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失せもの、探します

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「実は、その……一か月ほど前、あの子のスイッチを手放したんです」
 その口調は、何か、見えない傷の痛みでも堪えるようでもあった。
「いえ、でも、仕方がなかったんです。だってあの子、すっかりゲームにかまけて勉強をおろそかにするものですから、その、模試の判定がみるみる下がってしまって……」
 あーこれは、と、私は手元の珈琲をくぴりと啜る。厳格で教育に厳しいご家庭にはありがちなトラブル。初見で抱いた〝きちんとしている〟という印象は、どうやら間違ってはいなかったらしい。
 案の定、女性は私の想像通りの告白を続ける。
「このままじゃ志望校に入学できないかもしれない。それで、あの子に黙ってゲーム機を売り払ったんですけど、そうしたらあの子、すっかり拗ねてしまって。なので……私の言うことも、素直に聞いてくれるかどうか」
「なるほど」
 神妙に頷く縁司くん。そんな縁司くんと、それから女性客とを交互に眺めながら、私は内心うんざりしていた。
 なるほど、それで息子の機嫌取りのために新しいスイッチを探しているわけか。だとしても、頼るべきはこんな珈琲店ではなく、まずは家電量販店だろう。何なら今すぐ代わりに買ってきてやろうか。
 とにかく、こんなしょうもない依頼で私の人生に影を落とすのはやめてほしい。
「つまりあなたは、それが息子さんにとっては悪縁だと判断し、断ち切ろうとした」
「悪縁? ……い、いえ、さすがにそこまでは……」
「ですが実際、それが息子さんにとって悪いものだと、断ち切るべき縁だと思ったのですよね?」
「違います!」
 突然の大声に、私は軽く面食らう。
 見ると、声を発した当の本人である女性客も、なぜか途方に暮れた顔をしていた。
 やがて彼女は、思い出したように言葉を繋ぐ。
「い、いえ……悪縁とまでは……ただ、その、あの子のためになればという、それだけで……」
 そして彼女は、泣きそうな顔で小さく「すみません」と呟く。
「わかっていたんです。そうやって、勝手に持ち物を処分された子供がどれほど傷つくか……わかっていたはずなのに」
 すると縁司くんは「ふむ」と唸ると、切れ長の目ををすい、と細める。一方の女性客は、どこか気まずそうに目を伏せる。心なしか頬が赤いのは、まぁ……縁司くんのビジュアルなら仕方がないか。
 いや、今は彼の美麗すぎるビジュアルに感心している場合じゃない。
「……こりゃまた随分と古い縁だ」
「えっ?」
「あ、いえ。……何にせよ、本人に会わなければそれが本当に良縁か悪縁か、そもそも縁自体が残っているのかすらもわかりません。まずは一度、息子さんを連れていらしてください」
「はぁ……わかりました、何とかあの子を説得してみます」
 すると縁司くんは、これまた殺人的に美しい微笑をやんわり浮かべる。うっ、イケメンの暴力……いやいや、だからしっかりしろ、私!
「お願いします。息子さんには、本気で復縁を望むのであればできるだけ早い方がいい、とお伝えください。時間が経つと、それだけ縁というものは脆く、弱くなります。余程大切なものであれば、多少は長く保つこともありますが」
「早い方が……わかりました。頑張ってみます」
 頷くと、彼女は残りの珈琲を慌ただしく飲み干し、会計を済ませて店を出る。その背中がドアの向こうに消えると、さっそく私はカウンターに詰め寄った。
「まさか、本当に引き受けるつもり?」
「そりゃね。実際、今までも引き受けてきたんだし」
 何食わぬ顔で答える縁司くんは、早くも女性客のカップを洗い始めている。
「それは、叔父さんがオーナーだった頃の話でしょ? とにかく……私は反対です。今回の依頼も、後でちゃんと断って」
 ぴた、と、カップを洗う縁司くんの手が止まる。気のせいか寒気を覚えて、私は思わず二の腕をさする。
 見ると、縁司くんが冷ややかに私を睨みつけている。まさか、この冷気は彼が?
