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ペアリング

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 蒼の会社では、毎月一日になると、その月に誕生日を迎える社員を全員で祝う習慣がある。
 全員といっても、せいぜい五十名ほどの会社だからそれほど大がかりな会合にはなりえず、また会そのものも、朝礼の後で五分ほどの時間を取り、今月誕生日を迎える人間に社長から直々にプレゼントが手渡されて終わる、という至極簡単なものだ。
 蒼は十二月の生まれで、だから十二月一日のその日、朝礼では蒼を含めた数人の社員が前に呼ばれ、プレゼントを渡された。
 会が終わり、早速鞄にプレゼントをしまい込んでいたところで井上に声をかけられた。
「えーと……十六日、です」
「へー」
 何だか的を射ない表情で感心する井上に、内心で密かに蒼は詫びる。
 実を言うと、蒼の誕生日はこともあろうに二十四日、世の恋人たちがクリスマスイブだ何だと浮かれ騒ぐまさにその日なのだった。で、この話を人に教えると十中八九、ケーキはやっぱり二個食べるのかだの、キリストと同じ誕生日でよかったねなどと弄られ、ひどくうっとうしい思いをする。前者は一個に決まっているし、後者に至っては、クリスチャンでも何でもない蒼には正直どうでもいい話だ。そもそもキリストの誕生日は二十五日であって、二十四日はその前夜祭の日でしかない。
 そんなわけで、蒼の本当の誕生日を知るのは古くからの一部の友人に限られているし、その古い友人にしても、ほとんどは地元に残っているから、今では蒼の周囲で彼の本当の誕生日を知る人間は皆無と言ってよかった。
 皆無――そう。蒼は、恋人の拓海にさえ自分の誕生日を教えていなかった。
 それを教えてしまうと、まるで「祝え」と言っているような気分になってしまう上、祝われたところで、どうせろくな展開にはならないだろうと自分の中の何かが告げていた。一年前、今の会社に転職したさいには、初めての手料理を振舞ってはくれたものの、砂糖と塩を間違えるという古典ギャグ的展開で結局は地獄を見る羽目になった。
 そんなわけで、拓海には誕生日のことは何も教えていないのだが、どのみち誕生日にはクリスマスと称してケーキぐらいは食べるし、それを、心の中で誕生ケーキのつもりで食すればそれで十分だ。第一、二十代も後半になって、いまだに誕生日云々で喧しく言うのも見苦しい気がする。それも、童顔とはいえ大の男が、だ。
「で、その日は彼女さんとディナーにでも行くのか?」
「さぁ……どうでしょうね」
 曖昧に笑い返しながら、そういえば二十四日の予定について、今のところ何の話もしていないな、と、蒼は思うともなく思い出していた。
 拓海とも、それに――琢己とも。
 結局、あの後も蒼は、琢己とのどっちつかずの関係をずるずると続けていた。
 常識的に見れば、既婚者の人間と、すでに彼氏持ちの人間が付き合うなど決して許されることではない――にもかかわらず、明確な意思も示せず今に至っているのは、蒼自身にもはっきりとした理由が分かっていなかった。
 琢己が好きだから――それもある。
 ただ、その割には、たとえば琢己とドライブに出かけても、あるいはホテルのバーで共にグラスを傾けても、いっこうに気分は高揚せず、むしろ打ち沈むばかりなのが妙だった。かといって二度と会いたくなくなるかといえばそうでもなく、むしろ別れたそばから、次も会わなければという強迫観念にも似た想いに囚われる。
 そしてまた、琢己との憂鬱な時間を過ごす羽目になる。
 そんな自傷行為めいたことを、蒼はこの一か月でもう十回近くも繰り返していた。
「ん……?」
 懐でスマホが震えて、見ると、見覚えのある番号が画面に表示されていた。よりにもよってこんな時に、と慌てて席を外し、廊下に出たところで電話を取る。
『お前、クリスマスの予定は?』
 電話口から聞こえてきたのは、案の定、琢己の声だった。
「特には……石動さんは?」
『お前が空いているなら、ホテルでディナーでも取ろうと思っているんだが』
 空いているなら――
 それを言えば、一応、今のところ空いてはいる。ただ、それは同時に〝空けておかなけらばならない予定〟でもある。――少なくとも、恋人を持つ人間の礼儀として。
「すみません……少し、考えさせて頂けませんか」
『おいおい』
 蒼の言葉に、電話の向こうから苛立たしげな声が返る。
『どうも最近のお前は優柔不断で困るな。振り回される俺の身にもなってみろよ』
