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独りの日々
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「あれ? 今日は愛妻弁当じゃねぇの?」
優人の背後から、中村がひょいと顔を覗かせる。その中村が覗き込んでいるのは、今、優人が手にしている安物のコンビニ弁当だ。
「何だ? ひょっとして彼女に逃げられた?」
言いながら、肘で頭を小突いてくる中村はなぜか楽しげで、追従のつもりで優人も笑みを浮かべてみたが、なぜかうまくは笑えなかった。
もともと笑うのは苦手な方だ。が、とくに今日は、顔が凍りついたように笑えない。
「どうした?」
ふと中村の顔が曇る。
「なんか今日は調子悪そうだな」
「えっ……?」
取りたててその自覚はないが、悪いと言われると確かに悪いような気もしてくる。――いや実際、良いとは言えないだろう。それが証拠に今も、この無駄に色鮮やかな弁当が気持ち悪くてたまらない。自分で選んで買った弁当のはずなのに。
「これ……食べます?」
「は?」
「はい。なんか……調子悪くて。ちょっと食欲ないっていうか」
「お、おう。別にいいけど……」
戸惑い、遠慮しながらも中村はしっかり弁当を受け取ると、済まなさそうにそそくさと席に戻っていった。
――彼女に逃げられた?
彼女ではない。ただ、逃げられたのは確かだ。
あの日から一週間。あれきり朝比奈はアパートから完全に姿を消した。
あの時は、てっきり拗ねて別の部屋に籠ったものと思っていた。翌朝になって、朝食が準備されていないことに気づいて初めて妙だと思った優人は、部屋の隅々まで、それこそ押入れの中や流しの下の収納まで捜した。が――
結局は見つからなかった。
出て行った? ……いや、〝部屋〟である朝比奈が、そもそもアパートから出られるはずもない。では一体、なぜ……。
懐でスマホが震えて、見ると、またあの女からの電話だ。
つくづく空気の読めない女だと思う。よりにもよってこんな時に。いっそ二度と電話をくれるなと怒鳴りつけてやろうか。どのみち相手は、優人のことなど体のいい使用人ぐらいにしか思っていないのだろうし。
いっそ拒否登録してやるろうか――
が、たとえ母親一人の番号を拒否登録したところで、今度は実家の番号でかけてくるに違いない。ならば実家の番号も拒否登録すればいいのだろうが、そうなると今度は、会社の電話にかけてこないとも限らなかった。いくら何でも、社会人である以上は家庭の問題で会社に迷惑をかけるのも憚られる。
要するにあの連中は、いくら逃げても追いすがってくるゾンビのようなものだ。
確かに、人として生まれた以上は自分たちの幸福を守る権利は誰にもある。母親にも、その夫にも、自分たちの家庭を守る権利はある。――が同時に、優人にもその権利は認められてしかるべきなのだ。優人自身の幸せを求め、守る権利が。
そして、それを阻む者には相手が誰であれ抗う権利はある――たとえそれが、血の繋がった母親であっても。
「くそっ」
吐き捨てると、優人は着信拒否のボタンを押した。
アパートに帰ると、相変わらず部屋の中は死んだような静けさに包まれていた。
まぁ元々は、この状態こそがスタンダートだったのだと自分に言い聞かせながら電気をつける。実際、引っ越した当初はこんなふうに誰もいない真っ暗な部屋に帰宅していたわけで、今更、不自然に思うことでもないだろう。
そもそも、あんな得体の知れない存在と狭い2DKで暮らしていたことのほうがよっぽど不自然だったわけで、消えた今となってはむしろ部屋が広く感じられてせいせいする。いちいち風呂を自分で沸かさなければいけないのは面倒だが、それさえ我慢すれば、とくに綺麗好きでもない優人は週に一度でも掃除すれば事足りるし、食事にしても、コンビニやスーパーで惣菜を買えば問題はない。
朝比奈の助けなど借りなくとも、何の問題もなく生活は続いている。
パソコンに電源を入れ、ネットに繋ぐ。BGM代わりに流す動画を探すが、適当なものが見つからず、面倒くさくなった優人はパソコンを離れて風呂場に向かった。
風呂といっても、お湯を張るのは面倒なので近頃はほとんどシャワーで済ませている。暑い時期でもあるし、わざわざお湯に浸からなくても何の問題もないわけだが、空っぽの湯船がひどく目障りに感じられてしまうのは否めない。
どうせ使わないものなら、いっそ片付けてしまえればいいのにと思うのだが、部屋の付属品ならそうもいかない。
風呂だけではない。独りで暮らすにはこの部屋には余計なものが多すぎる。ほとんど炊事をしない優人にとって、あの大きなキッチンは不要だし、強いて言えば邪魔だ。入れるもののない押入れも、無駄に大きな窓も、布団以外は置くもののない寝室も――
無駄だ。何もかも無駄ばかりだ。
風呂から上がり、スマホをチェックすると、相変わらず母からの着信履歴が恐ろしいことになっていた。この一晩だけで二十回。ここまでくると、さすがの優人も母の執念が空恐ろしくなる。自分たちだけの幸福を、何としてでも守ろうとする母の執念、いや怨念に。
「母は強し……か」
もっともそれは、〝愛する〟我が子を守る場合に限っての強さではあるけれども。
優人の背後から、中村がひょいと顔を覗かせる。その中村が覗き込んでいるのは、今、優人が手にしている安物のコンビニ弁当だ。
「何だ? ひょっとして彼女に逃げられた?」
言いながら、肘で頭を小突いてくる中村はなぜか楽しげで、追従のつもりで優人も笑みを浮かべてみたが、なぜかうまくは笑えなかった。
もともと笑うのは苦手な方だ。が、とくに今日は、顔が凍りついたように笑えない。
「どうした?」
ふと中村の顔が曇る。
「なんか今日は調子悪そうだな」
「えっ……?」
取りたててその自覚はないが、悪いと言われると確かに悪いような気もしてくる。――いや実際、良いとは言えないだろう。それが証拠に今も、この無駄に色鮮やかな弁当が気持ち悪くてたまらない。自分で選んで買った弁当のはずなのに。
「これ……食べます?」
「は?」
「はい。なんか……調子悪くて。ちょっと食欲ないっていうか」
「お、おう。別にいいけど……」
戸惑い、遠慮しながらも中村はしっかり弁当を受け取ると、済まなさそうにそそくさと席に戻っていった。
――彼女に逃げられた?
