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第一部(幼少編)
25話【彦太郎】炎の中で君の手を掴んで
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「あれ、小蝶は?」
我が主の居室をのぞくと、彼女の侍女だけが部屋の掃除をしているところだった。
この、丁寧によく働く侍女の名前は鈴加。
小蝶姫付きの唯一の侍女で、もう十年近く、小蝶に仕えているのだそうだ。
最初は、小蝶のあまりの奔放さに同じ侍女仲間は次々辞めてしまい、彼女は家のことがあって辞めれられない悔しさに涙を流したこともあったらしいが、今では毎日気持ちよく仕事をしている。
ある時から、姫が以前とは信じられないくらい優しく、心変わりしたらしい。
僕が小姓としてついた頃には、その「心変わり」をした後だったので、それ以前のことはわからないが、彼女とはそんな姫の世話を共にしていくうちに、今では戦友のように打ち解けられたと思う。
始めは、互いに「小蝶姫の世話係」という仕事を取られまいと躍起になっていたこともあったが、それも最近はなくなった。
僕は小蝶の小姓で、幼馴染で、弟代わり。
彼女は侍女で、乳母で、姉代わりなのだそうだ。
お互いできることと、できないことがある。求められているものも違うのだから、潔く、自分の役割を全うすることにした。
「姫様でしたら、厨へ行かれました。また何か思いついたようです」
「はあ……また……。今度はなんだろう」
「さあ?」
くすくすと笑う彼女の顔からは、以前に辛い思いをしていたとは考えられない。
さて、我が主を迎えに行かねば。
どうも最近、小蝶は落ち着きがない。
奔放でお転婆で、思いついた時に料理をしたりして城中の人を驚かせるのはいつものことだが、どうも、それとは違うようだ。
きっと、輿入れの日が近づいていることや、情勢が変化していることを、肌で感じているのだろう。
小蝶は自身を「脳筋」などと作った言葉で卑下し、頭が良くないと思っているようだが、実際には思慮深く、きちんと自分で考えることのできる人だ。
城の人間はもう皆、きちんと理解している。
だからこそ、彼女に一刻も早く尾張へ行ってほしいと思っているのだ。
美濃と尾張が結ばれることで、救われるであろうすべての人のために。
僕はそんなの、嫌だけど。
「小蝶、何してるの?」
「わ、彦太!あーっ違う、違うの!」
厨に入ると、姫が鍋でどんぐりを煮ていた。
「……何が違うの?」
妙に慌てた小蝶に、僕は以前に彼女から言われた「じと目」という目つきで詰め寄る。これはわりと、言うことを聞かない姫にも効果があるらしい。
「今日は料理じゃなくて、ほら、一昨日集めたどんぐりのね、虫抜きをしようと思って」
小蝶はもともと料理が趣味で、なにか新しい調理法を思いつく度にこうして厨へ侵入しているので、もう給仕係の面々とは顔見知りだ。
どんぐりの虫抜きをしたい等という、童子が言い出しそうな理由で訪れても、皆「いつものこと」と言わんばかりに招き入れて好きにさせている。
「斎藤家の姫が、どんぐりって……皆さんも、少しは注意してくださいよ!良いんですか!?鍋をこんなことに使われて!」
「彦太!どんぐりはね、虫抜きをちゃんとしないと大変なことになるのよ!?取っておいたどんぐりから虫がたくさん出てきて、泣きべそかいたの忘れたの!?」
「な、何年前の話をしてるの!!」
斎藤家にお世話になって最初の年、小蝶と二人で稽古の合間に集めたどんぐりから虫が湧き出て涙目になったこともあった。
言っておくが、今は虫ごときで泣いたりしない。当たり前だ。数えで十四なんだから。
厨にいた全員が、声を殺して笑っていた。悪いと思っているのなら、聞こえないふりをして欲しかった。
どうも、小蝶といると調子が狂う。
斎藤家ではもう、僕を居候扱いする人はいなかった。
武芸も勉強も、必死に頑張った。
小蝶が寝た後に一人で書を読みふけり、朝を迎えたこともあった。
小蝶に負けたくないから、素振りは彼女の倍の数やった。
まだ彼女に一本も取れていないけれど、元服までにはなんとかしてみせる。
以前のように、嫉妬からじゃない。
