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決断

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 恐竜でも入れそうな広大な会場は、早くも多くの来場客でごった返していた。人数や参加者の年代の高さから考えて、どうも会社の人間だけが呼ばれているようには見えない。おそらく父親の――つまりミソノホテルの関係者も数多く招待されているのだろう。
 そんな来場客の間を、まるで花から花へと飛びまわる蝶のように挨拶して回っているのが、今夜の主役の一人、御園莉緒だ。
 早くも花嫁気分でいるのか、ふんだんにレースをあしらったホワイト系のロングドレスに身を包んだ彼女は、たしかに文句のつけようがないほど可憐で美しい。手足も、それに首筋もすらりと伸びて長く、まるでマネキンが命を得て歩き回っているかのようだ。
「へへっ、花嫁衣裳とは気の早いこって」
 傍らで、珍しくスーツで身を固めた速水が茶化すように吐き捨てる。ついさっきまで店で閉店作業に追われ、出入り業者に都合をつけて回っていた疲れはおくびにも見せず、今はただ物珍しげに会場を見回している。
「あいつの実家だからどうも好きにはなれねーが、ただ、飯だけは抜群に美味いんだよな。ここのホテルは。――おっ、名物ミソノグラタン発見!」
 言いながら、早くも会場すみのビュッフェエリアにいそいそと足を向ける速水の背中を、渉は恨めしく見送った。この調子では一体どこまで本気なのか分からない。
 見れば、アンジェの仲間たちはほとんどがビュッフェの料理を確保するので忙しそうだ。速水曰く、渉が御園に宣戦布告を叩きつけるまでに腹をいっぱいにしておけということで――逆に渉は、みんなが腹いっぱいになるまで宣戦布告はするなと命じられている――その指示もあって動いているらしいのだが、渉にはどうもふざけているようにしか見えない。
 時計を見ると、すでに鷹村の乗る新幹線は東京に戻っている。会場ではいまだ乾杯が済んでいないが、それは鷹村の会場到着とともに行われる予定とのことらしい。
「大変だ、渉」
 いつの間にかこちらに戻ってきていた速水が、深刻な顔で耳打ちしてくる。
「どうしたんですか速水さん。何か問題が、」
「ああ大問題だ。想像以上に料理が美味すぎる。お前、タッパーとか持ってないか?」
「……いえ、持ってませんけど」
 そっかー、と残念そうに天井を仰ぐ速水は、やっぱりふざけているようにしか見えなかった。
「あの……速水さん」
「ん? 何だ?」
「やっぱり、僕がやろうとしていることは間違っているのでしょうか……こんなにたくさんの人たちに祝福される婚約をぶち壊しにしようとしている僕は、いうなればテロリストみたいなものです。……この会場にも、偽名で紛れ込んでますし」
 実際に今日、渉は副店長の山之内の名前を使って受付を済ませている。本名を名乗ると受付の段階で弾かれるかもしれないと思い、速水と相談の上でそうしたのだ。ちょうど彼女とのデートを約束していた山之内は、彼女を怒らせずに済むと言って喜んでいたが。
「それを言ったら」
 皿の上のものをあっという間に口に押し込んでしまうと、頬っぺたをリスのようにもぐもくさせながら速水は言った。
「社長の了解も取らずにこんな会を開いた御園こそ、俺はどうかしてると思うぜ」
「えっ? 取ってない? 許可を?」
「うん。さっき電話したんだけど、なんかすげぇ驚いてたぜ」
 どういうことだ――渉は余計に混乱する。
 その話が本当なら、鷹村がじつは今回の婚約に賛同していない可能性もある。が一方で、本当に御園を好きでないのならとっくに別れを切り出していたはずで。
 一体、鷹村は何を考えているのだろう。御園のことを、本当はどう思っているのか……?