 その言葉に、蒼は密かに奥歯を噛みしめた。
 ならば、そもそも最初から構わなければいいのだ。こんな、一度捨てたはずのがらくたなんぞに。
「とにかく……考えさえてください」
 半ば押しつけるように言い切ると、蒼は、それきり黙って電話を切った。
 スマホを懐にしまうと、途端に途方もない疲労が蒼を襲った。それは近頃、琢己と接すると必ず感じてしまう疲労で、その理由は今もって蒼にも分からない。が、いずれ気持ちの良いものではないことは確かだった。
 強いて喩えるなら、見えない刀傷を食らうような感覚で、その傷からは今この瞬間も血が流れ続けているのだが、皮肉なことにその傷は、決して自力では治ってくれない――そんな印象だろうか。
「ほんと……何やってんだろうな」
 わざと自嘲の笑みを浮かべて見せる。が、うまくは笑えず、代わりに蒼は小さく溜息をついた。
 
「そーうっ!」
 意外な声に顔を上げる。見ると、ジーンズにダウンジャケットというラフな格好の拓海が、ニマニマと顔の筋肉がゆるんだような笑みを浮かべて立っていた。
 そこは、最寄り駅からマンションへと向かう道すがらにあるコンビニで、会社帰りにはほぼ毎日のように立ち寄ることにしている。十二月に入り、店内はいよいよクリスマス商戦に向けた赤と白のデコレーションに彩られ、かてて加えて有線からクリスマスソングでも流れるなら、嫌でもクリスマスムードに染められずにはいられない。
 その、クリスマスムード溢れる店内に、拓海は、コンビニ用の小型かごを片手に提げて立っていた。
「何だぁ、教えてくれたら駅まで迎えに行ったのに」
「……ごめん」
 条件反射で謝ってから、そういえば自分には謝る理由などないと気づいて蒼はむっとなる。そもそも近頃の拓海ときたら、蒼が仕事から帰っても家にいないことが多く、おかげで蒼は、このところ毎晩、人けのない暗くて寒い部屋に戻ることを強いられていた。
 明かりの灯らない部屋ほど、帰宅して空しいものはない。
 そのたびに蒼は、何とも言えない苛立ちを拓海に覚え、どうせ掃除も洗濯も料理も出来ないのなら――それらのほとんどは、蒼が休日にまとめて済ませている――、せめて家にいて出迎えるぐらいはしろと怒鳴りつけたくなるのが常だった。
 曰く、かつてのバンドメンバーと一緒に集まって何やら企んでいるらしいのだが、それ以上のことを拓海は何も教えてくれない。あるいはバンド活動を再開するつもりなのかもしれないが、そうなると今の仕事はどうするのか、どの程度の頻度で活動するのか、恋人として看過できない問題についても何一つ語ってくれないあたり、何とも腹立たしい。
「ってかお前、今日はバンドの人たちと一緒じゃなかったのかよ」
 自分でも驚くほどやっかみめいた物言いになり、忌々しさにチッと舌を打つ。が、さいわい拓海には聞こえていなかったらしく、相変わらず満面の笑みで拓海は答える。
「うん、さっきまで会ってて。今がその帰りなんだけど、ちょっと小腹がすいちゃってさ」
 よく見ると、拓海のかごにはカップラーメンやらポテチやら、こんな夜更けに食すには余りにも不健康きわまる食料が大量に放り込まれている。
 付き合った当初、拓海の食生活は無茶苦茶の一言で片づけられるほどに乱れきっており、たとえば朝食抜きは当たり前、数日はお菓子とジャンクフードのみで乗り切ることもしばしばだった。蒼との生活で多少は改善したものの、夜更けに何かをつまむ癖だけは、いくら言い聞かせても治らなかった。下手をすると成人病の原因にもなるし、何より、太ると見苦しくなるので出来れば控えてほしいと思っているのだが……
「でもさ、驚いたよ」
「は? 何が?」
「だって、ふらりとコンビニに立ち寄ったらさ、偶然、蒼も買い物に来てるんだもん。びっくしりたよ。やっぱり俺ら、運命の赤い糸で結ばれてるんだねぇ」
「……ただの偶然だろ」
 言い捨てると、蒼は、そういえば豆腐を切らしていたと思い出し、近くの棚から豆腐を取って拓海のかごに放り込んだ。さらに、もやしやカット野菜などを選んで次々とかごに放り込む。近頃のコンビニは、惣菜やインスタントだけでなく料理の材料も多く置いているからなかなか便利だ。
「こーやって二人で買い物してるとさ」
 蒼の背後をかごを抱えつつ従いながら、ふと拓海が思い出したように言う。
「なんか、恋人って感じだよね。俺ら」
「公衆の面前でそういう話はやめろ」
「えー何で? 事実じゃん」
 あくまでも気楽に答える拓海を、蒼は憎々しげに見上げる。