誰からも認められるように、なりたいから。
自分で自分を、認められるように。
僕を唯一認めてくれた、彼女に認めてもらえるように。
舞の稽古の時間なのにどんぐりを煮ていた小蝶を厨から連れ戻し、きちんと稽古を受けさせていると、気が付けば夕刻になっていた。
いつもと同じ日。
このまま、彼女が輿入れする、近い先まで続く一日だと思っていたのに、その日の夜は違っていた。
屋敷から見える城下の町が、赤く染まっている。
日が沈み始めて薄暗くなるはずの山麓が、異様なほどに明るく光を飛ばしていた。あがる黒煙が空へ登っていく様が、遠くからでもはっきりと目に写った。
「彦太!あれって……燃えてるの!?」
止める侍女を振り切ったのだろう、小蝶が、羽織を掴んで城下の良く見える場所まで駆けてきた。
城に残っていた大人たちも慌てている。
肯定を示すように頷くと、次に小蝶の細い腕を掴んだ。わかっている、この方は駆け出す気だ。
「離して、行かなきゃ!町が燃えてるのよ!?」
「君が行ってどうする!?お館様方に任せておくしかないだろう!?」
これは、奇襲というわけではない。
戦というのは、前兆もなくいきなり起こるものではないのだ。
利政様も義龍様も、もう昼間のうちに報せを聞いて出陣していた。町が燃やされる可能性も、負ければ城まで入られるかもしれないことも、城や城下町の人間はある程度は覚悟をしている。
火をつけられはしたが、備えていた分被害はそこまでではないはずだ。
「でも、陣を敷いた場所から離れてる!なにかおかしい!」
「たしかに……でも、小蝶が行くべきじゃな……あっ」
するりと、手の中から踊るように逃れると、小蝶は素早く馬屋へ向かった。馬を使う気だ。
彼女は一目散に自分が慣らした愛馬へ駆け寄り、馬番が戦の為に出払っているのを良いことに、手綱を持って飛ぶようにして跨った。
ひらひらと、蝶のように予測できない動きで舞う彼女を止められる大人は、今この城内にはいない。
「くそっ……誰か、小蝶様を止めてください!」
叫んだところで、無駄なのはわかっている。周りが動揺している間に、愛馬は主の言う通りに、蹄の音を立てて進み始めた。
だめだ、他の者に任せてはおけない。今の彼女には、僕しか追いつけない。
「あー、もう!」
城壁の方へ回り、生け垣の一番高い木に登ってから、そのまま門の屋根に飛び移る。
小蝶と城中を鬼ごっこして、野山を駆け回って僕も脚力だけは大人以上だ。
小蝶の馬が城門をくぐったところで、合わせてその背に飛び乗った。
「わっ!?えっ、彦太!?」
「もういいよ。止められないなら、着いていく!」
「!ありがとう!!」
心の底から嬉しそうに、彼女は風の中で笑った。
お礼を言われたかったわけじゃない。危ないことをするな、と怒って止めるつもりだったのに。
まったく、彼女といると本当に調子が狂う。
馬は目立つので町についてから、入口の井戸に繋いだ。
少し歩いてみるが、人の気配はない。
やはり、火が回る前に避難は完了していたようだ。何人かの、遅れて避難する町人とすれ違ったが、皆、そこまで慌てた様子はなかった。
未だ燃え盛る炎にまみれた家と、煤煙のにおい。
三年前、初めてこの城下を通った時のことを思い出す。
斎藤家はあれから、驚くべき速さで城下町を復旧させた。
それをまた、こんな風に焼き払って奪うなんて、ゆるせない。
目の端が、じりじりと熱くなってくる。
「小蝶、やっぱり危険だ。帰ろう。どこに敵兵がいるかわからないよ」
「……待って、誰かいる」
敵兵は火を放ってすぐに移動したのか、それとも炎と煙のせいで見えないだけなのか。燃え朽ちる木材の音以外は、静かだった。
その異様な静寂の中で、彼女は、まっすぐ、なにかを見据えている。
視線の先には煙しかない。
煙のせいで咽る息を抑えれば、かすかに、蹄の音が耳についた。
馬に乗っているとしたら、逃げ遅れた町人ではない。
向こう側からも数人の声が聞こえてきた。
「小蝶、戻ろう。これ以上はダメだ」
こんな煙と火の粉の舞う中で、そんなにも大きな目を見開いて、彼女は痛くないのだろうか。
視界が悪くなりきる前に伸ばした手で、無理矢理小蝶を引き寄せた。
