝の顔を、正面から見た。整った顔立ちだが、目の下に隈がある。頬がこけている。若いのに、疲れた顔をしている。この人は夜、眠れていない。
「翠玲。お前が毒見をした茶を、私にも淹れてくれ」
「——は?」
 間の抜けた声が出た。碇帝相手に「は?」と言ってしまった。不敬罪で首が飛ぶかもしれない。
 しかし碇帝は気にした様子もなく、続けた。
「お前の舌を通った茶が飲みたい。毒がないと、お前が証明した茶を」
 その目は——疲れていた。底の見えない疲労が、若い瞳の奥に淀んでいた。
 この人は、自分の食事を信用していない。
 当然だ。後宮で毒を盛られる筆頭は、碇帝自身なのだから。
「お待ちください。お淹れします」
 私は棚から茶葉を取り出した。劉芳蘭が「これは安全だ」と自ら封をしてくれた茶葉だ。湯を沸かす道具は部屋にある。小さな炉に火を入れ、鉄瓶に水を張った。
 湯が沸く間、碇帝は黙っていた。私も黙っていた。
 鉄瓶の湯が沸き始める。最初は小さな泡が底から立ち昇り、やがて大きな泡に変わる。
 茶碗を温め、茶葉を入れ、湯を注いだ。茶葉が開いていく。碧色の液体が、茶碗の白い肌に映る。
 一口、飲んだ。
 甘みと渋みの均整が取れた、良い茶だった。毒の気配はない。
「異常ありません」
 茶碗を碇帝の前に置いた。新しい茶碗に、同じ茶を注いで。
 碇帝は茶碗を持ち上げ、香りを嗅いだ。
 一口、含んだ。
 長い沈黙。
「美味いな」
「はい。良い茶葉です」
 碇帝は茶碗を両手で包み、二口目を飲んだ。その仕草は、帝王というよりも、温かいものに飢えた一人の青年に見えた。
「翠玲」
「はい」
「明日から、朝の茶は必ずお前が淹れろ。私の分を」
「承知しました」
 碇帝は茶を飲み干し、立ち上がった。扉に向かい、しかし敷居のところで足を止めた。振り返らずに言った。
「死ぬなよ」
 扉が閉まった。
 足音が遠ざかっていく。
 私は空になった二つの茶碗を見つめた。
 片方は私のもの。片方は碇帝のもの。同じ茶葉で、同じ湯で淹れた茶。それを共に飲むことが、この後宮ではどれほど重い意味を持つのか——私にはまだ分からなかった。
 分からなかったが、一つだけ確かなことがある。
 碇帝のあの目。あれは、信頼ではなかった。試験でもなかった。
 懇願だ。
 誰かを信じたいという、切実な——。
 窓の外で、夜鳥が一声鳴いた。
 後宮の夜は、深い。

 私は鍵をかけ、灯りを消した。
 明日もまた、誰かが毒を盛るだろう。
 それでも私は死なない。死ねない。
 帰る場所があるから。待っている人がいるから。
 それから——今夜初めて、もう一つ理由が増えた。
 あの茶碗を、明日も温かいまま差し出す理由が。

 寝台の硬さが、少しだけ気にならなくなっていた。
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