 その時、不意に人形の顔がこちらを振り返った。しまったと思ったときには、もう渉の姿は猛禽の瞳に完全に捕らわれていた。
「ちょっと……これは一体どういうことかしら」
 その彼女が、ドレスの裾捌きも鮮やかにつかつかと歩み寄ってくる。
 厭でも思い出してしまうのは、今朝のマンションでの出来事だ。渉の存在を、ここにいる意味を、真っ向から否定し打ち砕く眼差しに、思わず膝が竦んでしまう。
 駄目だ。僕では、とてもこの人にはかなわない――
「サキ」
 軽く肩を叩かれ、ふり返る。ニッと不敵に笑う速水に、渉はようやく自分がここにいる理由を思い出す。そうだ。ここで折れるわけには……
 渉はスーツの懐から千々に割いた紙切れを掴み出すと、それを歩み寄る御園の前に突き出した。
「何よ、それ」
 足を止め、怪訝そうに渉を睨む御園に塊のまま紙切れを投げつける。紙切れは、だが御園にぶつかることなく空中でさっと散ると、やがて音もなくカーペットに降り積もった。
 渉は一つ大きく息を吸うと、言った。
「りょ、涼は……渡さない。あなたにだけは、絶対に……!」
 今ある限りの勇気を振りしぼった言葉だった。と同時にそれは、今までの自分に対する決別宣言でもあった。ともすれば楽を取ろうとする自分との――鷹村との分不相応な恋に伴う苦しみや痛みを厭う、卑怯で臆病な自分との。
「何を言っているの?」
 冷やかに御園は言った。
「あの人は、もう、私と結婚することに決めているの。今更あなたのような人間が何を言ったって無駄なのよ」
 確かに――
 無駄かもしれない。それに何より、あまりにも身勝手だ。あの日、自分の方から逃げておきながら、今になってやっぱり欲しいだなんて――でも。
 それでも欲しいんだ。たとえ、それがどんなに罪深い希いだとしても……
「本当に無駄なら」
 それまで黙って様子を見守っていた速水が、ふと口を挟んできた。
「何だってこんなに話が急なんだよ。おかげで業者さんに配達時間を早めてもらったりしてよ、そりゃまぁいろいろと大変だったんだぜ?」
「それは……ご苦労だったわね。でも、悪いけど今は黙っていていただける?」
「そういうわけにはいかねぇんだな」
「……え?」
「わかってるぜ。要するにお前、社長が心変わりする前にとっとと話をまとめちまおうって魂胆なんだろ。みえみえなんだよマジで」
 瞬間、御園の顔が音を立てて凍りつくのを渉は見た。
「な……何を言っているの? そんな……」
「どうした? えらくビビってるご様子だが、ひょっとして図星でも突かれたか?」
「ちち、違うわよ! だって、こうでもしなきゃあの人、なかなか決断してくれないじゃない! ――わ、私、ずっと待ってたのよ!? あの人からのプロポーズを……なのにあの人、ちっともそんなそぶりを見せなくて、だから私が、こうして背中を押してあげてるんじゃない!」
「つーかそれ、単にパートナーとして見られてなかったって話じゃねぇの?」
 その言葉に、人形の顔が今度はさっと蒼褪める。
「ど……どういうことよ」
「まぁ、ああ見えて社長は優しい人だし、それに親父さんへの恩もあるしでなかなか別れ話を切り出しにくかったんだろ。けど、どっちにしろあんたは鷹村さんの眼鏡にはかなってなかったわけよ。――まぁ、真っ当な神経の男なら、あんたみてーな女はまず選ばないわな」
「か、勝手なことばかり……何の根拠があってそんなこと、」
「じゃあどうして社長は来ねぇんだ?」
「……え?」
「え、じゃねぇよ。時間的に見て、とっくに社長は東京に戻ってる。それでもこっちに来ないのは――どういうことだと思う?」
「そ、それは多分、急な用件で……」
「さっき、この会の趣旨を社長に伝えておいた」
 えっ、と御園が瞼を見開く。まさかとは思っていたが、どうやら本当に会の趣旨を伝えていなかったらしい。しかもサプライズにしては、この驚き方――いや怯え方は普通じゃない。
「つ、伝えた、って、何を……」
「だから、この会が、あんたとの婚約発表のために設けられた場だってことをさ。もちろん、今朝あんたがサキに対してやった仕打ちも含めてな。――で、その答えが今の状況なわけよ。会が始まってもう何十分と経つのに乾杯さえ始められない、まさにこの状況こそが、あんたに対する社長の無言の返答じゃねぇの?」
「う、うそよ……涼は、言ってくれた……愛してるって、私のこと……」
 うわごとのように呟くと、御園は呆けたように会場を見渡した。
 この場に集まるほとんどの人間は、たった今、会場の片隅で起こった出来事に全く気づいていない。この会の趣旨がすでに失われてしまったことに気づくことなく、ただ愉しげに歓談を続けているのだ。――そして、それは何とも皮肉な光景だった。
「……御園さん」
 渉は深々と腰を折ると、言った。
「ごめんなさい。あなたを傷つけたのは僕です。全部、僕が悪いんです。――もし恨むのなら、涼ではなく僕を恨んでください……お願いします」
 が、返事はなく、おそるおそる渉が顔を上げると、相変わらず御園は魂が抜けたような顔でぼんやりと会場を眺めていた。
 その端正すぎる横顔を眺めながら、ひょっとするとこの女性は、今の今まで自分を否定される経験を経てこなかったのではと渉は思った。だから今、生まれてはじめて自分を否定されて、その事実を受け止めきれずに思考停止を起こしているのかもしれない。