意外にも言うことを聞いておとなしくなった彼女を馬まで連れて走る前、炎の中の人影に向かってつぶやいたのを、僕は聞き逃さなかった。
「織田……信長…………」
我が主の居室をのぞくと、彼女の侍女だけが部屋の掃除をしているところだった。
この、丁寧によく働く侍女の名前は鈴加。
小蝶姫付きの唯一の侍女で、もう十年近く、小蝶に仕えているのだそうだ。
最初は、小蝶のあまりの奔放さに同じ侍女仲間は次々辞めてしまい、彼女は家のことがあって辞めれられない悔しさに涙を流したこともあったらしいが、今では毎日気持ちよく仕事をしている。
ある時から、姫が以前とは信じられないくらい優しく、心変わりしたらしい。
僕が小姓としてついた頃には、その「心変わり」をした後だったので、それ以前のことはわからないが、彼女とはそんな姫の世話を共にしていくうちに、今では戦友のように打ち解けられたと思う。
始めは、互いに「小蝶姫の世話係」という仕事を取られまいと躍起になっていたこともあったが、それも最近はなくなった。
僕は小蝶の小姓で、幼馴染で、弟代わり。
彼女は侍女で、乳母で、姉代わりなのだそうだ。
お互いできることと、できないことがある。求められているものも違うのだから、潔く、自分の役割を全うすることにした。
「姫様でしたら、厨へ行かれました。また何か思いついたようです」
「はあ……また……。今度はなんだろう」
「さあ?」
くすくすと笑う彼女の顔からは、以前に辛い思いをしていたとは考えられない。
さて、我が主を迎えに行かねば。
どうも最近、小蝶は落ち着きがない。
奔放でお転婆で、思いついた時に料理をしたりして城中の人を驚かせるのはいつものことだが、どうも、それとは違うようだ。
きっと、輿入れの日が近づいていることや、情勢が変化していることを、肌で感じているのだろう。
小蝶は自身を「脳筋」などと作った言葉で卑下し、頭が良くないと思っているようだが、実際には思慮深く、きちんと自分で考えることのできる人だ。
城の人間はもう皆、きちんと理解している。
だからこそ、彼女に一刻も早く尾張へ行ってほしいと思っているのだ。
美濃と尾張が結ばれることで、救われるであろうすべての人のために。
僕はそんなの、嫌だけど。
「小蝶、何してるの?」
「わ、彦太!あーっ違う、違うの!」
厨に入ると、姫が鍋でどんぐりを煮ていた。
「……何が違うの?」
妙に慌てた小蝶に、僕は以前に彼女から言われた「じと目」という目つきで詰め寄る。これはわりと、言うことを聞かない姫にも効果があるらしい。
「今日は料理じゃなくて、ほら、一昨日集めたどんぐりのね、虫抜きをしようと思って」
小蝶はもともと料理が趣味で、なにか新しい調理法を思いつく度にこうして厨へ侵入しているので、もう給仕係の面々とは顔見知りだ。
どんぐりの虫抜きをしたい等という、童子が言い出しそうな理由で訪れても、皆「いつものこと」と言わんばかりに招き入れて好きにさせている。
「斎藤家の姫が、どんぐりって……皆さんも、少しは注意してくださいよ!良いんですか!?鍋をこんなことに使われて!」
「彦太!どんぐりはね、虫抜きをちゃんとしないと大変なことになるのよ!?取っておいたどんぐりから虫がたくさん出てきて、泣きべそかいたの忘れたの!?」
「な、何年前の話をしてるの!!」
斎藤家にお世話になって最初の年、小蝶と二人で稽古の合間に集めたどんぐりから虫が湧き出て涙目になったこともあった。
言っておくが、今は虫ごときで泣いたりしない。当たり前だ。数えで十四なんだから。
厨にいた全員が、声を殺して笑っていた。悪いと思っているのなら、聞こえないふりをして欲しかった。
どうも、小蝶といると調子が狂う。
斎藤家ではもう、僕を居候扱いする人はいなかった。
武芸も勉強も、必死に頑張った。
小蝶が寝た後に一人で書を読みふけり、朝を迎えたこともあった。
小蝶に負けたくないから、素振りは彼女の倍の数やった。
まだ彼女に一本も取れていないけれど、元服までにはなんとかしてみせる。
以前のように、嫉妬からじゃない。
誰からも認められるように、なりたいから。
自分で自分を、認められるように。
僕を唯一認めてくれた、彼女に認めてもらえるように。
舞の稽古の時間なのにどんぐりを煮ていた小蝶を厨から連れ戻し、きちんと稽古を受けさせていると、気が付けば夕刻になっていた。
