二人で癒す孤独

路地裏乃猫

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 ここ最近、ぐずついた天気が続いている。
 春先にしては珍しくまとまった雨が、ここ数日、焦土と化した帝都をひっきりなしに濡らしている。路面や瓦礫に溜まった雨が乾く先には、早くも次の雨が降りはじめ、おかげで、爆撃で開けられた陥穽に水たまりの絶えることはない。
 同じ空模様も、戦前の日本橋あたりの料亭で、芸者でも侍らせながら眺めでもすればまだ興もあっただろう。生憎傘の用意がございませんと遠回しに引き止められ、艶話の一つも土産にできたかもしれない。
 が、生憎ここは、かつての我が家――それも、焼夷弾で焼け落ちた瓦礫の中に、急拵えで掘っ建てたトタン小屋だから、風情もくそもあったものではなかった。
 部屋のあちこちに置いた茶碗や空き缶が、もう随分長いこと雨垂れの合唱を続けている。大工仕事にはそれなりに心得のある健吾も、さすがに、瓦礫の寄せ集めから雨漏りのしない屋根を作るというわけにはいかず、その証拠に、継ぎ接ぎだらけの屋根からは、今もひどい雨垂れがしている。
 とりあえず部屋が濡れるのを防ぐべく、急場しのぎに茶碗やブリキの空き缶を置いているのだが、少しでも雨脚が強まると、部屋のあちこちでぴちゃぴちゃと鳴ってかなわない。かといって、いちいち水を捨てに出るのも面倒で、ついそのままにしているのだが、そうなると余計にやかましくなる。
 とうとう健吾は、どうにでもなれと部屋の真ん中にごろりと寝そべった。
 することがなくて張り合いがないというのもある。あまりの湿っぽさにうんざりもしている。が、何よりも健吾の怠惰を誘っていたのは、癒えがたい空腹だ。
 とにかく腹が減っていた。
 胃袋は、もう三日以上水以外のものを通していない。復員時の配給品はもちろん、あの妙な男から奪った服も悉く金に換えてしまい、今では一つとして手元に残っていない。昨日、たまたま家の近くをうろつく赤犬を見つけ、晩飯の足しにしようと棒を持って追いかけたら、飼い主と思しき親父に逆に追いかけられる羽目になった。
 それほどに飢えているのだ。しかも具合のわるいことに、こればかりは慣れるということがない。実際、南洋での戦いは毎日が飢えと背中合わせで、食えるものなら自分の躰に湧いた蛆でも口に運んだ。そんな日々を生き延びた健吾でも、今の空腹は耐えがたく、せいぜい南方時代に編み出した対処法でやり過ごすのがせいぜいだった。
 やり過ごす――つまり、できるだけ体力を消耗しないようじっとしておくという戦法だ。
 茶碗をひっくり返さないよう、そっと寝返りを打つ。
 遮るもののない戸口越しに瓦礫の街を眺めながら、まるで原始人だなと自嘲の笑みを浮かべてみる。が、かえって虚しさばかりが募り、結局は笑うのをやめた。
 焦土を濡らす雨は、相変わらず止む気配を見せない。
 家の前の路地は、雨にもかかわらずそれなりに人通りで賑わっている。ただ、水の紗幕に紛れているのと、みな同じような冴えない色のモンペや国民服ばかり着ているのとで、行き交う人影はどれも同じ人間に見えてならない。
 それでも、動ける人間はまだ立派な方だ。本来なら健吾も、ヤミ米でも仕入れて商売した方が、腹も貯まるし張りあいも出て良いのだ。いや、むかし目をかけてやった舎弟に声をかけさえすれば、ヤミ米など簡単に手に入れることができるだろう。
 実際、ヤミで聞きかじった話によれば、健吾も名を知る昔の仲間が、うまいこと当局に握らせつつ市場を取りしきっているとも聞く。そういう連中の利権に与ることは、健吾さえその気になれば、決して難しいことではない――だが。
 今更ヤクザの世界に戻ることは、健吾にはどうしても躊躇われた。
 戦場で散々本物のドンパチを味わい、一度といわず死線をくぐった健吾にとって、ヤクザ同士の抗争など所詮はごっこ遊びにすぎなかった。そんなくだらない世界に、今また足を踏み入れる気にだけはどうしてもなれなかったのだ。
 じゃあヤミ米でも運んで、慎ましく金を稼ぐか――という気にもなれない。それはそれで、元若頭としての自尊心が邪魔をする。
 さて、どうするか……。
「そういやあいつ、どうしてやがるかな」
 思考が行き詰まり、気分転換のつもりで呟いてみる。
 あいつというのは、言うまでもなく先週、この近所の神社で助け――た後で散々犯してやった若い男のことだ。
 実は、あの翌朝、ひそかに健吾は件の神社を覗きに行っていた。
 あの男が枝にぶら下がっているかもしれない――
 そう思うと、なまじああいう目に遭わせてしまった手前、健吾としては一抹の責任を感じないではいられなかった。もちろん、置き土産にした上着から身元を割られ、事件の関係者として警察に取り調べを受ける煩雑さを厭って、という面もあったにせよ。
 ところが。男の姿はそこになかった。
 前の晩のまま横たわっていたわけでもなく、といって、どこぞの枝にぶら下がっていたわけでもない。そうではなく、上着ごと、綺麗さっぱり境内から消え失せていたのだ。
 おそらく朝になって目を覚まし、そのまま家に帰るなりしたのだろう。あるいは誰かに見つかり、保護されるでもしたか――
 いずれにせよ。
 白々と朝日に照らされた無人の境内は、いよいよ夢でも見ていたかのような錯覚を健吾に与えた。それほどに、前夜の出来事は健吾にとって現実離れしていたということだろう。
 確かに、あれは夢と呼ぶにしてもあまりにも浮世離れていた。
