人竜選史

秋谷イル

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現代編

アサヒ(1)

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 銀色の海で生まれた。
 母の胎内にいるような温かさ。
 けれど、すぐにそこから抜け出さなくてはと思った。
 誰かが早く逃げろと叫んでいる。
 必死に手足を動かし、もがいて、泳いで──気が付くと一本の腕を掴んでいた。細くて柔らかい、けれど不思議と力強い右腕。
 引っ張り出されて水面を抜ける。肺の中に溜まっていたものを吐き出し、代わりに空気を吸い込む。なんだか、とても久しぶりのような気がした。銀色の水より苦いし、嫌な臭いもする。それでも目一杯に吸い込み、吐き出し、また吸う。

「大丈夫、大丈夫よ。落ち着いて、少しずつ呼吸を整えて。ほら」

 誰かが頭を抱き寄せ、自分の胸に耳を当てさせた。
 心音と呼吸の音が聴こえる。
 そのリズムに合わせて彼の呼吸も次第に変化を始めた。
 やがて平静を通り越し、安らかな──

「姉さん、その人、寝ちゃってない?」
「あら?」
「おいおいおい、赤ちゃんじゃねえんだぞ。本当にコイツで合ってんのかよ?」
「その、はず……ただ、どう見ても、若い」
「十代後半くらいだよね……全盛期の自分を再現した、にしても若すぎない?」
「いえ、彼で合ってるわ。それにこの姿にも理由があるの」
「理由?」

 彼女は少年の頭を優しく撫で、もう一度そっと抱き締めた。
 この子には近い将来、大きな苦難が待っているだろう。
 あの海から引き上げた自分達を恨むかもしれない。
 でも、だとしても、お願いだ。
 立ち向かって欲しい。
 人々のために。

「この子は本当に、たった今、生まれたばかりなのよ。私達の勝手な都合でこの過酷な世界に生を受けてしまった。人間でもない、竜でもない、かつての英雄ですらなくなった新しい命。ごめんね……そうしなければ“彼女”には勝てない。彼と私が決断した。だからせめて、あなたが戦う覚悟を決めるその時までは私達が守る。嬉しくはないかもしれないけれど……ようこそ私達の世界へ。私達の希望、英雄の力を受け継いだ君」

 眠りの中、鈴の音を聴き、桜の香りを感じる。
 風は冷たく、拳をぎゅっと握り、体を丸めて寒さに耐えた。
 嫌な予感がする。でも、ここにいられることが嬉しくもある。
 愛おしい。頭を撫でる掌の感触が懐かしい。
 それは、彼が彼としてこの世界に生を受けた直後の、始まりの記憶だった。



 数日後、地下都市・福島の兵舎。その一角に与えられた部屋。二四時間監視付きの“独房”でアサヒはガリガリと自分の頭を掻く。目付きが鋭く、長身で体格も良い。そのため一見すると柄が悪そうなのだが、実際のところ温厚な性格の少年だ。ただ、今は苛立ちからただでさえ悪い人相がさらに剣呑になってしまっている。
「ああもう、どうやって解くんだっけな、これ」
 目の前にあるのは机。そして数学の問題がいくつも書かれた一枚の紙と鉛筆。
 この部屋に閉じ込められてから三日目。暇だ暇だとぼやいていたら、あの“悪魔っ子”に宿題を出された。どの程度の教養があるか確かめたいから解いてみろ、だそうだ。
「うまく思い出せないぃぃぃ」
 中学レベルの問題だと言われたので、中卒の自分でも解けるはず。けれど、知識にぼんやり霞がかかっている。そのせいでなかなか手が届かず、引っ張り出すこともできない。
 これは半分他人の記憶のようなものだからか? それとも単に俺の頭が悪いだけ? ここ北日本王国の初代王・伊東 旭を再現した模倣体たる彼は、ついに頭を抱えて自問する。ひょっとしてオリジナルの自分は馬鹿だったのでは?
「あ、そうだ。そういえば昔の俺も数学は苦手だった」
 そんなことだけあっさり思い出せた。問題の解き方は相変わらず浮かんで来ないのに。
「くそっ、こんなんじゃ、また朱璃あかりに馬鹿にされる……」
 とりあえずわからない問題は飛ばして次にとりかかることにした。次の問題には短時間でどうにか解答を書き込む。多分合っている。
 朱璃とは、彼を筑波山で見つけて保護してくれた少女の名である。なので一応は恩人ではあるのだが、常に小馬鹿にするような笑みを浮かべ見下してくるし、初対面でいきなり拷問された。その後も監禁されるわ銃で撃たれるわとロクな目に遭っていない。そのため苦手な子だ。
「顔は可愛いのにな……」
 自分より二歳下なのだが、小柄で、もっと幼くも見えた。海外の血が混じっていて赤毛に青い瞳。目鼻立ちがクッキリしており、旧時代の東京に住んでいたオリジナルの自分の記憶を総ざらいしても、そうそう並ぶ者が見つからないほど容姿が整っている。あれで性格も良ければモテモテだろうに、もったいない。
 加えて、オリジナルの自分の血を引いている子孫だからなのか、どこか母にも似ている。おかげで叱られる時などは必ず母の顔が脳裏に浮かんでくるのだ。それも苦手な理由の一つ。
「子孫なら先祖の俺に優しくしてくれりゃいいのに……」
 言ってから寒気がした。優しい朱璃を想像すると、それはそれで気色が悪い。絶対に裏で何か企んでいるはずだと勘繰ってしまう。
「……勉強しよ」
 さぼっているところを見つかったら、またあれこれ言われてしまう。現実逃避の思索を止め、再び机に齧りつく彼。
 だが、またすぐに頭を抱えて唸り出す。わからない問題が多すぎる。
「どうして俺に全部の記憶をくれなかったんだよお……大人ならこんなの解けたはずだろ。俺の馬鹿野郎……!」


