アイムホーム~あなたの家になりたい

路地裏乃猫

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幸せとは

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 その日、優人は朝から仕事が手につかなかった。
  気づくと、今朝の朝比奈の話をぼんやり思い起こしている。そしてそれは、知らず識らず自分自身の過去と重なり、夫婦の娘がその後過ごしたであろう惨めな日々を想像しては、勝手に陰鬱の泥沼に自身を蹴落としてしまうのだった。
  再婚のさい、優人の母は相手の男からある条件を飲まされた。優人とは一緒に住まない。優人は、実家の方で育てさせるように、と。
  相手は某大企業の役員で、収入もそれに地位も申し分のない男だった。この男を逃せば自分は一生運に見放される――そう思ったのかどうかは知らないが、とにかく優人の母はこの条件をあっさり承諾した。優人は祖父母の家に預けられ、以後、祖父母とともに暮らすこととなった。
  この祖父母には、しかし、ついに優人は懐かなかった。
  なんでも旧士族を先祖に持ち、今も地元では郷士として名を知られる名家だが、それだけに家柄は厳格一筋。ところが、この厳格すぎる家柄が祖父母をして下劣な浮気男の血を引く優人を蔑ませたのは、優人にしてみれば不運と言うほかなかった。
  口には出さないものの、あの仮面のような顔をした老人たちは間違いなく優人を疎んじていた。それは、いくら優人が学校で良い成績を取っても変わらなかった。
  家の中では、だから優人はいつも独りだった。
  少しでも騒げば祖父から竹刀が飛んでくる。癇に触れた祖母の罵声が飛んでくる。だから目立たず、騒がず、影のようにひっそりと暮らした。
  一方、母親の方は新しい夫と二人で二度目の新婚生活を存分に満喫したらしい。やがて子供も生まれ、幸せな家庭を築いたが、それは、もはや優人とは関係のない世界での出来事にすぎなかった。
  ――部屋にとって、そこに住む人たちが不幸になることほど悲しいことはありません。
  以前、あの部屋に住んでいたという女の子は今頃どうしているだろう。そして――
  もし宮野夫婦が離婚したら、新しく生まれる子供の人生は。
 「どうした月島、さっきからぼんやりして」
  振り返ると、先輩社員の中村が怪訝そうに優人を見下ろしていた。
  手元に目を戻すと、午前中に顧客に送信するはずのメールが文面半ばで止まっている。時計を見ると間もなく十一時半。十一時までには送るつもりでいたのが、ずいぶん長いこと気持ちをお留守にさせていたらしい。
 「すみません」
  慌てて文面の続きを打ち終えると、優人は急いでメールを送った。
  そんな優人に、背後から中村が探るような声色で問うてくる。
 「ひょっとして、昨晩も愛妻弁当の彼女とよろしくやってたんじゃねぇだろうな?」
 「ち、違いますよ!」
  慌てて否定する。が、結果的にそれが余計な詮索を許す隙を作ってしまったらしい。
 「本当かぁ?」
 「ほ、本当ですよ……そもそも俺、何度も言ってますけど彼女とかいませんし」
 「はいはい。じゃあそういうことにしておいてやるよ」
  からかうように優人の肩を叩くと、中村は、あとは何事もなかったように廊下の方へと消えていった。大方、喫煙所へ煙草でも吸いに行ったのだろう。
  ディスプレイに目を戻し、ふぅと息をつく。
  今更のように優人は、幸せとは何なのかを自分に問いかけてみた。自分にとっての幸せは、少なくとも幸福を感じる瞬間は、何を置いてもベッドで宮野に求められるあの瞬間だ。
  お前が欲しいと囁かれ、愛撫され、貪られるあの瞬間だ。
  が、それは恐らく、朝比奈にとっての幸せではない……
  いや、待て。
  あんな部屋野郎の幸せが何だ。重要なのは自分自身が幸せになることではないのか。たとえ何を犠牲にしようと、誰を傷つけようと、自らの幸せを守り抜くことではないのか。
  そう、かつてあの女がそうしたように。
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