「よーしおまいら、食うもん食ったらとっとと帰るぞー。おおい、サキも食えよぉ」
 ふり返ると、早くもビュッフェエリアに戻った速水が遠くから手招きしている。が、渉としては、こんな空気で食事を取ろうという気にはとてもなれない。できることならさっさとこの場を退散して、外の風を思う存分吸いこみたい。
「いえ……僕はもう……」
 きびすを返し、会場を後にする。
 背後から、人のものとは思えない雄叫びが聞こえたのはその時だった。
「このクソ底辺がぁぁ!」
 はっとしてふり返る。テーブル用のナイフを掴んでこちらに突進する御園の、醜く歪んだ顔が目に映った。
 恨みとも怒りともつかない、とにかく、もう何の感情だか分からない形相だ。が、ある意味、今まで目にした彼女の表情の中でも最も人間らしい表情にも見えた。
 これでいい、と渉は思った。
 このまま彼女の恨みを受け止めよう。それが、かつて鷹村から逃げてしまった自分にできるせめてもの償いだ――
「渉っ!」
 一瞬、鷹村の声が聞こえたと思ったその時には、もう渉はカーペットに突っ伏していた。
 やけに肩が痛む。どうやら横から強いタックルを受け、そのまま床に吹っ飛ばされてしまったらしい。一体誰が――と身を起こした渉は、傍らに膝をつく男の姿に言葉を失った。
 ――どうして。何が……
 それは、脇腹に深々とナイフを突き立てた鷹村だった。その背後には、何が起こったのか分からず呆然と二人を見下ろす御園が。
 その顔が、ふと優しく微笑んだ。
「来てくれたのね、涼」
 そんな彼女の表情に、渉は思わず戦慄する。こんな状況で、どうして彼女はこれほど幸福そうに笑えるのか……
「ああ」
 のそり身を起こすと、鷹村は彼女に向き直り、言った。
「このまま逃げるのは、あまりにも誠意に欠けると思った」
「逃げる? どういうこと?」
 うっとりと恋人を見上げる御園の手に、鷹村の手が何かを握らせる。
「別れよう。これ以上、君の理想にはつき合えない」
「……え?」
 丸く見開いた瞳が、じっと鷹村を見つめ、それから、その脇腹に刺さったナイフに落ちる。
「ち、違うわ、こんなの……私じゃない、私じゃ……」
 引き攣ったように呻くと、そのままカーペットに崩れ落ちた。
 無造作に投げ出された右手から、ころりと何かが転がり落ちる。見ると、それは鷹村が嵌めていた指輪だった。
 ようやく異変が起こったと気づいたらしい周囲の来場客たちが、そろそろと歩み寄り、倒れた御園の肩をそっと揺らす。が、見事に白目を剥いた御園は目を覚ます気配も見せず、思いがけない主役の変調に、いよいよ客たちの間に動揺が広がりはじめる。
「っ……つぅ」
 その傍らで膝を崩す鷹村に目を向ける客は、だから、思いのほか少なかった。たまたま近くにいた鷹村の会社の社員と、それから渉を除いては。
 そんな鷹村のシャツには、今もじわじわと、だが確実に不吉な染みが広がりつつある。
「だ、大丈夫っすか社長!?」
 ビュッフェから駆けつけた速水が、すかさず鷹村に飛びつく。
「ああ。傷はそれほど深くは……っっ」
「深くないって、がっつり刺さってるじゃないすか!」
 言いながらスマホを取り出し、素早く一一九番を押す。ようやく電話が繋がり、もしもし、と状況を伝えはじめた速水は、だが次の瞬間、唐突にスマホを奪い取られた。
 奪ったのは、ひときわ上等な礼服に身を包んだ初老の男だった。もともと上品な顔立ちの男なのだろう、が、今はひどい焦りと困惑でその仮面も綻びかけている。
「何すんだてめぇ! ――あ、御園さん?」
 慌てて速水が語調をあらためる。どうやらこの男が御園の父親らしい。
「あの、スマホ返してもらえないっすか。見てくださいよ、大変なんすよウチの社長が!」
「すまないが」
 焦る速水に、御園氏は深々と頭を下げる。
「涼君のことは、どうかわたしたちに一任してはもらえないだろうか。もちろん、必要な医療もこちらの方ですべて整える。――当然、最良のものを」
「任せるゥ? どういうことですか。それってつまり、娘の外聞のためならウチの社長の命なんかどうでもいいって、そう言いたいわけですか!?」
「よせ、速水」
 激昂する速水を諌めたのは、ほかならぬ鷹村だった。
「俺の傷は、多分、見た目ほどには深くない……それより……こんなことが下手に明るみになってみろ。御園社長や莉緒だけじゃない、婚約者に刺されたこの俺も、余計な醜聞を世間に晒すことになる……そうなれば、会社や……それに、お前の店はどうなる……」
 ぜいぜいと肩で息をしながら、喘ぐように言う鷹村は本当に苦しそうで、居た堪れなくなった渉は思わずその肩を抱きしめた。
 僕のせいだ。僕が彼女を傷つけたから。――あのとき涼から逃げたから。
「……渉」
「な、なに……?」
「これからも……俺のそばにいてくれるか?」
 その顔が、ふと渉をふり返る。苦痛に歪んだ笑みは痛々しくて、だが、こんな状況でも笑いかけてくれる鷹村が、渉はどうしようもなく愛おしかった。
「……うん。いるよ」
 ほとんど涙声で渉は答えた。
「ずっと、ずっとそばにいるよ。涼が厭って言うまで、ずっと……いるよ」
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