 アサヒの脳には、オリジナル、つまり“伊東 旭”の記憶が一七年分しか詰まっていない。
 彼は先日、東京に長年巣食っている巨大な竜・シルバーホーンの体内からサルベージされた。オリジナルが二〇〇年前に取り込まれて以来、ずっとあの中にいたのだ。ただしサルベージされた彼は伊東 旭本人ではなく、その一七歳時の肉体を再現した生物型記憶災害、すなわち“竜”になっていた。
 サルベージしたのは朱璃達ではなく、南日本から来た“術士”と名乗る女性達。彼女達から聞いた話と、オリジナルが断片的に与えてくれた情報によると、自分が一七歳時の姿なのも、その時点までの記憶しか持っていないことにも意味があるらしい。ただ、その意味とはどんなものかは彼女達の口からもオリジナルの自分からも教えてもらえなかった。

 知ってはいけない。

 記憶を探ろうとすると、決まってそんな意識が浮かんで来る。多分オリジナルの自分がかけた暗示のようなものだろう。興味すら持つなと言いたいらしい。
 オリジナルの自分が失踪したのは四七歳の時。シルバーホーンに挑んで取り込まれたのもその直後のことだそうだ。つまり自分には本来、さらに三〇年分の知識と経験があるはず。それさえ継承できていれば、きっとこんなことにはならなかったのに──アサヒは床に正座しながらオリジナルの自分を恨む。
「アンタ、馬鹿?」
「……」
 どこかで聞いたようなセリフだと思ったが言わないでおいた。多分目の前の少女に通じる冗談ではない。
「どうしてこんな問題も解けないのよ? 中学校は卒業したんでしょ?」
 バシバシと例のテスト用紙を叩く彼女。アサヒが座っていても頭の高さがそれほど上になっていない小柄なこの子こそ、初対面でいきなり拷問を実行した“悪魔っ子”こと星海 朱璃だ。北日本王国の王太女でオリジナルの伊東 旭の子孫。なおかつ史上最年少で特異災害調査官になり、数人の大人を率いて“星海班”のリーダーを務める才媛。研究者・開発者としても有能で、兵士や調査官が使う魔法増幅機能付きの銃は彼女によって生み出されたものだそうだ。
 そんな天才中の天才少女からしたら当然、中学レベルの問題すら解けない馬鹿は虫けら同然だろう。
「こちとらアンタの子孫なのよ? 子孫に恥かかせる気?」
「そ、そんなつもりは……」
「じゃあしっかり勉強しときなさい。次もこんな点取ったらぶっ殺すわよ」
「はい……」
 陳腐な脅し文句だが、彼女の場合、本気で実行するかもしれない。そう思わせるだけの“実績”があった。
 結局、何一つ言い返すこともできず新たな宿題を出され、ため息をつく。今度また悪い点を取ったら、いったいどんな目に遭わされることか。朱璃が去った後の室内で再び机の前に座る。しかし手は動かない。まずはやる気を出さなくては。
 せめて教科書があれば復習できるのに。朱璃は数枚の問題用紙しか置いて行かなかった。誰か教えてくれないかな。部屋の前には見張りの兵士達がいる。頼んだら先生になってくれるだろうか? そんなことを考えながらドアを見つめていると、いきなりそれがノックされた。
『ハロー、アサヒくん。朱璃ちゃんの残り香で悶々としとるとこ悪いんやけど、入ってもええか?』

 何言ってるんだ、あの人は。

「いいですよ。あと、変なこと言わないでください」
『ホンマ? ホンマに変なことしてへんか? お姉さん嫌やで、昔の少年マンガみたいなラッキースケベ展開』
「宿題してるだけですよっ」
「ほな入ろ」
 あっさりドアを開けて入室して来る金髪美女。朱璃が率いる“星海班”のメンバーで特異災害調査官のカトリーヌだ。何をしに来たんだろう?
 彼女はアサヒの目の前まで近付いて来ると、無遠慮に答案を覗き込んだ。
「なんや、まだ名前しか書いてへんやないの?」
「こ、これからやるんです」
 そう強がって鉛筆を持ち上げる彼。だが、今回は一問目から躓いてしまう。
 しばし数式を睨んで唸っていると、カトリーヌが肩を叩いた。
「なん──うにゅっ」
 古典的ないたずらで頬に指が突き刺さる。
 若干、イラっとした。
 だが抗議するより早く相手が口を開く。
「そんなこっちゃろうと思ったんで、助けに来てやったんやないの。お姉さんが家庭教師したるわ」
「え? ほんほに?」
「ホンマホンマ。こないだの一件の事後処理も済んで、暇になってもうてな。うちとしても適当な暇潰しが欲しかってん。そこへ朱璃ちゃんから頼まれたんで引き受けたってわけや」
「朱璃が?」
「せや。今のまんまのド低能じゃ王都へ連れて行くのは恥ずかしい。せめて犬猫レベルまでは鍛え上げておかないと、って言うてたで」
「……」
 言いそうだ。というか言ったんだろう。朱璃だもの。
ひゃあ、おえあいしまふじゃあ、お願いします
「ん? なんて?」
おえあいしまふ。へいうは、うい、おへへうあはいお願いします。ていうか、指、どけてください
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