いつもと同じ日。
このまま、彼女が輿入れする、近い先まで続く一日だと思っていたのに、その日の夜は違っていた。
屋敷から見える城下の町が、赤く染まっている。
日が沈み始めて薄暗くなるはずの山麓が、異様なほどに明るく光を飛ばしていた。あがる黒煙が空へ登っていく様が、遠くからでもはっきりと目に写った。
「彦太!あれって……燃えてるの!?」
止める侍女を振り切ったのだろう、小蝶が、羽織を掴んで城下の良く見える場所まで駆けてきた。
城に残っていた大人たちも慌てている。
肯定を示すように頷くと、次に小蝶の細い腕を掴んだ。わかっている、この方は駆け出す気だ。
「離して、行かなきゃ!町が燃えてるのよ!?」
「君が行ってどうする!?お館様方に任せておくしかないだろう!?」
これは、奇襲というわけではない。
戦というのは、前兆もなくいきなり起こるものではないのだ。
利政様も義龍様も、もう昼間のうちに報せを聞いて出陣していた。町が燃やされる可能性も、負ければ城まで入られるかもしれないことも、城や城下町の人間はある程度は覚悟をしている。
火をつけられはしたが、備えていた分被害はそこまでではないはずだ。
「でも、陣を敷いた場所から離れてる!なにかおかしい!」
「たしかに……でも、小蝶が行くべきじゃな……あっ」
するりと、手の中から踊るように逃れると、小蝶は素早く馬屋へ向かった。馬を使う気だ。
彼女は一目散に自分が慣らした愛馬へ駆け寄り、馬番が戦の為に出払っているのを良いことに、手綱を持って飛ぶようにして跨った。
ひらひらと、蝶のように予測できない動きで舞う彼女を止められる大人は、今この城内にはいない。
「くそっ……誰か、小蝶様を止めてください!」
叫んだところで、無駄なのはわかっている。周りが動揺している間に、愛馬は主の言う通りに、蹄の音を立てて進み始めた。
だめだ、他の者に任せてはおけない。今の彼女には、僕しか追いつけない。
「あー、もう!」
城壁の方へ回り、生け垣の一番高い木に登ってから、そのまま門の屋根に飛び移る。
小蝶と城中を鬼ごっこして、野山を駆け回って僕も脚力だけは大人以上だ。
小蝶の馬が城門をくぐったところで、合わせてその背に飛び乗った。
「わっ!?えっ、彦太!?」
「もういいよ。止められないなら、着いていく!」
「!ありがとう!!」
心の底から嬉しそうに、彼女は風の中で笑った。
お礼を言われたかったわけじゃない。危ないことをするな、と怒って止めるつもりだったのに。
まったく、彼女といると本当に調子が狂う。
馬は目立つので町についてから、入口の井戸に繋いだ。
少し歩いてみるが、人の気配はない。
やはり、火が回る前に避難は完了していたようだ。何人かの、遅れて避難する町人とすれ違ったが、皆、そこまで慌てた様子はなかった。
未だ燃え盛る炎にまみれた家と、煤煙のにおい。
三年前、初めてこの城下を通った時のことを思い出す。
斎藤家はあれから、驚くべき速さで城下町を復旧させた。
それをまた、こんな風に焼き払って奪うなんて、ゆるせない。
目の端が、じりじりと熱くなってくる。
「小蝶、やっぱり危険だ。帰ろう。どこに敵兵がいるかわからないよ」
「……待って、誰かいる」
敵兵は火を放ってすぐに移動したのか、それとも炎と煙のせいで見えないだけなのか。燃え朽ちる木材の音以外は、静かだった。
その異様な静寂の中で、彼女は、まっすぐ、なにかを見据えている。
視線の先には煙しかない。
煙のせいで咽る息を抑えれば、かすかに、蹄の音が耳についた。
馬に乗っているとしたら、逃げ遅れた町人ではない。
向こう側からも数人の声が聞こえてきた。
「小蝶、戻ろう。これ以上はダメだ」
こんな煙と火の粉の舞う中で、そんなにも大きな目を見開いて、彼女は痛くないのだろうか。
視界が悪くなりきる前に伸ばした手で、無理矢理小蝶を引き寄せた。
意外にも言うことを聞いておとなしくなった彼女を馬まで連れて走る前、炎の中の人影に向かってつぶやいたのを、僕は聞き逃さなかった。
「織田……信長…………」
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