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それでも

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「はぁ!? 店を辞めるゥ!?」
 頓狂な速水の声に、フロアの仲間がいっせいにふり返る。まだ開店前ということもあって慌てて作業の手を止めると、怪訝な顔で渉のところに駆け寄ってきた。
「は、はい。……とにかく、今日一杯でこの店を辞めさせていただきます。……今まで、本当にお世話になりました」
「今日で辞めるぅ? どういうことや、わたるっち!」
 すかさず突っ込んできたのは鬼塚だ。
「そんな……せっかく仕事に慣れてきて……それに、もうすぐハーブ検定やんか。何でこんな時期に辞めなあかんねん!」
「落ち着け。――とりあえず、何があったのかきちんと話してもらうぞ、サキ」
 速水のいつになく強い口調に、渉は強い焦りと不安を感じた。やっぱり、あのことも話さなければいけないのか……。
 何が起こったのか。なぜ辞めるのか。表面的な理由を語るのは大したことじゃない。ただ、それではあまりにもアンフェアだ。御園に対して公正を期そうと思うなら、鷹村と自分の関係も明かさなければならないだろう。が、そうなると、鷹村に対するスタッフの印象がどうなるか。
 そんな渉の腕を、不意に速水の手が強く引いてきた。
「サキ、ちょっと来い」
 そのまま有無を言わせず渉を奥へと引きずってゆく。やがて渉とともに事務所に入ると、外の様子を伺いながらそっとドアを閉ざした。
 ふぅ、と肩で息をつき、ふたたび口を切る。
「御園に何か言われたな」
 えっ、とふり返る。そんな渉の反応を図星と見たのだろう、速水はいまいましげにチッと舌を打った。
「んなこったろうと思ったよ。――大方、今夜の婚約発表会にそなえて邪魔な人間はあらかじめ排除しておこうって魂胆なんだな、あのクソ女」
「婚約発表会?」
「ああ。ついさっき店に通達が回ってきた。用のない奴はもちろん、用のある奴もできるだけ都合して参加しろだと――ったく、当日になっていきなりンなこと言ってくる馬鹿がどこにいやがるんだ。小学生の方がまだ礼儀をわきまえてらぁ」
 苛立ちを吐き散らす速水を眺めながら、しかし渉の感情は全く別の場所にあった。
 御園の婚約相手といえば、自分のような馬鹿にも一人しか思いつかない。――だとしても、なぜ? このことを涼は知っているのか? すでに彼女との結婚を了解しているのか?
 了解しているのなら、どうして今まで黙っていたのか。
 あのときの言葉は、全部、何もかも嘘だったのか―――……
「……サキ?」
「えっ?」
 はっと我に返る。気づくと、目の前にあるはずの速水の顔がひどくぼやけていた。まさかと思って頬に触れると、熱いものでべっとりと濡れている。
「帰れと……言われました」
 そう呟く声は、自分でも驚くほど上擦っていた。
「帰れ? どこに、」
「お前のような人間は、涼には必要ないからって……そうですよね。僕みたいに、愚図でのろまなだけの田舎者が、涼のために何かできるんじゃないかって思うこと自体、とんだ身の程知らずだったんです。こんな自分でも、東京でなら何かできることはあるんじゃないかと……自分の可能性を探れるんじゃないかと、そう勘違いして……ダメだったんです。考えてみたら、地元でダメなやつが東京でどうにかなるわけがない。僕は、この街の人間として不適格なんです……涼の友人としても……」
「社長は、このことを知っているのか?」
 渉はゆるゆると首を振った。
「わかりません……でも、そんなこと、もうどうでもいい」
「どうでもいい? 何でそんなこと、」
「涼にはあの人がふさわしいんです!」
 何かを断ち切るような、それは悲鳴に似た激昂だった。
「あの人と結婚すれば、東京での涼の成功は確実になる! でも、僕なんかがそばにいたら結婚の邪魔になってしまう……だから帰らなきゃいけないんです……だから、」
「本気でそう思ってんなら、お前は社長のことを何にもわかってねえ」
「……え?」
 意外な言葉にぽかんとなる渉に、宥めるように速水は続けた。
「そもそも、どうして社長の成功のために御園が必要なんだ? そりゃ確かに、最初は御園の親父さんに援助を受けてたかもしれねぇ。資金面でも、それに顧客獲得の面でもな。――けど今は、社長は誰の看板にも頼らず自力で仕事を勝ち取ってんだ。今のクライアントは皆、社長本人の能力を認めて依頼を持ち込んだ客ばかりだしな」
「で、でも、それだけお世話になったら、もちろん恩返しを、」
「その必要もねぇんだよ。今の社長にはな」
「えっ?」
「初期の融資はぜんぶ親父さんに返済したし、それに今だって、順当に株価を上げて資産を殖やしてやってるんだ。そのうえ、あのメンヘラ娘を貰ってやるだぁ? ははっ、いくら恩返しったってそりゃ返しすぎだ。厭ってほど釣りがくるぜ!」
「……」
「で、お前はどうしたいんだよ」
 ふっと目を細めると、速水は、さっきまでのおどけた調子とは打って変わった鋭いまなざしで言った。こんな時に思うことでもないのだろうが、こうして真面目に顔を引き締めると、速水も相当な男前なのだ。
「このまま大人しく地元に帰るか? それとも、自分を信じて東京に踏みとどまるか? どっちだ? 選ぶのはお前だぞ、サキ」
「自分を……信じて?」
 その言葉に、渉はあらためて自分の心に向き合ってみる。本当はどうしたいのか。これからどういうふうに生きていきたいのか――そして気づく。意外にも地元に帰ってふたたび引きこもりたいと強く願う自分に。
 要するに、ただの言い訳だったのだ。
 御園と結婚した方が鷹村は幸せになれるだの、鷹村は自分のことを何とも想っていないだの、そんなものはすべて楽になるための口実にすぎず、つまりはただ怖かっただけなのだ。
 今度こそ取り返しのつかない傷を負ってしまうことが。分不相応な恋に手を伸ばすより、最初から自分などと言って割り切ってしまう方がうんと楽だから。リスクのない片想いを続ける方がずっと気楽だから。
 実際、今まで渉はそうして生きてきた。鷹村を単なるあこがれの存在として、どこか遠い世界の存在として無責任に想ってさえいればそれでよかった。
 でも。
 今の渉は知ってしまった――知りすぎてしまった。鷹村の熱を。汗ばむ肌の感触を。抱きしめる腕の力強さを。渉を求めてすすり泣く声の切なさを。
 ――好きだ、渉……やっぱり、お前じゃなきゃ、俺は……
「うん」
 渉は目元の涙をシャツの袖で拭うと、尻ポケットから小さく畳んだ航空券を取り出した。
 そして、それを両手でまっぷたつに引き割いた。
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