「英司さんのやり方を否定すんの?」
 静かだが、切りつけるように冷たい口調。が、そんな彼の気迫に負けじと、こちらも睨み返す。
「だ、だって、しょうがないでしょ。もし、本業以外の業務で黙って稼いでいることが知られたら、しょっぴかれるのは私なんだから」
 不意に店内を包む沈黙。その気まずさに負けじと、私は無言のまま縁司くんと睨み合う。
 とにかく、ここで折れるわけにはいかない。
 人間の世界は、彼らが思うよりずっとシビアで複雑だ。膨大な法律。明文化はされなくとも守ることが自明とされる倫理観、それにマナー……そうした諸々の制約の中で、人間である私は生きざるをえない。人ならざる縁司くんの、カミだか妖怪だかの感覚で話を進められても困るのだ。
 やがて縁司くんは、洗って拭き終えたカップを背後の棚に戻す。そこには、デザインも大きさもとりどりのカップがペアのソーサーと一緒に並べられている。ここが何の気兼ねもなく立ち寄った喫茶店なら、わー映えるーとか無邪気にハシャぎながら眺めていたかもしれない。でも今は、とてもそんな気分になれない。
 今だから言えるが、ここがただの珈琲店なら、正直、継ぐのもやぶさかではなかった。
 だけど、本業(縁司くん曰く、物探しの方が本業らしいが)とは別に業務を引き受けているとなれば話は別だ。珈琲屋をやめろとは言わない。物探しもやりたきゃ勝手にやればいい。ただ、両方同時には駄目だ。
「いや、別に稼いじゃいないが?」
「は?」
 今、この人は何と……?
 呆然となる私の驚きなど素知らぬ顔で、縁司くんは痩せているのに広い肩をひょいとすくめる。
「本当は稼いでもよかったんだけどさ。その方が英司さんも楽になるし……けど、あの人は絶対に金を取らせなかった。あの時は、ぶっちゃけ何でだよって思ったけど……なるほど、人の世では副業は禁じられているんだな」
 そう勝手に合点する縁司くんを、なおも私は呆然と見上げる。
 報酬を得ていない? つまり、珈琲店を訪れた客が抱える悩みを、店員がボランティアで解決しているだけ……ってこと? だとすれば、そんなものは副業とは呼ばない。金銭を介さない仕事は何であれ仕事ではない。少なくとも、人間の世ではそういうことになっている。
 えっ、じゃあ、あれこれ気を揉んだ挙句ぎゃあぎゃあ騒ぎまくった私は一体?
「え、っと……副業はっていうより、飲食業でやってるのに、それ以外の業務でお金を得るのが駄目なんだと思う」
「ふーん、じゃあ、金を貰わずに引き受けるぶんには何の問題もないわけだ」
「え、ええ……」
 とりあえず、業態云々の件はこれにて解決、ということか? そうなると……ううっ、継ぐのもやぶさかではない。けど……早くもさっきの決意が揺らぎ始める自分がいる。いやぁ人間って勝手だなぁハハッ。
 ん? ちょっと待って。
 そうなると、じゃあなぜ縁司くんは物探しを引き受けているのだろう。彼自身は(叔父に止められたこともあって)報酬は受け取っていなかった。その報酬すら、当初は純粋に叔父のために集めるつもりだったと言っている。それとも単純に、その方が集客に繋がると考えたから?
「ていうかさ、本当は、他に訊くべきことがあるんじゃないの」
「えっ? ほかに……」
 すると縁司くんは、なぜか呆れた顔をすると「もういい」と溜息をつく。
 ほかに訊くべきこと――ああ、そうだ。言われてみれば、副業の件ですっかり気を取られていたけど、いの一番に解決すべき疑問をすっかり失念していた。
「あ、あの、さっき話してた、えにし、って、何のこと?」
「あんた、この店の屋号、知ってる?」
「えっ? も、もちろん、えにし亭でしょ――あっ」
 いや、あっ、じゃないわ。いの一番に気付くべき単語だわ。まさにこの店の屋号として使われる言葉。なのに、今の今まで気付かなかった私も、かなりのうっかりさんである。
「あの人は、人やものに無意味な名前を付ける人じゃない。えにしってのは、人や物を結ぶ力だ。そして、俺はそいつを視ることができる」
「えっ、じゃあ叔父さんは、その力にあやかって……?」
「そうさ。この店は、あの人が俺のために開いてくれたんだ」
 そして縁司くんは、すうっと白狐の姿に戻ると、尖った鼻をつんと反らす。
「俺は元々、とあるカミの眷属をやっていた。けど英司さんと出会った頃、俺はその力をほとんど失いかけていてね。ただの獣に成り代わる寸前だったんだ。……そんな俺に、あの人は言った。力を取り戻したければ、とにかく信仰を集めろ、人助けをしろって」
「それで、この店を……?」
「ああ。つまりこの店は、俺の生命維持装置でもあるんだよ。俺が必死になる理由、少しはわかってくれた?」
 で、今度はあのスーパーイケメンにすうっと変化する。ご丁寧に投げキスまで添えて。いや、いらないし。ただ……それでもやっぱり、踏ん切りをつけられない自分がいる。
「そ、それでも……店の経営を守るだけなら、私でなくてもいいと思う……」
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