彼女ではない。ただ、逃げられたのは確かだ。
あの日から一週間。あれきり朝比奈はアパートから完全に姿を消した。
あの時は、てっきり拗ねて別の部屋に籠ったものと思っていた。翌朝になって、朝食が準備されていないことに気づいて初めて妙だと思った優人は、部屋の隅々まで、それこそ押入れの中や流しの下の収納まで捜した。が――
結局は見つからなかった。
出て行った? ……いや、〝部屋〟である朝比奈が、そもそもアパートから出られるはずもない。では一体、なぜ……。
懐でスマホが震えて、見ると、またあの女からの電話だ。
つくづく空気の読めない女だと思う。よりにもよってこんな時に。いっそ二度と電話をくれるなと怒鳴りつけてやろうか。どのみち相手は、優人のことなど体のいい使用人ぐらいにしか思っていないのだろうし。
いっそ拒否登録してやるろうか――
が、たとえ母親一人の番号を拒否登録したところで、今度は実家の番号でかけてくるに違いない。ならば実家の番号も拒否登録すればいいのだろうが、そうなると今度は、会社の電話にかけてこないとも限らなかった。いくら何でも、社会人である以上は家庭の問題で会社に迷惑をかけるのも憚られる。
要するにあの連中は、いくら逃げても追いすがってくるゾンビのようなものだ。
確かに、人として生まれた以上は自分たちの幸福を守る権利は誰にもある。母親にも、その夫にも、自分たちの家庭を守る権利はある。――が同時に、優人にもその権利は認められてしかるべきなのだ。優人自身の幸せを求め、守る権利が。
そして、それを阻む者には相手が誰であれ抗う権利はある――たとえそれが、血の繋がった母親であっても。
「くそっ」
吐き捨てると、優人は着信拒否のボタンを押した。
アパートに帰ると、相変わらず部屋の中は死んだような静けさに包まれていた。
まぁ元々は、この状態こそがスタンダートだったのだと自分に言い聞かせながら電気をつける。実際、引っ越した当初はこんなふうに誰もいない真っ暗な部屋に帰宅していたわけで、今更、不自然に思うことでもないだろう。
そもそも、あんな得体の知れない存在と狭い2DKで暮らしていたことのほうがよっぽど不自然だったわけで、消えた今となってはむしろ部屋が広く感じられてせいせいする。いちいち風呂を自分で沸かさなければいけないのは面倒だが、それさえ我慢すれば、とくに綺麗好きでもない優人は週に一度でも掃除すれば事足りるし、食事にしても、コンビニやスーパーで惣菜を買えば問題はない。
朝比奈の助けなど借りなくとも、何の問題もなく生活は続いている。
パソコンに電源を入れ、ネットに繋ぐ。BGM代わりに流す動画を探すが、適当なものが見つからず、面倒くさくなった優人はパソコンを離れて風呂場に向かった。
風呂といっても、お湯を張るのは面倒なので近頃はほとんどシャワーで済ませている。暑い時期でもあるし、わざわざお湯に浸からなくても何の問題もないわけだが、空っぽの湯船がひどく目障りに感じられてしまうのは否めない。
どうせ使わないものなら、いっそ片付けてしまえればいいのにと思うのだが、部屋の付属品ならそうもいかない。
風呂だけではない。独りで暮らすにはこの部屋には余計なものが多すぎる。ほとんど炊事をしない優人にとって、あの大きなキッチンは不要だし、強いて言えば邪魔だ。入れるもののない押入れも、無駄に大きな窓も、布団以外は置くもののない寝室も――
無駄だ。何もかも無駄ばかりだ。
風呂から上がり、スマホをチェックすると、相変わらず母からの着信履歴が恐ろしいことになっていた。この一晩だけで二十回。ここまでくると、さすがの優人も母の執念が空恐ろしくなる。自分たちだけの幸福を、何としてでも守ろうとする母の執念、いや怨念に。
「母は強し……か」
もっともそれは、〝愛する〟我が子を守る場合に限っての強さではあるけれども。
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