 確かに事実は事実だが、どう見てもパンク上がりの金髪長身男と、スーツに黒髪の真面目社会人が、実は恋人という絵面を素直に受け入れられるほどには、蒼が思うに、この国のマイノリティーに対する理解は成熟していない。
 ようやく買い物を終えて店を出ると、冬らしい乾いた北風がひゅうと首筋を撫でた。
「うっわ、さむっ!」
 小さく悲鳴を上げながら、拓海はダウンジャケットの襟を掻き合わせる。夏が好きな代わりに冬の寒さが苦手な拓海には、この寒さはひどく堪えるらしい。
「うー、早く帰ろうぜぇ」
 言いながら手を握ってくるのを、蒼はさりげなく払う。視界の隅で、一瞬、拓海が寂しげな眼差しを浮かべたのを、蒼は見なかったつもりで歩き出す。
 しばらく夜道を歩いたところで、ふと、拓海が思い出したように切り出した。
「蒼ってさ」
「ん?」
「俺らが恋人同士に見られることを、なんか、すっごく嫌うよね」
 どうやら、店の前で無碍に手を払われたことについて言っているらしい。
「あ……当たり前だろ。ていうか、お前こそ、もう少し俺らの肩身の狭さについて自覚しろ」
「わかってるよ……でもさ、ペアリングも買えないのはさすがに寂しいよ」
「は? ペアリング?」
 何のことだという顔で振り返る。すると拓海は子供のように唇を尖らせて、
「は、じゃないよ。付き合い始めの頃に言ったじゃん。僕はペアリングなんて調子こいたものは着けたくないってさ」
 その言葉に、ようやく蒼は思い出す。
 付き合って間もない頃、確かに蒼は、拓海にペアリングを作ることをせがまれた。どんな時でも二人の絆を感じられるように、と言って――
 だが、それを蒼は、「いらない」と言って突っぱねたのだ。そして――これも実は、琢己にその理由があった。
 琢己は、ペアリングを作ることを決して蒼に許さなかった。体面を重んじる琢己にとって、蒼とのペアリングは、彼がバイであることを示す危険な爆弾でしかなかったのだ。
 オリジナルの〝タクミ〟との間でそうだったのなら、当然だが、ダミーとの関係においてもペアリングを作るわけにはいかない。
 そうして蒼は、当時の琢己と同様、ペアリングを作ることを拓海に禁じた――
「そういや、もうすぐクリスマスだな」
 これ以上、指輪の話を続ける気になれず無理やりに話題を改める。とともに蒼は、何となく、あの夜の――東京湾の夜景を眺めた時の琢己のようだと思い、ひどく苦い気分になった。
 が拓海は、あの時の蒼と違い、これといって不機嫌を顕わにする様子もなく、
「ん? そういやそーだね」
 と、まるで他人事のようにけろりと答えた。
「そういや、って……反応薄いな。ってかどうすんの、お前?」
「どうするって?」
「だから、クリスマスだよ。二十四日のさ」
「二十四日? ……ああ、普通に出勤だけど?」
「いや、だからそうじゃないって……その、夜はどうするのかって訊いてんだよ」
「夜? ……あっ!」
「何だよ」
 何かを思い出したように声を上げる拓海を、怪訝な目で振り返る。と――
「ごめん!」
「は?」
「その日はどうしても外せない用があって! マジでごめんっ!」
 そう言って、ぱん、と両手を合わせる拓海を、蒼は自分でも驚くほど愕然とした気分で見上げた。
 嘘だろう。
 どうして、よりにもよってその日を空けていないんだ。……恋人なのに。
「え? ……マジ?」
「……えっ?」
 驚いたように拓海が瞼を見開く。おそらく拓海も、蒼にこれほどのショックを与えてしまうとは想定していなかったのだろう。確かに今の今まで蒼は、拓海の前ではクリスマスについてはほとんど触れておらず、ここまで思い入れがあったとは、だから、拓海としては予測しづらかったに違いない。
 いや、予測という意味で言えば、蒼自身まさかこれほどのショックを覚えるとは想像もしていなかったのだ。一年三六五日、文字どおり飽きるほど顔を突き合わせる相手と、その三六五日のうちのたった一日を共にできないというだけで、どうしてこうも打ちのめされてしまうのか……
 クリスマスだったから? 誕生日だったから?
 いや、前者はともかく後者は、そもそも拓海に教えてすらいないわけで、そもそも責めようがない。では、どうして……
「あ、いや、別にいいんだけど……でも……いや、うん……わかった……」
 ほとんど譫言のように答えながら、蒼が囚われていたのは、一刻でも早く琢己に連絡しなければという蒼自身にも理由のわからない焦燥だった。
 かつて愛した人と過ごすクリスマスは、事情はともかく、それはそれで心躍るものではあるはずだったのだが――
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