 この世のものとは思えぬ美貌を持つ男。
 それを、思いのままに穢し、犯し、蹂躙した。
 今も思い出すなら、月光の中に蠢く白い肢体を、紅い唇から吐かれる熱い溜息を――狂おしいほどの柔肉の締めつけをありありと思い出すことができる。
 夢なら夢でいい。ならば、せめてもう一度。
 もう一度、その声を。躰を。
「――うっ」
 腰のあたりに重みを感じ、見ると、下袴の一部が早くも天幕を張りはじめている。そういえば、あの男を抱いて以来、かれこれ一週間近くそちらの欲求を充たしていない――となると、空腹にもかかわらず欲情を催してしまうから人体というのは妙だ。
 かといって、女を買う金はない。
 そもそも、そんな金があれば今頃はこんなに飢えていない。
 ……などと、無益な思考を頭の中で堂々巡りさせつつ、ぼんやり外を眺めていた時だ。雨の紗幕の向こうから、一台の黒塗りの車がヘッドライトをちらつかせながら現われ、やがて、健吾の小屋――もとい家の前で停まった。
 やがて運転席から、背広姿の小柄な男が降りてくる。男はすぐさま後部座席のドアを開くと、中から現れたもう一人の人物に、開いた傘を恭しく手渡した。
 すらりと細い体格は、一見すると女性めいているが、全体の印象から察するに紛れもなく男のそれだ。ただし身につけているのは、多くの男たちが着る冴えないカーキ色の国民服ではなく、遠目にもそれと分かる上等な背広である。
 このご時世、そんなものを身につけていられる人間といえば、余程の上級役人か、あるいはお大尽に限られている。ヤクザも背広を着るが、連中の着こなしはどこか成金めいていて品がない。そもそも、本当にヤクザなら同類としての鼻がとっくにそれを嗅ぎつけているはずだ。
 やがて影は、健吾の家の前で足を止めた。
「田沢さん、だね」
 ただでさえ薄暗い雨空の下、傘が落とす影のせいで余計に翳ったその顔は、日中だというのにはっきりと伺えない。ただ――
 その声には確かに聞き覚えがあった。
 水琴窟に硝子のかけらを落としたかのようなこの声は。
 ――死なせてくれ。
 ふと、あの夜の男の声が脳裏によみがえる。それは、健吾の欲情を誘うとともに、何とも言えない苛立ちと、そして、虚しさも同時に呼び覚ました。
「……何で、ここが分かった」
「あなたが置いていった復員服に、部隊名と名前が記されていた」
 チッ、と健吾は舌を打った。なるほど、それらの情報をもとに復員庁で住所を照会し、ここを割り出したというわけか。
 確かに、ここは健吾が召集前に住所登録していたアパートのあった場所で、だから復員局に問い合わせれば、自然とここに行きつくことになる。
 もっとも、家族のいない健吾としては、誰かが訪ねてくることを期待してここに庵を結んでいたわけではない。こんな焼け跡でも住み慣れた場所がいいという、健吾にしては珍しく抱いた里心がそうさせたのだ。
「今更お礼参りか? 執念深いこって」
「執念深い?」
 健吾の揶揄に、男が怪訝そうに問い返す。表情の方は暗くてよく見えないが、声の調子から察するに、健吾の言葉を理解できずにいるのは確かのようだ。
「何だよ、先日の仕返しに俺をぶっ殺しに来たんじゃねぇのか?」
 すると男は、ますます小首を傾げて、
「どうして、命の恩人を殺さなければいけないのだ」
「……は?」
 今度は、戸惑うのは健吾の方だった。
「どうして、って、そりゃ……あれだろ、あんなことされたら普通、」
「助けられたら、恩を返すのが道理だろう」
「……??」
 いよいよわけがわからず、心裡を確かめるべく男を見つめ返す。
 こいつは、たちの悪い冗談か――? 
 だが、その眼差しはどこまでも真面目かつ真摯で、とても冗談を口にしている人間のそれには見えない。
 どうやら、本気、ということらしかった。
「で……どう恩を返すってんだよ」
 この際、どんな答えが返ってこようが驚かない――そう腹を括り、半ば自棄で問えば、
「私の家に来ないか」
「は?」
 ――来い? 男の家に?
 あまりにもわけのわからない返答に、さすがの健吾も何と答えていいか悩む。家に来いだと? こいつは一体、何を意味しているんだ?
 一方、相変わらず男は、極端に感情の乏しい瞳で健吾を見下ろしている。
「ど、どういうつもりだ」
「詳しいことは後で話そう」
 言い残すと、男は、小脇に携えていたもう一本の傘を健吾の小屋の前に置いた。そして、ついてこいとばかりにくるりと踵を返し、車の方へと戻ってゆく。
 そんな男の背中を、健吾は訝しみを込めた目で追う。
 一体どういうつもりだ、あいつ……。
 どうも話が見えてこない。何かの陰謀か、あるいは復讐の前哨なのか――いや、それを言えば、そもそも男はどこの人間だ? 一応は日本人らしいが、果たして本当にそうなのだろうか……?
 ただ、一つだけ確かなことがある。
 いつまでもこんな襤褸家でくすぶっていたところで、どのみち明日などないということだ。ならば――
 のそり身を起こすと、健吾は玄関前に置かれた傘に手を伸ばした。
「ちなみにあんた、何者だよ」
 傘を差しつつ男の背中に向けて問う。と、男は「おや?」という顔で振り返り、さも他人事のように言った。
「そういえば、自己紹介がまだだったか」
 担いでいる様子はない。どうやら本気で忘れていたらしい。
「清島だ」
「は?」
「清島敦(あつし)。一応、子爵に叙されている」

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